一騎がはじめてソロでの写真集を出したときのことを覚えている。
デビューをして早々に、ふたりがまず出したのはユニットでの写真集だった。真壁一騎&皆城総士ユニット写真集「&」。プロフィール上では非公開だが、故郷の島の海辺で撮影をしたページもいくつかある。そのころの一騎はまともに総士と目もあわせられない精神状態で、まだあどけないふたりが手をつないだりベッドをともにしている当時の写真も、いま見返してみるとやはりどこかぎこちなく見える。
それでも売れ行きはデビューしたばかりのアイドルにしてはそこそこ良く、それから一年も経たぬうちに、今度は総士のソロ写真集の発売が決まった。
皆城総士ファースト写真集「純真」。――いや、タイトルについてはなにも言うまい。当時の総士は口を閉じていれば性別が容姿で判断できないような中性的ななりをしていて、女性、男性を問わずファンを獲得するイメージ戦略だったのだ。いまとなっては絶対に着られないような衣装もずいぶん着せられた。ちなみに当時、声変わりはすでに迎えていて、どう聞いても少年としか思えないそこそこ低めの声質だったため、口を開けばすぐに男だということがわかる、そんな戦略は無意味ではないか――と何度も訴えたのだが、なぜか事務所の上席にことごとく却下されてしまった。
翌々年にはセカンド写真集「selfish」も発売され、どちらの評判も売り上げも、かなり良かったと聞いている。
ところが、総士の写真集が二冊出てもなお、一騎のソロ写真集はなかなか発売には至らなかった。
けして冷遇されていたわけではない。総士が一冊目を出した当初から、総士に次いで一騎の写真集も、という声は事務所内でもファンからも挙がっていた。それがなかなか実現しなかった理由は単純で、当の一騎自身が写真集に対してまったく乗り気ではなかったのだ。
「俺の写真集なんか誰が買うんだよ」
総士がちょっぴりとも載ってるわけでもないのに。
というのが、一騎の言い分だった。
総士や溝口がせっついて説得を重ね、ファンレターやラジオへ届く要望も溜まりに溜まって、結局、ほだされた一騎のソロ写真集「ねえねえ、」が発売されることになったのは、ふたりのデビューから三年が経ってのことだった。
その後は総士と同じく一騎も一定のペースで写真集を出版しており、昨年は総士のものに先行するかたちでサード写真集「晩夏」が発売されたばかりだった。しかしこの期に及んで一騎は往生際が悪く、「やっぱり出さないとだめなのか? それ」などと写真集を敬遠しているようだったが。
そんなことを、懇意にしている出版社から持ち込まれた企画書を、一騎やマネージャーとともに事務所の会議スペースで読み込みながら、総士は思い出していた。
『ミナシロカメラ(仮題)・マカベカメラ(仮題) 出版企画書』。
そう題されたそこそこの厚みの紙の束をふたりが受け取ったのは、まだ肌寒さの残る三月もなかばのことだった。
出版されるコンテンツとしては、そこまで変わったところのないソロの写真集だ。予定ページ数はおおよそ百三十ページほど。綴じこみ付録にはそれぞれメイキングDVDが付く。それ自体は、さして特徴的なものではない。これまで発売してきた写真集と似通った仕様だ。
いままでと決定的に違っているのは、撮影を行うのがプロのカメラマンではなく、またその場所もスタジオやロケではなく、一騎と総士が、お互いの姿を日常の中で撮りあい、それを載せる――というコンセプトだった。つまり綴じこみ付録の「メイキングDVD」というのは、一騎と総士がお互いに撮りあう光景をカメラマンが動画に収めたもので、うち数分程度にはふたり自身が撮影した動画も収録予定、とのことだ。
