五年ぶりに向かいあった総士は、闇のようにのっぺりとした喪服姿だった。
「……一騎」
 総士の父の葬儀だった。
 ごったがえす受付を避け、史彦に連れられて向かった控室に、総士はいた。
 来てくれたのか。ありがとう。
 見知らぬ雰囲気に居心地が悪く落ち着かないままの一騎を迎え入れ、総士はほんの少し目を見開いて、わずかにほほえんだ。なんと言えばいいのかもわからず、ただ首を振ってうつむく。
 総士は泣いてはいなかった。よく通る静かな声で、目を腫らした様子もなく、ぴんと背筋を伸ばしている。中学の制服を着た自分とは違って、きちんとした喪服に身を包んだ総士はずいぶん遠く、おとなびて見える。
 ただ、おそろしげな黒一色の中で、真っ白な顔だけがうそのように浮いていた。
「真壁さんも、いろいろとほんとうにありがとうございました」
「いや……」
 きっちりと腰を折って頭を下げた総士に、同じくなにも言えない様子の史彦が言葉少なに首を振る。
 控室は静かだった。皆城の家に親類はいない。総士の父――皆城公蔵が代表を務めていた会社の関係者が数人いるだけで、こぢんまりとした和室もたいして使われた様子はなかった。
 史彦は、元々友人だった公蔵と、共同で芸能関係の事業をやっていたらしい。だから一騎と総士も、ものごころがつくより幼いころからの友人だった。
 一騎と総士は、電車も走っていないちいさなちいさな島の出身だ。ふたりの父親たちは事業に忙しく都会と島を行き来するような生活で、両家とも母を早くに亡くしていたから、ふたつの父子家庭は自然とお互い寄り添うように生活をするようになっていた。
 総士は幼いころから、父親の会社で演技の仕事をしていた。いわゆる子役タレントというものだ。俳優だった両親に似て、総士にも演技の才能があったらしい。そこそこ売れっ子だったようで総士も仕事で島を出ることは多かったが、それでもふたりはひとまとまりの子犬のきょうだいのように、お互いの存在をもっとも心のそばに置いていた。――九歳の、あの夏までは。
 中学へ上がるころ、皆城の会社が都会へ本格的な事業所を設けた。史彦も一騎を連れて上京した。もう二年も前になる。同じころ、総士も妹とともに父の住む都会の家へ引っ越したようだったが、そのころには総士とはもう疎遠になっていて、島を出てからまともに会話を交わしたことすらない。ときおり史彦の用事で会社に寄って、同じくたまたま来ていた総士のことを遠目に見かけたくらいか。
 久しぶりにまともに向かい合った総士は、記憶に残るその輪郭よりも、ひどく大人っぽくなっていた。五年近くもまともに会っていなかったのだ、一騎だって背が伸びたし、声変わりもした。それでもあどけなかったまろい声が低く落ち着いて、からだどころか、立ち居振る舞いまで印象が変わってしまった総士は、まるで見知らぬ人のようだった。
 ただひとつ変わらない、その、左目の傷を除いて。
 総士と史彦はそのまま、一騎のわからない内容で話し込みはじめた。横目に伺いながら、なるべく息を殺すようにしてその場を離れる。
 史彦は、総士のことを昔からよく知っている。公蔵だけが都会へ出ているあいだは総士をうちへ預かるのがいつものことで、三人で家族のように暮らした時間も長い。だから父親を失くした総士を気にかけるのはあたりまえのことだ。
 しかしふたりがいま交わしているのは、家のことでも、学校のことでもなく、会社のこれからのことのようだった。史彦の仕事にはほとんど関わったことがないから、なにやら芸能関係の仕事をしているらしい、ということしか一騎は知らない。あの様子だと、総士はどうやらかなり深く会社のことに関わっているらしい。どおりで、ごくごくたまに、何か月かに一度事務所に寄っただけでも総士を見ることが多かったわけだ。
