5
《十回目 三月》
きょうはここまでにしましょうか、と言って、渉はパンパンと手を叩いた。
友也はその合図で開いていた台本を閉じて、首にかけたタオルで汗をぬぐう。
暦だけは春といってもまだまだ肌寒い季節。けれど本腰を入れて、腹から声を出して演じることに熱中していると、額から汗が流れるほどからだは熱くなるのだ。
三年生がこの学院に通うのも、残すところあと一週間とすこし。目前に迫った卒業式を前にほとんどの生徒は自由登校の期間に入って、卒業後に入所する事務所との打ち合わせや、早くも始まった卒業後への本格始動へ向けたレッスンに明け暮れている。
しかし渉はそんな時期になっても、部活動が終わるころの時間になると登校してきて、こうして友也へ演技指導をしている。
fineもほかのユニットの例に漏れず、卒業生のふたりは多忙を極めているはずで、そもそも渉は部長としての北斗への引継ぎを、事務的な手続きも実務的な説明も終えている。それでも渉がぎりぎりの期間にも残って演技指導をしてくれているのは、友也が頼んだからに他ならない。
これまでの友也なら、渉にわざわざあたまを下げて頼むなど考えられもしないことだった。
もしかしたら、このつぎにもくりかえしはあるのかもしれない。
けれどいま、このひとから受け取れるものは、ぜんぶこぼさず受け取りたかった。このひとがここからいなくなる、その日を迎える前に。たとえこれが、このあと何度もくりかえされるうちのただの一回なのだとしても。
――ひどく後悔をしたから。渉への恋心に気づいた、ひとつ前のくりかえしで。伝えたかった言葉を、渉がここにいるうちに伝えられなかったことに。
だからつぎがあるとか、これが最後だったらとか、そういうことは考えずに、ただ目の前の渉に向かうすべてであろうと思ったのだ。やりたいことをやって、伝えたいことを伝えて。それで後悔しないようにと、目が覚めた四月一日、鏡に向かって赤いネクタイを締めながら考えた。
ジャージから制服に着替えて、帰り支度をはじめた渉の様子を伺いながら声をかける。
「あー、なんか腹減りません?」
「そういえばもういい時間ですねぇ」
部室の時計の針は二十時を過ぎたあたりを指している。
「飯食っていきませんか?」
「はい」
渉はにこっと笑ってうなずいた。もともと教科書やなんやが入っているとは思えなかったが、いまではさらに台本くらいしか入っていないだろう薄い鞄を軽く抱えて、律義に自宅へ連絡を入れはじめる。真白家の夕食はだいたい十九時と決まっているから、友也もここ数日はずっと親に「きょうは外で食べて帰るから」と伝えていた。
渉が突然宣言した「透明の仮面」のドタバタが終わってから数日。友也が、渉に部活後の個人指導を頼んでからも数日。
それ以前、ちょうどミステリーステージが終わったあたりから根気よく友也が歩み寄りつづけた成果が出たのか、渉も親しげな友也の態度にやっと慣れてきたようだ。こうした誘いにおどろいた様子を見せることは少なくなっていた。
それが、うれしい。きょうはなんにする? なんて――まるでふつうの先輩後輩みたいな、あるいはただの先輩後輩と「ともだち」のあいまみたいな会話をしながら、校門をくぐることにすら胸が躍る。
ラーメンも、マックも、ファミレスも、この数日で一緒に行った。どの店も渉はいまいちなじみがなかったようで、いつも創やひなたたちと行っているごくふつうの店に渉の姿があるのはどこかおかしくて、妙ちくりんで、だけどうれしかった。
けして上品でない食べ物をふつうの男子高校生みたいに食べているだけなのに、どこか気品があるしぐさで。そんなところはやっぱり「日々樹渉」だ。
でも、このひとが牛丼つゆだく大盛りを食べているところなんて、きっと見たことがあるのは友也くらいだろう。
「ちょっとコーヒー飲んでいきませんか?」
さっき、出してもらったから。おごらせてください。
これも何度も口にした誘い文句だ。
夕食に寄った店では、「先輩ですから」といまさら言って渉が財布を開くことが多い。きっと渉にとっては高校生が通える店の飲食代など大した額ではないのだろうが、友也が気後れしないように、こうして公園の自販機でちょっとしたコーヒーやジュースや、ときにはコンビニに寄って肉まんやからあげ串をおごらせてくれる。
それがなんとなく、「また行きたい」と言われているような――誘ってほしいと望まれているような心地がして、くすぐったかった。
