5
三月二十九日。
事前に決めた待ち合わせの場所に、渉はひとり立って待っていた。
運よく天気はすっきりと晴れ。雲一つない晴天で、映画館までの道のりのうちにでもうっすらと汗ばみそうな気温だ。
渉は、ふだんは日々樹渉であることを隠さない堂々とした目立ちっぷりでそのへんを歩いているというのに、きょうばかりは長い髪をシックで洒落た帽子の中に仕舞い、目立たない恰好で――目立たない「しぐさ」で、のんびりとした様子で友也を待っていた。
「部長!」
十分前には着いたと思っていたのに、いつからここで待っていたのだろう、もう腰を落ち着けた様子の渉にあわてて駆け寄る。
「ごめん、……遅れました」
「もう私はあなたの部長じゃありませんよ」
「こんにちは」より先にからかうような声色でいじわるに言われて、ぐっと言葉につまる。
そんなことは友也もよくよくわかっていた。わかってはいたが、なにせもう累計して十六年以上、このひとを「部長」「日々樹部長」と呼んできたのだ。……恋人同士としてつきあってからも。
いったいどう呼べば、とうろうろと視線をさまよわせて。しばらく考えたあと、友也は
「わ、……渉」
とおそるおそるつぶやいた。
「おんやぁ? あなたもう、私を名前で呼べるほどでっかい男に成長したんですかぁ~!」
せっかくの目立たない恰好が無駄になりそうなほど大きな音量で、ものすごくうれしそうに渉が叫ぶ。うるさい。――けれど、まだこのひとをこうして呼べるほど、「でっかい男に」なれていないのは友也自身がよくよく理解していた。
演技も、アイドルとしても、ひとりの後輩としても。まだまだだ。まだまだ、渉に追いつくには程遠い。
「う。……じゃあ、日々樹先輩」
「はい、友也くん。では行きましょうか」
ごくごく自然に手を差し伸べられ、なんとなくそこへ手を伸ばして。あたりまえみたいに、ふたりの手はつながれた。
あたたかい。ここから映画館まではすこし歩く。歩いているうちに汗でもかいてきたらいやだな、はずかしいな、と思ったけれど、とてもじゃないがつないだ手を離す気にはなれなかった。
あれから。
目が覚めると三月二十三日の朝だった。
枕元には、渉からプレゼントされたきょうの映画のチケットがあった。
これまで友也が過ごしたあの日々は――とても現実にあったこととは思えない。ものすごく長くて苦しい、せつない夢だったのかもしれない。
なんにせよ、いまさら渉と話すべきことでもない気もした。だからあえて「こんなことがあったんですよ」と語る気にもならなかった。
そうやって語りあわなくたって、渉なら、いまの渉になら、なんとなく、友也がどんなに渉を追いかけて、焦がれてやまないか、伝わっているような気がした。
――同時に、いまの渉なら、つないだこの手を離さないでいてくれると……そんな気がした。
友也の手を引いて、すこし前を歩いていた渉がとつぜんぴたりと立ち止まる。大きな背中に思いきり顔面をぶつけて、友也は文句を言う。
「ぶっ! なんですか!」
ふりかえった渉は友也の文句顔など気にもしていない様子でにっこりと笑っている。
「そうだ、友也くん。ひとつ忘れていました」
「ええ? なに? 忘れもの?」
「十六歳のお誕生日、おめでとうございます」
ぽかん、と友也は思わず口をひらいた。
胸の奥から込み上げる感情を、この切羽詰まった思いをどうしても伝えたくて。けれどなにか言おうとした言葉は空気に溶けてしまって、――なんと言えばいいのかわからなくて、はくはくとくちびるをひらいては閉じ、またひらいては閉じる。
「……ありがとう」
結局、言えたのは、ただそのひとことだけだった。
言い終わるが早いか、のどの奥からあふれ出てきた大きなかたまりが、ぽろっと涙になってひとつぶこぼれた。
「あ……ご、ごめ、なんでもないです」
なんでだろ……あんたがそんなふうにふつうに祝ってくれるなんて、びっくりして……。あわてて言いつくろう友也を、渉はからかうでもなく、ただほほえんでみつめている。
そんなふうにだまってみつめられると、友也はいつもみたいに大きな声を出して渉とじゃれるようにやりとりすることができなくて。否応なく、自分のあふれ出た感情と向き合わざるを得なかった。
それはうれしくて、なんだかまだ夢のなかにいるみたいで、……ちょっとだけ、せつない色をしていた。
ひとつぶだけでがまんするはずだったのに、どうしてだかあふれて止まらなくなってしまった涙を、両手で顔を覆ってなんとかこらえようとする。ぐずぐずと泣きはじめた友也を、それでも渉はいまだにからかわず、ただ落ち着くのを待ってくれた。
こんなふうに道の真ん中で泣いていれば、いくら同行しているこのひとが普段の突飛な「日々樹渉」でないといっても、友也自身が目立ってしまうだろう。けれどどうしてもあふれて、こぼれて止まらなかった。
ここが外でなければ、体面もなくわんわん泣きわめいて、渉に抱きついて泣いてしまうところだっただろう。
「ねえ、友也くん」
「……日々樹先輩?」
なかなか嗚咽を止めることができない友也の髪を、つないだ手はそのままに、もう片方のおおきな手がやさしく撫でる。
「あなたが私の髪の毛のさきっぽだけでも掴んでくれる、そのすばらしい日をずっと、これからも楽しみにしていますから……」
季節は春。
はだにそよぐ風はやわらかく、芽吹いた花のいのちのあふれるにおいに満ちている。
そしてつないだ手はあたたかく、やさしく、たしかにしっかりと友也の手をにぎりしめて、ここにあるのだった。
はじまりの季節だ。
「信じていてくださいね」
おわり
▼ 2022年に発行したループ本の再録です(2023.4.11)