 まだ義務教育すら終えていない総士がなぜ、そんな立場にいるのか、一騎にはわからない。なにも知らないからだ。けれど、喪服のまま、親族の控室で、仕事の話をするふたりを見てもやもやと胸に絡んだ感情だけはわかる。
 どうしてまだ一騎と同い歳の総士が、家族を亡くしたばかりの総士が、そんなことを考えなければならないんだろう。
 どうしてもいましなければならない話なのかもしれない。そのことを、ふたりとも承知の上なのかもしれない。しかしこんなときに、こんなところで、ただ気遣う以外の言葉をかけなければならない史彦も、淡々とそれに応じる総士のことも、これ以上は見ていたくなかった。
 それなりの規模の会社を経営していただけあって、葬儀場は弔問客であふれている。学生服の自分がひどく場違いに思えて、なるべく誰のことも視界にいれないまま足早に外へ出た。
 陰鬱な空気で澱んだ屋内とはうらはらに、五月も半ばの空はまぶしいほど晴れだ。強烈な日差しが目を焼いて、ふだんと違って一番上まできっちり留めた詰襟の下の肌があっという間に汗ばむ。かといって、あの控室にいるのも嫌だった。
 公蔵とも、いままでまともに話した覚えはない。史彦が単身都会へ出るときも、預けられた皆城家で一騎と総士の面倒を見てくれていたのは通いのお手伝いさんだった。今日の葬儀も、一緒に来いと史彦に言われて来たにすぎない。
 昔とは違う大人の顔で、こんな自分に「ありがとう」とほほえんだ総士が脳裏から離れない。
 息が苦しかった。詰襟のホックを外して、上着を乱暴に脱ぐ。シャツのボタンもいくつか開けて腕まくりをすると、ほんの少し気分の悪さが和らいだ。
 葬儀場の脇に細い道を見つけて、なんとなく、脚を進めた。蔦の絡んだフェンスと赤茶けたレンガの小道をたどると、ちょうど葬儀場の裏手に出たようだ。ちょっとした裏庭のようになっているらしい。植えられた木々の青々とした枝が空に広がって、ほんの少し涼しい。ほっと息を吐く。
 片隅にひっそりと流れる石造りのささやかな池のそばには、中を覗き込むちいさな人影があった。長くきれいに伸ばした黒髪と、真っ黒なワンピース姿。
「……乙姫?」
「一騎」
 思わず呟いた声に、少女が振り返る。
 皆城乙姫。総士の妹だ。生まれつき身体が悪かったそうで、ずっと都会の病院に入院していたから、一騎も知り合ったのはこちらに来てからだ。
 皆城家を避けてきた一騎が乙姫に会うのも、やはり数か月に一度程度、事務所でたまたま鉢合わせたときくらいだった。しかし彼女の持ち前の人懐っこさからか、それとも、故郷の島での自分たちを知らない気安さからか、一騎にとってはなぜか不思議と落ち着いて話ができる相手だ。
 乙姫はやわらかくほほえんで池のふちにそっと腰を下ろし、「おいでよ、おさかながいるの」と一騎を呼んだ。
「来てくれてありがとう」
「……そんな」
 ついさっきも聞いたばかりの言葉に、踏み出した脚がぎくりと固まった。なにも言えずに首を振る。じっと一騎の目を見てほほえんだ顔は、総士とよく似ている。
「総士もほっとしてる」
 そんなのは嘘だと叫び出したいのか。ほんの少し期待をしてしまったのか。自分の胸に湧いた感情を直視しないようにして、注意深く見て見ぬふりをして一騎はくちびるを強く噛んだ。返事はしないまま、乙姫のとなりに腰かける。
「これから、大変になるな」
 父も母も亡くして、ふたりにとってはお互いだけがたったひとりの家族になる。とつぜん訪れた家族の死は、まだ中学生でしかない兄妹にはずいぶん酷すぎる。
 総士と同じに、乙姫も泣いてはいなかった。まだちいさい女の子だ。父親の死に泣いてわめいたって当然なのに、甘い声でほほえんで、一騎に感謝の言葉などかけている。かけられてしまう。
 せめて総士とふたりでいるときだけは、彼らはまっとうに悲しみをわかちあえているのだろうか。
「うん。でも大丈夫だよ」
