「お疲れさま」
「すまない」
 いたわりとともにカウンターから差し出された水滴の浮いたグラスを受け取って、きんと冷えたアイスコーヒーを喉を鳴らして味わった。ほてった身体に水分がしみこんでいく。深い苦みに、慣れない肉体労働に疲れた身体が弛緩する。真矢自身はまだまだだと言うが、溝口や一騎のものに劣らず、真矢の淹れるコーヒーもなかなかだと総士は思う。
 髪を高い位置で結んでいたせいで、数時間じりじりと太陽に焙られていた首筋がひりひりと痛む気がする。汗で張りついたTシャツをさっさと着替えてしまいたい。まだ気温の上がりきらない午前の早くから始めた作業だったが、昼を迎え、こうして喫茶楽園で昼食兼休憩を挟んでも、まだ半分ほど工程を残している。
 青々と伸びた竹を切り出し、真ん中で割り、竜宮島中を縦断する竹樋を何本も作成する……という、なにもこんな炎天下に行わなくてもと言いたくなるような、いかにもな重労働の日。島の若者がみな駆り出される中、同化現象の影響で数年前よりも身体が弱ったとはいえ、いまだに島内で腕力、体力、身体能力で勝るもののいない一騎は、しかしこんな日に限って定期検査が入っていたようだ。
 既にランチも終わった店内はまばらに客が残るばかりで、カウンターの中では溝口がのんびりとグラスを磨いている。一騎が店に出ない日は、すなわち調理師が不在ということになり、意外と料理の腕がいいオーナーが自ら調理師を務めることになっている。溝口本人はキッチンに入るたびに投げかけられる「溝口カレーじゃなくて一騎カレーを食わせろ」などという常連客のからかいに若干うんざりしているようだが、それでいて案外、溝口カレーの評判も上々だ。
「お嬢ちゃん、そろそろ休憩入っていいぜ」
「はーい」
 オーナーの声にエプロンを取った真矢が時計を見て、「一騎くん、そろそろ終わったかな」とつぶやいた。
 朝から喫茶店の仕込みをすませてそのままメディカルルームへ向かう一騎は、ひとり竹樋作りに合流できないことをしきりに気にしながら、「すぐ済ませて帰ってくるから!」と言い残してアルヴィスへと駆けていった。あれでは「メディカルチェックの前に走るな」「熱中症に気をつけろ」と後ろから叫んだ総士の言葉もどうせ聞こえていないだろう。
「すぐ済ませるって、一騎くん、寝てるだけなのにね」
 おかしそうに笑った真矢がカウンターに回り、カフェオレのグラスを持ちながら左隣に座る。
「あいつなりに、昏睡状態にあった一年間を取り戻そうとしているんだろう。皆とともに平和を実感できる時間を」
「皆城くんってば……そうやって他人事みたいに話すの、ダメだよ」
 ほおづえをついた真矢の目がじっとりこちらをにらんだ。
「一騎くんが取り戻したいのはその一年だけじゃないってこと、一騎くんがいちばん一緒に過ごしたいのがだれか、わかってるくせに」
「……ああ」
 あきれたようなため息まじりに言い聞かせられて、素直に頷いた。これが2年前なら、故意に客観的な話し方をしたことには触れず、単に一騎の気持ちを汲まないことだけを責められたかもしれない。総士にも素直に頷く余裕などなく、きっとお互いに相手を効率よく傷つける言葉だけを選んでしまって、その奥にたしかにある心には気づけないままだっただろう。
 いまよりもずいぶん幼かった、責めあってばかりだった日のことを思うと、こうして差し出されるあたたかい言葉を素直に受け取れるようになったことが、すぐ左隣にいてくれる距離感が、くすぐったく、たからもののようだった。

「……一騎は、なにか怒っていなかったか」
「え?」
 溶けた氷がグラスを鳴らす音だけが響くしずけさに、その沈黙を息苦しく思わないでいられることに背中を押されて、ぽつりと、ずっと胸を塞いでいた言葉を吐き出した。
 いつかの自分なら、こんなふうに、あからさまに彼女に助けを求めることは絶対にできなかっただろう。きっと総士よりもずっとやさしく、一騎の心を癒すことができる真矢には。
「先月楽園に寄ったとき、ずいぶん不機嫌そうにしていただろう。あれから妙に避けられているようで……なにか一騎を怒らせるようなことをしたかと考えていた」
「……うーん」
 ぼんやりとグラスの汗をぬぐいながら、真矢はなにかを考えこんでいるようだった。
「あのね、ここ最近の一騎くん、ずっと暉くんにきびしいの」
 暉くんにだけってわけでもないんだけど。
 どうしてか、わかる?
