光の海に溺れるようだ。
スピーカーから炸裂する重低音が鼓動と重なる。それすら打ち消すような、会場いっぱいに響きわたる悲鳴と歓声。まばゆいライトがステージを照らし、照明の落ちた客席の無数の笑顔を照らし出す。アリーナからスタンドまで、ステージをみつめる誰もが夢中で振っている、二色のペンライト。このうえない高揚感。一体感。ひそかに抱いた支配欲が満たされる瞬間。
総士はコンサートが好きだ。
八分の六で刻まれるスウィングに乗って、派手なブラスが軽やかに踊る。ステージの反対側にいる一騎の声と、総士の歌声が三度の和音で共鳴する。脳に直接叩き込まれるような刺激と興奮に、重い衣装をまとった腰が甘だるくしびれた。むきだしの二の腕がぞくぞくとあわ立つ。まぎれもない快感。
ふたりの声がぴたりと合わさり響きあったとき。ひとつひとつの指先まで、髪の一本一本にまで魂のこもったパフォーマンスができたとき。熱っぽいまなざしでふたりをみつめる人々が思わずため息をもらしたとき。総士の心臓はいちばん早く走りだす。
同じ衝動を一騎も感じているのか、視界の端で身軽なからだが高く高く跳ね、階段を五段飛ばしで飛び降りる姿が見えた。つややかな黒い髪から散った汗の粒が強烈なライトの中で輝いている。きっととびきりの笑顔が背後の大型モニタに映ったのだろう。わあっと歓声が上がる。
階段を一歩一歩踏みしめながら降りる。一騎のやつ、やりすぎだ。頭のどこかで冷静な部分が苦笑したが、総士自身、すでに一騎のはしゃぎ方に劣らぬほど昂ってしまっている。全身全霊の「楽しい!」をほとばしらせながら舞う一騎の姿は、いつだって総士の目を、心をうばってゆく。ひとりではたどりつけない高みへ連れていってくれる。
ステージの最前で合流した一騎と目が合った。すでにコンサートも終盤だ。さすがの一騎も前髪が額に貼りつくほど汗まみれになって、それでも太陽のような顔で笑っている。自分も似たような顔をしているのだと、総士にはわかっていた。
サビの盛り上がりに、頭の芯が熱くなった。一騎とのパフォーマンス以上に自分を興奮させてくれるものを、総士は他に知らない。
汗ですべるマイクを握りなおし、背中をあわせてユニゾンで歌う。
『疲れたあなたに、』
と下でハモるはずのパートを、総士はうっかり歌い逃した。一騎の熱い指先がつんとほおをつついたからだ。よくある一騎のアドリブだった。カプチーノ、とハートマークでもつきそうな甘い声でささやいた一騎に、今日一番かというほど客席のボルテージが上がってゆく。
思いがけないところで甘ったるい接触をされ、虚をつかれ憮然としてつい棒立ちになる総士をよそに、一騎はたくらみが成功したからか――いや、これは単に総士にさわりたくなって、触れて、よろこんでいるだけだろう。これ以上なく機嫌のよさそうな顔で間奏のソロを踊っている。心なしか、動きのキレもいつも以上にいい。
なるほど、いいだろう。受けて立とうじゃないか。一騎のソロダンスに続く自分のパートを、総士はいつも以上に全力で踊った。競うように。挑発するように。
やがてピアノが楽しげに踊る間奏が明け、一転して静かなCメロ。本来なら一歩ずつ遠ざかるはずの箇所で、総士はあえて一騎に近寄った。黒髪をそっと梳き、そして。
『……吐き出せばいいさ』
なまめかしく吐息をきかせた歌とともに、汗に濡れたほおをつ、と指先でたどる。
ほとんど悲鳴に近い歓声が会場を揺らした。
続く大サビを危なげなく歌い踊りながらも、一騎のほおはパフォーマンスの運動量のせいだけでなく、うっすら桃色に染まっている。そして見間違えようがないほど、よろこびでふにゃふにゃにゆるんでいた。公演中、能動的に総士に近づき、ふれて、抱き上げ、キスをするのはいつだって一騎のくせに、総士からのそれが与えられるたび、一騎はうぶな少女のように新鮮にはじらって悦んでみせる。
