夢を見ていた気がする。自分が空気のひとつぶひとつぶに溶けていくような。どこにでもいけて、どこにもいないような。ひとり山の木の枯葉が風で落ちたことと、裏のおじさんがくしゃみをしたことが同時にわかるような。
 ふしぎな感覚に身をゆだねていると、大切な存在が動いたことに気づいた。もうこんな時間なのに、家を出て、ひとりでどこへ行くのか。外は気温が低いから、なにか上着を羽織るのがいいかもしれない。知っている。こういうとき、彼はいつも、父の目を盗んで自分に会いに来てくれる。
 うれしくて、彼のほうへしっかりと意識を向けた。大気中に拡散していた自分が集まって、かたちどられていく。目を開けた先では、新聞とはさみを持った彼が庭に出て、背の高い花と格闘している。今日はあのかわいい花を切って持ってきてくれるらしい。薄暗くて、どんな色をしているのかはわからない。だけど、たしか、あれは彼の、総士の目と同じ―――。
 そこで目が覚めた。
 なにか夢を見ていた気がする。枯葉と。うれしさと。誰か大切な人が花を抱えて笑っていた。寝ぼけた頭から夢のしっぽはするりと逃げていって、ぼんやりとしたイメージだけが断片的に頭に浮かぶ。花屋の夢でも見ていたんだろうか。なんにせよ、いい夢だった。たぶん。
 もういちど眠りのふちに落ちようとしていた頭のなかに、とつぜん、ふと「炊飯器」という言葉がぽつんと浮かんだ。
 そうだ。炊飯器。セットしてない。冷凍していたぶんも、もうなかった気がする。予約しておかないと、明日の朝の米がない。
 そこまで連なるように思考が追いついて、そうすると、もう眠気がさっと覚めてしまった。ほとんど覚醒した意識で、それでも悪あがきのように心地よく身体を横たえる感覚にひたって、起きたくないとばかりに何度か寝がえりを打つ。一日くらい米が炊けてなくてもいいんじゃないか。人間は米を食わなくても生きていける。でもうちにはパンもないし。米が炊けていなければ弁当も作れない。それはがまんするにしても、俺が学校行ってるあいだ、父さん、ほっとくと何も食べないかも。結局、三度目を数えたあとで、勢いよくがばりと身体を起こした。いやなことはさっさと済ませるしかない。
 時計は二十二時まわったところを指している。静まり返った家の中に、ふすまを開ける音がやけに響いた。居間の電気も落とされている。誰かと飲んでいるでもない限り父も夜は早いから、もう寝ているだろう。
「……さむ」
 九月の半ばを過ぎてすこしずつ秋らしくなってきた気温は、半袖からむきだしになった腕に肌寒い。はやく済ませて布団に戻ろう。
 台所のシンクの小さい蛍光灯だけをつけて、米びつを開ける。五合、出した。水道をひねって、無心で研ぐ。水が勢いよく出るさーっという音と、米を研ぐじょきじょきした雑音が耳にうるさい。水が冷たい。研ぎ汁が白濁する。変えても変えても、なかなか澄んでくれない。
 薄暗い、虫の声だけが聞こえる中で、なにも考えずにじょきじょきやっていると、いやな考えばかりが、夜の寒気と一緒にはだしの足元から這い上がってくる。意識して目をそらそうとしても、気がつけばまたそれに囚われている。なにも考えなくて済むのがよくない。
 あと一年だ。
 きょう、一騎は十四になった。
 学校では、二学期からそろそろ本格的に進路指導がはじまる、と先生が言っていた。
 あと一年、と言い聞かせる。中三の一年をやり過ごして、卒業して。そのあとは。そのあとのことは。
 一騎の成績では、島外への進学は難しいのかもしれない。それなら働いたっていい。幸い体力にだけは恵まれているから、何かしら仕事は見つかるだろう。
 あと一年経って、島を出たって、なにも変わらないことくらい、知っている。それでも、あと二年、あと一年、と心の中でつぶやくことが、この数年で多くなった。どうしてもやめられなかった。
 逃げたいわけじゃない。島を出たって、逃げられるわけがない。逃げたいとか、許されたいとか、もう、そんなことは望んでいない。ただ、誰も一騎のことを知らない場所へ。誰も―――総士が、一騎を見ないところへ。そこで小さく埋もれて、こんな自分など、いなくなってしまえばいい。
 誰にとっても、きっと、それがいちばんいい。
 どれくらい研いでいたのか、気がつけば糠で濁った水はすっかり澄んでいた。
 炊飯器の予約を明日の朝にセットして、ふう、とため息をつく。手足は冷えているのに、じっとりと汗がにじんでいる。妙に息苦しかった。
