個人端末に保存している私的な画像データが、たったひとつだけある。
天真爛漫な満面の笑みで写る妹と、ぎこちなくぶきように笑う幼馴染のツーショット。
総士の私室に訪れる人物など限られたものだが、というかほとんど一騎くらいで、その一騎は総士の端末を勝手にいじったりはしない。だがどうしても気恥ずかしく、厳重にパスワードまでかけて保存している。見られてはまずいものを隠す子どものようで、余計にきまりが悪い。パスワードがふたりの誕生日をもじったものであることも後ろめたさに拍車をかけた。それでもパスワードもなしにそのままデスクトップにおいておくのは、あまりにも、壊れやすい大切なものを無防備に野ざらしにしているような気がして、制限を解除できないままでいる。
普段は開くことのないデータだ。デスクトップの隅の、無機質な数字のファイル名と、デフォルトのそっけないアイコンで充分。目の端でとらえると、1日の疲れがやわらぐ気がする。
そしてときどき、ほんとうにときどき、疲労や不甲斐なさや、つもりつもった澱で座り込んだまま立てなくなりそうなとき、大切なふたりの生まれた日を打ち込んで、データを開く。それだけで、こわばった心がやわらかくほどけていく。
今日はその、ほんとうにときどきの、ソファに崩れ落ちたまま立てなくなってしまいそうな日だった。ここ数日、あるケースの検証に、寝食をおろそかにするほど打ち込んでいた。なかなか実績が得られない総士の研究分野にはめずらしく、ほとんど奇跡的にと言ってもいいほど、順調に進んでいたケースだった。結果が出てみればなんのことはない、いつも通りの空振りだったが、それを「いつも通り」だと流して次の道に進むには、最近の総士はすこし消耗しすぎていた。
ひさしぶりに開く画像データは総士の心を慰めてくれたが、ぶきような一騎の笑顔が目に入ると、ここまで調子を崩すに至った原因が浮かんで、ふと気持ちが翳った。
こんな笑顔の一騎を、もうずいぶん見ていない。
最近になってすこし様子がおかしい一騎を、注意深く見つめているうちに、避けられているのだということに気がついた。一騎が理由もなくこんなことをするはずがないから、なにかしらの原因が自分にあるのだろう。単に避けられているだけではなく、妙にもの静かで、考え込んでいるようなそぶりも多い。
一騎は友人だ。血のつながった家族でもない。もう学生ではないし、どんなときでもとなりに立って支えあっていなければ生きていけないわけでもないだろう。……少なくとも、一騎にとっては。ただ、笑って、おだやかに生きてくれるなら。今までよりも一歩引いた距離で、一騎のしあわせをみつめているべきなのかもしれない。
そう思う理性とは裏腹に、からだは、こころは全身の血が凍ったように痛んだ。
そんなことは総士の望みではない。
総士の望みは、一騎のいちばん近くに、となりに立って、そして叶うなら、自らが彼をしあわせにすることだ。
かつて、いつだってみつめて求めているくせに、孤独と重圧でがんじがらめになってひとり動けなくなっていた総士に、歩みよってくれたのは、一騎のほうだ。一騎が総士のとなりにあることを望んでくれたからこそ、今総士はここにいる。
だから今度は、今度こそ、総士のほうから一騎へ近づかなくてはならないのだろう。
理解してはいたが、総士にはすこし重荷だった。なにせ2年もの間、一騎とクロッシングでつながって、直接伝わるそのこころの機微に安寧を得て、甘やかされていたのだ。言葉で会話することが大切だとはわかっていても、一騎がなにを考えているのかまったくわからない今、どうしても怖さがつきまとう。
そもそも総士は、一騎が島を出て帰ってきてからも意地や不安で言葉が見つからず、なにより伝えたかった安堵もよろこびも、なにひとつ言葉にできなかったような人間だ。
乙姫が見ていれば、こんな情けない兄をどう思っただろう。
あの夏のように無邪気な笑顔でにこにこと、すこしだけおもしろそうにふたりを見守って、もしかしたら一言だけ、「素直にならなきゃダメだよ、総士」とでも言ったかもしれない。
そんなことを考えたからか、その夜、夢を見た。