一騎と客席、両方から望んでいたとおりの反応を得られて、総士はいたく満足した。ふだんはファンの前での一騎への接触をあまり好まないたちだが、このときばかりはやってやったぞ、という達成感さえある。総士も総士で、やはりかなり浮かれているらしい。
曲が終わり、鳴りやまない歓声と拍手の間に荒い呼吸を整えた。
客席に手を振りながら立ち位置へ向かう。次がこの公演最後のMCだ。どんな話をするか、一騎とはたいして打ち合わせをしなかった。いままでの経験上、このころにはお互い、一騎だけでなく総士もそれなりに精神的に昂ってしまっていて、どれだけ入念に打ち合わせを重ねたところでしあさっての方向へ話題が走っていってしまうのだ。
ラストMCだというのに、一騎はあろうことか客席に背を向けてステージにあつらえた階段脇へいそいそと向かい、用意された水をのんきに取りに行っている。当然のようにふたりぶんのペットボトルを抱えてステージ中央へ戻ってくる姿に、総士にしてはめずらしく、ついぽろりと言葉が漏れた。
『……お前はほんとうに僕のことが好きだな』
汗でべたつく前髪をかきわけながら、一騎はきょとん、と目を丸くしている。
『好きだよ』
総士も俺のこと、好きだろ。
きゃあ、と大きな歓声が上がった。いまさらなんだ、とでも言わんばかりの口ぶりだ。たった数年前まで、楽屋どころかステージ上でも肌がふれあうたびに死にそうに蒼白な顔をしていた男と同一人物とは思えない。
こうして一騎があたりまえの顔をして自分にふれることも。行き交う好意を疑いもしないことも。彼のふるまいのひとつひとつに総士の存在が染みついていることも。あらためて意識をやるとほおがゆるんでしまいそうになるので、それには答えないまませきばらいをひとつして、素知らぬ顔でMCを続けることにした。
『さて、半年かけて走りぬいてきたこのツアーも、とうとうこれが最後の公演だな』
ええ~っとアリーナからもスタンドからも響く落胆の声が心地よい。
『――ありがとう。一騎、お前は今回のツアー、どうだった』
ストローをくわえたままの一騎は少し首をかしげ、考えて、結局いつもどおりの言葉を口にして笑った。
『うーん。楽しかった!』
『お前はいつもそれだな……』
『だっていつも楽しいんだ。総士と一緒に歌えるの』
一騎の飾り気のない素直な感想に、客席からはやしたてるような声が飛ぶ。俺はあんまり言葉にするの得意じゃないから、とこうしたMCを敬遠しがちな一騎だが、その素朴な一言がどれだけ総士とファンの心を動かしているか、気づいていないのは本人だけだ。
『それに今回は、ファンのみんなの声援もいつもよりすごかった気がする』
『たしかにどの公演でも、皆がいつも以上にパワフルだった』
ありがたいことに全国をそれなりの規模の箱でまわるツアーを毎年行うようになってもう数年が経つが、今回のツアーでの反応はとりわけ、いままで以上に手ごたえを感じるものだった。
『今回のツアーでは演出や衣装も新しいものに挑戦したから、皆も楽しんでくれたのならうれしい』
弾けるような拍手の波に頭を下げる。となりの一騎も総士をまねてちょいと頭を下げているのが目の端に見えた。
このツアーの出来を完ぺきと言えるほど驕っているわけではない。しかしめぐらせたさまざまな努力が実を結んだようで、一騎とともに常に高みを目指している総士としてはいまできるすべてを出しきった誇らしい結果だ。
『そういやあれ、俺が選んだんだ。総士のソロの衣装! かわいかったよな? 髪型もあれ用のハーフアップで』