はい、とうなずいた渉を街灯が照らすベンチに待たせて、自販機まで走る。渉にはいつもの無糖のコーヒー。自分には、いつものココアかミルクティーと迷って、きょうは目に留まったほうじ茶ラテを選んだ。
「ありがとうございます」
受け取った熱いくらいの缶で両手をあたためる渉と、なんでもない話をした。きょうの練習のこと。このあいだレンタルしてきて友也の家で見た映画のこと。あとは最近はまっている漫画のこと……なにせ時間だけはたっぷりとあるので、いままでアイドルの仕事と演劇部の公演で忙しくて手が出せていなかった漫画も、くりかえすたびにたくさん読めるのだ。
叶わないかもしれないとわかっていながら、未来の話をすることもやめられなかった。渉が好きそうだと思った漫画を、今度貸しますよと約束を取りつけたり。このあいだレンタルした映画の続編が夏に公開されるから、一緒に見にいきませんかと言ってみたり。
渉はあまり、ほとんど、みずからのことや家の話をしないから、友也ばかりがあれこれと話すほうが多いけれど。――渉は、未来の話には目を細めて笑うばかりで、うなずいてはくれなかったけれど。
きっと、この時間は、交わした言葉は無駄にはならない。
だって、友也のなかにはずっと残り続けるのだから。
ちびちびとほうじ茶ラテを啜る友也に、ふと渉が首をかしげる。
「それ、おいしいですか?」
「うん。ひとくち飲む?」
どうせ首を振ると思って聞いたのに、渉はうなずいて、友也が差し出した缶を大事そうに受け取った。
そして、こくんと口をつける。
「……おいしい」
このひとが、ひとが手をつけているものに興味を示すのはめずらしい。クラスやユニットで食事に行ったときにはお互いのメニューをシェアすることも多いけれど、渉とはそんなこと一度もしたことがなかった。
返ってきた缶を、あ、これもしかして間接キスってやつ? とひそかにほおを熱くしながら持てあましていると。
「どうしてでしょうね? 友也くんに教えてもらうと、なんてことはないものがすごくおいしいと思います」
チェーン店の醤油ラーメンも。ファストフードのハンバーガーも。ファミレスのポテトだって。
そう言って、ほんとうにふしぎそうに笑った顔がたまらなくて。
なぜだか泣いてしまいそうになった。胸がきゅうっと締めつけられて、痛くて。鼻の奥がつんとして、喉のところにすごくすごく大きな、けれどやわらかなかたまりを呑み込んだみたいな心地がする。
いとおしかった。そんな、だれだって感じたことのある、「だれかと一緒だとうれしい」という気持ちを、まるではじめて知ったみたいに言うこのひとが。
いっそかなしみにすら似ている、いとおしさだった。
ああ、いま、言おう。
「好きです」
気がつけば、その思いのままに口からこぼれおちていた。
渉は、一瞬ぽかんと口を開きかけて、そしてそつのない顔でにこっと笑った。
「うれしい」をからだいっぱいで表すみたいに。
あ、だめだ。
「恋愛って、意味で」
あわてて付け足す。
「だから、私も愛していますよ~とか言って、なかったことにしないでください。……俺のこと、大事に思ってくれてるなら」
渉はきっとそうして誤魔化すつもりだったのだと思う。友也の好意を――恋を、真正面から受け止めることをうまくかわして。
図星だったのだろう、しばらく黙り込んで、けれど結局渉は、
「……はい」
と真剣な顔になって、うなずいてくれた。
ごくっと唾をのみこんで、せきばらいをする。心臓が、いままでに鳴ったことがないくらい大音量でどきどきと動いている。破裂して死んじゃうんじゃないかと思うくらい。
「あんたのことが好き。気がついたら、好きになってました。もし……よかったら、俺とつきあってください」
沈黙が耳に痛いなんて状況は、はじめてだった。
人生ではじめてひとに告げた恋心は、春の嵐のようだ。友也の心をめちゃくちゃに吹きまわって、胸の奥でいっぱいいっぱいにふくらんで喉元までやってきて、いっそそこから飛び出てしまいそうで。けれどときにはひっそりと凪いであたたかい温度で包みこんでくれる。
いつか、ほんのいっときだけ恋人という関係になった女の子のことを思い出した。もう顔も名前も思い出せないけれど。彼女が友也に「好きです」と告げてくれたとき、友也ははじめて告白されるという出来事にびっくりして、浮ついて、ただそのことばかりで、彼女がどんな顔をしていたかも覚えていない。
だけど、あの子はどんなに勇気のある子だったんだろう。こんなにおそろしくて、不安で、けれど吐き出さなければ死んでしまいそうなくらいの持てあましそうな気持ちを――まあ、友也への恋はそれほどのものでもなかったかもしれないけれど――だれかに伝えるなんて。
