あのとき手首を握った総士の熱ばかり、何度も思い返している。
流し素麺大会当日は、気持ちのいい快晴だった。からりと晴れて湿度が低く、気温は高いが過ごしやすい。一騎の内心とは裏腹に、明るい日だった。
昼前からはじまった流し素麺は盛況で、喫茶楽園前のゴール付近に設けられた天ぷらやつゆのコーナーも、たくさんの人で賑わっている。道路にはりめぐらされた竹樋は長く、最初の一束がゴールまでたどり着いたときには、見物客から歓声が上がっていた。
大人たちは仮設のパイプ椅子に腰掛けながらテントの影で流れてきた素麺をのんびりと味わっていて、元気のありあまった子どもたちは、コースのかなり上のほうまで登って素麺を捕まえているようだ。ときおりつゆの味を変えに降りてきては、友人同士ではしゃぐ声がわっと上がる。
いつのまにか主催者側に数えられていた一騎は今日一日つゆのコーナー担当で、設置された机の高さにも満たない身長の子どもが持ってくる器代わりの紙コップにご指名の味を注いでやったり、外のストックが切れそうになるたびに、店舗の冷蔵庫へ補充に行ったりしていた。単純に味がよかったのか、それとも不本意だった一騎カレーのメニュー名が今となっては名物として島中に広まっているからか、カレー風のものが早々に売り切れたのは、少し気分がいい。
はじめのほうはせわしなく動いていたが、午後をまわってしばらく経つと、やはり食べ盛りの子どもを除いてほとんどの参加者は満足しはじめたようで、ずいぶん暇になった。もうかれこれ数十分、ぼうっとつったってみんなを眺めているだけだ。
忙しくしているときは、まだよかった。こうしてひとりでなにかを考える時間があると、どうしても、心が沈む。
意識が沈みかけたとき、近くでたむろしていた高校生らしき集団から、どっと大きな笑い声がはじけた。心臓が跳ねる。思わず目を向けると、後輩に捕まっているのか、輪の中心で笑っているのは剣司だった。
まわりを囲んでいるのは、一騎のよく知らない後輩たちだ。顔と名前くらいはわかるが、そもそも接点がないし、親しく話したこともない。昔から剣司は交友関係が広かった。一騎はそう気さくな質ではないからうらやんだことこそないが、その気安さが剣司の長所で、何度も助けられている。
なんとなく見つめていると、目があった。剣司がまわりの後輩に手を振ってこちらへ駆けてくる。
「一騎、代わるぜ。ちょっと休憩しろよ」
「剣司」
高校を卒業して医学の道に進んでから、なにかと同級生や後輩の体調にも気を遣うようになった剣司だ。半日近く屋外で日光を浴びている一騎を気遣って、声をかけてくれたようだ。
「大丈夫だ、そろそろ終わりだろ。今も休憩みたいなもんだよ」
途中で竹が破損している箇所がないか、高低差の激しい坂を歩いて見回っている担当に比べれば、一騎の担当など楽園でのアルバイトより楽なものだ。
以前ならば、体力や腕力が必要な仕事は、一騎にまわってくるのがあたりまえだった。言いようのない焦燥感が滲むが、体力が昔よりも衰えたのは誤魔化しようのない事実で、後輩の気遣いは単純にありがたい。過ごしやすい気候に、広登が気をきかせて椅子を用意してくれたこともあって、今日は調子がよかった。
そっか、とつぶやいて、剣司がとなりに腰かける。剣司が話していた後輩たちは、果敢にも再び流れている素麺に挑戦している。
「こんだけ楽しんでもらえりゃあ、汗だくになりながら準備した甲斐があったな」
まだ楽しむ人がいる流し素麺に、剣司が満足そうに笑った。
たしかに、これだけの竹樋を組み立てるのは相当な重労働だっただろう。第一種勤務が非番だった島民ほとんど総出で、一日がかりだったとあとから聞いた。パイロットの籍も形ばかりのもので、体力と料理くらいしかできることがない一騎だから、まともに参加できなかったことが少し申し訳ない。
「悪かったな、全然手伝えなくて」
「検査のあと体調悪かったんだろ? 仕方ねえよ。それよりお前は、前と同じ調子で無理しすぎだ」
いっぱしの医者の顔で注意されて、少しきまりが悪い。いろんな人に心配してもらっているくせに、本当は、純粋に体調が悪かったわけではないからだ。
……あの日のことを思い出すと、全身に泥が流れているような、濁った、どろどろとした感情が、胸に渦巻く。
あのとき。総士の左隣に座る真矢が、目に入ったとき。とてもいやな感情が胸をよぎった。自分でもぞっとするほど、考えたくないほど、ひどいことだった。
よりにもよって真矢に対してそんなことを考えてしまったことも、誰かにこれほどの悪意を抱ける自分も、怖かった。甘えたいときにはさんざん真矢に甘えるくせに、都合が悪くなると、こんな感情も平気で、ごくあたりまえみたいに持てる。最低だ。
次の瞬間には、足元が崩れてどこまでも落ちていくような、途方もない喪失感と痛みだけが残った。