なんでも、SNSでお互いを収めた写真をアップロードしあうふたりのやりとり――そして、相手に撮られた写真に写るふたりの、表情やニュアンスのあまりの出来の良さに寄せられた、ファンの反響から組まれた企画らしい。
『ありそうでなかった写真集がついに登場! ふたりがお互いにしか見せない表情、これまで見られなかった舞台裏、なんと自宅でのマル秘リラックスショットまで? 丸ごとぜんぶ余すことなく、みなさんにお届けします♪』
販売時のそんな煽り文まで、すでに企画書に書きこまれている。
暖房で空気が乾燥しているからか、いやに喉が渇く。こほん、と咳をひとつすると、一騎が加湿器のスイッチを入れに行った。
撮影用のカメラはふたりに一台ずつ貸し出され、撮影したデータは、気に入ったものをいくつかの条件付きで譲渡も可能。この企画が通ればこれからひと月ほど撮影を行い、出版は六月下旬を予定。発売にともなう記者会見はもちろん、数量限定のサイン本やお渡し会などのプロモーションも、いくつか具体的に予定が組まれていた。
「僕はぜひお願いしたいですね」
考えるまでもなく、総士は承諾した。職業柄、撮られることはもはや生活の一部だ。自宅での撮影と言っても、プライベートに干渉しないような配慮は当然なされるだろう。まして撮るのが一騎だと言うならば、それを嫌がる理由もない。題材も、たしかにファンからの評判がそれなりに予想されるほど悪くないものだ。
問題は一騎だ。
個人写真集を出すときにあれだけ渋った一騎だ。総士と共同の撮影とはいえ、自分が撮られる、しかもプライベートな場面を、ということに、やはり難色を示すのではないか――と、総士も、そして周囲のスタッフも思っていたのだったが。
「俺もいいですよ」
――二つ返事だった。
「……一騎お前、ちゃんと企画書読んだか? 内容理解してるんだろうな?」
あきれた顔の溝口が、その場の全員の気持ちを代弁してくれる。
「俺が総士を撮って写真集作るんですよね」
さもわかっている、と言わんばかりにうなずいた一騎に、総士も横やりを入れる。一騎が総士を撮るばかりではなく。
「お前も僕に撮られるんだぞ」
「わかってるって。でも、俺が撮った総士が写真集になるんですよね?」
「まあ、概ねそういう企画です」
やけにこだわる一騎に、最初に企画を検討していた担当者も苦笑している。
どうやら自分が撮られることへの抵抗感よりも、総士を撮る、ということへの興味のほうが勝ったらしい。「いいカメラで総士を好きに撮れる」「データもいくつかもらえる」――というあたりで、がぜんやる気になったようだ。
そうと決まれば早速、明日からでも撮影をはじめることになった。好きに使っていただいてかまいません、と貸し出しされた一眼レフを手に取り、想像以上の重さに眉をしかめた。
こんなものをずぶの素人にぽんと預けてもいいのだろうか。仕事として行う以上、素人なりに基礎的な操作方法や写真技術は学ぶつもりでいるが、いまのふたりにシャッタースピードがどうの、絞り値がどうのという知識はもちろんない。撮影のときに目にするカメラマンのしぐさで、かろうじてズームの仕方を知っているくらいだ。
カメラやSDカードの簡単な説明や注意事項を聞きながら、一騎はさっそくレンズキャップを外してファインダーを覗きこんでいる。そのままレンズをこちらに向けて左手でズームリングを調節し、シャッターを押した。ピピピ、カシャ。電子音が鳴る。画面をまじまじと見て「お、ちゃんと撮れてる」とほほえむ姿は、なるほど、なかなかさまになっている。
カメラにセットされているSDカードには、およそ千枚以上は保存できるらしい。そう聞いて、一騎は不安そうな顔で首をかしげていた。
「千枚か。足りるかな」
……お前はいったいどれだけ撮るつもりなんだ?