マイペースに水を階段脇へ戻しに行きながら、一騎がうきうきと言う。かわいかった~! 最高! という歓声の中に、総士! と叫ぶ男性の声もいくつか混じっている。たしかに、あの衣装は昔から応援してくれている男性ファンの好みにも刺さるたぐいだったかもしれない。
一騎が持ってきた総士のソロステージの衣装は、サテンの白いリボンがなびく花冠に、オーバーサイズの白いコットンブラウス、そしてごく淡い水色のスキニージーンズ。「ぜったい総士に似合うから」とあまりに一騎が自信満々に胸をはるので任せることにしたはいいものの、やはり公演中、あの衣装を着ているあいだはどこか気恥ずかしさが抜けないままだった。「かわいい」という評価はいまいち腑に落ちないものの、ここまでよろこんでもらえれば、気恥ずかしさに耐えた価値もあったというものだろう。
『俺のも総士が選んでくれたんだよな』
『ああ。あれも評判がよかったようで、選んだ甲斐があった』
今回の一騎の衣装は、サテン地のしなやかな黒いシャツに、レザーのタイトなパンツというものだった。合わせたアクセサリーも一粒石のピアスに細身の銀のネックレスだけと、いままでそれこそ水色の水兵服だの黒猫の着ぐるみだのばかりに偏りがちだった一騎にしては、かなりめずらしいチョイスだ。一騎が「総士の衣装は俺が選びたい」と言ったので、提示してきた衣装とちょうど対になるようなものを、総士も選び返してやったのだ。
ツアー初日、一騎が登場した瞬間の客席が湧きたつ悲鳴を裏で聴いたときには、たいそう気分がよかった。SNSでの検索でも、一騎にふれた感想では漏れなくあの衣装のことが取り上げられているほどだった。
『あとはセトリが熱かった! 最初に通したときはけっこうキツくてびっくりしたな。総士もちょっとしんどそうだったよな』
『ちょっとどころか……』
むじゃきな一騎の言いぶりに、言葉を濁す。久しぶりに組まれた激しいダンスナンバーの続くセットリストは、あの一騎が息を切らして汗だくになるほどだ。トレーニングは欠かしていないが、一騎にくらべるとどうしても体力に劣る総士が最初の通しでどんな醜態をさらしてしまったか、もう思い出したくない。
汗で首筋にはりついた髪をかきあげる。コンサートの後半戦を駆け抜けた火照ったからだからはなかなか汗が引かず、下したままの髪がべたついて落ち着かない。
うっとおしそうな総士の様子に気づいた一騎が無防備に近寄り、ほおにはりつく髪をほぐして耳にかけてくれる。けづくろいをする猫の舌のようにやさしい手の感触が心地よく、あやうく目を閉じそうになった。
今日の髪も開演前に一騎がていねいに巻いて編んでくれたものだが、かなりきつめに固めていたはずのハーフアップは、激しいセットリストをこなしてやはり崩れはじめている。ワックスとヘアスプレー、それにヘアピンでがちがちになっている頭をこのあと少しずつほどいていかなければならないのか、と思うと、若干うんざりする。
眉を寄せかけた総士の耳元に、わずかに苦笑した一騎がそっとくちびるを寄せた。
「終わったら俺が洗ってやるよ」
マイクを通さずささやかれた声に、だまってうなずく。プロとしての責任は十分すぎるほど理解している。自分の商品価値の一端を担うパーツの手入れに手を抜くことはないが、どうしたってめんどうなものはめんどうだ。それを一騎がシャワーに同行してやってくれるというならば、甘えない手はない。
総士の機嫌を正しく読み取った一騎が、MCをたたむべくあらためて客席へふりかえった。
『でも、それが今日はぜんぜん、キツいのはやっぱりキツいけど、楽しい、もっと踊りたいってほうが強くて。それって、みんながこうして笑って声出してくれてたからだと思う』