総士の暗闇によりそうことを許されたのは、一騎だけだと、そこは一騎だけの場所だと、特権なのだと思っていた。
そうじゃなかったんだ。
一騎の独りよがりだったのかもしれない。
いや、前はそうだったはずだ。
でも、いまは、もう、違う。
そのあとのことは、頭がぼんやりして、よく覚えていない。
総士が掴んだ手首の熱さばかり思い返しては、その背中を眺めながらとぼとぼと歩いた景色が浮かんで、また打ちのめされている。
「総士となんかあったか?」
「え…」
また少しぼうっとしていたようで、眉をひそめてこちらをのぞき込んだ剣司の声で我に返った。
「……なんでそう思うんだ」
「こういうときにお前が総士にくっついてないの、変だろ」
そこまで言われるほど、あからさまだっただろうか。ならば、総士にも最近の一騎の態度を気づかれているのかもしれない。
総士はどう思っただろう。怪訝に思っただろうか。それはそうだろう。いままでさんざんそばにいたがった一騎が、突然距離を置くようになったのだ。
少しでも、寂しく、物足りなく思ってくれただろうか。
……それとも、せいせいしているだろうか。
「べつに、喧嘩とか、そんなんじゃないから」
「なら良いけどさ」
そうだ、こんなもの、喧嘩ですらない。
あのときと同じだ。ひとりでふさぎ込んで、総士から離れて。
いま一騎がしなければならないのは、総士ときちんと話をすることだ。総士の意思を確認して、そして、その望みのとおりにすることだ。一騎自身、自分のことがよくわかっていないのだ。こんなふうに考えて、なにかを選ぶのは向いていない。総士が思うことをきいて、総士の言うとおりにするのが一番いい。たとえ、それが一騎にとって、一番おそろしいことでも。
「総士も最近なんか考え込んでるし、お前も、このままだと嫌なんだろ」
「うん……」
それでも、ほんとうに自分がなにを望んでいるかなんて、とっくに答えが出ていた。
だって、総士の左側に当然のように立てる人間がもはや自分ひとりではないことに、こんなに打ちのめされて、うろたえている。
ふと、喫茶店から連れ立って出てくる総士と暉が見えた。揚げものを担当していたふたりが、そろそろ客足を見て楽園のキッチンから引きあげてきたようだ。
総士がこちらを見ないうちに、あわてて気づかなかったふりで目をそらす。暉になにかを耳打ちしている総士の、穏やかな顔が胸を刺す。
逃げることも、向かっていくこともできないでいるうちに、いつの間にか総士は父と話し込んでいた。そうとはわかりにくい、いつもの落ち着いた表情で、だけどすごくうれしそうに笑っている。いつもぶっきらぼうな父の笑顔もめずらしくやわらかい。天ぷらの出来でも褒めているのかもしれない。
なにやってるんだろう。なんで俺は、こんなことばかり考えているんだ。
「剣司は、いやになること、ないか」
「あのなあ、主語述語はちゃんとわかりやく言え」
穏やかな声で、剣司が苦笑する。
突然の支離滅裂な言葉にも、ちゃんと聞こうというポーズを取ってくれる。やさしいやつだ。
「咲良……身体、ずいぶん良くなったんだろ」
「ああ」
「咲良が良くなって、本当に良かったと思う。でも、……今までずっと自分がそばにいたのに、別の誰かが自分の場所に立つことが増えて……苦しくなること、ないのか」
苦しいのは、自分がそこに立つ権利がないと、心のどこかでわかっているからだ。自分が総士の左に立てる人間じゃないと、もっとふさわしい人に譲るべきだとわかっているくせに、ほかの誰かがそうなることを受け入れられない。
あの日までは、それでも総士がそばにおいてくれるのは一騎だけなのだと、不相応にも信じていた。
だけどもう、そうじゃないことを知ってしまった。総士の左には、真矢がいた。総士にとって、自らの死角にいても穏やかに笑えるほど心を許した存在が一騎以外にもあるのだと思うと、胸が焼けるように痛んで、気が狂いそうだ。
遠くでわあっと子どもの歓声が上がった。
そういえば午後からは、広登が主演のヒーローショーが予定にあったな、と思う。じっと竹の中を流れる水を眺めていた男の子が、同じ歳のころの男の子に、あたりまえみたいに手を引かれて一緒に駆けていく。
あんなふうに総士の手を引けなくなってから、ずっと、この手はからっぽのままだった。
必死でもがいて、取りこぼしてしまったものをもういちどとりもどして、やっとまともに息ができるようになったのに、また一騎はかけがえのない手を、心の底から安らいだ気持ちで掴めないままでいる。
「まあ、俺もヤキモチ焼くタイプだけどさ」
考え込むようにうつむいていた剣司が、顔を上げて、照れくさそうに頭をかいた。
やきもち。
そんな言葉の、かわいいものなんだろうか。これが?