 乙姫があかるい声でささやく。
 なんとか声をかけてやりたいのに、これでは一騎のほうが慰められているようだ。
「史彦も、会社のみんなもいるし。一騎も、総士のそばにいてくれるでしょう」
「えっ……」
 うろたえて見下ろした乙姫は、戸惑う一騎を気にもしていない様子で、にこっとかわいらしく笑った。思わぬことを言われて、心臓がどきどきと早くなる。口の中がからからだ。どう答えればいいのかわからずに、何度かかさつくくちびるをなめた。
「……総士が、そう言うなら」
 やっとのことでふりしぼった声は、情けなくかすれて乾燥していた。
 総士がそれを望んでくれることを期待してしまう心は、一騎にとってまちがいなく糾弾されるべき浅ましさだ。
 しかし、もし、ほんとうに総士がそばにいろと命じることがあるのだとしたら――一騎にもまだ、総士のためにできることがあるのだとしたら。そんないやしい感情を抱きながら総士のとなりにいる咎に果たして自分が耐えられるのか、一騎にはわからなかった。





 真壁一騎にとって、歌をうたうことは息をすることに等しかった。

 母――真壁紅音は、歌をうたうことを生業にしていたらしい。物心つく前に亡くなった母のことは、家に残されていた写真や音源でしか知らない。史彦もあまり母のことは詳しく教えてはくれなかったが、遺された母の歌だけはすべて一騎に与えてくれた。テープやCDから流れる母の声を子守唄代わりに、一騎は育った。
 そうして自然と歌うことを生活の一部に育った一騎の歌を、いちばんそばで聴いていてくれたのが、総士だった。
 音楽の授業と母の歌以外にたいした素養もない一騎のなんの変哲もない歌を、総士はなぜかいたく気に入って、なにげなく一騎が歌うたびにすごいすごいと、好きだと何度もほめてくれた。
 ――でも、そういう総士は、あんまり歌うのが得意じゃなかったっけ。
 いったいどうしたらそんなふうに歌えるのかと、総士に聞かれたことがある。
 総士と過ごした日々のことを、一騎はもうあまり鮮明には思い描けない。ふとした拍子に脳裏によぎる笑顔やあどけない声を、思い出さないように何度も何度も奥深くへ押し込めているうちに、どこへやったのかわからなくなってうまく取り出せなくなってしまった。
 それでも、総士にそれを聞かれた日のことは、一騎の中にまだ色濃く残っている。



 そのころ、都会の病院に入院していた乙姫の持病が悪化して、公蔵は長く家を空けていた。九歳だった総士は夏休みのあいだひとり島に残されて、両手では足りないほどの日々を真壁家で一緒に過ごしていた。妹のことを心配そうにはしていたものの、少しずつ増えはじめていた子役の仕事も父親の事情でいったんすべて休業したようで、ある意味で休暇のように、ごくふつうの子どもとして過ごせる日々を、どこかよろこんでもいるようだった。
 その日、一騎は作り方を覚えたばかりのカレーを総士に食べさせてやるのだと、史彦に作ってもらった台の上に立って、台所ではりきって食材を切っていた。やっと家で、ひとりで火を使うことを許してもらえるようになったばかりだった。
 史彦は居間で新聞かなにかを読んでいて、総士は一騎のおぼつかない包丁さばきをとなりではらはらと眺めていた。ほんとうは慣れない包丁を動かすたびにどきどきしていたくせに、心配性な幼なじみにすごいと言ってもらいたくて、これくらい簡単だと見栄を張りたくて、余裕なふりをして一騎はいつものように歌をうたいはじめた。
 そんな一騎の歌に、総士は下げていた眉尻を戻し、まじまじとこちらをみつめて、心底ふしぎそうに聞いたのだ。「いったいどうやったら、そんなふうに歌えるんだ」と。
「どうって……、わかんない。やりたいようにしてるだけだ」
「やりたいように?」
「こうしたら楽しいとか、気持ちいいとか。思うようにしてるだけ」
