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「友也くん、きょうのこと、ずっと楽しみにしていたのにずいぶん静かですね。どうかしたんですか?」
はっと顔を上げた。
知り合いの知り合いの知り合いの……くらいの人に作ってもらった夢ノ咲学院の制服のレプリカは、びっくりするくらい精巧だったけれど、やはり本物の制服とは着心地がまるでちがっていた。
演劇部の公演をタダで見るために創とふたりで忍び込んだ、夢ノ咲学院。
講堂に向かう生徒たちの群れは興奮していて、とぼとぼとうつむきがちに歩みを進める友也のことなどまるで目に入っていない。
人混みにぶつかってよろめいた友也を、となりを歩く創があわてて支える。
「友也くん!……具合が悪いなら、きょうはもう帰りましょう」
ほんとうに心配そうな顔で、心から慮ってくれる創に感謝しつつも、友也は首を振った。
「いや……大丈夫、なんでもないよ」
「でも……」
「楽しみすぎて、ちょっと寝不足なだけだから」
友也がくりかえし大丈夫だと言うと、創は納得のいかなさそうな顔をしつつも、友也くんがそう言うなら……とうなずいてくれた。
人の波にほとんど流されるように進むと、講堂に大きく掲示された公演のポスターが見えてくる。
久しく目にした渉の顔に、はじめて見つけたあの日と寸分違わないその顔に、思わず涙がこぼれそうになって、ぐっとこらえる。
「友也くん……やっぱり、きょうはやめにしませんか?」
そっと創のあたたかい手が、背中をさすってくれる。
「演劇部さんの公演なら、また来られます。夢ノ咲学院に入学できたら、それこそ何度だって。ぼく、友也くんが心配なんです」
だまって首を振った。
創の言うとおりならどんなによかっただろう。
最後なのだ。
こうして演劇部の公演を――渉の姿を、目にできるのは。
「大丈夫だって! ありがとな、創」
だいじょうぶ。大丈夫。ただ。
「――ずっと好きな人のことを、目に焼き付けておこうと思って」
顔をくしゃくしゃにして笑うしかできない友也を、創はずっと心配そうにみつめていた。
座席をふたつ確保し、トイレに立った創を見送って、友也は固い背もたれにあたまをもたせかけた。大きくため息をつく。
腹の底の息を吐き出しきって、目を閉じる。
眠れていないのはうそじゃなかった。
友也がはじめて、あのひとと出会った日。
学院への入学が決まった四月一日を超えても、時間は巻き戻ることをやめなかった。
だとすれば、この日々はきっと、これからも巻き戻りつづけるのだろう。
だとすれば、きょうを終えれば、もう二度と――。
そんなことを考えれば考えるほど、昨夜――この場合は「前」夜と呼ぶんだろうか?――は、なかなか寝付けなかった。
あのひとがこれからしあわせになるならいいじゃないか、とどこかで心がささやいている。
だって、一度は友也との未来を信じて、そばにあることを望んでくれたのだ。――たとえ、それが閉じた世界での、果たされない未来の話でも。
もう二度と会えなくたって。
抱きしめて、その息づかいや体温を感じることができなくたって。
この舞台はハッピーエンドに決まってる。
――もう、疲れた。日々をくりかえすことにも。巻き戻ってゆく日々に翻弄されることにも。だから。渉がしあわせになることが決まっているなら。これでこの物語は「めでたしめでたし」で完結するのなら。
だから。
だから……。
両目がじわじわと熱くなる。
「……いやだ」
わたる。渉。渉。
もう二度と会えないなんて、ふれられないなんて。
そんなのはいやだ。
鼻がつんとして、両目から熱い涙がぼろぼろとこぼれてくる。のどの奥に大きな石がつっかえたように苦しい。
苦しい。
寂しい。
もっとあの人のそばにいたい。
これからずっと、長いあいだ、何度でも、一緒に季節を過ごして、けんかしたり、仲直りしたりしながら……そうやって過ごすことを、友也はまだ、あきらめられない。
昨晩、あさいまどろみのなかで、夢を見た。
このままどんどん友也は毎日をさかのぼっていって、一歳、また一歳と若返っていって、やがてちいさな子どものころにまで戻ってしまう。
そこには友也とおなじ、ちいさなこどもの――大切なひとたちによろこんでほしくて、ひとり宇宙へ飛び出して孤独になってしまったころのあのひとがいて。
だから、友也はそんな渉の手を取って、一緒に走りまわって、遊んで、時にはちょっと冒険をしたりして――抱きしめてやるのだ。
もちろんただの夢だ。
けれど友也は信じてきた。いつか自分が、そんなふうに渉に手が届くことを。
――なんだよ。
じわじわと怒りが湧いてくる。
俺が、あれ以上にあんたを幸せにできないとでも思ってるのかよ。
これからも一緒にいましょうね、めでたしめでたし、で終わるなんて、その先を――ほんとうには信じてはいない証拠だ。
その先の未来を、ほんとうの未来を目の当たりにして、その約束が破られるところを見るのがおそろしいから、目を閉じているだけだ。
あんたはわかってない!