▽
撮影がはじまると、案の定、さっそく一騎のカメラ責めがはじまった。
たとえばこうだ。乙姫が友人と泊りがけで遊びにゆくと言うので、一騎が皆城家へ泊りにやってきた、その日の夜。
ピピッ、カシャ。ピピピッ、カシャッ。
いただきます、と手を合わせたにも関わらず鳴りやまないオートフォーカスの電子音とシャッター音に、総士はいまにもほおばろうとしていた甘辛く煮たホタルイカを器へ戻して、なかばうんざりしながらため息を吐いた。
「……一騎」
炊きたての白ごはんにささみチーズフライ、ホタルイカの煮物、ほうれんそうの白和え、菜の花と卵の味噌汁。見事な献立を用意したにもかかわらず、一向に食卓につこうとせず集中してファインダーを覗きこんだままの一騎を呼びつける。
「お前も早く席につけ。冷めるだろう」
「あ、うん」
しゅん、とカメラをカウンターに置いて、一騎が席につく。
いつもとはまるで逆だ。ふだんなら、こうしてなかなか食卓につこうとしない相手を窘める役目は一騎ばかりが負っている。レッスンの確認用VTRやピアノの前にかじりつきになると時間を忘れて没頭してしまいがちな総士も、悪いとは理解しつつも何度かこうして急かされたことがある。
食べることに関しては総士などよりよほどこだわりがある一騎が、そちらをおろそかにしてここまで夢中になっているのもめずらしい。
「……悪い。なんか、はしゃいでた」
「だろうな」
さきほど惜しくも断念したホタルイカをほおばる。うまい。日ごろからなるべく自分たちで作った食事を乙姫とふたりで摂るようにしているが、やはりまだ一騎ほど手の込んだものは作れない。出汁の引き方もまだまだだし、献立の幅もあまりない。
ささみに大葉とチーズをはさんだフライにも箸を伸ばす。うん。これもうまい。さっくりと上がった衣にとろけたチーズ、ぱさつかずしっとり火の通ったささみと大葉がよく合う。梅とごまを叩いて手早く作ったつけダレもいい。さっぱりしていて、これなら乙姫もよろこんで食べそうだ。あとで一騎にレシピを聞いて、また今度作ってやろう。総士も温度管理が重要な揚げ物は得意なほうだが、一騎のこの絶妙な揚げ具合にはまだまだ敵わない。
さっそく一騎の食事を味わっている総士をよそに、遅れて「いただきます」と手を合わせた一騎はとりあえず茶碗を持ったまま、まだちらちらと未練がましくカメラのほうへ視線をやっている。
さすがにあきれて、呟いた声に「まったく理解できない」の色がありありと乗ってしまった。
「食事風景なんていつも撮っているだろう」
「ちがうんだって!」
めったに声を荒げたりしない一騎が箸を置いて声を張ったので、ぎょっとする。
「これ! 総士データ確認してみたか? すっごいキレイだから!」
「そ、そうか?」
「やっぱり携帯とはぜんぜんちがう! おまえのまつげのいっぽんいっぽんが光を透かしてほっぺたに細く影が落ちてるところとか、入れてるコンタクトがちょっと浮いてるところとか、セーターに細い毛がいっぽんだけ引っかかってるところとか、そういうのまでばっちりきれいに写ってて」
「はあ」
「俺の目で見たままの総士の解像度だ」
「……そうか」
これほどなにかについて熱っぽく語る一騎を見るのは、もしかするとはじめてだった。圧倒されてしまって、なんと言い返す言葉もない。味噌汁を一口すする。ほろ苦い菜の花と、卵のまろやかさがよく合う。
一騎もやっとおかずに手をつけはじめたが、まだ食事に集中しきれていないようだ。こんなにおいしい料理をうわのそらでそしゃくするなんて。もったいないので、一騎の皿からフライをひとつかすめ盗ってやった。一騎は一向に気にしていない様子で、LEDの下で撮るのもまた感じが変わるんだよな、などとぶつぶつ言っていた。
さらに、翌朝。
「総士、総士。朝だぞ。おはよ」
いつもに違わず、起こしに来た一騎に若干雑に揺すられながら総士の意識は浮上した。実を言うと総士の寝起きはあまりよいほうではなく、幼なじみとしてそれを熟知している一騎は、ありがたいことにいつも先に起き出して朝食の用意を整えてから、総士を呼びに来てくれるのだ。
半分閉じたままの目で目覚ましを確認する。午前七時。なかなか回転数の上がらない頭で、仕事のスケジュールを思い出す。今日の予定はたしか一件だけ。ゴールデンタイムの歌番組の生放送。入りは夕方だ。
まだまだあたたまった布団のなかでだらだらしていても、まったく問題ないはずだ。総士は一騎のようなショートスリーパーではない。もう少し、いや正直なところを言うと、寝られるだけ寝ていたい。
ピピピ、カシャ。
例の音が聴こえて、日光のまぶしさと眠気に鉛よりも重く感じるまぶたをなんとか開いた。
無骨な黒い一眼レフを構えた一騎が、ベッドに乗り上げている。
「…………ぉまえ……、」
「おまえ、声出てないぞ」
ファインダーから目を離した一騎がおかしそうに笑う。
全身から力が抜けてしまって、ぐったりと枕に頭を埋めた。乱れた布団の中で、ぐうっと全身で伸びをしてからだをほぐす。ピピッ、カシャ。ピピピ、カシャッ。せわしなく聴こえるシャッター音に、総士はもはや、あきらめた。ああ、いいさ。お前の好きにしろ。好きなだけ撮るといい。いくつかボタンが外れてしどけなくあらわになったパジャマの合わせも、ブラシだけではとても歯が立たない予感のする髪の乱れも気にせず、ぐちゃぐちゃの布団に埋もれる。
カメラを下ろしたあたたかい手が伸びてきて、はずれたボタンをひとつふたつと留めていった。
「……さすがに、こんななさけないところ、撮っても出せないな」
「出さないよ。これは俺が撮りたいだけ」
朝飯、できてるぞ。おまえの好きな甘いたまごやき。冷めるから早く歯磨いてこいよ。そのまま寝ぐせだらけの髪をやわらかい手つきでくしゃくしゃになぜて、一騎は機嫌よく居間へ戻っていった。
すっかり眠気も覚めてしまった。しばらく夢の端を探すようにベッドの上でうだうだと転がったあと、観念してのろのろと起きあがる。
――こいつ、もしかして、撮っているほとんどのカットが自分用になるんじゃないだろうな?