「前」のショコラフェスの日、あのとき渉の顔を見て伝えられなかった感謝の言葉をやりなおすように、友也はじっと渉を見て、ただ、待った。
白くうつくしく整った顔はすこしのあいだきゅうっとくちびるを噛みしめて、そして見たこともない表情で、笑った。
高潔なにおいの花のつぼみがほころぶみたいに。
このひとはきっと、そんなふうに喩えられたって知ったら声を出して笑うかもしれないけれど。
「――はい」
友也は、その瞬間、きっと世界でいちばん、この世でいちばんしあわせな男だった。
「私と別れてください」
「――……えっ」
三月二十二日。記念すべき、三年生たちの卒業式。
ふたりきりの部室で、渉はそう言った。
うつくしい顔でほほえみながら。「つきあってください」と言った友也に笑ったのと、おなじ顔で。
友也は――何度経験しても切なくなる渉の卒業に、その感傷に浸っていたから。ぼうぜんとして、しばらく渉がなにを言ったのかが理解できなかった。
ぽかんとして。渉が笑いながら言ったその言葉を、もういちどあたまの中で反芻して。ぱたぱたとまばたきだけをくりかえした。意味がわからなかったから。
だって、そんな。だって友也の告白に渉がうなずいてくれたのは、たった数日、ほんの一週間前のことなのだ。
「な……なんて?」
「私と、別れてください。友也くん」
――別れる? どうして?
やっとあたまの奥に渉が言った言葉の意味が染みこんで、どきどきと心臓がいやな鳴りかたをする。別れるってことは、恋人じゃなくなるってことだ。――友也と、恋人じゃなくなりたいってことは。
「そんな……俺、なんかしましたか?」
「いいえ」
「や、やっぱり、好きになれなかったとか」
「いいえ」
なにを言っても渉はほほえんだまま、首を振る。
わからなかった。
渉がなにを考えているのか。
友也が知っているこういうときの……別れ話のセオリーは、他にすきなひとができただとか、恋人の欠点に耐えられなくなっただとか、そういうもっとシリアスな顔で、深刻にするたぐいのものだ。
こんなふうに、いまにも「冗談ですよ」とうなずいてくれそうな穏やかな笑顔で告げられることじゃない。そのはずだ。友也が知っているかぎりでは。
なんと言えば、どう言葉を尽くせば渉のことが理解できるのかわからない。なかばパニックになりながら、友也ははくはくと、くちびるを開いては閉じ、どんな言葉が正解なのかわかずに、また開いては閉じた。
「あなたのことが好きです。――でも、私と別れてください。きょう、ここで」
渉の言っていることがわからない。
けれど、これだけはわかった。
本気なんだ。
本気で、友也との関係を解消したいと思っているんだ。
いや、わかってる――このひとは、こういうときに、冗談は言わない。
とつぜん胸に深く刃を突き刺されたようだった。全身がじんじんとひどく痛んで、自分が座っているのか、倒れ込んでいるのか、一瞬それすらもわからなくなった。
どうして。
あたまではまだ理解が及んでいないのに、じわじわと呼吸が浅くなって、そして目がかあっと熱くなる。泣いちゃだめだ、泣いてる暇があるなら、どうしてそう思うのか、このひとと話をしなきゃ、と思うのに、こみあげてくる涙を止められない。
ぼうぜんとしたままぽろぽろと涙をこぼす友也を、渉はただみつめていた。凪いだ顔で。
「なんで」「いやだ」と混乱してくりかえす友也を宥めることもせず。
「ごめんなさい」
渉は最後まで、やさしく友也を突き放したままだった。
情けなくすがりついても、指のあいまをすりぬける桜のはなびらのように、渉は去っていった。
友也はぼうぜんと、それこそ周囲の目など気にする余裕もなく、創や光にひどく心配されたまま泣きはらした顔で帰路について。制服のブレザーも脱がないままベッドに倒れ込んで、泣いて、泣いて、泣きつくした。お気に入りの枕に顔を埋めて、声にならない声で叫んだ。
おそろしかった。
もし、つぎの一年が来なかったら。
苦しかった。
渉に別れを告げられたことよりも、渉がその結論を出すに至ったこころを開いてはもらえなかったことが。
ひりひりと痛む目から、どれだけ流しても、流しても涙が止まらなかった。全身の水が出ちゃいそうなくらい。
からだじゅうが痛くて、痛くて、おなかの底から湧き上がる悲しさを口から吐き出さなければ、破裂してしまいそうだった。
こんなに苦しいなら、こんなに痛いのなら、いっそ死んじゃいたい。