「たのしい?」
 総士はぽかんとして、まるではじめて聞いた言葉のように、おうむ返しにくり返した。
「総士もお芝居するだろ? それと一緒」
「……一緒じゃないよ」
 困ったような声でつぶやいて、総士はくちびるを噛んだ。
 島にいたころ、総士の出るドラマや映画を一騎はすべて楽しみに見ていた。いまとなっては具体的なことはもうはっきり思い出せないが、テレビの中の総士は、いつだってまるで総士ではないようで、総士ではない誰かとして、いきいきとその役を演じていた。
 一騎にとって、歌うことは息をするようなものだ。歌がなければ息苦しくなる。しかし歌うことそれ自体は、楽しくはあってもけして特別なことではない。息をするたびにいちいち感動したりはしないように。
 それでもうまく歌えたとき、思ったとおりの音が出たとき、一騎は楽しい。自分のからだから出る音が、ほんの少しのきれはしまで、あまさず自分の思うとおりになることが気持ちよいのだ。
 そしてなにより、総士がすごいとほめて笑ってくれることがうれしくてたまらなかった。
 総士もきっと、それと同じだとばかり思っていたのに。あんなふうにすごいことができるのに、なぜ楽しいと思わないのかと、ふしぎで仕方がなかった。
「総士もやってみればいいじゃん」
「僕が? ……歌を?」
「うん」
 首をかしげたままの総士に、一騎は包丁を置いて、また歌をうたった。いつか総士が好きだと言った、母の歌だ。
 ワンフレーズ歌い終えて、総士を伺うように見下ろして口をつぐむ。そのまま総士が根気負けするまで待った。総士は、一騎よりも誕生日は後のくせにおにいさんぶることが多いが、一騎がねばり強くねだれば、実はたいていのことはなんでも聞いてくれる。
 そのときも総士は困ったように眉を下げて、それでもためらいがちにくちびるをひらいて、そのつづきを歌ってくれた。
 おずおずと歌い出した総士の声にあわせてコーラスを重ねると、大きな目がおどろいたように丸くなって、白いほおがぱあっと染まる。広がる和音に、ぎこちなく固まっていた声がしなやかにのびてゆく。楽しい。
「……楽しい」
 総士が思わずといった様子でつぶやいた言葉に、心が躍った。
 正直に言って、総士はけして歌がうまくはなかった。単純なメロディでも音をはずしがちだったし、大きな跳躍がある部分はいまにもひっくりかえってしまいそうだ。それでも、総士のまっすぐで透明な声は、それまで一騎が聴いたことのあるどんな歌よりも――そう、大好きだった母の歌よりも――うつくしかった。
  一騎にとって、歌うことは息をするようなものだ。かしこまって行うことでも、出し惜しみするものでもない。気が付くと歌っていて、それは簡単に消費されてしまう。
 けれど、総士が目を輝かせて耳をすませてくれるから――総士と声を重ねると、うたうことは特別なことになった。総士がいないそのときにも、総士のことを思えば、一騎の歌はきっといつも楽しみとともにあると、そう思わせてくれる響きだった。
 無邪気にほおを赤く染めてやわらかくほほえんだ総士も、同じ気持ちでいてくれるのだと思っていた。





 ある日、都会に出ていた公蔵から連絡があった。
 そのときふたりは二階の一騎の自室で、夏休みの宿題をやっていた。たしか国語のドリルだったか漢字の書き取りだったか。一騎は飽きっぽいところがあって、興味のない学校の勉強、とりわけ書き取りのような単純なものはいつも早々にやる気をなくして総士に注意をされてばかりだった。
 公蔵が寄こしたのは、乙姫の容態が安定して、そろそろやっと「ふつう」の生活に戻れそうだという電話だった。
 総士にはさっそく次の仕事の予定が入っていて、一度島へ帰ってくる父親と一緒に、またすぐに都会に出なければならなかった。