俺が、どれだけ、何回、何百回でもあんたのことを愛してるって思ったのか!
これからの人生百年かかっても、どこか宇宙の彼方に飛んでいってしまいそうな日々樹渉のところへ、跳んでいってやるって心に決めたのか。
なあ、そんなふうに俺を変えたのは――あんたを殺してやるって息巻いてた俺から変えたのは、他でもない、日々樹渉がくりかえさせた日々だろう。
「うっ……」
止まらない涙はとうとうぽたぽたとこぼれ落ちて、借り物のスラックスの膝に染みを作っている。
こんなところを見られたら、また創に心配されてしまう。
けれど止まらなかった。止められなかった。
これが最後だなんて、信じたくなかった。
そして、友也が漏らしかけた嗚咽に覆いかぶさるように、開演のブザーが鳴った。
「え……」
パンフレットに記載されている開演時刻にはまだ早いはずだ。それに、周囲の雰囲気もいち演劇部の公演を見に来た生徒たちとは思えない、熱狂とも言えるような異様なものにさまがわりしている。
幕が上がった。
そして、――周囲から、たくさんの罵倒の声が挙がった。
ほとんど騒音のような罵声のなかから漏れ聞こえてくるのは、「五奇人」日々樹渉への怨嗟の声だ。
そのあいまには、悪魔を打ち倒す英雄への賞賛の声。
「……なんだ、これ……」
これは、あの日友也が見た、女神さまの舞台じゃない。
あの日にこんな公演は起こらなかった。
こんなのは知らない。
これは――これは。
▽
「――おやぁ? 迷子の子ウサギさん」
そのひとは真っ黒だった。
真っ黒な衣装を身にまとって、まるで、おとぎ話の悪い魔法使いのように、みずからを装飾していた。
だれもいなくなってがらんとした講堂。たったひとつのスポットライトが照らされた舞台に、渉は立っていた。
入部の日、はじめて渉と言葉を交わして以来目にする姿に、向けられた声に、かあっと胸の奥が熱くなる。
漆黒の衣装に身を包んだ渉は、一方的に処刑をされるような、ともに舞台に立っていた北斗を除いては、客席まで含めてだれひとりとして渉の手を取ろうとする者のいない陰惨なステージのあとでも。
ぴんと背筋を伸ばし、胸を張って、恵まれた石膏像のような体躯を堂々と晒して、まだひとりの演者であるように立っている。終わった舞台の上で。
けれど、友也には。
あんなステージを見せられたあとだからだろうか。
友也には、いつもよりもずっとずっと、……孤独に見えた。
――それに、きっと。
このひとは、この渉は、「日々樹渉」だ。友也が、十六回の一年をともに過ごした渉だ。
どうしてだろう、そう確信していた。
ほんとうなら友也が居合わせるはずもなかった最後の「五奇人」が殺された舞台が行われたことが、――ミステリーステージのときと同じに、終わった舞台のあとに、渉がここにいることこそが、渉が「渉」であることの証明だと思った。
渉の不安から、あの一年はくりかえされた。
渉が満足したから、日々は巻き戻っていった。
そして渉が望んだからこそ、友也はいまここにいる。
ほんとうなら、ただひとり、孤独だったはずの日々樹渉の前に。十六年分の想いを持って、立っている。――そんな気がした。
「迷子なんかじゃない。――気づいてるんだろ?」
渉は、高い位置でひとつに結った髪をさらりと流しながら、はて? なんのお話ですかね~? ととぼけた顔でほほえんでいる。