あのひとをあいしていたから。
これほど一年をくりかえしてきた中で、これほど朝が来るのがおそろしい夜は、はじめてだった。
▽
《十一回目 四月》
目が覚めた瞬間、飛び起きて携帯の日付を確認した。
四月一日。
あまりにほっと全身の力が抜けて、へなへなとベッドへ逆戻りする。肺の底からためいきが出た。
帰ってこられたんだ。最初のこの日に。
あの一回が、渉に別れを告げられた一回が最後にならなかったことに心から安堵する。
あのひとは、あのままだったらきっと、友也なんかでは掴みどころがないほどすらりと姿をくらませて、テレビの中に映った顔くらいしか見られなくなっていただろう。
「さようなら」と言ったのなら、本気で、ほんとうに徹底的に友也の人生から別れを告げるようなひとだ。
スウェット姿のまま、くしゃくしゃになったベッドの上に座り込む。ひどい寝ぐせがついた髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。
どうして渉はあんなことを言ったのだろう。
「あなたが好きです」と言いながら。
何度考えてもわからない。――わからないから、彼が友也と別れたいと思うことを、どうにかして考え直してもらうこともできない。
このままじゃ、また。どうせ。どんなふうに渉に寄り添ったって。あのひとをひとりにしたくないと心を寄せたって。あんたが好きだと、告白したって……。
――あのひとの笑った顔。無防備なおどろいた顔。うれしそうに目を細める表情。あれが、ほんとうじゃなかったとは、どうしても思えない。
だから、いいや――弱気になるな! 真白友也!
今度がだめなら、そのつぎだ。そのつぎがだめなら、またそのつぎ。このくりかえしがいつまでもつづくなんてそんな保障はないけれど、ただ友也には、いま目の前の渉に全身でぶつかるしかない。
いや。今度は。おなじ一年ではなくて。もっとあのひとのところへ。渉の近くへ。
わからないなら聞けばいい。聞いても教えてもらえないなら、教えてもらえるようになるまでだ。
これまでのくりかえしはきっと無駄じゃない。だってすべて、渉へ向けた言葉も、いとおしさも、友也は覚えているのだから。
だから。
そのこころにふれさせてもらえる場所まで。
何度だってあきらめないで、渉を追いかけるのだ。
人生で二回目の告白は、やっぱり人生で二番目くらいに緊張した。
「つきあってください」とみつめた渉がほほえんでうなずいてくれたときには、人生で二番目に――一番目とおなじくらい、しあわせだと思った。
三月。渉と「恋人」という関係になって、友也は、さっそくつぎの休みにはデートの約束を取りつけた。
前の一年とおなじに卒業式の日に別れを告げられるのなら、もうタイムリミットまで一週間もない。それまでに、すこしでも渉と一緒に過ごす時間がほしかった。
――単純に、このひとがすきだから、一緒にいたいというのだってほんとうだけれど。
誘った手前、友也がデートコースを提案して、埋め立て地の商業施設ちかくの駅前で待ち合わせた。
午前中は近くの美術館のチケットを買ってあったので、ひそひそと渉とあれこれ話しながら館内を回った。正直、友也には印象派だのなんだのと教科書で見たような絵を見ても、「うまい」「ふつう」「俺のほうがうまい」くらいしかわからないけれど、渉はこういう芸術が好きかもしれない、と思ってチケットを取ったのだ。
渉はさすがに美術館の館内では大人しく、静かで、ときおり友也に収蔵品にまつわる話を学芸員もさながらに話してくれた。なんでも昔、家族でよく来ていた美術館だったらしい。
それでは目新しいものもとくにはなかっただろう。ああ、ちょっとハズしたかな。と外を歩きながら落ち込んでいると、渉がとつぜん目をかがやかせて興奮した様子で友也の手を引いた。
ぱあっと顔を明るくして渉が入りたいと言ったのは有名なカップラーメンをオリジナルのパッケージで作れるミュージアムだった。たしかここと大阪にしかない施設で、友也も中学のとき課外学習で来たことがある。
渉はひどく興味を持っていて、せっかくなのでふたりで体験をすることにした。
カップラーメン自体すら、つい最近、友也と公園で食べたのがはじめてだという渉は始終興奮しっぱなしで、にこにこと機嫌がよさそうに手作りのパッケージの絵を描いていた。カップラーメンの具を自分で選べると知ったときには、さすがに我慢しているようだったがいまにも花びらをまきちらしそうなくらいの感動っぷりだった。
