ボトムの裾から染み入る冷気に、ぶるりとからだがふるえた。
あの瞬間から心が止まったまま、この公園へどこをどう歩いて来たのかもよく覚えていない。
ついさっき、いや、もうずいぶん時間が経ったのだろうか――あのときいったいなにが起こったのか、理解すれば死んでしまいそうなくらい胸が痛むから、一騎はただぼんやりと、明かりひとつ残さず日が落ちた真っ暗な中で放心しつづけている。
座り込んだベンチからじわじわと、素肌にまで夜露が染みる。冷たい。遠くに一本だけ、ぽつんと寂しく立った街灯が目に痛い。せわしなく鳴く虫の声だけがいやに耳につく。
なにもかもわずらわしく、頭の中から消し去りたくて、どこにも行き場がないまま握りしめたままだったイヤホンを耳にねじこんだ。――総士が、これからアイドルになる一騎のために、用意してくれた黒いイヤホン。
立ち上げたままだった再生アプリからあの曲を開く。滑稽なほど明るい音が流れ出した。もうすっかり歌詞を覚えた、その言葉をくちずさむ。
総士が書いてくれた、ふたりのための、あたらしいうた。
「いまのきもちに……すなおになって……」
かろうじてメロディをなぞっていた声がかすれる。喉の奥がひくひくとけいれんして、ふるえている。胸に大きな石を飲みこんだようだ。息ができないほどひどく詰まって、苦しい。いつか総士に一騎が必要なくなったときは、ひとりで消えればいいのだと、そう思ってアイドルになることを決めたはずなのに。
こんなにも苦しくてたまらないのは、かなしいからだ。
かなしいのは、一騎が、総士のそばにいたかったからだ。
もう総士には、一騎は必要ない。どんなに、となりにいたいと一騎が望んだって。あのとき総士は、たしかにそう言った。一騎のことを見ないまま。
――信じたくない。
総士と声をあわせることを知ったあのときから。ふたたび歌うことを思い出してからも。一騎の歌は、ずっと、総士のための歌だ。総士のとなりにいて、はじめて特別になる。総士がいたから、うたえた歌だ。
総士もともにあることを望んでくれているのだと思いたかった。となりに一騎がいることを許してくれていると、信じたかった。総士がぶきようなりに差し出してくれるその声を、今度こそ聞き逃すことなく受け取るのだと、自惚れていた。
もう、わからない。
――もう、歌えない。
携帯の液晶にぱたぱたと水滴が落ちる。目が燃えるように熱かった。
どんな気持ちで、総士がこの歌を書いたのか。いっときたしかにふれられたと思ったはずのそれが、一騎にはもう、わからない。
「――一騎?」
不意にかけられたあまい声に、びくっとからだが跳ねた。
「つ、……乙姫」
「どうしたの? こんなところで」
公園の入り口に、ふしぎそうな顔で乙姫が佇んでいた。手には何度か総士が持っているところを見たことがあるエコバッグを提げている。どうしてこんなところに。
あわててうつむいて、ばれないようにほおを拭う。鼻をひとつすすって、いつもどおりの声を出せるかどうか不安に思いながら、ちいさく咳払いをした。
「乙姫こそ、なんでこんなところに」
「うち、このすぐ近くなの。いまは晩ご飯のお買い物に行ってきたところ」
いつのまにか、そんなところまでふらふらと歩いてしまっていたらしい。こんな暗い中を、と眉を寄せて携帯で時刻をたしかめたが、予想していたよりもずいぶん早い。日没が早く勘違いしていたが、さして時間は経っていないらしい。
「泣いてたの? 一騎」
「べつに」
のんびりとしたいつもの足取りで近づいてくるちいさな少女から、逃げるように顔を逸らす。
頓着せずそのままとなりに腰かけようとするので、リュックからタオルを出して夜露を拭う。ありがとう、とほほえんでちょこんと腰を下ろしたあとも、乙姫はなにも言わなかった。ふたりぶんの夕食の用意が詰まったバッグをひざに抱えたまま、ただ静かにそこに座っている。
「……もう、俺、アイドルやめるから」
気がつけば、言い訳をするように自然とそう零していた。
「ごめん。総士と約束したのに。君とも……総士のそばにいるって」
乙姫がこちらを見たのがわかる。顔は見られなかった。とても目をあわせる気にはなれない。
とつぜん、大きな音がすぐ近くて鳴り響いた。虫の声だけがちりちりと聴こえる耳が痛くなるような静かさを切り裂いて、場違いな明るい音楽がバイブ音とともに鳴っている。
一騎と総士の、ふたりの曲だ。いきなり聴こえてきた音量にどきどきと心臓が跳ねる。乙姫がワンピースのポケットから携帯を取り出し、耳にあてた。着信音だったようだ。
「もしもし、総士?」
乙姫がなにげなくやさしく呼んだ名前に、べつの意味で心臓がぎゅっと痛む。着信音におどろいたときなどよりもよっぽど、鼓動が早くなる。
「うん。……大丈夫? ……そうなんだ」
周囲が静かなので、電話口の向こうの総士の声がかすかに、ほんとうにかすかに聴こえる。なにを言っているのかわからないその低い音に耳をすましてしまいそうになって、あわてて意識をそらした。
「うん。わかった。気をつけてね」
乙姫が電話を切る。いったい、なんの電話だったのだろう。一騎のことを、なにか話しただろうか。どきん、どきんと胸の音がこめかみに響いてうるさい。
「ね、一騎。ここじゃ風邪引いちゃう。うちにおいでよ」
「えっ?」
携帯を仕舞った乙姫は軽い仕草でぴょこんと立ちあがり、一騎の手を引いた。