と総士が気づいたのは、くしゃくしゃのパジャマ姿のまましゃこしゃこと一心にはみがきをする、お世辞にもアイドルらしいとは言えない様子を、にこにことたいそう機嫌のいい一騎に洗面の鏡越しに撮られてからだった。
午後になり、迎えの車まで時間があったのでひさしぶりにピアノをいじることにした総士に、やはり一騎はいそいそとカメラを構えて特等席を陣取った。
父へ抱く感情は、その死から五年経ったいまでもとても一言では言い表せない。
家を空けがちな父にほめられたくてはじめた芝居の仕事も、いつしか総士をがんじがらめにする鎖になってしまった。結局は父の期待に応えられないまま、総士はそのわかりやすい愛情ややさしさを望むことが無駄なのだと知った。
しかし芝居をやめて時間を持てあましていた総士が、唯一興味を持ったピアノ教室に通わせ、自宅にアップライトピアノと防音室まで用意してくれたことには感謝している。父が用意してくれたこのピアノは形見と言えるもののひとつで、どんなに忙しくとも、年に一度の調律は欠かさないようにしている。
鍵盤を前に音に集中していると、シャッター音も気にならなくなる。
一騎の趣味が料理ならば、総士のそれは音楽だ。チェスにコーヒー、ほかにもこまごまと好むものはあるが、ピアノにふれているときがいちばん心が安らぐ。まじめにエチュードをこなすときもあれば、手慰みに気が向くままに好きな曲を弾いてみるときも、素人なりに思いついたフレーズを楽譜へ書き留めることもある。
音楽は、音を楽しむものだと、一騎に教えられた。かつて一騎の歌が、それを教えてくれた。心のままに音を紡ぐことは、楽しいことだと。それ以来、総士にとっての音楽はいつも一騎とともにある。
そろそろ休憩な、と一騎が淹れてきたコーヒーを飲みながら、画面を覗きこみ撮った写真の出来を確認している楽しげな男をまじまじとみつめる。
「こんなところも載せるのか? それとも、これもお前の趣味用か」
「うーん。これは載せてもいいかな」
またカメラを構えた一騎が、マグカップに口をつける総士をレンズに捉えてズームリングを調節する。
「俺がもし総士のファンだったら、総士のこういうところ、なんでも知りたいし」
「写真集には使わない写真ばかり撮っているくせに?」
いじわるな口調で言ってやると、一騎はファインダーから目を離さないまま、へへへ、とてれくさそうに笑っていた。
……そこは照れるところじゃない。
夕方から出向いたテレビ局の楽屋でも、一騎の攻勢はやまなかった。
総士などはただでさえ荷物がかさばるうえにそこそこの重量がかかるので、今日の撮影ではまあいいか、とカメラを自宅へ置いてきたのだが、こういうときばかりは抜かりなくというのかなんと言うのか、一騎はカメラと外付けのフラッシュまで、専用のバッグに入れてばっちり仕事先にも持参してきた。
共演者のリハ待ちをしているあいだに、楽屋の畳に横になってしまったが最後、ついうたたねをしてしまった瞬間。トークコーナーの台本読みをしているときの横顔。机に用意されていた台本には見向きもせずに、カメラを総士に向けてばかりいる一騎にお前も遊んでいないできちんと確認しろと言うと、どうせ生なんだからその通りにはいかないだろ、としれっと返された。
ふたりが生放送に出演するとたいていトークの統率が取れなくなって台本通りの進行からあらぬ方向へ逸れてゆくというのはまさにそのとおりだが、あらぬ方向への舵をいつも率先して切っているのは、いったい誰だと思っているのだろうか。
もちろん、総士もただされるがままに撮られているばかりだったわけではない。いつでもどこでもカメラを構える一騎と同じくらい、一騎のことを撮ってやった。
日常の中でのシャッターチャンスは、思いがけず多かった。
たとえば自宅で。たまたま真壁家にお世話になる日があったので忘れずカメラを持参したが、この日はかなり撮れ高がよかった。