「誰があいつのとなりに立ってても、あいつが選んでくれたのは俺だ。それを知ってるし……咲良も、ちゃんとそう伝えてくれるから」
穏やかに笑う顔が、同い年とは思えないほど、大人に見えた。同級生のなかでもひときわお調子者で、学校では毎日咲良に怒鳴られて追いかけまわされていたような剣司が、戦いを経験して、誰よりも大人びたと感じるときがある。
咲良は昔から、剣司には特に当たりがきつかった。彼女の意識が回復してから、リハビリ室で何度かふたりに会うことがあった。いつもとなりに付き添っていた剣司に、思うように身体が動かない苛立ちや痛みで、当たり散らしている咲良を見たことがある。今だって、ときおり喫茶楽園へ昼食をとりに来るふたりのやりとりを聞いていると、かなりきびしい態度をとっていることがある。それこそ、もし一騎が同じような態度を総士からとられれば、ものすごく落ち込みそうなきびしさだ。
それでも剣司は、咲良を信じているのだ。剣司がこんなふうに咲良を信じられるのは、きっと咲良が、ほかの誰に誤解されたとしても、剣司にだけは伝わるように、きちんと剣司を大切にしているからだ。
いいな、と思った。
「いいな、剣司は。咲良に大事にされてて」
「お前もだろ」
「俺は……俺は、違うよ」
俺と、総士は。違う。きっとそんなふうには、できない。
「あいつに大事にされる理由もない」
うなだれた頭を、ぱし、とはたかれる。
「お前、総士が同じこと言ってても『そうだな』って納得すんのかよ」
「するわけないだろ!」
剣司から投げ出された「もし」に、考えるまえに頭がかっとなって、大声を出していた。
「大事にされる理由がない」なんて、総士がそんなふうに言ったら、一騎はたぶん、怒る。ものすごく怒る。そしてきっと悲しくなるだろう。だってそれは、一騎が総士を大切に思う気持ちを、信じてもらえていないということだ。
こんなにも、気が変になるほど、一騎は求めているのに。
……だけど俺は、そう思っていることを、総士に信じてもらえるほど、きちんと伝えていたんだろうか?