「総士ね、一騎を探してるって」
やわらかい乙姫の両手に握られた指が、ぎくりと固まる。
こんなに寒くて暗い中を、どうして。
「だから、総士が帰ってくる前にちょっとだけ。あったかいお茶を飲んで、わたしと話して、それから帰ろう?」
乙姫に手を引かれるまま立ちあがる。濡れた足が晒されて、ひやりと冷えた。
背を向けた自分を、総士はなぜ探してくれるのだろう。
たとえユニットを解消したとしても、これからも仕事自体は続けさせるためだろうか。総士はこちらがちょっと心配になってしまうほど責任感が強いから、あんなふうに走り去った一騎のことを気にせずにはいられないのだろう。――あるいは、一騎を見ないまま言い捨てたあの言葉は、総士の本心とは違っていたのか。
単なる一騎の甘い期待かもしれない。あとで現実をつきつけられて、余計に傷つくのかもしれない。
それでも総士が探していると聞いて、うれしい、と思ってしまった心は誤魔化せなかった。
いまの一騎に、総士の言葉を判断するすべはない。だからこそ総士がなにを考えているのか、なにを伝えようとしてくれているのか、そしてなにを隠してしまっているのか。
それに気づくために、総士を知りたい。
皆城の都会の家に訪れるのは、はじめてだった。
玄関はきちんと整理され、一騎の自宅とちがって脱ぎ散らかした靴やちょっとそこらへ出るとき用のくたびれたつっかけなどどこにも見当たらない。作りつけの大きな靴箱の上には、公蔵の趣味だったのだろうか、立派な額縁の風景画が飾られている。これだけ整然と世界観が統一されていると少し散らかしただけでも目も当てられないことになりそうで、住むのに気を遣いそうだな、と思う。
それでも定期的にハウスクリーニングが入っているという居間に通されると、雰囲気に不釣り合いな小物がいくつか、つやつやとした濃い色の棚の上にこじんまりと置かれていた。かわいらしい黒猫の置物。公蔵と、まだ幼い総士と乙姫との家族写真。そういったものに、この家でふたりが、かつて三人が暮らしていた、生活がしみこんでいる気がする。
――棚の端にひっそりと飾られた、まだ小学校にも上がっていないちいさなころの一騎と総士の写真に、どきりと心臓が痛んだ。
「一騎、ごはん……は、食べてないよね」
毛足の長い絨毯をものめずらしく眺めていると、食材を冷蔵庫へ片した乙姫が、ぱたぱたとスリッパの音をさせながらキッチンからひょっこりと顔を出す。
「ああ。でも、そういう気分じゃないから。乙姫はなにか食べなよ」
「うーん……じゃあ……」
しばらくいそいそと働いていた乙姫がやっとキッチンから出てきたとき、両手で抱えた盆の上には、ふたり分のティーセットとクッキーが用意されていた。
「えへへ、じゃーん」
一騎の前に紅茶を出して、みずからもうれしそうにソファに腰かける。
「晩ご飯のかわり。一緒に食べよう。総士にはないしょね」
などと言いながら、さっそくクッキーに手をつけている。さほど遅い時間ではないとはいえ、とっくに夕食時は迎えている。きっと空腹なはずだ。一騎に付き合ってくれているのだろう。
総士もこのクッキー、好きなの、おいしいよ、と無邪気に笑う顔につられて、一騎も一枚ほおばった。バターの香りと素朴な甘さがほろほろと口の中でほどける。うまいな、とうなずいて見せると、乙姫はうれしそうに笑って、もう一枚クッキーに手を伸ばした。
乙姫が、ソファの正面に鎮座する壁一面に届くほど大きなテレビをつけないことに、一騎はどこかほっとした。テレビは、いまは、見たくない。いろいろなことを思い出すから。
はじめてのテレビの取材で、浮かれていたときのことも。画面の中に映った、一騎と一緒ではけして見られなかったような、総士と甲洋の姿のことも。
電源が落とされた真っ暗な画面に、広すぎるソファの上でいかにも居心地が悪そうな一騎の影がぼんやりと反射している。
大きすぎるそれが否応なしに視界に入って、遮るように目をそらした。ふと目をやった先の棚には、隙間なくぎっしりとDVDやディスクが収まっている。あらためてまじまじと見ると、すべてどこか覚えのあるタイトルだ。
知っている。見たことがある。もっと、うんとちいさいころに。史彦がそれを持って帰ってくるのを、一騎はいつも楽しみにしていた。
総士が出ていたからだ。
「これ……全部、総士の」
「そうだよ。見てみる?」
少しためらってから、結局うなずいた。
その目を傷つけたときから、一騎はずっと総士から目をそらしつづけてきた。数えきれないほどの思い出も、いつか見たその演技のことも、けしてそこにあることを思い出さないように注意を払って仕舞いこんできた。取り出さないように、手に取ってしまうことがないように。
もう目をそらすことをやめて、この腕で総士から奪ったものがいったいなんなのか、きっと、みつめなければならないのだ。
大きく鮮やかな画面の中で、まだあどけなさの残るおさないころの総士は、さまざまな役柄を演じていた。
事業に失敗した親から捨てられた、それでも無邪気で天真爛漫にふるまう健気な捨て子。教師の目を盗んで同級生をいじめる、おとなびたいやみな優等生。すれた態度で生意気な憎たらしい口をきく、愛に飢えた問題児。ゲストで出演していた特撮のシリーズでは、怪人に誘拐されておびえた顔を見せていた。