キッチンで料理をしている一騎の後ろ姿。てきとうないつかの一騎のグッズTシャツにレッスン着のジャージ、エプロンは揚げ物や油跳ねの多い料理をするときにしかしない。菜箸を持ってはだしでうろうろする一騎を、背後から手元を覗くように撮影していたら、「ん、味見」とだし巻き卵のきれはしを口に放り込まれた。
風呂上がり、濡れた髪もそのままに、居間のちゃぶ台に肘をついてぼうっとひまそうにテレビを見ている気の抜けた顔。たまたま総士の出ている保険のCMが流れた瞬間、だらだらと食べていたリンゴを口にくわえたまま、じいっと画面をみつめて見入っていた。「これ、はじめて見たかも。撮ってればよかったな」とくやしそうに言っていたが、すでに一騎の部屋には、総士の出たCMばかりを最高画質で編集して焼いたディスクが何十枚とファイリングされている。
とはいえ、総士もなにも一騎のだらしのない顔ばかりを撮っていたわけではない。仕事のあいまには、オフショットといってもやはり自宅よりもいくぶんかそれらしい「アイドル」としての一騎の顔を撮ることができた。
新曲のダンスレッスン中、休憩時間にも関わらずソロダンスの出来が気にくわないと自主練をはじめた、汗をにじませた真剣な横顔。本番前に総士の髪をゆっくりと巻き、複雑な編み込みをいくつか作ってアレンジしている一騎の、どんなドラマの役でも見たことがないほどしあわせそうにゆるんだ、しかし総士にとってはいつも見ているなじみ深い顔を鏡を利用して撮ってやった写真もある。
そうそう、昨日のテレビの収録でも、かなりいい画が撮れた。
二十一時から放送のいわゆるひな壇番組と言われるようなバラエティで、週替わりのゲストをメインに、事前に取られたアンケートをもとにしたフリップやトークで進行する番組だ。その週替わりのゲストとして、はじめてふたりがこの番組からオファーを受けたのだった。
ほとんどがはじめて共演するタレントばかりだったが、実力派と言われる若手お笑い芸人のコンビが司会を務めるだけあって、収録自体はなんの不安も問題もなく、つつがなく終わった。
雲行きが変わってきたのは、収録後の楽屋に司会のふたりがあいさつに来てくれてからだった。その日が初対面でプライベートな会話などほとんど交わさなかったはずだが、そのうちのひとりに、なぜか総士が妙に気に入られてしまったのだ。はじめは収録の感想やお互いのライブの話題など、あたりさわりない会話をしていたはずが、気が付けばしつこくプライベートの連絡先を聞かれるはめになっていた。
いつもならば総士もこういったたぐいはきっぱりと断るものの、たまたま相手が先日乙姫がテレビを見ながら「この人、里奈ちゃんが好きなの」とにこにこしていた人物だったため、あまり邪険にできずにいた。
いつのまにか相手からのボディータッチが増え、やんわりとそれを避けるもののはっきり口に出しては断らない総士に、そのうちだんだんと一騎の口数が少なくなってゆき。
「俺、先出てるから」
「一騎?」
とうとう、めったに聞かないような固い声と乱暴なしぐさで席を立った一騎は、総士のほうを見もせずに楽屋から出て行ってしまった。
バタン、とやけに大きな音を立ててしまった扉を、一騎の後を追って総士もすぐにくぐった。収録のお礼と、次の撮影時間が迫っていること、そしてプライベートでのやりとりは誰からの誘いも断っているという旨だけをそつなく相手に伝えて。
エレベーターのほうへ向かう道中、肩から下げていたカメラバッグからカメラを取り出し、総士は高揚を抑えられないでいた。一騎はどうせ、総士を置いてはいかないだろう。どんな顔で、ひとり総士を待っているのか。ズームリングに指をかけ、すぐにでもシャッターを切れるように用意をして。
そして見つけた、エレベーターホールで壁に寄りかかりながら総士を待つ一騎は、はたして総士が期待したとおりの顔をして佇んでいた。飴色からやさしさばかりが抜け落ちてしまったような、冷めた目。酷薄に噛みしめられたくちびる。色あせたほお。ひどくつまらなさそうな、機嫌の悪そうな顔。
ぞくっと背筋がふるえた。これが見たかった。この顔を、この一瞬を、総士はとらえたかったのだ。いつだってあどけなく笑っている一騎の、総士への執着にまみれた余裕のない表情。