はじめてそこに考えが至って、全身の血がぞっと冷えるような心地がした。
「総士もそう言うんじゃないのか。……そんなに大切なら、最初っから諦めてんじゃねえよ」
一騎が大きい声を出したことにも、剣司は怒らない。ただ心底あきれたような顔で、ため息をついている。
「……ここ、任せていいか。ちょっと頭冷やしてくる」
剣司と話しこんでいるあいだに、店のまえの人混みはもうほとんどなくなっていた。もうそろそろすれば、後片付けをはじめなければいけない。その前に、総士と顔をあわせるまえに、どうしても、一瞬だけでもひとりで息を吐く時間がほしかった。
肩をすくめてうなずいた剣司に甘えて、ひっそりと静まる店内に逃げるようにすべりこんだ。
かすかに蝉の声と、ずいぶん小さくなった喧騒が遠くに聞こえる。明かりは落とされていて、大きくとられたガラス窓から、午後のくすんだ光がすけている。さっきまで総士と暉がいたキッチンはきれいに片付けられて、痕跡ひとつ残っていない。暉はちょっと雑なところがあるから、几帳面すぎる総士が最後まで掃除してくれたんだろう。
入口に背を向けるようにカウンターに腰かけて、ほおづえをつく。このあいだ、真矢が座っていた席だ。あのとき、目に見える景色が水槽の向こうみたいにぼんやりとしているはずなのに、そんなことばかりは覚えている自分に、さすがにあきれて笑いが漏れた。
そして考える。総士に伝えなきゃいけない。
なにをすれば、どんな言葉で表せば、この、総士を求めて狂いそうな気持ちが伝わるだろう。
伝えたところで、総士の望みに従うことに変わりはない。一騎が、総士に大事にされる理由がないと思うことも、変わらない。それでも、おまえのとなりにいたいのだと、言うべきなんだと思った。こんなふうにおかしくなるほど一騎が焦がれていることを、総士が全く知らず、信じてもくれないかもしれないと、はじめて気づいて、おそろしくなった。
見失ってしまいそうなくらい遠くの喧騒を聞きながら得意じゃない考えに頭を巡らせて、どれくらい経ったかわからなくなったとき、背後で控えめなドアベルの音が響いた。
「一騎」
そして、心から待ち望んでいた、大切な声が一騎を呼んだ。
「総士」
ゆっくりと振り返る。
総士はドアの近くで立ちつくして、何度も口を開いたり閉じたりを繰り返している。一騎と目が合うと伏せられたきれいな瞳が、ほんのすこし寂しくて、そしていつかの、きっと言いたいことを言えないまま、生活色のない部屋の説明ばかりをしてくれた幼かった総士が思い浮かんで、ふとやさしい気持ちになった。
そうだ。総士を思うと、いつもやさしい気持ちになれた。いつのまにか、それを忘れてしまっていた。
「今日、暑いな。ちょっと疲れた」
笑いかけながらわざとそう言うと、総士もほっとしたような表情になる。無理するなと言っただろう、とちょっと怒ったような声で、かけていた眼鏡を外しながら、総士は右隣へ腰かけた。
沈黙が落ちる。いつものことだ。お互い口下手だから、ふたりでいてもそう会話をするほうではなかった。総士がとなりにいてくれるのならその沈黙すら心地よかったはずなのに、気が付けば息苦しく感じるようになっていた。
言葉のかわりに、なにか見つけるべきだったのかもしれないと、いまになって思う。
「遠見から、お前が不安がっていると聞いた」
総士の声は、努めて平たく聞こえるように話しているようだった。話しづらいことを話さなければならないときの、総士のくせだ。
不安。そう言われるとしっくりきた。一騎よりも一騎のことを理解しているとすら感じるときのある真矢の言葉だから、しっくりきたのかもしれない。
「やっぱり、遠見にはなんでもお見通しなんだな」
たしかに一騎は不安がっていたのかもしれない。
総士のそばにいたかった。総士のそばにいてもいいのだと、自信が持てないから怖かった。身体のことも、仕事のことも。広がってゆく総士の世界も。なにもかもが不安で、だから余計に総士にすがりつきたいのに、そうしていいのかどうかすらわからなくなっていた。……総士にとって一騎がどんな存在なのか、教えてもらえないから、おそろしかった。
「この間ここに、遠見が座ってただろ」
突然の一騎の言葉に、すぐ近くにある身体が怪訝そうに身じろいだ。
「俺……ものすごくひどいことを、考えた」
のどがからからだ。てのひらに汗がじっとりとにじむ。こんな、総士になんて思われるかもわからない醜いところなんて、本当は見せたくない。言いたくない。
見当違いかもしれない。思い上がっているだけかもしれない。だけど、一騎が感じたようなおそろしさを、万が一にでも総士に与えているのだとしたら、そんなのは絶対にいやだ。