友也からすればなんでもない、課外学習でも、友だちとも来たことがあるような場所で、ほんとうに楽しんでくれたかどうか不安だったのだけれど。この様子なら十分満足してくれたようだ。
ビニールボールみたいな入れ物をぷかぷかと首から提げて、友也の作ったつたないうさぎの絵のパッケージのカップラーメンをずっと持ち歩いてうれしそうにしている渉は、なんだか妙にかわいかった。
それからは順調だった。昼はおいしいとSNSで評判だったカフェで摂って、午後はぶらぶらとそのあたりの商業施設をぶらついた。服を見たり、CDショップをひやかしたり、楽器屋で渉が電子ピアノで超絶技巧の演奏をするので集まってきた人混みに苦労したり。
きっと渉は一枚も持っていないだろう衣料量販店を覗いたときには、ためしに被らせたベレー帽があんまり似合っていたので――このひとは大概のものはなんでも似合ってしまうのだけれど、「俺が買うから」とその場で購入してタグを外し、彼に押しつけてみせた。たかが数千円の帽子だったけれど、そのあとはずっと被ってくれていたから、気に入ってくれたのだと思う。
一日思いきりはしゃいで、暗くなるころには観覧車から夜景を見た。
やわらかな光に照らされる渉の横顔はうつくしく、我ながらベタすぎるデートコースだとちょっとはずかしくなっていたけれど、考え直した。うん。これでいいんだ。きっとこのひとは、こんなふうな友だちのちょっと延長上みたいなデートなんてしたことがなかっただろうし。
「友也くんのデートコースはほんとうにフツーですねぇ」
「悪かったな」
頂上付近に昇ってきた観覧車から夜景をながめながら渉も茶々を入れてきたけれど、その顔はいたずらっぽく、街々のほのかな灯りで照らされただけでもわかるくらいほころんでいた。
「……でも、楽しかったです。あなたと一緒だったから。ふしぎですね」
友也を見てほほえむ渉に、胸がどきどきする。じっと目をみつめられると、遠い昔、にせものの制服で忍び込んだ講堂で、このひとをみつけたときのことを思い出す。
あのときは友也のことなんて、大勢の観客のうちのひとりとしてしか見ていなかった宝石みたいな目に。いまは、友也だけが映って、まるで特別なたったひとりのためのスクリーンみたいにきらきら光っている。
客席から見上げたこの星は、あんなに遠かったのに。
いまじゃ、手を伸ばせば届きそうな場所にいる。
ううん、実際まだまだ友也が手を伸ばしたって、全身でせいいっぱい飛び跳ねたってこのひとの髪の毛のさきっぽにだってまだ届かないけれど――でも、ここまで来れたんだ。
だから、もっと。もっと、近くに。このひとのそばにいたい。このひとが、スクリーンを飛び出してどこかへ行ってしまうというのなら。友也はそれを追いかけて、となりを走っていたい。
「べ、べつにふしぎなことじゃないです。俺だってそう、あんたと一緒だとうれしいから。だから、それってきっと、すき……ってことだよ。……たぶん」
あんまりはずかしくて、だけどどうしても伝えたくて、どもりながら声をふるわせながら言った友也に、渉はきょとんとしたふうにぱちぱちとまばたく。はじめて聴く音楽に耳を澄ませるみたいに。
そして、納得したように何度かうなずいて、ふふふ、と笑った。
「……そうか。……そうですね。――ええ、好きですよ、友也くん。あなたのことが」
はじめて聞いた渉の「好き」の言葉は、友也の冷えたほおをぽうっと熱くした。
夜景なんかよりも、渉のほほえみから目が離せなかった。渉ももう遠くできらめく光から視線を離して、照れくさく笑う友也のことをみつめていた。
たしかにそこには、言葉と目と目で伝わる気持ちがあった。
だからきっと大丈夫だって、思ったのに。
「私と別れてください」
三月。卒業式の日に友也にかけられたのは、「前」とおなじ言葉だった。
ふたりきりの部室。過ぎ去った彼の王国。その城跡でなにげない、恋人同士としてのごくごく平凡な話をしている最中に。
あの踊るような、品のある声で。
ああ、どうしてなんだろう。
どうしてまたこうなってしまったんだろう。
なにが足りなかったんだ。
なにがだめだったんだ。
悔しくて、苦しくて、胸がつまる。ことばを吐き出す前に吸いこんだ息が大きくふるえた。
怯えだった。
「……俺のこと、いやになった?」
「前」にも聞いたことを、きっと意味がないとわかっていながらまた聞いてしまう。
「いいえ」
「ほかに好きなひとができたのか?」
「いいえ」
「……じゃあ、なんで……」