どの作品で見せる演技も、おそろしく優れていた。そう、現実ではありえない特撮作品で着ぐるみを相手に見せる顔ですら。まるで子どものする演技ではない。ほんとうに、その役そのものが、そこを生きているようなリアルさ。
笑うときの口角の上げ方。ふと記憶をふりかえるときの視線の動かし方。どれをとっても、一騎の知るかつての総士のそれとは違っていた。
「……総士じゃないみたいだ」
「うん。総士じゃないの」
思わず漏れた単純な一騎の感想に、乙姫がうなずく。
「総士はね、演技、とっても上手だったんだって。すっごく上手で……ほんとうの自分がわからなくなるくらい」
「え?」
「一騎がつけたあの傷が、総士を総士にしてくれたんだよ」
どっと汗が出て、一瞬で冷めたそれがすうっと背筋を流れ落ち、みぶるいする。総士がだれにも、父親にだって言わなかった、あの傷。
「……乙姫は、知ってるんだな」
「お父さんにも、史彦にもひみつ。でも総士は、わたしにだけは教えてくれたの」
乙姫は、一騎の罪を知っているのだ。
一騎が総士を傷つけたことを、誰ひとりとして責めなかった。だれにも糾弾されなかった。おまえはこれほど許されないことをしたのだから、こうして償えと、だれも罰を与えてはくれなかった。総士ですら。
そんな罪を乙姫には知られているのだと思うと、なぜか、妙に心は軽かった。
「総士は演技が得意だった。あんなにすごい演技ができるのに、……苦しそうだった」
あのころ、総士はけして、演じることを「楽しい」とは言わなかった。歌うことを楽しいと言った一騎の言葉を、はじめて聞いた、知らない単語のようにぽかんとくり返していた。
総士にとって芝居をすることは、一騎にとっての歌うことと同義ではなかった。
「総士は『自分じゃないだれか』になるのが、とても上手だったから……ときおり自分のことがわからなくなって、すごく怖がってた」
乙姫はじっと一騎の目をみつめて、やさしくほほえんだ。
「あの傷をもらって、演技をやめて、自分がだれなのか一騎が気づかせてくれたんだって、総士は笑ってたんだよ」
総士の目を抉った右手の感触を、一騎はきっと、永遠に忘れられない。
乙姫の言う総士の言葉を聞いて、ならばあのときああしていてよかったのだと、そんなふうに思える日は絶対に来ない。
あの恐怖と後悔は一騎の中にずっと残り続けるだろう。
それでも総士は、一騎をゆるしてくれていた。
いや、最初から憎まれてなどいなかった。一騎を信じてくれていた。ひとり背中を向けて、総士から目をそらし続ける一騎を。見捨てることも、あきらめることもなく。手を伸ばしてくれた。
――でも。
「……でも、もう総士のとなりに、俺は必要ないみたいだ」
あのとき、一騎が差し出したイヤホンを、総士は受け取ってはくれなかった。
どうして。
乙姫のちいさな手が、ひざの上で所在なく握りしめた一騎の拳をそっと包む。
「お願い。総士の言葉を聴いてあげて」
握り返したその手は、おどろくほどちいさく、あたたかかった。あの日、混み合った電車でそっとふれあった総士の手のように。
いまさら駅へと向かって改札を通る気にもならず、頭を冷やしがてら、家にはとぼとぼと歩いて帰った。
史彦はすでに帰宅して、居間のちゃぶ台できちんと切れずにつながったままの沢庵をひとりでかじっていた。当然、総士からことの流れを聞いたようだ。行き先をだれにも告げずに遅くまでふらついていたことはきつく叱られたが、総士とのことについては、なにも言わなかった。
「総士くんときちんと話しなさい」
ただ、それだけだった。
一騎と総士は、まがりなりにも事務所の看板を背負って売り出しているユニットだ。そのふたりの不和を真剣にたしなめるでもなく、史彦はため息をつくだけだった。総士が史彦にどう説明したのかはわからないが、史彦はおそらく、総士の本音をわかっているのだ。
総士が本気で一騎とのユニットを解散するつもりなら、こうして話をしろなどと言われることはない。きっと説得すらされないだろう。総士がほんとうに決めたのならば、それはそのまま、事務所としての決定になるからだ。
そんな「総士の言葉」を、はたして一騎はちゃんと聞こうとしていただろうか。
あの曲や、総士が取るぶきような態度に、勝手にその内心を想像して思い込んで、ひとりで完結してはいなかっただろうか。
総士がなにを言うか、一騎をどう思っているのか不安がってばかりで、自分がどうしたいのか、総士をどう思っているのかを伝えようとしたことはなかった。それでは総士にも、その心を教えてもらえなくて当然だ。
自分はとてもそんなことを言える立場にはないのだと、思い込んでいた。
だけど、ほんとうは、ぶつけて、ぶつけられて、もっと話すべきだったのだ。
総士がなぜ、あんなことを言ったのか。
隅のほうに放置された座布団を引き寄せて、史彦と向かいあうように胡坐をかく。
「……皆城の事務所って、そんなに大変なのか」
経営、とか。いままで一騎がいちども気にかけたことなどなかった話題だからだろう。意外そうに見開いた目がまばたきをする。眉を寄せて、史彦はおかしそうに苦笑した。
「お前が心配することじゃない」
「でも、総士はそのために歌うんだろ」
「僕と一緒に、この事務所を守ってほしい」。総士はそう言った。総士がアイドルをするのは、苦手な歌やダンスを克服しようとするのは、父の残した事務所を守るためだ。それがいまどんな状況にあるのかすら、一騎は知らなかった。知ろうともしなかった。