「ほんとうに巻き戻すだけのつもりなら、俺のことだって巻き戻せばよかったんだ。北斗先輩みたいに。他のみんなみたいに。でもそうはしなかった。自由に動けるままにした。俺の意識が……こころが、残ったままにした」
そうだ。ほんとうに心から満足して、これでハッピーエンドだと――これで物語は完結したと、そう信じているのなら、友也のこころすらなかったことにすればよかったのだ。
そうすればこの物語はもっと無事に閉じた。おなじ一年をくりかえすだけの、完ぺきなひとつの輪になれた。それに。
「おまけに……俺を、あんたが、あんな目に遭わされるところに呼んだりして」
うっすらと話に聞いたことがあるだけで、友也は実際に「五奇人の日々樹渉」が天祥院英智率いるfineに倒されるところなど見たことがなかった。そんな場面に居合わせるはずなどなかった。
けれど、きょう、この日、時系列とつじつまを捻じ曲げてまで、渉が晴れて処刑されるところへと誘いこまれた。それが渉自身が望んだからでなくて、なんだというのだろう。
「――D列の23番」
「え?」
いつまで嘘くさい演技を続けるつもりかといぶかしむ友也に、渉はぽつりと呟いた。
「子ウサギさん。あなたが座っていた席です。ふしぎですね、きょうの処刑の日、本来その席は空席のはずだった」
渉はうっすらと笑う。
ほとんどおとなになりかけた、けれどまだわずかに成長途中の青年の線を残したその輪郭は、さっきよりも――ほんのすこし――こどものように見えた。
「けれどあなたがいた。いてくれた――友也くん」
いつもの、なつかしい、踊るような跳ねる声とはちがう。
静かな夜にそうっとささやくような、ふたりだけで内緒話をするような声で名前を呼ばれて、思わず涙が出そうになった。
知っている。この声の温度を。渉と言葉を交わすようになってから、何度も聞いた。渉は何度も友也の名前を呼んでくれた。おなじ声で。
ほんとうにたいせつなものを、そうっとてのひらに、おそるおそる包みこむような声色で。
――そばにいてください、と、最後に、言ってくれたのだ。
あれはきっと、うそなんかじゃない。
こぼれそうになった涙をぐい、と袖で強引に拭く。
「あんたも」
ふるえてかすれた声が情けない。すすった鼻がのどに絡んで、泣き出しそうなのが丸出しの声だ。
それでも渉は笑ったりしなかった。ただ黙ってほほえんでいた。ほほえんで、わずかに乱れた呼吸を落ち着けて渉に向き合おうとする友也のことを、じっと待っていてくれた。
「あんたも、単純におなじテープを巻き戻すだけじゃなかった。俺が不安で言動を変えたら、あんたは変わった。だからこれは、完結した映画のフィルムなんかじゃない」
そう、まだ完結なんてしていない。
させない。
だって友也はまだ、満足なんてしていない。
「――俺、あんたと、十六年過ごしたよ」
それって、どういうことかわかる?
俺、十五歳だったのに。人生の倍くらいの時間、あんたと一緒にいたんだよ。
たった十五年ぽっちの人生。でも俺にとってはすごく、すごく長い時間だった。気が遠くなるくらい。
大嫌いだったはずのあんたを、心の底から、愛しちゃったくらいには。
だけどまだまだ演技はうまくならないし、アイドルとしてだって半人前で。ぜんぜん、ちょっとずつしか、成長できてない。
「でも、変わっていくんだよ」
俺がくりかえしのなかで変わったように。
あんたが俺の言葉で変わってくれたように。
あんたは、その変わっていくことが怖いのかもしれない。
だけど、これから俺があんたのところまで行けないって、どうしてそう言い切れる?
