「毎年恒例! 大流しそうめん大会 in竜宮島」。
 まぶしい日差しできらめく窓硝子に貼り付けられた、いかにも手作りといった風合いのポスターを総士が見かけたのは、7月も終わりの蒸し暑い午後だった。


 夏の盛りに差し掛かった空気はむっとして、草のにおいが濃い。きょうは風が少ない。重なる蝉の声が手伝って、出て来がけに確認した外気温より、体感は数段暑い。
 数分歩いただけで汗がうなじに滲んで、長く伸ばした髪が首筋へまとわりついた。夏場は高い位置で結ったほうがいいかもしれない。つい先日切りそろえたばかりの前髪も汗を含んで、ぺたりと額に貼りついて不快だ。
 空は呆れるほど青い。予報では向こう一週間は晴れだ。人口の光と空気に慣れ切った身体は本物の日光と温度になかなか馴染まず、どこか身体の芯はひんやりとして、じりじりと日光に炙られた皮膚の下で感覚はぼやけている。かんかんに熱されたコンクリートに落ちた影の濃さが両目に痛い。

 ついため息が出そうになるほど快適とは程遠い道のりだが、少し遅めの昼休憩にアルヴィスから喫茶楽園への最短ルートを辿る総士の口元には、自分でも気づいていないような、わずかな笑みが浮かんでいた。
 ずっと幼いころは、こんな季節でも汗だくになりながら毎日のように走り回っていた。人の体力も顧みずに振り回してくれる幼馴染がいたせいで。それが今となっては、こうして汗をかくなんて、いったい何年ぶりだろう。
 もう少し歳を重ねてからは、そんな幼馴染と疎遠になっていたこともあって、真夏の日中に屋外へ出ることはほとんどなかった。学生という身分だったころは総士を見守る周囲の大人の声に、かろうじて途切れ途切れに通学していたものの、それでも学校のない夏休みともなれば、温度湿度が完璧に管理された室内で、一日中モニタをにらみ、キーを叩いていることがほとんどだった。この春から正式に研究員の立場を得てからは、ついつい地下にもぐりっぱなしになる生活に、ますます拍車がかかっている。
 それがこうして、わざわざ地上に休憩に出るくせがついたのは、毎日ちょっとでもいいから外に出て日を浴びろ、汗をかけ、と一騎があんまりうるさく言ったせいだ。こんな思考も真矢あたりに知られれば、「一騎くんの『せい』じゃなくて、一騎くんの『おかげ』でしょ」とあきれた視線を向けられるかもしれない。

 遠目に喫茶楽園の看板が見えた。ほんの数分の距離のはずが、長い長い苦難の末にやっとたどり着いたような気になって、軽くため息をつく。大した道のりでもないのに、運動不足がたたったのか、鼓動が早まって軽く息が上がっている。とにかく今は冷房の効いた店内で、一騎の淹れる冷えたコーヒーが飲みたい。
 表に出された黒板に「本日ランチ売り切れ」の貼り紙がまだ見えないところを見ると、今日はなんとか名物カレーにありつけるようだ。一騎カレーは喫茶楽園でもとりわけ人気メニューで、つい時間を忘れて研究に没頭しがちな総士にとって、不運な日には出会えないこともある味だった。他のメニューもじゅうぶん好みの味だが、やはり目当てのカレーが残っていると思うと、ぐったりと歩きながら炎天下の下やってきた甲斐があったというものだ。
 思わずほほえんだとき、近づいてくる足音とともに後ろから右肩を遠慮がちに叩かれ、「総士先輩」と声がかかった。
 暉だった。見慣れたエプロン姿のままで、片手には大きくふくらんでずっしりと重そうなビニール袋を提げている。ここから距離のある商店まで行ってきたのか、額に大粒の汗が浮いて、いかにもうんざりした表情だ。
「買い出しか」
「はい、牛乳なくなっちゃって。買ってきますって言ったらこの暑いのについでにあれもこれもって重いもんばっかり……一騎先輩、けっこう人づかい荒いんですよね」
 暉はなんでもないことのように口にして、ぐちぐちとため息をついているが、「人づかいの荒い一騎」なんて、カノンあたりが聞けばぎょっとしそうだ。
 早くに母を亡くしたせいか幼いころから自立心が強い傾向はあったが、総士との幼少期の一件があってから、少しずつ対話を重ねてお互いへの信頼を培った今でも、一騎が他人になにかを求めることはめったにない。