総士が守りたいもの。総士の大切なものを。――総士のみている未来を。
腕を組んだ史彦が、難しそうな声で唸る。
「……呑気に構えていられる状況でないのは、確かだな」
具体的な数字をあげられても、それがどんな意味を持つのか、詳しいことは一騎にはわからない。それでも、史彦の連日の帰宅の遅さからなんとなく予想はしていたが、想像をしていた以上に順調な経営ではないということだけは、わかった。
ホールで行うコンサートには、ライブハウスでのそれ以上にさまざまなものが入用になる。本来であれば、デビューしてたった数か月の、まだ一般的な知名度も高くないふたりが踏めるはずのない舞台だ。実はかなりの無理を通していたようで、絶対に成功させなければならないと、総士は相当気負っていたらしい。
――甲洋との仕事も、すでに知名度のある甲洋と一緒の露出が増えることでの効果を狙ったものだったと、史彦は言った。
総士くんが、芸能の世界に戻ると決めてから一緒に組むユニットの相手を選ぶあいだ、ずっと。
「最初から最後まで、彼は『一騎と』と言っていたぞ」
目が覚めた瞬間、窓から差し込む日の高さと全身の気だるさで、時刻を悟った。
横たわったままぐうっと伸びをして、全身の筋肉をほぐす。くしゃくしゃになった掛け布団が、足元に追いやられてだらしなく丸まっている。枕に頭を埋めたまま、意味のない声でだらだらと呻く。起きるのが億劫で仕方がない。オフの日にもたいていはいつもと同じ時間に目を覚ます一騎にはめずらしく、うっかり昼前まで眠ってしまった。
とうぜん、史彦はすでに仕事へ出ている。タレント個人が休みでも、事務所自体は休みにならない。顔を洗うついでに覗いた居間はがらんとして、休日のどこか惚けた空気で満ちているようだ。使った食器だの寝巻きだのは片付けて行ってくれたらしく、水切りにはひとりぶんの茶碗と皿が伏せてあった。沢庵以外にもちゃんとしたものを食べて行っただろうか。
ぼうっと起き出して、まだもやがかかったようにぼんやりする頭でもそもそと朝食とも昼食ともつかない食事をとる。いつもよりも寝過ぎたからか、わずかに頭痛がした。
片付けと着替えを終えてさして広くはない居間にひとりでぼんやりしていると、もののない中で、電源をおとされたテレビが嫌でも目に入る。
せっかくの休みだ。これからシーツだのカーテンだの、ふだんできない大物を洗うにはさすがに遅すぎるが、せめてじっくり掃除でもしようか。スーパーへ行って、ひさしぶりに時間と手間のかかる煮込み料理にかかってもいい。そう思うのに。
――そういえば、総士と受けたあの取材。今日が放送の日だったはずだ。
思い出してしまうと、テレビの電源をつけないわけにはいかなかった。
進んで見たいわけではない。むしろ、できれば目に入れたくはない。だけど、きっと一騎は、知らなければならない。いや、知りたいのだ。
一騎の見ていないカメラの前で、総士がはたしてどんな顔をしていたのか。
半日の撮影を数分にまとめて編集された密着取材のVTRでは、自分のみっともなさばかりが目に付いた。おどおどと総士の顔色を気にしてばかりで、なにをするにも主体性がない。
こいつ、なんでアイドルなんかやってるんだ?
アイドルという職業にこれっぽっちも意欲のなかった一騎が、どんなにみっともなくても、そこにしがみつきつづけた理由。そんなことはもう、一騎がいちばんよくわかっている。――総士のそばに、いたかったからだ。
やがてVTRは進み、リハーサルの合間に撮られたインタビューへと進んだ。相変わらず要領を得ないぼんやりとした返事をする一騎と入れ違いに、リハーサルを終えて舞台袖に戻った総士が画面に現れる。
まばゆいライトに晒されない薄暗い舞台袖で、高く髪を結って飾り気のないジャージに身を包んだ総士は、どこか無防備にも見えた。
一騎も聞かれたようなあたりさわりのないライブの感想や、アイドルとしてデビューを決めたきっかけ。いくつかのありきたりな質問のあと、話題は総士の左目の傷に移った。
『この仕事をするなら、メイクや手術で隠したほうがいいと言われましたが……僕のような職業の人間がこの傷をあたりまえのものとして表舞台に立つことで、容姿に傷跡がある人への、好奇の目が減るきっかけにもなればいいなと』
傷の話にふれるということは、さすがに事前に同意が取られていたのだろうか。総士は動揺することもなくずいぶん毅然として、堂々とカメラをみつめている。
それに、と総士は目を細めた。
『この傷があるのが僕だと、切っても切り離せないものなんです。アイデンティティみたいなものですね』
喉の奥が苦しくなる。
だれかに教えられ、知っていたことでも。明確に総士の声で、総士の言葉で受け取るそれは、違っていた。
総士はほんとうに、あの傷のことを。一騎のことを、信じてくれた。大切にしてくれていた。鼻がつんとして、画面の中でそっと傷をなぞる白い指がぼやける。
『演技のほうはもうやらないの?』
画面の右下に、幼いころの総士の宣材写真が現れる。「天才子役として大活躍していた皆城くん」とテロップがちいさく重なる。