天井近くまでぎっしりと埋まった客席を見上げ、一騎はまぶしそうな顔で目を細めて笑う。暗闇できらめくふたりの色のペンライトが、甘い色の瞳に反射して輝いている。
『そうだな。皆が楽しんでくれればくれるほど、やはり僕たちも力が湧いてくる』
光の海を、総士も見上げた。
もう片手では、それどころか両手では足りないほど、見上げた光景だ。けれどこうして、となりに立つ一騎とともに光の海を見上げるたび、何度でもこの景色は総士の心を打つ。腹の奥から興奮が湧いてくる。
『来年には甲洋、操との合同コンサートもある。これからもその熱量で、僕たちに着いてきてくれるな?』
客席を見渡し、かがやきのひとつひとつをみつめながら放った言葉に、会場中からの肯定が返ってくるのがたまらない。
『さあ、ラストナンバーだ。まだ騒ぐ気力は残っているか?』
吠えるような総士の煽りに、一騎が客席へマイクを向けている。全身が総毛立つほどの歓声を浴びたくて、右耳のイヤモニを外した。
びりびりと空気がふるえる大音量を浴びて、くしゃくしゃの笑顔で一騎も叫んだ。
『まだまだいけるよな!?』
折り重なる一騎と会場の声に、総士自身も煽られてゆく。
『ラストスパート、行くぞ!』
コンサートでなければ出さないような声で叫んだ総士に、客席が、会場が一体になった錯覚すら抱くほどの熱量で揺れる。
次のメドレーがこの公演最後の曲だ。急き立てるようなアレンジのイントロに全身が湧きたった。もうすぐ終わってしまう、という名残惜しさと、最後までこの速度で突っ走ってその先を見られることへの歓喜。
総士はコンサートが好きだ。
ステージに立つみずからのとなりにいるのが誰なのか、まばゆい輝きに、浮かされるような熱に、何度でも教えこまれる心地がする。
一騎とともに照らされるこのステージに立つために、自分は生きているのだとすら思うのだ。
▽
翌日の予定がないオーラス後だからといって、終演後のスケジュールもけしてゆったりしているわけではない。クールダウンや反省会はもちろんで、その前に手早くアンコール衣装のままSNS用の写真撮影を行うのも常だ。コンサートを見学に来ていた事務所の同僚や後輩たちがいる日には、とうぜん一緒に撮ることもある。
今日の公演は、初夏から半年続いたコンサートツアーのツアーラストだった。会場もツアーを通して最も大きな箱で、ふだんから見学に来てくれることが多い後輩の彗や零央、美三香だけではなく、多忙でなかなかスケジュールの合わない甲洋や操、真矢も、年末の忙しい時期にも関わらず駆けつけてくれていた。
「おつかれ」
「ああ、ありがとう」
わあわあとにぎやかに撮影会をしている一騎や操たちを眺めていると、甲洋がとなりに腰かけた。
「いつもすまない。甲洋もこの間の公演、大成功だったらしいな」
一騎と総士がちいさなライブハウスで行ったファーストライブからずっと、スケジュールの都合でほんのいっときしか公演に間に合わない日でも、甲洋はいつも必ずこうしてやって来てくれる。
「おまえたちのステージが参考になるからだよ」と言ってくれるが、そうは言っても忙しいアイドル業のあいまをぬってまでというのはそう簡単にはできないことだ。つい先日、甲洋と操、それぞれのソロツアーもツアーラストを迎えたばかりだった。総士も甲洋の千秋楽に駆けつけたいのはやまやまだったが、そちらは今日のリハーサルの都合で、どうしても行けなかったのだ。
甲洋はなにも言わず、ただ照れくさそうに肩をすくめた。
「それより、次はよろしくな」
「こちらこそ。……にぎやかになりそうだ」
軽くため息をついた総士に、慰めるような苦笑が返る。
一騎と総士はふたりのユニット、甲洋と操はソロでそれぞれ活動しているアイドルだが、今度の合同コンサートではユニット・ソロにこだわらない、めずらしい組み合わせでの曲やメドレーが複数予定されていた。そのうちのひとつが、一騎と甲洋、総士と操に分かれてのメドレーだ。