 自分でできることはいつのまにかひとりで勝手にやっているし、助けを申し出られても素直に受けることはほとんどない。なまじだいたいのことはひとりでこなせてしまうので、人に頼る、協力するという状況に慣れていないのもあるだろうが、頑なと言ってもいいほど誰かの手を固辞するところを見るに、一騎なりの信念のようなものがあるのかもしれない。
 だとしても、総士は一騎のその自立心をすこし心配していた。いや、自立心などというものではなく、誰も自らの人生に立ち入らせたくないのだと、そう訴えてさえいるように感じていた。
 一方で他人に対する厳しさというものはこれっぽっちも持たず、自分が手を貸すことには全くためらいがない。最近見せるようになった穏やかなほほえみも、誰かの甘えや至らなさや、気安い悪ふざけを許すときばかりに見ている気がする。
 そんな一騎が、なぜかここ最近、暉にだけは若干きびしい態度をとることが多くなった。
 喫茶楽園のマスターとしての自覚がやっと芽生えアルバイトの指導をしているつもりなのか、それともわけあって暉から向けられるライバル心を鈍い一騎なりに察しているのか、総士にはわからない。どんな理由にせよ、一騎の、ひとを関わらせない頑なな心がゆるみはじめているのならば、それは喜ばしいことだと思う。
「先輩は今から昼ですか? お疲れさまです」
「ああ、お前も」
 自然に右隣へ並んだ暉と連れ立って、喫茶店への数十メートルを歩いた。同行者がいる道行は、ひとりでのそれよりも数段早く感じる。
 ガラス張りの外観はてっぺんから照りつける太陽を強く反射して、両目に少し痛い。瞳の色素が薄いからか、昔から強い光に弱かった。こらえつつ店内をそっと伺えば、昼時を少し過ぎているためか、めずらしく客の姿はほとんどない。これならゆっくりできそうだ。
 戻りましたー、と間延びした声をあげながら暉がドアを開ける。ひんやりとした空気が流れ出て心地よい。
 屋外と店内の明度の差に目がくらむのをこらえて、暉に続こうとドアに手をかけた総士の目に、見慣れないポスターが飛び込んできた。
「……流し素麺?」



 冷房の効いた店内にほっと息をつくと、暉からビニール袋を受け取った真矢のやわらかい声が心地よく出迎えてくれた。
「皆城くん、いらっしゃい。お好きな席へどうぞ。いつものカレーでいい?」
「ああ、頼む」
 ほとんど指定席と化した奥のカウンターに腰かけ、厨房に目を向けると、手元から一瞬顔を上げた一騎が「いらっしゃい」と笑った。
 ざくざくと一定のリズムで食材を切る音が小気味よい。どうやらランチの混雑を終えて、夜の仕込みに入っているらしい。切っても切っても減らないように見える大量の葉物野菜を慣れた手つきでさばく一騎に、Tシャツの襟元を仰ぎながらつい見入ってしまう。
 いつものことながら、と感心した目を向ける総士に、しかし普段ならなにかと話しかけてくるはずの一騎が、今日は妙に無口だった。
 身体に染みついているのか手つきこそ危なげなくしっかりしているが、なんとなく心ここにあらずといった感じで、手元に落としたままの視線はぼんやりとしている。
 あまりマイナスの感情を表に出さない一騎だが、今日は機嫌でも悪いんだろうか。
 声をかけようとしたとき、暉がカレーセットをトレイに載せて運んできた。いつもの、マスターの立場も忘れたようなあからさまに甘い態度で総士に構いまくる一騎をしょっちゅう見ているだけに、暉も暉で不思議そうな顔をしている。
「どうぞ」
「ありがとう」
 とはいえ、暉はそれ以上気にすることもなく、そのまま自分のグラスを持って右隣のカウンター席へ腰を下ろした。使いっぱしり後の休憩のようだ。
 ほとんど毎日、放課後をアルバイトとして一騎とともに過ごしている暉にとっては、さしてめずらしいことでもないのかもしれない。「髪、長いとやっぱり暑そうですね」なんて手持ち無沙汰にグラスを弄んでいる。ならば、総士が声をかけるだけ無駄だろうか。たまには一騎も放っておいてほしいときくらいあるだろう。