総士が過去に子役として幅広く仕事をしていたことは、とうぜん、ファンだけでなく関係者も広く知っていることだ。そう聞かれることは予想していたのか、総士はとくに考えるそぶりもなく、そっけなく肩をすくめた。
『いまは、この仕事に集中していたいので』
『なるほど。しばらくはアイドル皆城総士に専念したいってことだね。今日のライブで春日井くんとのユニットが発表されるけど、今後の活動はどんな比重でやっていくのかな。真壁くんとの活動は……』
甲洋の宣材写真が表示され、「期間限定で春日井甲洋くんとのスペシャルユニットを結成することを発表」とテロップが流れる。画面の下部を、ふたりのユニットの今後の出演情報やイベント予定が流れてゆく。
とぎれなく続く、ふたりがこれから一緒にこなす舞台の数に、どうしたってとなりに立てない時間のことを考えてしまう。喉の奥が詰まって、奥歯をつよく噛んだ。けれど。
『僕が立つ基盤になるのは、あいつと……一騎とのユニットです。それはこれからも絶対に変わりません』
ゆるぎない総士の声が、まなざしが、教えてくれる。
先にインタビューを終えた一騎がステージでリハーサルを行っている、その光がちらちらと舞台袖に差し込んでいた。編集されて、それでも遠くにうっすらと聞こえる、流れている、一騎の歌。強烈にステージを照らすライトからこぼれた光が何度も総士に落ちて、そのたびに、すきとおった目がまるで夜明けの空のようにうつくしく輝く。
総士は最初からずっと一騎を選んで、信じてくれていた。
『噂では、皆城くんが真壁くんをスカウトしたとか』
『どこからそんな噂が出てるんですか?』
カメラマンの冗談っぽい軽い声色の一言に、総士がおかしそうに目じりを下げて笑った。
『まあ、でも……僕があいつの歌に惚れこんだというのは事実ですね』
首から下げていたタオルで汗をぬぐいながらつぶやいた言葉に、どきっとする。聞き返したときとはうらはらに、その声は妙な真剣さを帯びていた。
『あいつは自己評価が低すぎる。一騎の歌に救われたと言ってくださるファンの方が、こんなにいるのに』
僕だって、と言いかけて、はっと我に返ったような顔で総士が口ごもる。一騎の見間違いでなければ、薄暗い舞台袖の、録画されたVTR越しでも、その白くなめらかなほおはうっすらと桃色に染まっていた。
『真壁くんのこと、大切に思ってるんだ』、カメラマンがくすっと笑う。自分がインタビューを受けているときからぼんやりと感じていた。不快でこそないが、どうもこの人は、こちらをからかうような態度が過ぎる気がする。
『あたりまえです』
じと、とカメラをにらんだ総士と、目が合ったような気がした。開き直ったのか気にしないことにしたのか、力強い総士の声にぎゅうっと胸がしめつけられる。
『一騎は僕の、たったひとりの――』
その先はどうしても、まともには聴けなかった。
子どもみたいにみっともなくしゃくりあげていたからだ。
目が燃えるように熱い。鼻が詰まってくるしい。喉の奥がひくひくとけいれんして、幼児のように泣きじゃくるのを止められない。心臓が痛かった。喉がぐうっと詰まって、まるで、あの日からずっと胸の底につかえ続けていた大きな大きな石を、いまはじめて吐き出せたようだった。
総士に会いたい。総士ともう一度、話がしたい。
なあ、おまえはいまも、同じ言葉をくれるだろうか。
▽
「そ、……っそうし、……総士、来てませんか」
オフのはずの日曜。けだるさが忍びよりはじめた昼下がり。いきなり事務所に飛び込んできた一騎に、事務室にいた社員はみんな目を丸めていた。
ふだん、総士がついていくのもやっとな激しいダンスナンバーでもめったに息を荒げることがない一騎だ。見たこともないほどぜいぜい息を切らして汗だくになっている様子に、気をきかせた社員がタオルを差し出してくれる。ありがたく受け取って、びしょびしょになった顔と首をぬぐう。感極まったいきおいで電車にも乗らずここまで走って来たのは、さすがにちょっと考えなしだった。
「総士くん?」
「総士も今日はオフだよね」
「僕は見てないなあ」
「私も」
集まってきた誰もが首をかしげるのに落胆する。
いや、わかっている。確実に総士と会いたいのなら、皆城の家へ向かうべきだったのだ。総士が休みの日にわざわざ事務所に出ている可能性に賭けるよりも、そのほうがよっぽど総士に会える確率が高い。
それでも一騎がいてもたってもいられずここへ走って来たのは、たまらなくなったからだ。あのインタビューを見て。歌いたくて、踊りたくて、たまらなくなった。もういちど、総士のとなりで。こんなふうに思うのは、ステージを求めるのは、はじめてだった。
雑誌やラジオの仕事の成果は、自分だけのものに限らず一騎のものまでチェックしてくれる総士のことだ。きっとあの番組も確認していたに違いない。それならばもしかすると総士も、一騎と同じことを考えるのではないかと、そう考えたのだが。
「どうしたの? 真壁くん?」
騒ぎを聞きつけて奥の会議室から出てきた社員が輪を覗きこんだ。
「皆城くん? あれ? さっき寄ってかなかった?」
はっと顔を上げた。続いて現れた社員も、顔を見合わせてうなずいている。
「俺も見たぞ。一時間くらい前だったかな」
「ああ、なんか路上用の機材を借りに来てた」
「どこに行くって!?」
食い気味に叫んだ一騎に、「あ? ああ」と彼がうろたえる。
「なんでも、初心にかえるって言ってたぞ」
初心?