操はけして聞き分けがないわけでも、扱いづらい性格をしているわけでもない。素直で純粋で、一言で言えばまちがいなくいいやつだ。ただ、年齢のわりに少し天真爛漫すぎるところがあり――それが彼のアイドルとしての天性の才能とも言えるのだが――これまで一騎や甲洋といった、安心してイニシアチブをとれる相手としかユニットを組んだことのない総士は、いまから若干頭を悩ませていた。
操の保護者代わりとして比較的組むことが多い甲洋には、これからいろいろとアドバイスを乞うことになるかもしれない。
「総士さん!」
ぽつぽつと雑談を交わしていると、ツアーTシャツ姿の彗が携帯を片手に駆け寄ってきた。
「お疲れさまでした! 今日もすごく格好良かったです」
「鏑木。いつもありがとう」
「へへ……」
彗は今日のツアーラストの他にも、このツアーのいくつかの公演に足を運んでくれていた。甲洋に次いで一騎と総士のコンサートに顔を出してくれることが多い。コンサート以外のソロイベントにもよく遊びに来てくれるし、シングルやアルバム、雑誌なども購入してチェックしてくれているようだ。自身のインタビューやブログでも憧れの先輩としてよく総士の名前を挙げてくれる、あまり年下になつかれた経験のない総士からすれば、慕ってくれるかわいい後輩だ。
「写真お願いしてもいいですか? 一騎さんも一緒に、三人で」
「ああ、もちろん」
聞きつけた美三香が「彗ちゃん、あたし撮ってあげよっか?」と寄ってきて、彗から携帯を受け取る。
総士も立ち上がり、真矢と談笑していた一騎を呼ぶ。一騎はしっぽを振りたくる子犬のように上機嫌でやってきて、ごくごくあたりまえの顔をして、彗と反対の総士のとなりに収まった。
「……一騎」
「なんだよ」
きょと、とふしぎそうな一騎はみずからの立ち位置にはまったく疑問を抱いていないそぶりで、写真撮るんだろ? と総士の毛先の絡んだカールをていねいな手つきでほぐしている。
いつものことながら、彗は気まずそうにあさっての方向を向き、美三香もこのままシャッターを切ってよいものかどうか、持てあました様子で携帯をいじくっている。
「あのな……」
お前はいつでもツーショットが撮れるだろう、とあきれた声を出した。
せっかく来てくれたのだから、ここはやはり彗を中央に挟んで写るべきではないか。総士のとなりにいる写真など、一騎はそれこそ四六時中、いつでも撮ることができる。
数年前までは、こうした集合写真では総士からもっとも離れた立ち位置をまっさきに陣取っていたくせに。総士のとなりに居たがるようになった一騎にけして悪い気はしなかったが、一応、人前なのであきれたふりをしてみせた。
あ~、一騎、また叱られてる、と操がにやにやとこちらを伺っている。見慣れた光景だろうに、おかしそうに笑う真矢が向かいからこちらへ携帯を構えていた。写真か、ひょっとすると動画でも撮っているのかもしれない。
周囲の注目を浴びた一騎が困ったように眉を下げて、ちらっと彗に目をやる。
「あの、俺、こっちでいいです!」
視線をやられた彗はあわてた声を出して、総士の右隣に収まった。
「いいのか?」
「はい! 一騎さん、やっぱり総士さんのとなりがいいかと思って」
「ありがとな」
ほっとした顔で笑う一騎に、彗はハハハ……と乾いた笑いを返している。後輩に気を遣わせてどうする、とも思うが、なんにせよ、写真撮影がはじまると遅かれ早かれこうなる、いつものことだった。
「あとで送ってくれよ」「は、はい!」と百八十度雰囲気の違う声色同士がかみあうところを、なんとも言えないまま見守る。美三香と苦笑しながら零央のもとへ戻る後ろ姿がいやに疲れて見えた。