一階から上がってくるエレベーターを待つあいだ、一騎はみじろぎもせず、ふきげんなまなざしでカメラをじっとみつめていた。——とはいえ、一騎のめずらしい態度もそう長続きしたわけではない。しばらくつきっきりで総士がかまってやると、すねた表情はあっというまに氷解してしまった。
最初は見事にカメラに夢中になっている一騎にあきれていたが、いざ自分が撮る側にまわってみれば、総士とて人のことを言える状況ではなくなった。いままでに携帯で撮っていたよりも格段に頻度は上がったし、一騎のように外へカメラを持って出ることも増えた。
なるほど、たしかに携帯に比べると画質がかなり良いのだ。それに、撮影するまえにわずらわしいフィルターをあれこれ選ばなくてもいいのが気に入った。光の加減や色味などを気にして吟味しなくとも基本をおさえておけば、おおむね総士の目に映った一騎を、そのままのまばゆさで切り取ることができる。もっとこだわりたいと思えば、アプリなどよりよほど幅広い自由度でいろいろと各種数字を変えて試せるところも興味深い。
そして一騎は、さんざん人のことを撮りまくっているくせに、自分が撮られるとなるととたんに困った顔で笑ってみせた。
「べつにいいけど。楽しいか? これ」
その言葉、そっくりそのままお前に返す。
一騎の顔を、纏うその空気を撮ろうと思い立ち、そしてそれを理想的なかたちで手元に切り取ることができたとき、総士が感じるのはふしぎな昂ぶりだった。自分しか知らない一騎が、これまでほかのだれも知らなかった一騎の表情が、写真集というひとつのかたちになってあまたの人の手に渡ってゆく。
そう思うと心の奥から湧いてくるむず痒いよろこびを、しかしどう呼ぶべきか、総士はまだ答えを知らないままだ。
▽
ある日の仕事は、とあるブランドとタイアップしたCMの撮影だった。
対象の商品は、リップスティックとネイルポリッシュ。いままでにタイアップしてきたものは数あれど、じつは化粧品とのそれははじめてだ。
今回ふたりがモデルを務めることになったのは、落ち着いたシックな色使いと工業製品のようなシンプルなパッケージで人気のあるコスメブランドだ。なんでもここ数年、ブランドの商品を女性だけではなく男性やそれ以外のあらゆる人に親しんでもらうため、さまざまなモデルを起用した広告戦略に取り組んでいるらしい。
事前の打ち合わせで、先方がふたりの肌になじむ色のものを選び、撮影に臨むことになっていた。一騎には朱色に近い深い赤色のつややかなリップスティックを。そして総士には、深い青みがかった緑の速乾性のネイルポリッシュを。
『愛しい人へキスをするくちびるには、微熱を纏って』
『愛しい人の肌をなぞるゆびさきには、高潔を纏って』
そんなキャッチコピーをつけられた広告の撮影が行われたのは、都内のレンタルスタジオだった。
「へえ、広いな」
ヘアメイクを終えてふたりで足を踏み入れたセットに、おどろいた一騎の声が反響した。仕事柄、MVの撮影などでこうしたレンタルスタジオはよく利用するほうだが、かなり天井が高くて開放的なスタジオだ。
壁と床は暗いモルタル調で、天井の配管もむき出しになっている。調度品は黒い革張りのシンプルなソファと、ガラスのローテーブル。色もかたちもさまざまなひとりがけの椅子がいくつか。がらんとした空間もあいまって冷たさに支配されそうな印象を、壁いちめんに取られた大きなカーテンもない窓から差し込む日がやわらげている。
一騎は袖をいくつか折った白いブラウスに、白のスキニー。そして総士はきっちりと袖を留めた黒いブラウスに黒のスキニーが今日の衣装だ。ふたりのカフスだけがにぶい金色で、お互いが身に着ける色をより際立たせるための、対になる衣装だった。
撮影は順調に進んだ。ソファに深く腰かけ、脚を組んでけだるくくつろぐ総士の指先を、ひざまずいた一騎がうやうやしく取り、ていねいにネイルポリッシュで彩ってゆく。