眉を寄せてしばらく考え込み、はっと気が付いた。
あの場所だ。アイドルユニットとして、いちばん最初にふたりで歌った場所。
タオルを首から下げたまま、一騎はふたたび事務所を飛び出した。電車に乗るのももどかしく、そのまま大通りを人の波を縫うように走り抜ける。あの駅は、電車を使うと何本か乗り換えがあってめんどうだ。走っていったほうが早い。それに、このままおとなしく人込みにまぎれて車両に乗っているなんてこと、できそうにもなかった。からだがうずいている。じっとしていられない。
横断歩道の信号がちょうど赤になり、あしぶみをしながら待った。ふと思い立ち、上着のポケットに無造作に突っ込んだままの携帯を取り出してSNSを確認する。総士が事務所に立ち寄ったのが一時間ほど前なら、そろそろはじまっているはずだ。
案の定、総士の名前でいくつか検索した結果ページを開くと、ファンや通行人の投稿が続々と増えてゆく。
『えっ総士!』
『総士がゲリラライブやってる! ◯◯駅前!』
『駅前で妙に聞き覚えのある声のストリートいるなって思ったら、皆城総士本人だった』
『総士が路上ライブやってるって?』
書かれていた場所は、やはりふたりが最初に路上ライブを行ったあの駅前だった。電車だと少しかかるが、この大通りをまっすぐ行けば、すぐなはずだ。なかなか変わらない信号をじりじりとにらみながら、表示された新しい投稿を読み込む。
『そーちゃんだけ? まかかずは?』
『皆城くん、ひとりで歌ってる~~~』
『一騎がここに居たらな』
はっと息を呑んだ。
胸が締めつけられる。
「真壁一騎&皆城総士」というユニットの中で、自分は総士の付属品なのだと、ずっと思っていた。総士を輝かせるためのもうひとり。総士がひとりでは届かない場所へたどり着く手助けをする、そのための足場。
きっと誰もが、スタッフやメディアの関係者だけではなく、ファンの人たちだってそう思っているにちがいないと、思い込んでいた。
そうではなくてひとりのパートナーとして総士のとなりに立ちたいのだと、一騎自身でさえいまやっと気づけた、それなのに。こんなにも、一騎のことを見てくれている人がいた。アイドルの皆城総士のとなりにあるのは、真壁一騎だと。そう思ってくれる人たちがいたのだ。
信号が青に変わる。横断歩道の前で待っていた他のだれよりも早く駆けだした両足は、さっきよりも軽い気がした。
日曜日の駅前は、いつにも増して人混みで息がつまるようだ。一騎はまずまっすぐに以前と同じ場所へ向かったが、そこにはすでに別のミュージシャンが陣取っていた。総士とは似ても似つかない短髪のだれかの姿に、落胆して踵を返す。
ペースを落とさずに走り続けて喉が苦しい。少し落ち着こうと立ち止まると、全身から汗が吹き出す。はやる心臓をおさえながらきょろきょろとあたりを見回し、駅前から少しはずれたあたりに人だかりを見つけた。人の流れに逆らい、舌打ちをされながらなんとか近づけば、人々の隙間から亜麻色の長い髪が見える。
総士だ。
ただでさえどくどくと大きな音を立てていた心臓が、今度こそ壊れそうなほど早くなる。総士に会いたくて、となりで歌いたくて、ここまで走ってきたはずなのに、いまさら脚がすくんだ。
額から垂れた汗が目に染みて痛い。Tシャツが全身にはりついて気持ちが悪い。耳の奥で血管がどくどくと耳障りな音を立てていて、ここからでは総士の歌が聴こえない。
あごからぽたぽたとしたたる大粒の汗を腕で拭おうとして、首から下げたままだったタオルの存在を思い出した。事務所で借りたタオルで、顔や首を乱暴にごしごしと拭く。
『僕が立つ基盤になるのは、あいつと……一騎とのユニットです。それはこれからも絶対に変わりません』。
総士は、そのとなりを、一騎のために開けてくれていた。一騎を待ってくれていた。だからこそいま、ここで歌っているはずだ。だからこそ一騎は、ここまで走ってきたのだ。
ぎゅうっと拳を握りしめて、ゆっくりと近づく。
息を呑んだ。
人だかりへ近づくにつれて路上用のスピーカーから少しずつ聴こえてきたその歌は、かつて一緒に歌った、はじめて総士が「楽しい」と言ってくれた、母の歌だった。
人混みに混じってぼうぜんと立ち尽くし、総士の声に聴き入る。
背後の建物の影が、ちょうど総士の立つ少し前で切れている。あかるい日を浴びて歌う総士は、色素の薄い目に太陽がまぶしいのかわずかに目を眇めて、それでもしっかりとひとりひとりのことを捉えながら、歌っている。
ときおり伏せる繊細なまつげに日が落ちて、総士の白いほおに影ができる。光を透かした目は、とんでもなく透明度が高い海のようにも、太陽にかざしたすきとおる宝石のようにも見える。
まるで、ステージの上であかるいスポットライトを浴びているように、総士はかがやいていた。
同じ地面に立っているのに、人々に囲まれた総士のいる、その場所がずっとずっと高くにあるステージのようだ。まぶしく見える総士を、一騎は見上げるような気持ちでみつめた。
総士が立てば、いつだって、そこがステージになる。
それが皆城総士という人の放つ光だ。
俺も。そこへ、行きたい。総士のとなりに。そして叶うならば、同じくらいのまばゆさで、輝いていたい。同じ明度の世界にあれるように。
気が付くと、思わずなじんだメロディを口ずさんでいた。
総士だけを一心にみつめていた周囲が一騎の歌に気づき、ちらりとふりかえって、ぎょっとした顔をする。