 またお仕事がはじまるんだって、と総士はまるで他人事のように言った。
 今度の総士の仕事は、はたしてドラマだったか映画だったか、詳しいことはもう忘れたが、とにかく撮影が長くなるらしかった。スケジュールの合間に何度か島へ帰ってくることはできるだろうが、それでも数か月から半年近く撮影にかかりきりになる。
「そのうち、あっちへ引っ越したほうがいいかもしれないって、父さんが言ってた」
 総士が呟いた実感のこもらない言葉は、一騎にとってとてもおそろしいものだった。
「やだ!」
「一騎……」
「総士が引っ越すなんていやだ!」
 いまでさえ、日常のあいまに訪れる総士が撮影でいない日々は空虚でさびしくてたまらないのに、このうえ総士がここからずっといなくなってしまうかもしれないという危惧は、一騎をひどく動揺させた。妙にぼんやりと淡々とした当の総士よりも一騎のほうが、よほどとつぜんの知らせを告げられたようだった。
 だから、あんなふうに浅はかで愚かなことを言ってしまったのだ。
 いやだいやだとわめく一騎に、総士は困りきった様子で眉を下げた。
「僕もいやだけど……」
「なんで引っ越してまでお芝居しなきゃだめなんだ? 総士はお芝居楽しくないんだろ?」
 一騎はまだ子どもで、総士がどんな思いで芝居をはじめたのかも、芝居を続けているかも、知らなかった。そんなことよりも、ただそのとき自分のそばに大切な総士がいてくれることが、なにより重要だった。だからその未熟な感情を、そのまま総士にぶつけてしまった。
「楽しくないお芝居なんかやめちゃえばいいんだ!」
 総士は、一騎の考えなしでむきだしの言葉に、はっと息をのんだ。
「総士が、ずっとうちにいればいいのに……」
「……そうか」
「総士?」
「お仕事なんかできなくなれば、一騎と一緒にいられるんだ」
 そのときいったいなにが起こったのか、実のところ、一騎はいまでもよく思い出せない。
 ただ、机の上のペン立てに無造作に突っ込んでいたはずのカッターナイフを、いつの間にか総士が握っていた。
「……総士?」
 総士がそのとき、なぜそんなものを手に取っていたのかはわからない。長くくり出された刃が危ないな、と思ったことだけ覚えている。総士は意外とぶきようで、包丁を使うのもあぶなっかしかった。怪我でもしたら大変だ。
 刃先をみずからの顔に向けた総士にやっとからだが動いて、あわててその腕を止めようと揉みあっているうちに、うすっぺらい刃は総士の左目を深くえぐっていた。そこから真っ赤な血と、苦痛にうめく絶叫があふれた。
 一騎はぼうぜんとしていた。すぐ階下にいた史彦に助けを呼ぶことも、総士の苦痛をやわらげようと手当てをすることもしなかった。ただ幼なじみが痛みに泣き叫ぶ聞いたこともない声と、みずからの右手にべったりと飛んだ血がおそろしく、言葉にならない声でうめき、後ずさりをすることしかできなかった。
 総士からとりあげた刃が、そのやわらかな肉を切り裂いた鈍い感触だけ、きつく握りしめた右手から離れなかった。





 騒ぎを聞きつけてふたりのもとへやってきた史彦が急いで総士を島で唯一の医院へ運んだが、総士は左目の視力を失った。怪我をした経緯も理由も総士はかたくなに誰にも話さず、ただ「自分の不注意だった」と言い張った。
 総士はそれきり芝居の仕事をやめた。理由を話しているところを聴いたことはないが、深く残った左目の傷と、視力の障害のせいに違いなかった。
 一騎は、誰にも、ほんとうのことを言えなかった。
 一騎のせいなのだ。
 総士が左目の視力を失ったのも、そのせいで芝居をやめたのも。
 あのとき、総士がいなくなるのはいやだと、一騎があんなわがままを言ったからだ。どんなに後悔してももう遅い。
 総士が「自分でやった」と言い張るので、表立って一騎を詰問したり責め立てる人はいなかった。その場を見たはずの史彦も。公蔵でさえ。