目の奥がきんと痛くなって、ついさっきまで去っていく渉への寂しさににじんでいた涙が、また瞳のふちに溜まってゆく。
渉は笑っていた。
「あなたが好きだからです。友也くん」
あの日、光にあわく照らされながら友也をみつめたのとおなじ顔で。
あんなにうれしかったこのひとからの「好き」という言葉が、こんなにも空しい。
「あなたが好きだから、ここで終わらせたいんです。友也くん、どうか私と別れてください」
渉は待っている。友也が「はい」と言うのを。「短いあいだだけど、楽しかったです。ありがとうございました」と言うのを。
友也がそんなことを言えるわけがないと、よくよくわかっていながら。
だから、友也はきゅっとくちびるを噛みしめてから、口を開いた。
「……いやだ」
胸元に咲いた花よりもうつくしい顔でほほえんで、渉はただ友也の言葉を聞いている。
「理由も聞かないままじゃ、あんたと別れたくない。部長のことが、好きだから」
友也がまだ「どうして」と問うことさえ許されない場所にいることが悲しくてたまらない。あのとき渉が見せてくれた笑顔は、言葉は、それほど簡単に捨てられるものではないと信じたかった。
溜まった涙が流れてしまわないように、目元につよく力を込める。にらんでいるみたいな顔になってしまったかもしれない。
「これからもずっと、一緒にいたいから」
「きょう」を超えても。春が来て、夏が来て。そして大人になっても、おじいさんになっても、このひとを離したくない。ひとりにはしたくない。
それが友也の、友也だけのエゴなのだと言われても。だっていとおしいと、そう思ってしまったから。このひとを笑顔にしたいと思ってしまったから。どんなふうに突き放されたって、こうこうと照らされた舞台上にたったひとりにはしたくない。
すきとおった目をすうっと細めて、渉はまぶたを伏せた。
「……ええ、そんなあなたのことが、好きですよ」
「理由を教えてください」
好きだと言うなら、どうして別れを望むのだ。
「どうして俺じゃダメなのか。俺のこと、好きって言うなら、別れないでよ」
「友也くんがダメなわけじゃありません」
「じゃあ」
言いかけた友也のくちびるを、渉の白く、長く、ふしばった指がそっとおさえる。
「――あなたが日々樹渉ではなくて、よかった。最後にそう思えた私は幸福ですね」
「え……?」
気がつくと開いたままの窓から春の嵐のような風が強く吹きこんで、思わず目を閉じた拍子に、渉は消えていた。がらんとした部室にはあの星のようなひとの、髪の毛のいっぽんすら残っていなかった。
わかってしまった。もう会えないのだと。
「……そんな逃げ方、あるかよ」
▽
《十五回目 三月》
つぎも、そのつぎもだめだった。
十二回目の一週間は、ひたすらに渉に好意を伝えてみせた。
すこしでも信じてもらえるように。渉がなにかを不安に思って最後には別れを選んでいるのだとしたら、その不安をどうか取り除けるように。
友也が「好きですよ」と言うたびに渉はうれしそうに笑っていた。そしていつも「私もですよ」とうなずいていた。
十三回目は、妙に焦ってしまった。まだ十分に渉に打ち解けられていないころに、なかばゆきずりのようにからだの関係を持ってしまったのだ。もちろん友也はセックスどころかキスすら経験するのははじめてで、おまけに心から焦がれている――しかしいまだにこころを通じ合わせることができていない相手という条件が重なって、あえなく初体験は失敗に終わった。
その後も渉との関係は続いたけれど、いよいよ最後までほんとうの意味で思いが通じることはなかったと思う。手ひどい失敗をした一年だった。
十四回目は、もっと、ずっと早くに渉に思いを告げた。夏を過ぎたころ、まだ加減ということばが辞書にない渉から必死で逃げ回りつつもなんとか距離を縮めようとしていた友也から「好きです」と告白をされて、渉はめずらしく本気で虚をつかれたような顔をしていた――あれはすこし見ものだった。
結局、「あなた、おもしろいこと考えますねぇ」と交際をはじめることができて、半年以上。恋人としてずっとずっとたくさんの時間を過ごした。
けれどだめだった。どの一年にも渉は最後――卒業式の日には「私と別れてください」と言って、友也の前から姿を消してしまう。
渉が姿を消すたび、友也は朝、ベッドから跳びあがって、そこが高校一年生の四月一日であることを確認する。そうして安堵するのだ。もはやなぜ自分がこの一年をくりかえしているのかを考えるのは、やめかけてしまっていた。
ただ、「前」よりも、すこしでも渉の近くへ。