 ちょっと海まで、走ってこようか。とにかく頭を真っ白にしたかった。布団に戻っても、このままでは眠れない気がした。あたたかい布団に戻って目をつぶっても、きっとまたいろいろなことが思い浮かぶ。うまくことばにならない、ぐちゃぐちゃの気持ちが喉元まで迫ってきて、焦燥感に焼き尽くされそうだ。真っ暗な中で耐えながらただ朝を待つのは、いい考えには思えなかった。
 防波堤のあたりまで思いきり走って、戻って水でも浴びれば頭も冷えるかもしれない。時間も時間だから、妙な目で見る人もいないだろう。
 決めてしまうと気がはやって、ぎいぎい鳴る階段をなるべく音を立てないように降りた。工房の明かりをぱちんとつけると、暗闇に慣れた目がくらんでまぶしい。ぱちぱちとまばたきをして、目の奥のにぶい痛みを逃がそうとする。
 そういえば、寝間着のまま降りてきてしまった。いや、どうせ大して汗はかかないから、このままでいいか。水をかぶって、さっさと着替えて寝てしまえばいい。
 やっとまともに呼吸ができるような心地になりながら、引き戸を開ける。
 開けた先に思いがけずあった、石階段にたたずむ、引き戸の隙間から漏れた明かりに照らされた人の亜麻色に、息が止まった。
「そ、……」
 反射的に声が出て、くちびるがふるえた。
 落ち着きかけていた心臓が、突然痛いほど、どくどくと走り出す。こわばった手から、つま先から血の気が引く。
 総士がいた。
 これは夢なんじゃないか、と、一瞬、本気で考えた。米を研ぎに起きたのも夢で、海まで走りに出ようと思ったのも夢。だからここにいる総士も夢。そんなわけない。
 総士は昼に学校で見たのと同じ私服姿で、ぼんやりと海の方をみつめていた。深夜と言うほどの時間ではないし、小さい島内だ、なにか用事があってここを通ることもあるだろう。しかし、店もとっくに閉まったようなこの時間に、総士の家から離れたこんなところに、どうして。何してるんだ。言葉にならない疑問がつぎつぎと点滅して消えていく。なにひとつ口に出せず、総士、と名前を呼ぶことすらできずに、もごもごと口ごもる。
「一騎……」
 総士のほうも、とつぜん一騎が出てきたことに、純粋に驚いているようだった。
 この数年で、いつのまにかおとなびた、涼しげな印象に変わっていた目が、まぶしそうに眇められたあと、伸びた前髪の下で大きく開かれる。
 傷が。
 思わずわけのわからないことを叫び出しそうになって、とっさにうつむいた。見えてしまった。総士の左目が、その傷が歪むさまが、はっきりと目に焼き付いている。
「出かけるのか」
「……え?」
「こんな時間に」
「え、あ、いや……」
 ふしぎそうな声で、総士が聞いた。なんと答えたらいいかわからず、うろたえてしまう。
 すなおに、走りに行こうとしていた、と言ったら。総士はどう思うだろう。へんなやつだと思うだろうか。へんなやつだと、思われるだけならまだいい。もし、もし、総士の行き先が海の方で、一緒に歩くことになってしまったら。喉がからからに乾いている。
 総士が俺を見ている。一騎が答えるのを、じっと待っている。聞かれたことに答えなければ。総士が納得する答えを返さなければ、ずっとこうしてふたりで立ち尽くしたままになるような気がした。総士が帰ってくれなかったら。それは―――困る。とても困る。それに今日はとりわけ冷えるから、上着も着ていない総士がこのまま風邪でもひいたら。一騎はまた、胸をかきむしられるような気持ちになるだろう。
「へ……へんに目が覚めたから、ちょっと、外の空気、吸いたくなって」
「そうか。……おまえは夜が早いんだったな」
 うなずいた総士が、ちょっとおかしそうな声でつぶやいた。
 ひとまず納得してもらえたらしいことに、ほ、と安堵で息をついて、つい、口から言葉が漏れた。
「総士は……」
「なんだ?」
 無意識に呼んでいた名前にまじめに反応をされて、びくっと身体が跳ねる。
 そんなつもりで呼んだんじゃない。どういうつもりで呼んだのかもわからない。ただ総士が首をかしげて一騎をじっと見ているから、切り抜けたと思っていたのに、また緊張で身体が固まる。ごくんと唾を飲みこむ。
「ぁ……そ、総士こそ、なんでこんな時間に、うちに……」
 まともに顔が見られないから、うつむいたまま、ちらちらと総士を見上げた。電灯をつけてしまったから、こうしていても総士の顔がよく見える。そうして、見上げなければいけないほど総士の身長が伸びていたことにはじめて気が付いて、追い詰められたような心地になった。うちの柱に総士と競ってつけた身長のしるしは、ほとんど同じか、一騎のほうがほんの少し大きいくらいだったのに。
「……僕も寝つけなくて、散歩をしていた」
「さんぽ……」