 なぜ総士が一騎を糾弾しないのか、わからなかった。わからないから今度は怖くなった。あんなに心の底まで通じ合っていると思っていたはずの総士のことが、わからなくて、おそろしくてたまらなかった。
 総士を傷つけた、自分のことも。
 総士からなにもかもを奪っておいて、そのくせ平気で歌なんかをうたうことができる。なによりも大切だった人を傷つけて、そんなやつがまだ歌えることが信じられなかった。
 結局、自分は、そういう人間なのだ。
 無意識にメロディを口ずさんでしまうたび、消えてなくなりたい気持ちになった。
 そのうちに、歌うことを楽しいと思えなくなったことに気が付いたときだけは、ほんの少し、安心した。





 学校帰りに事務所に寄るようにと史彦に言われたのは、公蔵の葬儀からひと月ほどが経った、七月上旬のことだった。
 公蔵に代わって、いまは史彦が会社の代表のようなことをしているらしい。最近は、以前にくらべて毎日帰りが遅い。夕食も待たなくていいから先に食べていろと連絡が入ることが増えた。
 総士の父は、事務所の看板俳優でもあったそうだ。詳しいことは聞かなかったが、そんな俳優が亡くなって、いろいろと苦労をしているようだった。まだ義務教育中の総士も事務所を手伝っていると聞いた。
 ――そう、総士がいるのだ。
 心臓の裏がひやりとするようだった。一騎が事務所へ顔を出すころには、総士はとっくにやって来ているだろう。呼びつけた史彦とすぐに話ができればいいが、もしなにか取り込み中で、総士と同じ空間でしばらく待つことにでもなってしまったら。
 息の仕方がわからなくなるかもしれない、と、なかば真剣に思う。
 それでもわざわざ事務所に呼ばれたということは、史彦はなにか一騎に事務所の仕事を手伝わせるつもりなのだろう。自分を養っている父親の仕事だ。ほんとうに、一騎の手も必要なくらい困っているのなら、子どもにもできる事務を手伝うくらいはしたかった。
 それに。
 ――「一騎も、総士のそばにいてくれるでしょう」。
 あの事務所は、会社は、総士の父が作ったものだ。だからきっと、総士はまだ子どもの身で、積極的に関わろうとするのだろう。
 父親が残したものを、大切だと思っているから。
 いまさらこんなことで、罪をあがなえるなんて思わない。
 それでも総士が大切なものを守ることを、一騎にも手伝えるのなら。
 今度こそ、自分の子どもっぽいわがままで総士を傷つけることはしたくはなかった。
 翌日の放課後、事務所に顔を出してすぐに、身構えていた予想と違って一騎は奥の会議室へと通された。
 総士の姿は見当たらなかった。
 拍子抜けすると同時にどこかほっとしている自分をさまざまと目の当たりにして、つくづく嫌になる。胃の奥が重くなった。今日はもう、夕飯を作るのはさぼってさっさと寝てしまおうか。どうせ史彦は今日も遅くなるのだ。先に言っておけば、食事も外で済ませてくるだろう。
 硬い革のソファに浅く腰かけて淹れてもらったお茶を居心地悪くすすっているうちに、会議室の扉が開いて、やっと史彦がやってきた。後ろに続いているのは溝口だ。史彦の友人で、一騎も何度か面倒を見てもらったことがある。ここで働いていたのか、と少し意外に思った。
 てっきり芸能関係など興味がなさそうだった溝口の意外な仕事先をおもしろく思ったのもつかの間で、長身のふたりに続いた人影に、一騎の心臓はどきりと大きな音を立てて跳ねた。総士だった。
「待たせたな。すまない」
 家とはどこか違う口調で、ソファセットの向かいに史彦が腰かける。革がぎちりといやな音で軋んだ。総士はそのとなりに音も立てずに姿勢よく収まり、溝口は少し下がったところに立ったままだ。
「……べつに」