「……ええ、あなたは、いつか、私のところまで跳んできてくれるのかもしれませんね。けれど――」
「けれど」。
その先は聞きたくなかった。
だってもう何度も聞いた言葉だ。「あなたが好きです、友也くん。けれど、私と別れてください」と。
たしかに渉は、その「けれど」をくりかえした先で、渉は友也との未来を望んでくれた。
「これからもそばにいてください」と言ってくれた。
――でも、それだけで満足して怖がって、閉じた世界に引きこもってたんじゃ、結局未来をあきらめているのとおなじだ。
そんなのは、友也のことをみくびっているのとおなじだ。
この期に及んでまだ「けれど」を重ねようとする渉に、しびれを切らして叫ぶ。
「俺のことがほしかったんだろ!」
は、と、渉がちいさく息を呑む。
友也との未来を信じているとのたまいながら「けれど」をくりかえしてきたのも。
やっとそのこころを、未来がほしいと、友也に告げてくれてさえ、その先へは進もうとしなかったのも。
渉はずっとそうだ。
ぜんぶ、ぜんぶ、友也のためだと言いながら――いや、本気でこのひとはそれが友也のためになるのだと信じて――だけど、そんなのは渉のエゴだ。
「あんたなんかに俺はもう壊されない。もう、そんなにヤワじゃない。だって、あんたみたいなやつに十六年付き合ったんだ」
そしてこれも友也のエゴだ。
認めてほしかった。
友也にこの日にそばにいてほしかったんだろう。
渉の人生で二度目の――あの日、そっと教えてくれた昔話に次ぐ二度目の、大衆に理解されなかった道化師の葬列。
「この日に友也くんがいてくれたら」と、そう思ったんだろう。見つけてほしかったんだろう。
だから、友也をここへ呼んだんだろう。
渉は変わってくれた。友也とのくりかえしの中で。あきらめていた、うそでだって言えなかった「そばにいたい」ということばを告げてくれるくらい、いつしか友也を心の大切な場所に置いてくれた。
一度はそれでいいと――そこまでで十分だと思ったはずなのに、ハッピーエンドなはずなのに。
俺がまだ巻き戻される日々のなかで動けたのは、あんたが俺のことをもっとほしくなったからじゃないのか。
最初からぜんぶ。一年をくりかえしたのも、完結したとあんたが決めた物語のテープが巻き戻されたのも、結局――渉だって、友也との未来を望んでいるからだろう。
望んでいてほしいのだ。
勝手にひとりで決めて、ひとりで借りてきたビデオを眺めていたあの休日には、戻ってほしくないのだ。
愛しているから。
渉のことを。
心の底から。
「俺は信じた。これからも信じるよ、俺があんたに追いつく未来を楽しみにしてくれるって言ってくれた、あんたのこと。だから、ほんのちょっとでいい――あんたも、望んでよ」
そこで満足なんかするなよ。もっと欲張ってよ。
俺のことを。俺と一緒に過ごす、これからの未来を。
渉はじっと、友也の慟哭を聞いていた。ただ、だまったまま。
「――友也くん。あなたに、――そばに、いてほしいと――もう手放したくないと、私は、そんなふうに――」
「言えよ! そんなことくらい!」
たまらずに友也は叫んで、走った。
渉のそばへ走り寄った。
このひとは、どこまで自分のこころを置き去りにすれば気が済むんだろう。
そして駆けよった勢いのまま――目の前のばかなひとを、抱きしめた。
久しくふれた渉のからだはやっぱり高く、厚く、友也よりふたまわりもおおきくて。けれどまるでちいさなこどものように頼りがなかった。
どうしようもなくせつなくなって、ぎゅうっと両手に力を込める。
このひとを手放したくなかった。
手放されたくなかった。
諦めたくも、諦められたくもなかった。
もう友也はぼろぼろと涙をこぼしていた。おなかの奥がきゅっと痛んで、さみしさと、くるしさと、いとおしさがそこから指の爪の先、髪の毛のいっぽんいっぽんにまでゆきわたるようだった。
「……言っても、いいのですか」
「ほしいって言ってる俺のこと、こんなに泣かせておいて、まだ信じられないのかよ」
「いえ……」
友也のうすい肩などすっぽり覆ってしまえそうなおおきな手が、おそるおそる背中を抱く。
そしてふうっと大きく息をついた。
真っ黒な衣装に顔を埋めた友也の顔をゆっくり上向かせて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔に苦笑する。
「……アイドルとは思えない、大変な顔ですね」
「だれがそんなふうにしたと」
「ええ、私です……降参しました! 私の根負けです」
衣装が汚れることも気にしないで、ぐしゃぐしゃの友也のほおを渉はごしごしとぬぐう。
「私がこんなふうに、ぼろぼろにあなたを振り回してしまった。でも――」
こつん、と、いつか恋を告げ合った日のように、渉のかたちのよいひたいが友也のそれにぶつかる。汗ばんでひたいに貼りつく友也のやわらかな前髪と、さらりと流水のように流れる渉の前髪が、くしゃりと交じりあった。
「――これからも、私に振り回されてくれますか。友也くん」
そんなの、あたりまえだろ、と。
返事をするまえに友也の意識はふわりと真っ白に溶けて。
そしてやがて、いつしか気を失っていた。