いや、彗は総士だけでなくふだんから一騎にもずいぶん打ち解けている様子だし、一騎だってけして他意があって言外に匂わせたわけではないだろう。あいつはただ、感情を必要以上に隠そうとしなくなっただけだ。
「一騎」
「ん?」
ついさっきまで真矢たちと撮っていた写真を確認している一騎がすなおにふりかえった。アンコール衣装の、襟ぐりを大胆に開いたかたちにアレンジされたツアーTシャツがむきだしの肩からずり落ちている。簡単に直してやって、手早く起動したカメラを向ける。
総士の携帯がこちらを向いている、と見るやいなや、とたんにふにゃふにゃととろける顔は、仕事の撮影では使えないようなくずれ方だ。
「一騎くん、皆城くーん。みんなで撮ろうよ!」
真矢が呼ぶ声に、一騎とともににぎやかな一角へ足を向けた。
ステージよりもやわらかく、プライベートよりはいくらかかしましい。
リラックスできる仲間に囲まれるこの時間は、アイドルの皆城総士からただの皆城総士になるために、必要不可欠な時間だった。
車体が揺れるたびに、きつく締められた遮光カーテンの隙間から高速道路の街灯がちらちらと覗く。ノイズキャンセリングのイヤホンから流しっぱなしにしているピアノのエチュードが眠気を誘う。マスクの下であくびをかみ殺して、総士はずり落ちてきた眼鏡を押し上げた。
明かりの落ちた車内で、携帯の画面だけがしらじらと周囲を照らしている。ぐったりとシートに沈んで眠りこんでいるスタッフたちも、となりの総士に遠慮なくもたれかかって寝息を立てている一騎も、青白い光を受けてもまぶしそうなそぶりもない。すっかり疲れ切っているのだろう。あのあとも打ち合わせが少し長引いた。
やっとブログ用の文章を書き終わり、ふう、と大きくひといき吐く。マスクの中が吐息の熱で湿った。
今日の公演、そしてツアーを通した感想と、年末のカウントダウンコンサートのお知らせ。来年の合同コンサートへの意気込み。それぞれは短くても、言葉を選びながら書くとやはり時間がかかる。
終演後に撮った全員での集合写真を添付して、投稿用のアドレスへ。送信完了のポップアップにぐったりと肩の力が抜ける。一騎はバスに乗るなり総士の肩に頭をすりよせて寝る体勢に入ったが、総士は公演後のブログはなるべくその日中に更新するようにしている。熱が冷めないうちのほうが、やはりファンの反応も大きい。
くやしいことに、そろそろ体力の限界だ。もたれかかってくるあたたかいからだに寄り添って寝てしまいたい気持ちも強かったが、あとはこれだけ、とSNSのアプリを開いた。反応をチェックするのも仕事のひとつだ。
後輩や甲洋たちの投稿を自分のアカウントで共有して、ファンの感想も追える範囲でざっとひととおり確認しておく。どれも興奮冷めやらぬ楽しげなものばかりで、くたくたのからだに染み入った。長い時間をかけて一騎とともに作り上げてきたものをこうして評価してもらえるのは、やはり、何度でも喜ばしい。
一騎のアカウントに飛ぶと、さきほど撮って送ってやっただらしない顔の写真が、さっそく投稿されていた。
『ツアーラスト、熱かった! 楽しかった! 来てくれたみんな、ありがとう。会場で声援をくれるみんなも、それぞれの場所から応援してくれるみんなも、全員俺たちのパワーの源です。来年の真壁一騎&皆城総士もよろしく。これは終わったあと総士が撮ってくれたやつ。俺、すごいうれしそうな顔してるな…』
時間的に、楽屋を出る前に投稿したものだろう。アンコール衣装の一騎は、カメラをみつめて子どものようにあどけない顔で笑っている。アンコールが終わってそのまま、写真を撮るというのにたいして身なりを気にもしていなかったから、しなやかな黒い髪が後頭部のあたりでちょん、と跳ねていた。