「ひどいこと考えるくらい、おまえの、いちばん近くにいたかった」
かたく握りすぎて、右手に爪が食い込みかけたとき、総士の手が強く掴んだ。
総士はじっと前をにらみつけたまま、一騎へかたくなに顔を向けないまま、一騎の手のひらに食い込んだ爪をはがして、手を握りこむ。てのひらとてのひらをあわせて、指を絡める。あのときの、熱いくらいの総士の温度だ。
「総士……」
「新しいからだにこの傷だけ残した浅ましさを、お前には知られていると思っていた」
握った一騎の手を、総士が左目に導く。まぶたを裂く傷の、すこし引きつれるような、盛り上がったあたらしい皮膚の感触。電流が走ったように指先がびくっとふるえた。
俺の右手が、総士に、総士の傷に、ふれている。
飛び上がって叫び出しそうになった身体を、総士の細い腕が息苦しいほどの力強さで押しとどめた。
「そばにいろ」
幼い子どもの笑い声が、あかるい窓の外からぼやけて届いている。
「僕の心のとなりにあるのは、お前だけだ」
からだが熱につつまれている。知ってる温度だ。総士のてのひらと同じ熱さ。
とく、とく、と規則的な振動が胸をふるわせる。すこし早い、一騎ひとりのものではない、一騎の右寄りの心臓と重なって、もっと強い。
……総士の心臓の音。
ぼうぜんとした一騎をつよく抱きしめたまま、総士はかすれた声でささやいた。たしかに、そばにいろと言った。手首をつかんだ、てのひらを握った、今らしくない乱暴さで抱きしめてくれている、この熱。
ぐちゃぐちゃになっていた一騎のものと同じ、お互いを求める心だと、信じてもいいのか。
総士が触れているところから、得体のしれない安らぎが身体じゅうへ広がっていく。
なんで、もっとはやくこうしなかったんだろう。
自分を抱きしめる男がどんな顔をしているのかどうしても見たくなって、うっとりと落ちていたまぶたを無理やり開けて、総士を見つめた。この心地よさを総士も感じてくれているのか、夜明けの空のような目は細まって、とろりと蕩けている。
「……きもちいい」
一瞬、一騎の心が無意識に声に出たのだと思った。つぶやいたのは総士だった。あたたかい吐息がほほにかかる。飴細工のような繊細なまつげがくすぐったい。
こんなに近づいたのは、きっとはじめてだ。だけど、もっと近づきたい。総士にふれたい。一騎と同じ衝動をつぶやいた、そこがどんな温度なのか、感触なのか、味なのか、ふれて確かめたい。
じっと見つめていると、視線が絡んだ。同じことを望んでいるような気がした。
それがどういう行為なのか、どうすればいいのか、知識として知ってはいても、言葉でねだることも自ら動くことも、勇気がなくて、ただ目を閉じた。
そしてできれば、総士から求めてほしかった。
鼻がふれあうほど間近にあった気配がおずおずと動いて、そうっと一騎のくちびるを塞いでくれる。一度ふれるとたまらなくなって、とろけそうなほどやわらかいそこに、夢中でもっともっとと押し付けた。まるでなだめられているように、やわらかく受け止めた総士が上唇をはんで、ちゅ、と吸う。ほんのすこしの衣擦れでかき消されそうな小さな濡れた音に、からだの芯がぞくぞくとうずいた。
「……ん」
細かくふるえるほどの悦びがわきあがって、あまえた声が出る。
こんなに安心する、心が通じる、幸せなことが、世の中にあったのか。
しつこく総士のくちびるに吸いつく一騎を落ち着かせるように、熱いてのひらが背中を何度も撫でる。逆効果かもしれない。もっとしてほしい。総士がくれるものなら、なんでも。
はじまったときのようにそっと静かにくちびるが離れて、詰めていた息を吐いた。あまくしびれたようなまぶたを開く。ふれあわせていただけなのに、すこし呼吸が上がっている。総士はいつもの白い頬を上気させて、夢見るような顔で一騎を見つめている。一騎もきっと、同じ顔をしている。
「落ちついたか?」
「ぜんぜん」
駄々をこねるような一騎の言葉に、総士が困ったような顔で、こつんと額をあわせた。
「ぜんぜん、足りない」
総士にこんなふうにふれてもいいのは、ふれられるのは一騎だけなのだと、もっと教え込んでほしい。
なにか話すべきことや、言うべき言葉があったような気がする。総士と話をしなければいけないと、さっきまではたしかにそう思っていたはずだ。
だけど、ふれた熱の心地よさに、なにもかも流されてしまった。一瞬で心がほどけてしまった。
今このときは、総士のとなりによりそう新しいやり方を、たくさん試させてほしかった。
▼ テーマは「HAE後に総士と性的関係を持たなかった一騎はどこまで鬱屈するか総一」でした(18.6.14)