このままじゃ、終わらせられない。いつ終わるかおびえたままではいられない。
嫌われているわけではない、と思う。「あなたが好きです」と言う渉の言葉は、たぶん、いつだって真実だ。
そうまで好いてくれているのに、どうしてあのひとは、最後に渉は「別れてください」と言うのか。
あのひとにいちばん似ていないたったひとりを、真っ暗な客席から見つけ出すことができたというのに。
あのひとが友也になにを望んでいるのかがどうしてもわからない。
それでもあきらめるわけにはいかなかった。
もういいじゃないかって自分でも思うけれど。あのひと以外にも、友也のこころを満たしてくれるひとはいるかもしれない。ふつうの女の子と恋をして、ふつうに結婚して、ふつうに子どもができて、ふつうに老いていく。そんな人生だってあるかもしれない。
けれど仮にこのくりかえしを抜けられたって、もう友也にはそんな選択肢は、はなから存在しなかった。
ここであきらめてしまったら、たったひとつの演技で友也の人生をいっぺんに変えてしまえるような、ゆるがない一等星みたいなひとを見つけたと思ったときのあの衝動が。あのときあのひとが涙したこと――友也にこころの一端を分けてみせてくれたことが。そのいとおしさが。ひとりにはしないと、いつかその宇宙まで追いついてみせると自分に誓ったことが、ぜんぶうそになってしまうような気がした。
だから、いつこのくりかえしが終わってしまうかもわからない焦燥を感じながらも、ただ進み続けるしかなかった。
だって、重なる時間のなかで日々が摩耗していっても――あのひとへのいとおしさは、募るばかりなのだから。
友也が奔走しているうちに、演劇部での一年は残すところ渉の卒業公演のみになっていた。
渉の卒業公演は、本人たっての希望で日々樹渉のひとり芝居をすることになった。
古典や童話や、よく知られた演目の多い演劇部だったが、渉が主役の公演なのだから渉の希望のものを、と三人で話し合ったところ、どこからかマイナーな作家の短編集を持ってきて、うちの一篇を私ひとりでやりたいです、と言い出したのだ。
ある青年の話だった。ある朝、目が覚めると、彼の母には彼の姿が見えなくなっている。たしかにここにいるというのに。ふれることも、話すこともできない。
次の日には彼の父が。またその翌日には彼の友人が。
そうして毎日、すこしずつ、彼と親しい周囲のひとから彼の存在が失われてゆく。
もうほとんど、道行く見ず知らずのひとからもその姿を認識されなくなっていた彼は、ある少女と出会う。少女には彼の姿が見えていた。
少女は彼の後輩だった。以前から、関わりはなくとも彼のことをひそかに慕っていたのだ。
どうせつぎの日がくれば彼女からも見えなくなるのだろう、とあきらめていた彼だったが、ふしぎなことに、つぎの日も、またそのつぎの日も、いつまで経っても彼女の目から彼の姿が消えることはなかった。
――あなたをひとりにはしない。
そう言う彼女に、彼は次第にこわばっていた心をひらいてゆく。
ふたりは知恵を出し合い、なぜ彼が妙なことに巻き込まれてしまったのか、その原因と、どうすれば周囲のひとびとからふたたび目に映してもらえるようになるのか、解決策を探す。
そして突き止める。この奇妙な現象の原因は、彼のとある願望が原因だったのだと。
すべての謎が解け、少女の言葉とともに過ごした時間、それらが彼をすくい上げる。そうして彼の妙な事件は、ひとつの終わりを見せるかと思いきや――。
だれの目からも姿を消したまま、たったひとりぼっちのままで、彼女のまえからも青年は姿を消すのだった。――おしまい。
この奇妙な一篇の物語を、渉は青年と少女のひとり二役で演じると言った。
かなり難しい舞台になるだろう。音響や芸術で北斗と友也が裏方を担うにしてもだ。おまけに、卒業公演として幅広く観客に見てもらうにしては、ちょっと難解すぎるテーマだろう。
それもまた「日々樹渉」らしさなのかもしれないけれど。
もらったテキストをぱらぱらとめくりながら、ふと友也はいつか見た映画のことを思い出した。人嫌いで愛想の悪い殺しの天才スパイが主人公の、クライムアクション。
あれも、この短編と似たような物語だった。孤独な主人公が自分を慕うものに心を溶かされ、しかし最後にはふたりは別離の道をたどることになる。
「この小説って、ちょっとあれに似てますよね。あの映画。知ってます?」