さっそくハートやコメントもつけられている。『今日のライブも最高でした! お疲れさま!』『ゆっくり休んでね。カウコンも楽しみにしてます』『かずくん、うれしそう! 総士くんが撮ったかずくんが一番カワイイよ~』。
いくつか目を通して、投稿フォームを開く。
『真壁一騎&皆城総士コンサートツアー「楽園」、無事に千秋楽を迎えました。お越しくださった皆さん、ありがとうございました。』
ブログの新着通知が先に上がっているから、文面は最低限のものにした。添付の写真をどれにするか、データフォルダを開いたまましばらく悩んで、終演直後の楽屋に戻ったばかり、マフラータオルで汗を拭いている自分を選ぶ。
総士がみずから投稿するにしてはめずらしい、無防備な顔だ。無造作に上げた腕で短めのTシャツがめくれてへそが覗いている。花緑青色のタオルに首筋から鼻先までを埋めて、目だけがちらりとこちらをみつめていた。一騎が撮ったものだ。
投稿ボタンを押し、さっそくいくつか反応が返ってきたことを確認して、さすがに限界が来て画面を落とした。
肩にかかる、ぐっすりと眠る一騎の重みが心地いい。マスクを鼻まで下ろして、ほおを寄せ目を閉じた。まだ少し濡れた総士の髪と、同じシャンプーのにおいがする。
アイドルという仕事をしている以上、写真をめぐるあれこれは日常茶飯事と言ってもいい。とりわけユニットで仕事をしている一騎と総士にとって、いまとなってはお互いを撮りあうことはあたりまえだった。
とはいえ、デビューした当時からそうだったわけでもない。当時はお互いの写真を撮るどころか、まともに目も合わせられないありさまだったからだ。こうなったきっかけは三年前、ふたりがぎこちない関係を改善して数年が経ったころ、SNSの個人アカウントを開設したことだった。
せっかく個人的に使えるアカウントを開設したのだから、ユニットの公式アカウントとは違うアプローチでしっかり活用しなければと、当初総士は載せる内容や写真を苦心しながら模索していた。
お互いにふだんからそう写真を撮るタイプではなく、まして一騎に至っては、アイドルのくせに自撮りなど週に一度すればよいほうだった。これまでSNSでの情報発信は事務所が管理するユニットの公式アカウントに任せきりだったからか、自分の写真を撮って公開する、という発想が、そもそもふたりに根付いていなかったのだ。
お知らせをするにしても、公式アカウントと似たような文面や写真になっては個人アカウントの意味がない。かといって、プライベートでSNSを利用したこともないふたりにはそれ以外にどんな内容を載せるべきなのかもよくわからない。元々双方まめなタイプではないのだ。
そんなところへ的確なアドバイスを寄こしたのが、先にアカウントを開設し、SNSを見事に使いこなしている真矢だった。
「ふたりとも、お互いに撮りあった写真を載せればいいんじゃない?」
目からうろこだった。
「あんまり難しく考えなくても、ふつーの日常のことでいいんだよ」
「そうなのか?」
「ダメなやつだったら、マネージャーさんがあとで消してくれるし」
こういったSNSに手慣れている真矢のマネージャ―――弓子と違って、ふたりのマネージャーである溝口がそう器用な真似をできるとも思えなかったが、ひとまずふたりで相談して、真矢のアドバイスに従ってみることにした。
一騎のアカウントからの最初の投稿には、一騎作の夕食のカレーをほおばる総士の写真が添付されることになった。ちなみに、総士の初投稿は風呂あがりの一騎の後ろ姿だった。ちょうどこの日、総士が真壁家に泊まっていたからだ。
