《九回目 二月》


「部長、今度の休み、この映画見に行きませんか?」
 携帯の画面に表示された公式サイトを見せながら誘うと、渉は一瞬いつもの顔をひっこめてだまって、そして笑って「いいですねぇ」とうなずいた。
 ミステリーステージも終わった二月のこと。もう何度目かの誘いにも関わらず、渉は友也がこうして気安く笑いかけるたび、何度でもはじめてのようなびっくりしたような顔をする。
 くりかえしは終わらなかった。友也が糸口をつかんだと思っても、指のあいまをすりぬける髪のように「どうして友也だけがくりかえしているのか」、その答えはどこかへいってしまう。今度こそ、と一年を終えても、朝目が覚めるとそこは一年前の四月一日へ戻っている。
 だれかと築いた関係も。積み重ねてきた時間も。
 けれど、なにもかもがリセットされるわけじゃない。
 たったひとつ変わらないものがある――友也のこころ。
 いくつかの偶然が重なった先で知った渉の顔を、友也にはちいさな男の子みたいに見えたそのやわらかさを、信じようと思ったこと。いとおしい、と思ったこと。
 さすがに、一年生も序盤のうちの、わけのわからない宇宙人みたいな手足がいっぱいついた銀ぴかの全身タイツを着せられて絶賛追いかけまわされている最中には、いとおしいとか、そういうことを考える余裕はなかったのでいままでどおり罵ったり叫んだり逃げ回ったりしていたが――渉が「加減」を覚えてくれるミステリーステージでの出来事以降、友也はずいぶんと気安く渉に接するようになった。
 たとえば、どちらかの家で一緒にレンタルビデオを見て休日を過ごしたり。ちょっと遠出した先のシネコンへ気になる映画へ誘ってみたり。
 そのどれもに渉はいつも驚いたような、意外そうな、慣れないような顔をして――だけど最後には、いつもうれしそうにほほえんでくれた。と、思う。
 そのときの渉の、普段の荒唐無稽さとはまるでちがった無防備で、年相応の高校生みたいな顔を見るたび、友也はうれしくなって、胸の奥がぎゅっと痛むような心地がした。いやな痛みじゃなく、どこか甘くて、くすぐったいような。
 その顔をもっと見たいと思った。そんなふうに笑ってくれる渉がなにを考えているのか知りたいと思った。
 それで、もっと、このひとのそばに近づきたいと。



 ショコラフェスでの舞台を終えて、友也は衣装もそのままに急いで部室へと向かっていた。
 ついさきほどまで、ステージの北斗に向かってたっぷりと愛を叫んではいたが、これから直接、普段からの感謝と慕情を込めてチョコレートを渡す約束を取り付けてあるのだ。
 るんるん、と花を飛ばしながら意気揚々と開いたドアの向こうには、先客がいた。
「あれ、日々樹部長?」
 来月に卒業式を控えているにも関わらず、一向に片付かないわけのわからないあやしげな私物だらけの部室で、渉はぼんやりと台本をめくりながらソファに腰かけていた。fineもショコラフェスでは毎回(この「毎回」というのは友也が何度もくりかえした回数ぶんの「毎回」ということだ)ファンに配られるチョコレートが抽選になるほど大人気で、ステージも大盛況だったはずだが、もう着替えを終えてゆっくりと落ち着いたふうだ。
「……おや、友也くん。ショコラフェスお疲れさまでした。後片付けはいいんですか?」
「あ、うん。部長もお疲れさまでした。片付け……は、このあとすぐに行くけど。ちょっと抜けさせてもらったんだ」
「なにか御用でも?」
 えへへ、と照れくさく笑いながら、ほおをかく。ちょっと北斗先輩と約束が……と言いかけたとき、ドアが開いた。
「友也、すまない。待たせたな」
「北斗先輩! とんでもないですよ~♪ 北斗先輩も忙しいのにありがとうございますっ」
 渉はふたりをきょろきょろと見やって、納得したように「ああ、北斗くんとの約束だったんですね」とつぶやいた。そして、興味を失ったように手元の台本へ目を伏せた。