こうしてちいさな刷毛を扱うのははじめてだろうに、一騎の手つきは見事なものだった。縦長の総士の爪から少しもはみ出さず、危なげなく色をかさねてゆく。総士は一騎と違って手先の細かい作業にあまり自信がない。なるほど、リップスティックとネイルポリッシュというそれぞれの担当は、偶然にもうまい具合に噛みあっていたようだ。
このまま台本どおりに進めば。総士は彩られた指先で一騎のほおをなぞり、一騎はそっとほほえんで、赤く染まったくちびるで総士の手の甲にキスを落とす。そういう演出だ。
しかし、窓から差し込む午前の白い光に照らされた一騎の顔を見ていると。コンサートや撮影のメイクでもめったに色のあるリップをしない一騎のくちびるが、赤くつやつやと濡れて光っているさまが目に入ると。
自分でも意識しないうちに、一騎の細いおとがいを人差し指でなぞっていた。指先で顎を持ち上げ、顔を上げさせる。予定にない総士の動きに、スタッフが緊張した空気が伝わってくる。
一騎は一瞬きょとんとまばたきをしたが、すぐに総士の意図を理解したのか目を細め、挑発的なまなざしでみつめ返してきた。赤いくちびるがふ、と誘うような笑みのかたちに弧を描き、みずからが彩った指先を濡れた舌とくちびるでくわえこむ。
濡れた粘膜の感触がくすぐったい。熱い舌先が、からかうような動きで指の腹をちろりと舐める。自分で彩った爪を覆うようにぞろりと舌がうごめいて、エナメル質の苦味を感じ取ったのか、指先に吸いついたままの一騎がわずかに眉をしかめた。
ちう、と吸いつかれた指をいたずらに引き抜いてやる。かすかな水音がひびく。指を取り上げられた一騎は伸びあがり、ソファに深く身を預けたままの総士を腕の中に囲うように、挑みかかるように、伸しかかった。
焦点が合わなくなるほど近くでひたりと重なった視線をいっときも外さず、総士のほおに影を落としながら、一騎の顔がそっと降りてくる。無造作にゆるく巻かれた黒い髪に、花緑青でふちどられた白い指が縋るように、捕えるように絡み――。
「カット!」
スタジオに響いたスタッフの声に、ぴたりと一騎が動きを止めた。そのまま至近距離でみつめあって。
「……ふっ……」
「……くく……っ」
ふたりはどちらからともなく、耐えきれずに笑いを漏らしあった。
撮影の合間の休憩中、ふと一騎の姿が見えないことに気づいた。まじめな顔があたりを見回すと、担当のカメラマンと話し込んでいる。
なにか問題でもあったのだろうかと思ったが、一騎の手元に見覚えのある一眼レフが見える。カメラマンの言うことにうんうんとうなずいて、カメラをいじってはファインダーを覗きこんでいる。どうやらカメラの使い方や撮影のコツを教えてもらっているらしい。
その顔はステージに立つときと同じくらい、真剣だ。
ふと思い立って、総士も楽屋に置きっぱなしにしていたカメラを取ってきた。レンズカバーを外し、ファインダーを覗きこむ。撮影モードを動画モードに変えて、録画をスタートさせる。メイキングDVDに収録するふたりが撮った動画の撮影も、気が向いたときに適宜やってくれと言われていた。
一騎にピントを合わせると、いつになく引き締まったまじめな顔がファインダーいっぱいに広がった。
視線に気づいたのか、四角く切り取られた視界の中で一騎が振り向く。ついいましがたまでの整った表情がうそのように、ふざけた感じでにこっと破顔して、一騎もこちらへ向けてカメラを構えた。
三対二で囲まれた世界の中心で、ズームリングに手をかけて総士をじっとみつめる、ファインダーに隠れていても感じるまなざし。ときおり手元から覗くまだわずかに赤い口元はほほえんでいるが、その視線はぶ厚いレンズを通して、総士の心臓を貫通する。
――いや、なにをやっているんだ、僕たちは。
お互いにカメラを構えた様子を撮りあっているだなんて、傍から見れば滑稽な光景だろう。しばらくカメラを回し続けてから、とたんに気がつきおかしくなって笑った。
「カメラで隠れてても、かっこいいな」
四角い世界の中の一騎が、カメラを下ろして笑いながら近づいてくる。
「でも、カメラで隠れてない顔も撮りたいかな」