 目の前の父親を見ると必然的に総士も視界に入ってしまうので、どうすることもできずうつむいたまま湯呑の中で揺れる水面を見る。なにを言えばいいのかもわからず喉が渇いて、もう一口飲んだ。
「もうわかっているとは思うが、お前に頼みがあってここへ呼んだ」
「なにか……手伝えばいいんだろ。会社が大変なのはわかってる。俺にできることならやるよ」
 さっさと話を済ませてここから出て行きたくて、ものわかりのいいことを言う。ちらりと目だけで見上げた史彦は、難しそうな顔をして眉間にしわを寄せている。
「お前が想像していることとは違うだろうが……」
 ソファの向こうでおもしろそうにニヤニヤしながらこちらを見ている溝口が気になる。総士の顔は見られない。どんな顔をして一騎を見ているのか、確認するのが怖い。
 そういえば溝口と総士はなんのためにここにいるんだ、と口を開こうとしたとき、「それで、本題だが」と史彦が佇まいを正した。
「総士くんとお前を、アイドルとしてふたりでデビューさせようと思っている」
 言われた言葉の意味がよくわからなかった。
「……え?」
 思わず出た疑問符は、どちらかというと「あいどるとしてでびゅーする」という音の羅列の意味がわからなくてつい音になったものだった。しかし総士はそれを理由の説明を求められていると理解したらしい。公蔵が抜けた事業の穴が想像以上に大きかったこと、新たに事務所の代表となる存在が必要であること、そして、かつて人気を博した歌手と俳優である「真壁紅音と皆城鞘の息子」という話題性が自分たちふたりにはある、それに賭けたい――といったことを簡単に説明し、内心の読めない顔で一騎を見た。
「一騎。僕と一緒に、この事務所を守ってほしい」
 アイドル。デビュー。事務所を守る。
 あまりになじみのない単語に、しばらく処理速度が追い付かずフリーズしていた脳がやっと動き出して、自分が目の前の三人にいったいなにを乞われているのか理解する。
「む……無理だよそんなの! できるわけない!」
 総士に対するうしろめたさよりもいっとき混乱のほうが勝って、総士を縋るようにみつめながら、悲鳴のような声が漏れた。
「お前の歌なら通用すると、僕たちは考えている」
「そんな……」
 歌なんて、もう何年も歌っていないのだ。だいいち一騎の取るに足らない歌にそんな力があるとは思えない。「親のネームバリュー」だなんていずれは尽きる話題性だけで生き残っていけるほど、芸能の世界が甘くないことくらい、一騎よりも総士のほうがよっぽどよく解っているはずだ。
「僕一人では、無理なんだ」
 能面のような無表情で、なにを考えているのかわからなかった総士が、はじめて苦しげな声でつぶやいた。うつむいてさらりと流れた前髪の隙間から、あの左目の傷が覗く。
 俺のせいだ。
 心臓が痛いほど脈打って、腹の奥がすうっと冷えた。重厚なソファに腰かけているはずなのに、足元からがらがらと崩れ落ちてしまいそうだ。咄嗟に総士の顔から目をそらして、動悸のおさまらない胸をなだめる。
 一騎が総士の目を奪ったからだ。そうでなければ、きっと、総士は一騎など選ばずに済んだ。他の誰だってよかったのだ。一騎でさえなければ。
 いや、あるいは、総士の目が光をとらえていれば――アイドルなど目指さなくても、総士はきっといまも演技の世界で輝いていられたはずだ。
 つまりこれは、一騎に科せられた罰なのだろう。
「ほんとうに……俺にできるのか」
「僕を、信じろ」
 一騎をじっとみつめる、その傷が刻まれた顔と、ゆっくりと目をあわせる。
 ならば一騎はせめて、総士の目になろう。この手で奪った左目の代わりに。
 そしていつか役目を終えたとき、誰も自分のことを知らないどこかを見つけて、消えてゆければいいのだ。
 
 
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