 友也はそんな渉を横目に見て、渉がいつものように「おやぁ! お邪魔になってはいけませんからねっ! 私はこれで失礼します♪」なんて窓から去っていかなかったことにほっとして、北斗へと向かいあう。
 バッグの中からいっとうていねいにラッピングした、透明なセロファンの包みを出して北斗へ差し出した。
「北斗先輩! これ、受け取ってください! いつも俺のこと守ってくれて……ステージでもステージ以外でもかっこいい北斗先輩が大好きです♪」
「ありがとう、友也。……これは、手作りのチョコレートクッキーか? かわいいな」
 うさぎのかたちのクッキーに、ホワイトチョコレートやミルクチョコレートでうさぎのふわふわの毛や目や口を描いた力作。一緒に花や音符のかたちのクッキーも詰め合わせて、北斗に合わせた青いリボンできゅっと結んだものだ。Ra*bitsのファンへ用意したものと同じだが――もちろんファンへ贈ったものにも普段の感謝とめいっぱいの愛情を込めていたが、このチョコレートクッキーにも北斗へのたっぷりの尊敬と愛情がこもっている。
 北斗は小さな包みをていねいに鞄に仕舞い、そして別の包みを取り出して、ほほえみながら友也へと差し出した。
「実は俺からも用意してあるんだ。受け取ってくれ」
「えっ!?」
 北斗のくれた包みをふるえる両手で受け取る。trickstarがショコラフェスでファンへ贈っていた包みと同じものだったが、「友也へ」と北斗の端正な文字で書かれたメッセージカードが挟まれていた。
 跳びあがりそうになりながら、両手の中の包みにじいん……と感動する。trickstarのステージでこのチョコレートを大事そうに握りしめているファンを見るたび、うらやましくてうらやましくて仕方がなかったのだ。
「中身はファンに贈ったものと同じなんだが……」
「うっ、う、うれしいです! 北斗先輩からもらえるなんて、俺……! 一生の宝物にして飾っておきます~!」
「手作りだから早めに食べてくれ」
「手作りなんてなおさらレジンで固めて家宝にしますよっ♪」
「いや、食べてくれ」
 いつも通りのやりとりをしたあと、後片付けがまだあるからと部室を後にする北斗を見送って。
 ドアに向かって大きく手を振った格好のまま、友也は固まった。
 さて。
 にわかにどきどきと心臓が主張をしだす。
 実を言うと――友也にとっては、これからが本番と言っても過言ではないのだ。
 もちろん北斗へチョコレートを渡すことだってまちがいなく本番だったけれど。その待ち合わせ先をわざわざ部室にしたのには、別の理由がある。
 ――運よく会えればいいな、とは思っていたけれど、こんなにも都合よく出くわせるとは思わなかった。最悪、直接呼び出したり約束を取り付けたりするのも恥ずかしいから、校門のあたりで待っていようかと思っていたけれど。
「ぶ、部長」
「はい?」
 台本に視線を落としたままの渉は、ページをめくりながらさして興味もなさそうに返事だけをする。
「あの……これ……」
「なんですか?」
 ふだん、あんなに「上機嫌でうるさくて奇想天外で、でもエレガントな日々樹渉」をやっているくせに、きょうの渉はなぜだか妙に静かだ。北斗は気にしていなかったようだが、あのひとは渉に対していやに無関心なところがたまにあるから。
 友也は意を決して、隠し持っていたちいさな小箱を渉に差し出した。
「あ、あんたにあげます」
「私に? ……チョコレートですか?」
 ばらの模様に銀色の箔が押された、すべらかな手ざわりの小箱に視線をやって、渉がふしぎそうに表情を緩める。
「ほっ北斗先輩のついで!」
 つい口をついてそんな言葉が出た。ぱちぱちとまばたきをして、まだ受け取ってくれない渉にひやりと汗が出る。ちがう、ちがう、そんなことが言いたかったんじゃない。俺のバカ! せっかくのこの日に、ほんとうにこのひとに伝えたかったのは。
「ちがう! ……じゃなくて、ついでとかじゃなくて……えっと……」