乙姫の夢だった。
一度だけ、ふたりで喫茶楽園へ出かけたときの夢だった。
なるべく食事は乙姫とともに摂るようにしていたが、総士とふたりで地上の店でも食事がしてみたいと、言われたからだった。乙姫は、アルヴィスの食堂とは違って苦手なピーマンやたまねぎがどっさり入った溝口お手製のナポリタンを、それでもいたくよろこんで、おぼつかない手つきでせっせと食べ、ケチャップでぺたぺたする口で、おいしいねとにこにこ笑っていた。
そんなに気に入ったなら、また来よう。今度は立上や西尾や、友だちも一緒に連れてくるといい。あのとき言いかけた言葉は、どうしても口には出せなかった。戦況はすこしずつ激しくなっていて、乙姫が身体の調子を崩すことも増えていた。「また」が果たしていつになるのか、わからないような日々だった。
そして乙姫は、総士にできない約束は求めない子だった。
総士もまた、できない約束を乙姫にしたくはなかった。
結局、ふたりであの店へ行ったのは、それっきりだ。
夢でも、総士の向かいに座った乙姫はにこにことして、おいしそうにナポリタンを食べていた。溝口のナポリタンではなく、ウインナーの代わりにベーコンを使い、きれいな半熟の目玉焼きが載った、一騎のナポリタンだった。ケチャップで真っ赤にぺたぺたになった口まわりを拭いてやると、乙姫はくすぐったそうに、楽しそうに声を出して笑った。
「流し素麺、楽しみだね」
テーブルにほおづえをついた乙姫が、いたずらっぽく目を細める。
「一騎たちの作ってくれたおつゆ、すっごくおいしかったね」
総士は一騎カレーが大好きだから、カレー味のばっかり食べてたでしょう。からかうように総士を覗きこんだ丸い大きな目に、そうだな、と笑いかえす。
桜色のくちびるから漏れた名前に、つきんと胸が痛んだ。そうだ、あのときも一騎は、ひとりでぼうっとみんなの輪から外れたところへ立って、総士が呼ばなければとなりに立とうとしなかった。
真矢が居れば、違っただろうか。きっとそうだろう。彼女ならもっとうまく、声をかけられたのだろう。
総士の痛みが伝わって、乙姫も心臓に忍びこむガラス片のような冷たさにすこしだけ顔をしかめ、さびしそうに、それでもまた笑った。
座ると床に足が付かず、つまさきをぶらぶらさせていた幼い身体が、すとんと椅子から降りて総士に近づいた。同級生たちよりもずっと細く華奢だった両腕が、乙姫を置いておとなに成長した総士の背中を抱きしめる。
椅子に腰かけたままの頭が、ちょうど妹の胸に収まる。ちいさなてのひらが、そうっと髪を撫でている。やわらかい頬が総士の頭をこするたび、やさしい、泣きたくなるような、どこかなつかしいにおいだけが胸をくすぐる。まだたしかに覚えている。乙姫のにおいだった。
「ねえ、総士、こうしてるときもちいいね」
「ああ」
「こうやってぎゅってすると、大切な人に、あなたが大切だよって思ってる気持ちが、ちゃんと伝わるような気がして、安心する」
あかるい夏の朝のような声が、振動になって空気になって肺の奥まで落ちていくようだ。
ひとつになりそうなほど近いふたつのからだの中で、総士の心臓だけがとくとくと音を立て、ぬくもりを帯びている。
「わたしの気持ち、伝わってる?」
「ああ、伝わっている」
「総士の気持ちも、ちゃんと伝わってるからね」
「……ああ」
わかっている。
乙姫はずっと、総士の感情を、孤独を、不安を、恐怖を、抱きしめていてくれた。受け止めていてくれた。
本当なら、もっとあたたかいものだけを伝えたかった。楽しかったこと、好きなもの、きれいな場所、そういう感情だけで包んでやりたかった。たったひとりの、大切な妹だった。いつだって心の底からいたわって、なにもかもから守ってやりたかった。
「総士がわたしにしてくれたみたいに、あったかくてやさしい気持ちを、伝えればいいだけだよ」
だから、怖がらないでと、温度のない妹がやさしく囁いた。
夢でまで、最後まで、兄を兄らしくいさせてくれない妹だった。
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