総士が真壁家に泊まるのはたいてい、自宅に妹――乙姫の友人が泊まりに来る日だ。病弱でまともに学校へ通ったこともなかった乙姫が中学に上がりはじめてできた友人たちは、両親を亡くし、兄とふたりきりで住む乙姫を気遣ってよく遊びに来てくれる。そんなとき、女子ばかりの中にその兄がいるとかえって余計に気を遣うだろうと、総士はなるべく家を空けるようにしていた。そしてそんな日はいつも決まって、気の置けない真壁家にお世話になるのだ。
史彦が出張で不在の夜、一騎が皆城家に泊まりにくることもある。乙姫と三人で食卓を囲む日も多かったが、最近の妹は、なぜか一騎が来ると聞くと友人のところへ泊りにゆく予定を入れてくることが増えた。そのたびに乙姫は「ごゆっくり」とにこにこ笑ってみせる。……いったい何の気を利かせたつもりなんだか。
閑話休題。
しばらくはいい調子で投稿が続いたものの、ある程度写真の数が増えてくると、ひとつ問題が発覚した。真矢の「お互いに撮りあえば」とのアドバイスを忠実に守った結果、一騎の個人アカウントのはずが、なぜか投稿される写真が作った食事と総士を写したものばかりになってしまっていたのだ。
一騎自身は「こういうのは自分の好きなことを書くんだろ?」とさして気にした様子もなかったが、仮にもアイドルのSNSに本人の写真が皆無では本末転倒だ。いやそもそも、「お互いに撮りあう」というのは「撮った相手の写真を自分のアカウントで上げる」ということではなく、「相手に撮ってもらった自分の写真を自分のアカウントで上げる」ということなのではないか――。かろうじて認識のゆがみに気づいた総士はなんとか軌道修正にとりかかった。
意識して一騎の写真を撮って、それを一騎に投稿させる。一騎ははじめ、自分の写真がデータフォルダに増えていくことにあまり乗り気ではなかったものの、「お前が撮った僕の写真も送ってくれ」と言うと、がぜんやる気をだすようになった。
ちがうインテリアや食器が写りこんだ写真が日ごとにいりまじるふたりの投稿は、それなりにファンの中で話題になったようだった。新曲のジャケット衣装やコンサートのオフショットも評判がよかったが、それでも一番反応が良いのは、なぜか相手に撮られた写真を載せたときだ。
たとえば、黒いエプロンをまとって、菜箸を片手にキッチンに立つ一騎の後ろ姿。
たとえば、湯気でほおを紅潮させて、髪をかきあげながらラーメンをすする瞬間の伏し目がちな総士。
ふたりのファンには、ふたりをユニットとして愛してくれている人がほとんどだが、やはり一部には単推しというのか、一騎に対して並々ならぬ熱情をそそいでいるファンも存在する。彼女ら、彼らはこうしたふたりの写真を見るたび、まあ愉快な気持ちにはならないだろう――と想像してみたこともあった。
けして自分では撮れない、相手に撮られた写真をそれとは言わず載せて――もっとも一騎は「総士に撮ってもらった!」とうれしそうなコメントをつけることも多かったが――そのたびにふたりのあいだにある親密さをうっすらと漂わせる遊びは、総士にとってもじつは、満更でもなかった。
いや、張りあうわけではない。子どもではないのだし、一騎を応援するファンとけして張りあうつもりなどないのだ。
ただ、うっすらといい気分になる、というだけで。
総士の内心はさておき、ふたりのSNSの運用はおおむねそんなふうに行われていた。マーケティング戦略というほど大げさなものでもなく、ファンに楽しんでもらうため、そしてふたりが細々と投稿を続けるためのちょっとしたコツのようなものだ。
だから、まさかそれが思いもよらぬ新しい仕事に結びつくとは、このときは思いもしていなかったのだ。
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