マイクを通した総士の声と、さして大きくはない一騎の肉声は、けして釣り合っているわけではない。けれど重なった。いつかのように、飛び跳ねるようなメロディを歌う総士の声にのびやかな一騎のコーラスがあわさって、響きあう。
共鳴する和音に、ぞっと背筋がふるえた。
さざ波のように、一騎に気づいた人々のささやきがざわざわと広がってゆく。それらを気にもしないで、一騎は歌った。総士はもうかつてのようには音を外さない。一オクターブの跳躍だって、ぴたりとピッチを当ててくる。透明な声がのびのびと、ときおり涼やかに歌を紡ぐ。自在に音をあやつれることへのよろこびと楽しさが笑う総士の全身から弾けるようで、一騎の声も楽しげに高まってゆく。
やがて危なげなく最後のワンフレーズを歌いきり、曲が終わった。
周囲のさざ波が総士のもとへたどりつき、はじめから気が付いていたかのように迷うことなく、総士がまっすぐに一騎を見た。一騎も総士を見た。
「一騎」
まだ歌い終わった直後の少し荒い息のまま、額に汗をにじませたまま、一言だけ名前を呼んで、総士がマイクをこちらへ差し出す。
ほんの数歩の距離。
ふたりで最初にステージに立った、あのライブハウス。たった数歩で近づけるちいさな楽屋では、あんなにも総士が遠くに――太陽を臨むように、途方もなく遠くに感じたのに。いまの一騎は知っている。総士の立つステージが、いつだって一騎を待ってくれていることを。一騎が一歩踏み出しさえすれば、そこへたどり着けることを。
ゆっくりと歩みよって、総士からマイクを受け取った。いまさら喉がからからに渇いていることに気づく。気休め程度に何度かせきばらいをして、総士にうなずいてみせる。
ふ、とほほえんだ総士がスピーカーにつながる携帯を操作すると、愚直なまでにまっすぐなシンセサイザーのイントロが流れ出した。一騎のソロ曲だ。
ふだん総士は携帯のメモリが圧迫されるのを嫌って、次のライブに必要な曲のデモくらいしか持ち歩かない。一騎のソロ曲なんて、もともと入っていなかったはずだ。今日、一騎がここへ来るかどうかもわからないのに。総士はその用意をしてくれていた。腹の奥が熱くなって、全身の力がわなわなと湧いてくる。
歌いはじめると夢中だった。屋外でのライブは、ライブハウスやスタジオのそれとはまったく違う。外へ外へ広がってゆくオケ。どこにも反射しない歌声。自分の輪郭が自分ですら確認できないほど拡散して広がる不安と、けれどその芯に確信を持った歌がある、どこまでも行けるような感覚。
こんなふうに人前で歌うようになって、はじめて。ただ純粋に、心地よかった。
曲を終えて、ふう、と息をつく。わっと割れるような拍手がふりそそいで、たじろぎ思わず総士を見た。総士は笑っている。おそるおそる前を見れば、一騎をみつめる誰もが、笑って手を叩いている。
次の曲のイントロが流れる。二本目のマイクを手にした総士がとなりに立った。意識すらしないまま、オケにあわせて自然とからだが動く。ふたりで何度も、それこそからだに染みつくほど、歌もダンスも練習した曲だ。総士はイントロのステップが少し苦手で、何度も何度もくりかえし付き合った曲だった。
メインボーカルの一騎のメロディの三度上で、総士が歌う。ふたりの声が和音になる。ぴたりとはまった響きが調和して、ふくよかにのびやかに、ふくらんでゆく。一たす一よりもずっと大きく、ずっとその先まで。
一騎の声とそれに寄りそう総士の声があわさって、共鳴が化学反応のようにびりびりとはじけた。背筋をぞくぞくと興奮がはしりぬける。こんなふうに総士と声をあわせて歌えるのは、一騎だけだ。なににも代えられないよろこびに、じいん、と腰がしびれる。
アウトロが終わっても、最後に背中合わせになってくっつけたからだをなかなか離せなかった。ふたりして荒い息をつきながら、お互いの汗ばんだ肌と体温だけを背中に感じる。拍手の音や歓声に混じって、どくどくと走る総士の心臓の音が聴こえる。こんなにもたくさんの人に囲まれているのに、まるで世界にふたりだけになったような錯覚。
目をつぶって総士の感触を堪能していたから、そっと体温が離れたときには名残惜しくみつめてしまうのを耐えられなかった。
何度か深呼吸をして息を整えた総士が、一騎とつないだ手はそのままに、前を見て語り出す。
「告知もない、いきなりのライブでこんなにたくさんの方に来ていただけて、ほんとうにうれしく思っています。ありがとうございます」
深く頭を下げた総士に、一騎もあわてて習った。大きな拍手が頭上に降り注いで、胸がどきどきとする。総士ー、一騎ー! と自分たちを呼ぶ声。となりの総士の様子をちらちらと横目で伺って、同じタイミングで頭を上げた。
「残念ですが、次が最後の曲になります」
ええーっ、と返ってきた落胆の声に、思わず総士と顔を見合わせて笑う。
「ありがとうございます」
もう一度ふたりで頭を下げた。つないだ手にぎゅっと力が籠る。
「僕がはじめて詞を書いた、新曲です。聴いてください。『太陽と月』」
指をからみあわせて握りあった総士の手のぬくもりが、一騎をこの日の当たるステージにつなぎとめていた。
▽
思いもよらぬ場で勝手に新曲を発表したとあって、迎えに来た溝口には顛末を話すなりこってりと絞られてしまった。
だが気分はいい。パフォーマンスをいくつか終えたというのに、すっきりと生まれなおしたようにからだも軽い。