 真矢が買い出したストックを手にしばらく裏へ引っ込んでしまったにも関わらずのんびりとメロンソーダを飲んでいる暉に、店員としていいのかそれで、とも呆れたが、顔見知りしかいない島ではどこでも見るようなゆるい接客だ。むしろ暉としては、真矢が裏へ引っ込んでしまったから、話したい相手もなく、なんとなく総士の隣へ座ったというところだろう。一騎もちらっと暉へ視線をやっただけで、何も言わずに黙り込んでいる。
 カレーを味わいながら雑談に付き合っていると、明るく白んだガラスが目に入って、先ほどのまぶしさと、見慣れないポスターのことを思い出した。
 手作り感満載のポスターに記された開催場所はなんと竜宮島全域、日時は8月も下旬の、ちょうど学生の夏休みが終わる頃だった。用紙の隅に捺印された受付印を見るかぎり高校の生徒会で作成したポスターらしいが、ここのドアに貼ってあったということは喫茶楽園も協賛しているイベントで、ということは、ほとんど島を挙げてのイベントだということだろう。
「表の貼り紙は何なんだ?」
「何って……流し素麺です。竹とか組んで、水と素麺流す」
「それは分かる」
「ほら、この島って坂が多いじゃないですか。そういう坂道で、長く竹を組んで、流し素麺やるんですよ」
 今となってはおぼろげな記憶だが、うんと小さいころ、同年代の子を持つ家庭で集まって、敷地だけは無駄に広い皆城の家で流し素麺をやった覚えがある。だから、なんとなくのイメージだけは総士にもあった。そのころにはすでにいつも隣にいた一騎とともに、らしくもなくよくはしゃいだことを覚えている。
 ましてや、この竜宮島は戦い以外の人の日常の営みを、文化を保存するための島だ。島民が楽しめる行事は少しでも多いほうが良い。総士の心にひっかかったのは、むしろなんでもないことのように付け加えられた、煽り文句のほうだった。
「知らない間に『毎年恒例』が増えていくな」
 自らが選んだ道とはいえ、二年ものあいだこの島を離れざるをえなかった総士にとって、変わってゆく営みを目にすることは、なによりも大切な家族が命を賭して守った島が今もたしかに受け継がれている歓びを伴った実感であるとともに、ほんの少し、取り残される寂しさを感じるものでもあった。
 同時に、きっとこの先を、そう長くは見つめていられないという確信もあった。
「遠見先輩も一騎先輩も、たしか今年が初めてですよね、流し素麺」
 片付けを終えて裏から戻ってきた真矢に、暉がほんの少しうわずった、浮き足立った声で尋ねる。真矢は一瞬きょとんとして、すぐに理解したのか、「うん」とほほえむと厨房に入ってシンクの食器に手をつけた。
「そうなのか」
「このイベント、三年前にはじまったんだけどね。広登くんたちが、お祭りのあとも夏のイベントをやりたいってアーカイブから見つけてきて。でもあたしたち、ちょっと余裕なくて」
「俺も。第一回は、まだ寝てたから」
 それまでずっと総士と暉の会話を黙って聞きながらキャベツを大量に千切りしていた一騎も、切り終わったそれを冷蔵庫に仕舞いながら、ぽつんとつぶやいた。
 なにも知らない人間が聞けば、まるで寝坊でもしたかのような口ぶりだ。
 深刻な同化現象によって自らが昏睡状態にあった時期のことを「寝てた」と表現する一騎に眉をよせ、思わず隣の真矢をちらりと見た。
「カノンくらいかな、最初から最後まで参加できたの。みんなのまとめ役を買って出てくれて」
 真矢は困ったような顔でほんのり笑って、かすかに首を振り、いつもの甘くやさしい目で一騎を見つめている。
「一昨年も一昨年で、それどころじゃなかったですしね」
 一昨年の8月下旬といえば、ボレアリオスミールとの一件で、たしかにそれどころではなかっただろう。
 去年はまだ島中あちこちで復旧工事が終わってなかったし…。はじめる時期が早すぎたんだよな広登のやつ、とぶつぶつ顔をしかめてはいるが、そんな暉も、里奈や芹も、さんざん隣で騒ぎつつ、広登のアイデアにしっかりと手を貸したに違いない。
 戦いの疲弊に立ち向かい、エンターテイメントを決して諦めない広登の明るさを、あたたかく、ときには少し呆れつつ見守りこそすれ、疎ましく思う人間はいない。
「開催実績たった一回で『毎年恒例』か」
「いいじゃない、これから『毎年恒例』にしていけば」