ずい、とレンズを至近距離で覗きこまれて、総士も笑いながらカメラを下ろした。録画を止める。カメラで隠れてない顔も撮りたい、だなんて、さんざんいままで撮っているくせに。
くちびるをとがらせながら画像を確認している一騎のリップは、最初に塗られてから時間が経ったせいか、よれて薄れてしまっている。
「口、取れているぞ」
必要な撮影はほとんど終えたが、最後にまだメディア向けプレリリース用の撮影が少し残っていた。
小道具が用意された机からリップスティックを見つけだし、リップブラシに少し取って、一騎を呼ぶ。一騎はおとなしく目をつむると、ほんの少し上を向いてわずかに口を開いた。隙間からちらりと覗く濡れた舌に、指先をねぶった熱い感触がよみがえる。
「ん~……」
リップブラシの感触がこそばゆいのか、一騎はむずむずと顔をしかめてくちびるを震わせた。いいぞ、と声をかけてやると、塗りなおしたばかりだというのにさっそく舌で表面をなぞっている。
「こら、舐めるな。落ちるだろう」
「……まずい」
言っても聞かない子どものように、しかしどうしようもなくなまめかしい仕草で、つやめくくちびるを濡れた舌でなめる顔。思わず今度はカメラモードに戻し、シャッターを切っていた。
ああ。そうか。
こうして一騎を撮るたび、その衝動にかられるたびにずっと感じていた感覚の名前に、やっと気がつく。
これは優越感だ。
こんな一騎の、無防備な、飾りけのない、それでいて年相応の男のあでやかさを持ちあわせた顔を見られるのは、僕だけだ。
たとえ同じ現場にいても、総士以外のスタッフや共演者には絶対に見せない顔。
まして、光の海からステージを見上げてくれるファンには垣間見ることもできない表情。
――ファンからの好意と応援で成り立つ職業にありながらこんな身勝手な衝動を抱いているだなんて、あまりほめられたことではないと理解はしている。表に出してはいけないことも、衝動のままに動くべきではないことも。
それでも優越感をそっと隠し持っていることくらいは、許されるだろうか。
これまでに撮った写真は、お互い見せ合わないことにした。写真集が出版されるまで、どんな写真を撮られたのかはわからない。実際に載せる写真の取捨も、出版社の編集担当と撮影をした者でやることになっている。どんな写真が魅力的かは自分自身よりも相手のほうがよくよく知っているから、だそうだ。それはともかく、お互いが撮って選んだものならばNGもない。
路上広告に使う個人写真の撮影を待つあいだ、時間が余ったのでブログの更新を済ませてしまうことにする。あのリップを纏った一騎がよそゆきの顔で撮られているさまを横目に見ながら、メールの作成フォームを開く。
CMの衣装はまだ解禁前だが、化粧品の着用画像自体はオーケーだというので、なんとなく気が向いて机に転がっていた一騎のリップを手に取った。一騎の肌の色にあわせた色味だ。一騎よりも青みの強い総士の肌にはあまり似合わないかもしれない。それでも、そういう気分だった。
『今日は朝からとある映像の撮影をしている。今までにはなかった初体験のコンセプトで、新鮮な気持ちになった。一騎と二人での演技もとてもおもしろい。詳細は近いうちにお知らせできると思う。楽しみにしていてくれ。
もうひとつ。これもまだ解禁前の情報だが、実は今、写真を撮る側としてある企画を進めている。誰かをフレームに収めようと思ったとき、その横顔を切り取りたくなったとき。どんな瞬間、どんな表情に惹かれ、心を動かされてシャッターを切るのか……被写体と向き合うとともに、あらためて自分の内面とも向き合うような体験だ。』
添付した画像に映る総士は、見慣れない赤いくちびるをしている。
カメラを構えてこちらをみつめていた一騎。総士もあんなふうな顔で、しぐさで、一騎を撮っているのだろうか。
あんな、いかにも「夢中です」とからだ全体で表しているような表情で。
――想像してみると、それはなかなかに悪くない気分だった。
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