 答えなどまるで期待していない顔で、総士の焦りも恐怖も見透かしてしまいそうな、透明な瞳がこちらをじっと見つめる。皆城くんにはわからないでしょう、と、あからさまではなく、それでもほんのすこし責めるような瞳だった。
 下手に言いつのるのはやめて、ただ黙って首を振る。
「皆城くん、前はほら、けっこうみんなから遠巻きにされてたじゃない?」
 突然話が変わったうえに、あまりにストレートな物言いだ。さすがに面食らって抗議しようと口を開きかけ、真剣な真矢の表情に、言葉をぐっとのみ込んだ。冗談を言っている顔ではない。いいから聞いて、と強いまなざしが刺さる。仕方なく、そうか、とだけ呟いた。
 なんとなく察してはいたものの改めてそう言葉にされると、すこしだけ、身体の中のどこかが痛むような気になる。とはいえそもそも、戦闘指揮官としてパイロットたちを自ら遠ざけたのは総士だったし、あえて彼らに距離を置かれるようなふるまいをしていたのも総士自身だ。
「あっ、やだ、違う違う! べつにそういう意味じゃなくて……あのときの皆城くん、前とは雰囲気違ってちょっと話しかけづらくて。それにあたしたちも、皆城くんが背負ってるもの、なんにもわかってなかったから」
 総士の声色に、真矢があわてて両手を振った。
「皆城くんが帰ってきてすぐは、ほかにやることも山積みだったし……あと、なにより一騎くんに皆城くんを独占させてあげたかったし」
「なんだそれは」
 たしかに、総士が以前の皆城総士との連続性を認められある程度の自由を与えられてからも、真矢や剣司たちとは数回会ったきりで、島の人間との接触といえば定期的な身体検査か、ほとんど一騎が総士の地下の部屋へ通いつめてばかりだった。総士自身、しばらくはパイロットたちや島の中枢に関わる人間との接触を避けていたところもある。
 下級生や、メディカルルーム以外に勤務する人とまともに顔を合わせたのも、一騎に連れられて地上へ足を運ぶようになってからだ。
「それがここ最近、だんだんみんなが皆城くんに構うようになったでしょう。一騎くん、拗ねちゃってるのかも」
 うーん、とうなって、真矢はかすかに首をかしげる。目の端で白く細い指がグラスのふちをそっとなぞっている。
「拗ねてる、やきもち、……ううん、不安なのかな」
「不安……?」
 思わずつぶやいた声に戸惑いがにじむ。総士が人と積極的に関わるようになって、それがなぜ一騎の不安につながるのか、一騎がなにを不安に思っているのか、全く見当がつかなかった。総士がとなりにありたいと望むのは、いつだって一騎ただひとりだ。一騎だって、そんな総士の望みに気づいているはずだ。気づいてくれていると、思っていた。
 ただ少なくとも、一騎が総士を疎ましく思い、離れようとしているのではなかったということだけが、ほんの少し波立った心を落ち着かせた。
 考え込む総士を真矢はじっと見つめて、ほんのすこし寂しそうに笑ったようだった。
「ねえ、一騎くんとちゃんと話してね」
「ああ」
 ずいぶん水っぽくなったコーヒーを飲みほしたとき、ドアベルが涼やかに鳴った。カウンターに腰かけたまま、真矢とふたりで振り返る。
 一騎だった。ドアに手をかけたまま、ぼんやりと入口に立ちつくしている。ほとんど太陽が真上にある日向から薄暗い店内へ入りかけて目がくらんだのか、それとも、今日は通常の定期検査だったはずだが消耗してしまったのか、すこし疲れた顔をしている。うっすら汗ばんでいるようだ。
 ……以前の一騎ならば、まわりがみんな汗だくになっていてもひとりなんでもないような様子で、汗ひとつかいていなかった。
「一騎、終わったのか」
「……総士」
 意識していつものように声をかけても、一騎はまだぼうっとして、総士のほうを見ようともしない。なんとなく、妙な態度だ。左の真矢も怪訝そうにしている。
 どこを見ているのかわからない、どこも見ていないような暗い目に、心臓がいやな音を立てた。今日の検査で相当な負担がかかったのか、それとも、なにか悪い結果が。考えたくないことを思い浮かべかけて、あわてて打ち消す。万が一のことがあったなら、こうして一騎がひとりで帰されることなどないはずだ。
「どうだった」
「異常はないって。いつもどおりだよ。悪い、遅くなって」
 その言葉に一瞬胸を撫でおろすが、今の一騎はどう見ても様子がおかしかった。店内に入るそぶりが全くない。うすく汗をかいているのに、よく見れば顔が真っ青だ。貧血でも起こしたのかもしれない。まるでおそろしいものでも見たかのように、自分を傷つけるものから身を守ろうとするかのように、全身がつよく緊張している。
「一騎?」
「一騎くん?」
「……ああ、……いや。……なんでもない」
「なんでもないわけないだろう、顔が真っ青だ」
 一向に入ってこようとしない一騎に焦れて、そばへ近づく。なかば無理やり手首を掴んで、指が余るその細さと、真夏の屋外を歩いてきたはずがひんやりと感じるほど低い体温に、ぞっと肌が粟立った。
 いつから一騎は、こんなに痩せて。直接その肌に触れることなど、めったになかった。どれだけ検査で出た数字を把握していても、ここまで認識が伴わないものなのか。
 不甲斐なさにくちびるを噛んで、一騎の手首をつよく握りなおした。ここから総士の体温が伝わって、一騎に残された時間につながれば、どんなにいいか。そのこころを慮って癒すことも、自分に唯一できる研究でも、結局、総士は一騎にとってなんの役にも立っていない。
 きつく握られた手首に、一騎が一瞬総士の目を見上げてなにかを言いかけ、そしてすぐに逸らした。
「俺、外、手伝ってくるよ」
「馬鹿言うな、今日はもう帰れ。家まで送る。遠見、悪いが皆に遅れると伝えておいてくれ」
「うん……。一騎くん、無理しないでね」
 心配そうに瞳を揺らした真矢が、ちらりと総士を見た。一度だけうなずく。
 器屋への道中、一騎はかたくなに総士の一歩後をついて歩いて、とうとうとなりに並ぶことはなかった。