 渉はしげしげと小箱を見つめていたすみれ色の目をじっと友也に向けて、詰まった言葉の先を待っていてくれる。ついさっきまで、台本に目を落としていたつまらなさそうな――ほんとうはいつもとぜんぜんちがいなんてないのかもしれないけれど、どうしてだか友也にはそんなふうに見えた――視線とはちがう。
 ただ、友也の言葉を受け取ろうと待ってくれる、しずかな目だった。
「……いつも、なんだかんだお世話になってるから。つっぱねちゃうことも多いけど……あんたに感謝してもしきれないのも本当なんだ。ありがとうございます。それと、これからもよろしく」
 友也のふたまわりも大きな手が、そうっと小箱を受け取った。
 しばらくじっと箱を見つめて、すべすべとよく手入れされた薄いくちびるが、ほんのすこしつんっと尖る。
「……私には、手作りのうさぎさんのチョコレートはくれないんですか?」
「最初は部長にも作ったやつ渡すつもりだったんですよ。でも、たまたま寄った催事場でこのチョコ見つけて……ほら、中身見てみてください」
 なんだろ、このひと、もしかしてちょっと……スネてたのか?
 そんなふうな、友也にだけ都合のいい妄想が頭をよぎる。
 渉は飾られた水色のリボンをていねいな手つきほどいて、白い箱の蓋をそっと開いた。
「こういうの、あんた好きかなって」
 咲いたばらの花をかたちどった、ひとくち大のチョコレート。それもはなびらの一枚一枚が、赤に、青に、オレンジに、グリーンに、鮮やかで、それでいて下品になりすぎない絶妙な塩梅の虹色で作られていた。
 一目みただけで、渉のことを思い出した。友也が作った不格好なチョコレートクッキーなんかよりも、ずっとずっとこのひとにしっくりくる。
 同時に思ったのだ。このうつくしい一粒のチョコレートが、あのつややかなくちびるに呑みこまれていくさまは、どんなに――。
 はっ、と我に返って、妄想しかけた景色を頭から追い出すようにぶんぶん、と首を振る。なに考えてるんだよ。そんな、このひと相手にそんなこと、まるで俺が。
 ふっふっふ、と渉は調子を取り戻したみたいな、あやしい吐息で満足げに笑っている。
「私のことを考えて、特別なチョコレートを選んでくれるなんて――友也くん、愛ですか? 愛ですねっ」
 まさに考えていたことを言い当てられたようで、かああっとほおが熱くなるのを感じた。
 いまにも火が出そうなくらい、耳まで熱い。
 そっか。そうだ。俺、俺は、このひとのこと。
 ――好きなんだ。
 どんなにいやなことをされたって、馬鹿野郎って切り捨ててどこかへ行けないくらい。
 ほんのちょっとのいつもと違う様子が気になって仕方ないくらい。
 雲よりうんと高い場所にいて友也を見下ろす彼のことを、ひとりぼっちで宇宙を漂う彼のことを、そっちへ行ってひとりにしたくないって思うくらい。
 愛してしまったんだ。渉のことを。
 ふだんなら、愛なわけあるかっ! と叫んで否定しにかかるはずの友也が顔を真っ赤にして黙り込んでしまったので、渉もなんとなく調子がはずれたような、どこかがむずむずしたような顔で、つぶやく。
「えっと。でも、私、友也くんになにも用意していません」
「い、いいよ。そんなの……」
 渉からのチョコレートが、ほしくなかったと言えばうそになる。
 だけど、これまでの友也と渉の関係からして、とても友也が渉へチョコレートを用意するとは考えられなかっただろうし。そもそも、渉からのチョコレートがほしかったからじゃなくて、ただ友也が渉に気持ちを――感謝と、好意と、めいっぱいのいとおしさを、すこしだけでも伝えたくて用意したものなのだから。
 でも、もし友也にも欲張ることが許されるのなら。
「……じゃあ、来年、ください」
 だけど、はずかしくて目だけで見上げた渉はほほえむだけで、うんとも、いやとも言ってはくれなかった。







「卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 開け放したままの窓の外から、生ぬるい春の風が吹いていた。
 まだ桜にはすこし早い。冬のなごりと春を先取る温度に交互にさらされた枝ぶりには、ふくらみはじめたつぼみたちが目立っていた。
 どうしてだか、毎回、卒業式の日の最後には渉とふたりきりになる。
 渉が三年間のうちに持ち込んだ私物がどこかへやられたあとの、ほとんどがらんとしたかつての彼の王国を眺めながらソファに並んで腰かけて味わう紅茶は、いつもよりもすこし渋い味がした。
 渉は胸の花を風に揺らして、目を細めてカップにくちびるをつけている。
「……さみしくなりますね」
「意外、あんたでもそんなこと思うんだ」
「ひどいですね~友也くん! 私のこといったいなんだと思っているんですかあ~? しくしく」
 いつかのあの日に見た女神さまみたいなうつくしい相貌をくしゃっと涙で崩して、渉はこんなときまでふざけてみせる。
「なにって……ただのふつーのひとでしょ。あんただって。って、ふつうだったらさみしくもなるか」
 友也はそのうその……もしかしたら、きょうのこれはほんとうかもしれないけれど。その涙をおろしたばかりのやわらかいガーゼ地のハンカチで拭ってやって、ぽつりとつぶやいた。
「俺も、うん、……さみしいよ。あんたがいなくなるのは」
 本心だった。演劇部に入ったばかりのころは――このくりかえしのはじまりには。あんなに、いやでいやでたまらなくて、卒業することにせいせいして、どころか日々樹渉という存在から逃げ出してしまいたくて別の学校にまで進んでしまった友也だったけれど。
 いまは、とてもさみしい。さみしいと言える。このひとを、愛しているから。
 ――どうしよう。と友也は拳をにぎりしめながら、うつむいた。言うならいまだ。言うならいましかない。でも。
 どうしよう、と覚悟を決められないうちに、渉はぴたりと涙を止めて、ぬぐう友也の手をそっと握りながらほほえんだ。
「ありがとう、友也くん。あなたのおかげで、私はとても、そう、とても――楽しかった」
 大きな、友也のあたまなんてすっぽりと覆ってしまえるくらい大きな、てのひらがあたまをやわらかく撫でる。
 もしかして。次があるかもしれない。だけど、もう次はないかもしれない。これが最後のくりかえしになるかもしれないと思っているのに、どうしても言えなかった。
 『好きです』とその一言が。
 あたまがぐちゃぐちゃだ。このひとが、こんなにやさしく髪を撫でるから。
 でも、だって。まだつぎがあるかもしれない。いや、それを望みすらしている――だけど、もしこれが最後になったら。いま言わなくちゃ、きっとこのひととの距離はどんどん離れていってしまう一方だろう。
 だから伝えたいのに。あんたのことを愛してるんですよ、と。いや、最後でなくたって。切なくて、さみしくて、胸がいっぱいになる。
 いかないで。
 まだ、あんたとやりたかったこと、伝えたかったこと、いっしょに行きたかった場所、たくさんあるんだ。
 こんなに何度も、何度もくりかえしていたって。
 まだ置いていかないで。まだ、あんたのところまで、俺は追いつけてない。
「また、会いましょうね」
 友也の内心など知らないだろうに、渉はすべてをわかっているような顔で笑った。
 大人になりかけた、しかしまだ成長途中の青年の輪郭を残している手を握り返して、友也はうなずいた。渉の笑顔に胸が詰まってしまって、言いたかった言葉は喉の奥にとどまったまま、結局最後まで出てきてはくれなかった。
 情けない。つぎは、ちゃんと。つぎこそは。
 心の奥には、明確に、つぎのくりかえしを望む気持ちがあった。
 もはや、なぜ友也だけがくりかえしているのか、それすら一瞬、この一瞬には忘れかけていた。

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