 食器についた真っ白な泡を流しながら真矢がほほえむ。あどけない、心が安らぐような声がそう言うと、本当に必ず『毎年恒例』にできるのだと、根拠はなくても穏やかな気持ちでそう思える。はるか遠くの約束されていない未来さえ、安心して信じていいのだと、そうできる力が自分たちにあるのだと、勇気づけてくれる強さが、やさしさが真矢の言葉にはある。
 どんな不安の中にあっても日常を大切に思う気持ちを思いださせてくれる、総士にとっても暉にとっても、そしてきっと一騎にとっても、なくてはならないひとだ。
 本物の太陽のまぶしさがなぜかまぶたに蘇って、総士はほんの一瞬目を閉じた。
「一騎くんも皆城くんも、サボらないでちゃんと参加してよぉ。貴重な戦力なんだから」
 しんみりした空気を吹き飛ばすように明るく言って、真矢は泡だらけの両手を洗い流した。



「こう快適だと、仕事に戻るのが億劫で仕方がないな」
 そろそろ地下へ戻らなければならないが、外気温のことを思うとなかなか外へ出る気にならない。暉に会計をすませてもらいあとは一歩を踏み出すだけだが、どうにも足が重く、ため息が出る。
「忙しいんですか?」
「取り立てて忙しいわけではないが、少し配置の異動があってな。午後いっぱいは荷運びと荷解きだ」
「それって……ひとりで大丈夫なんですか」
 なんでもないような声色だが、総士を見上げる目には、それとはわからないように慎重に隠した心配の色が見える。
 島内では周知の事実であった総士の左目の障害に、暉が他の後輩よりもほんの少し深く心を寄せてくれていたことは、訓練でのクロッシングを通じて知っていた。
 いっとき失声症を患い、周囲があたりまえにできることをこなせない苛立ち、親しい人に置いていかれるような孤独感を味わったことのある暉だからこそ、障害の種類は違えど、自らと同じく人に理解されない不自由さを持つ総士に、ある種の親近感や共感があったのだろう。誰もが総士に気を遣ってはくれていたが、とりわけ暉は昔から必ず総士の右側に立ち、右側から声をかけるようにしてくれた。
 かつての総士は左目に障害こそあれ、知的能力も身体能力も、それ以外の部分はむしろ人より優れてさえいた。行き過ぎた気遣いは不快に感じることもあった。しかし、物心ついた頃から顔見知りの人間ばかりとはいえ、死角に入られるとどうしても身体は強張ったし、ほんの少し、誰かの手を借りないとどうにもならないこともあった。暉はそんな微妙なラインを見極めるのがうまい、数少ない人物だった。
 一度失い、作り直したこの左目はもう視力が回復しているのだと、どのタイミングで打ち明けるべきか頭を悩ませつつも、いまだにこうして心地よい気遣いをかけてくれる後輩が、かわいくないわけがない。
「めんどうなだけで大したことじゃないさ。それとも手伝いに来てくれるか?」
 からかうように言ったとき、一騎がぴしゃっと暉を呼んだ。
「暉、早く戻れ。仕事中だろ」
「はーい」
 叱られた暉は肩をすくめて軽く返事をしている。
 本人はさして萎縮した風もなくけろっとしているが、総士でもちょっと聞いたことがないくらい、冷たい声だった。言われた暉よりも総士の方が胸がドキッとして、みょうな冷や汗をかいている。
 普段なら総士の給仕や会計は絶対に誰にも譲らないとばかりに一騎がひっついてまわるが、それもなく、厨房に入ったっきりでまともに目も合わせないところを見ると、今日は相当に機嫌が悪いらしい。
 すまないな、と暉にささやけば、「いいんです、サボってたのおれだし」とめずらしく殊勝な答えが返ってくる。しかしふてくされた表情を見れば、一騎の叱責に反省しているというより、不満をつのらせていることがまるわかりだ。「一騎先輩だって仕事中に総士先輩を構いまくるくせに」と大きく顔に書いてある。
 その子どもっぽい仕草についくすりと笑みがこぼれて、ほどほどにな、と耳打ちをすると、素直な後輩もぺろりとおどけたように舌を出して笑った。
 なんだかんだ言って、暉のこういう生意気さを、総士も嫌いではない。
 ……一騎の暉への当たりがきつい一因に、そんな後輩をかわいがる総士の態度が関係しているなどということを、今この場で察しているのは、一騎の隣で苦笑する真矢ばかりであった。