タイトルを挙げると、北斗は首をかしげていた。それもそうだろう。大きな資本のエンターテイメント作品にしては暗めの作風で、興行がいまいちぱっとしなかった昔の作品だから、なかなか知っているひとは少ないのだ。
一方で渉はぱっと顔を輝かせ、大げさな仕草でうなずいている。
「私も好きなんですよ! レンタル店の『お』の棚から偶然選んで見たんですが、当たりでした。友也くんにしては渋いチョイスですね」
「あ、まあ、ひとに教えてもらって……」
いつか、あんたから逃げたくて高校まで変えた先で見た映画だとは言えずに、うにゃうにゃと口のなかでつぶやく。
そう。あの映画を見たとき。友也はこのひとのことを思い出したのだ。クールな主人公とは似ても似つかない、破天荒で派手好きで、ニンゲンが大好きで、だけどときおり、あんなふうななにもかもから手を離すみたいな顔をしていた、渉のことを。
この小説も、映画とおなじにどこか渉を思わせる物語だった。
「部長は、この青年……あの映画のこと、どう思いますか。俺は、おもしろかったけど、寂しくて。だってどうして主人公がひとりにならなきゃならないんだろう。そばにいてくれたひとがいるのに」
もはや遠い記憶の中にあるふつうの公立高校の、視聴覚室の薄っぺらいスクリーンに映った俳優のことを思い出す。あの映画も、こんなふうに寂しい最後だった。友也にはわからなかった。どうして彼らがそれを……ひとりを選ぶのか。
だって、にんげんって、きっとだれかと支えあって生きていくものなのに。彼らだってそんな「ふつう」の、にんげんだったはずなのに。
「そうですねえ……彼らは、しあわせだったと思いますけど」
「ええ? そうかなぁ」
渉は友也の「寂しい」という感想に目を細めて笑っている。
この小説も、あの映画も、どちらも私にとってはハッピーエンドですよ、と。
「だって、どうせいつかは終わる物語でしょう」
それはそうだろう。だってフィクションなのだから。
一瞬、疑問符があたまを過ったが、いや、きっと渉が言いたいのはそんな言葉どおりのことではない。
「新人エージェントの彼は、いつかはたまごから孵って広い世界へ羽ばたいていきます」
スッとブレザーの下から、魔法みたいな手際で一羽の鳩を取り出す。鳩はうとうととまどろんでいたのか、まだとろんとねむそうな表情で渉の長い指に大人しく留まって羽根にあたまを埋めている。友也のほうへ渉がそっと手を寄せると、鳩はうれしそうにぴょんと跳ねて、友也の両てのひらへぴったりとおさまった。ちいさくて、あたたかい。
「けれどその翼を折ってしまうのは――主人公かもしれない」
渉の言葉に、どきりと心臓が鳴って両手がこわばる。てのひらの中のあたたかな命が、とつぜん重みを増した気がした。
「後輩の彼女にしたって、たったひとりの奇妙な先輩に関わったせいで人生を台無しにされる必要はない。ふつうの高校生に戻って平凡に生きていくのが彼女の幸せでしょう」
ふつうのしあわせって、なんだろう。
そんなものはだれにもわからない。
ごくごくふつうで、ひとよりもちょっとだけ顔がかわいいくらいしか取り柄がない――とこのひとに言われっぱなしの友也だって。ふつうの高校へ進んで、ふつうに彼女を作って、ふつうに学校生活を送っていても、それは「いちばんのしあわせ」ではなかった。
今ならわかる。だって、そこには渉がいなかったから。せっかく見つけた友也の一等星。星の見えない空では、どこに向かって歩いていけばいいのかわからなくなってしまうから。
渉には、それがわからないのだろうか。
「彼らにとって、せっかく孵った彼らをこの手で殺めてしまうよりも――ずっと幸福じゃないですか。最初から孵らないたまごをあたため続けているほうが。あるいは、孵るまえにたまごを手放してしまったほうがね」
渉は笑っている。この物語はハッピーエンドだと言いながら。
電撃のようなこたえが友也の頭に走った。
渉なのだ。
渉が未来を信じていないから、この世界は閉じたままなのだ。
渉に未来を紡ぐ気がないから、いつだって友也に別れを告げるのだ。
渉は友也のことを、友也との未来を捨てたいんじゃない。それこそ真逆も甚だしい。
渉は、守りたいのだ。
その手が友也を殺すと信じているから。
孵らないまま――幸福な思い出だけをあたためたまま、終わるほうがしあわせだと信じているから。
三月二十二日。
「友也くん、私と別れてください」
もう何回と聞いた別れの言葉を告げながら、すみれ色の目が友也を映し出していた。
つづく
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