いつになくきびしい声を出す溝口の前にふたりで並んでしゅんとうつむいて――けれど「まあ、SNSでも反応は悪くなかった。こういうやり方もアリだな」と最後に溝口がひとりごとのようにつぶやいたので、思わず総士と目を見合わせてにやりとしてしまった。案の定、お前らほんとうに反省してるんだろうな、とお説教の時間は伸びてしまったが。
送りの車は辞退して機材だけを預け、総士と連れ立って歩いた。数駅分を走って右往左往したのだから足腰は疲労しているはずだが、からだの疲れを感じなかったし、そもそもとても電車に乗るような気分ではなかった。一騎よりも多く曲数をこなした総士も疲れているはずだが、同じ気持ちなのか、駅とは反対方向に歩みを進めてなにも言わなかった。
しばらくのあいだ、お互いに無言のまま、ただ黙って足を動かしていた。ビルの合間に沈んでゆく夕日がいやに赤くてまぶしい。まだ熱の引かないからだに、ときおり抜ける強い風が心地よかった。
伝えたいことがたくさんあったはずなのに、いざこうしてふたりきりになると、なかなか言葉にならない自分がもどかしくなる。
ちらりと総士を見ると、思いがけず目があった。ついあわてて目をそらしてしまったが、そっと横目で様子を伺うと、そのあともなにか言いたげにしているようだ。それでもちらちらとこちらを見ながら、言い出すそぶりのない総士に苦笑する。
そうか。総士だって俺と同じだ。けして器用なほうではなかった。ひとたびステージの上に立てば、あんなふうにふるまえる奴なのに。こういうぶきようなところは変わらない。ずっと。
気がつけば、自然と言葉が口からあふれていた。
「俺、……おまえが甲洋と組むって聞いたとき、うまく言えないけど……すごく嫌だった」
「事前にお前に断りもなかったことはすまないと思っている。だが戦略としては」
穏やかに語る一騎とはうらはらに、総士は苦しそうな顔でぎゅっと眉をしかめる。ちがう、 そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「わかってる」
わかっている。総士はけして、――けして。
「総士は、俺や父さんや、溝口さんや、遠見……みんなのために親父さんが残した会社を守ろうとしてくれてる」
一騎にはまだわからない。アイドルとしてステージに立つということが、どういうことなのか。その覚悟も、自覚も、きっとまだまだ足りないだろう。こんな自分を応援してくれることをありがたく思いこそすれ、ファンの人たちを第一に考えるなんてできそうにもないし、歌やダンスに込める強い意志も、伝えたいことなんてものもあるはずもない。
ただ、総士のとなりで、総士と歌いたい。それだけだ。
それでも、そんな自分を見て、求めてくれている人たちがいるのなら。なにより、総士が一騎を必要としてくれているのなら。
「おまえの大事なものを、俺も守りたい。おまえと一緒に」
「……一騎」
総士やみんなの望むようなアイドルにはなれないかもしれない。いや、きっとなれないだろう。一騎の歌やパフォーマンスが、誰かの心に届くなどという自信もない。
けれど、総士と一緒ならば。総士がとなりにいてくれるのなら、見たことのない景色をふたりで見られるかもしれないと、そう思えるのだ。
「おまえさ、演技の仕事、受けろよ」
とつぜん変わった話題に、総士が目を丸くしてきょとんとまばたきをした。いくつか来てるんだろ? と首をかしげれば、ばつが悪そうな顔でため息をつく。
「……知っていたのか」
総士に俳優としてのオファーがいくつかあったことは、溝口から聞いて知っていた。かつての総士の子役としての知名度はかなりのもので、その評価もかなり高かったらしい。ふたたび芸能の世界に戻って来た総士を求める人がいるのも当然だ。
総士は、いまはアイドルの仕事に専念したいからとか、左目の視力のせいで現場に迷惑をかける可能性があるからと、断っているようだったが。
「思い出したよ。俺、おまえの演技が好きだった。おまえが作るものを、すごいって、心から思ったんだ」
だから、また俺に見せてほしい。
総士は演じることを楽しいとは言わなかった。それでも演技の仕事をやめなかったのは、周囲からの影響だってあるかもしれないが、総士だってきっと選んでいたはずだ。演じることを。自分が、だれかの心を動かすようなものを、作れる人間だということを。
それに、総士はもう、「皆城総士」だ。どんな人を、人生を演じたって、その左目には傷がある。総士が総士であるなによりの証がある。――そう思ってくれている。
総士は否とも応とも言わず肩をすくめるだけだったが、目をそらしたそのほおは、照れたようにうっすらと赤らんでいた。
「今日のライブ、楽しかった。ほんとうに……楽しかった」
歌うことを、こんなふうに素直に心から楽しいと思えたのは五年ぶりだ。となりを歩く手を、そっと掴んで握った。思っていた以上の強さでぎゅうっと握り返される。
「――ひとりじゃ、歌えなかったんだ。お前がいてくれたから……」
「総士?」
かすれたその声がどこかふるえているような気がして、顔を覗きこむ。
「ありがとう、一騎。ここにいてくれて」
総士は泣いてはいなかった。
ただきれいな、見たことがないくらい、きれいな顔でほほえんでいた。
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