「ああ。たまたま通りがかったときにお前が出てくるから、驚いた」
 お前のところへ来たわけではないと、暗に言われたような気がして、頬が燃えるようにあつくなった。うつむいた顔が上げられない。はずかしい。なんでこんな勘違いしたんだ。ちょっと考えれば、総士が一騎に会いに来るはずがないと、わかるだろう。今言ったことをなかったことにしてしまいたい。
 総士がどんな顔をしているのか、ちらりとも確認する勇気が出ない。
 もう、中へ入ってしまおうか。だけどなんて言っていいのかわからない。引き戸を掴んだままの手が汗で滑る。指先が冷たい。
「一騎」
 しゃがみこんで何かを手に取った総士がぶっきらぼうに一騎を呼んで、それを差し出した。うつむいた視界に白い手がまぶしい。
「これ、お前にじゃないか」
「え?」
「玄関先に置いてあった。お前にだろう」
 ぼんやりと温度のない明かりに照らされた、小さいひまわりのような、うす紫色の花びらをした花だった。
「え……なんで俺なんかに……」
「プレゼント」
「プレゼント?」
 差し出されたものの意味がよくわからず、ぼんやりと総士を見上げてしまって、そのしかめた顔がしっかりと目に入った。
 一瞬で汗が噴き出す。心臓がつめたい包丁に突き刺されたように痛む。一騎がいつまでたっても受け取らずにぼうっとしているから、総士はいらだったのかもしれない。そうだ。総士だって早く帰りたいのかも。いつまでもここに居たくないだろう。俺が変に話しかけたりするから。
「誕生日だろう。誰かが置いていったプレゼントじゃないか」
 慌てて手を差し出して、おそるおそる花を受け取った。
「おめでとう」
「あ……」
 何か言わなければ。
 昼間、遠見や甲洋が教室で祝ってくれたときの居心地の悪さを思い出した。一騎なんかの誕生日をああして祝ってくれて、すごくありがたいとたしかに思うのに、肝心の自分は今この場面を総士が見ていないかと、そのことばかりが気になって、上の空でろくに礼も言えなかった。あれを見られていたんだろうか。
「あ……ありがとう」
 喉がひりついて痛い。今すぐ走り出してしまいたい。無理やりに絞り出した声は、かすれきったうえにものすごく小さくて、きちんと総士に届いたのかどうかわからなかった。
 総士のほうをまともに見られないから、仕方なしに受け取った花をまじまじと見る。なんの花だろう。見たことがある気もするけど、名前はわからない。特に興味もないから、一騎にわかるのは、ひまわりとか、チューリップとか、バラとか、せいぜいそのあたりだ。
「シオンだ」
 一騎の内心を察したように、総士がぽつりとつぶやいた。
「……知ってるのか」
「うちの庭にも植わっているから」
「ふうん……」
 そうだったかな、と思い出そうとして、もう総士の家の庭に植わっていた花のかたちも、その色も、ほとんど覚えていないことに気が付く。
 ずっと、総士との思い出も、楽しかったことも、総士がどんなふうに一騎に笑いかけたのかも、思い出さないように奥深くに閉じ込めてきたから、もう、なにも思い出せなくなってしまった。
 身じろいだ総士の足元で、じゃり、と音がして、反射的にはっと顔を上げた。総士は花をみつめる一騎のことをじっと見ていたようだった。見られていた、と気づいて、喉のところがぎゅうっと締まる。今の自分はどんな顔をしていただろう。泣きそうな顔だろうか。怒った顔だろうか。それとも、平気そうな顔をしていたんだろうか。
 いつのまにかずいぶん近くなっていた距離から、数歩下がって、総士がつぶやいた。一騎に話しかけているというよりも、ほとんど独り言のような声色だった。
「もう行く。……遅い時間に引きとめて、悪かった」
「い、いや、俺も……」
「おやすみ」
 階段を降りる総士の姿が、明かりから離れ、暗闇に溶けていく。遠ざかっていく背中に、いまさらのように焦燥感が湧いた。総士と鉢合わせてからずっと、できることなら早く別れてしまいたいと思っていたはずなのに、居心地が悪くてたまらなかったはずなのに、総士の背中が見えなくなるところだけをみつめていると、怖くてたまらなくなる。
 総士は、ちゃんと家へ帰るだろうか。このままどこかへ、いなくなってしまったりはしないだろうか。俺は総士から見えないところへ行かなくちゃいけない。だけど、総士が。総士がどこにもいなくなるのは。そんなのは。
「総士!」
 足元から這い上がってきた恐怖に、思わず時間も忘れて、ここしばらく出したことのないような大声で叫んでいた。
 怪訝そうな顔で振り向いた総士に、また後悔をする。
 呼び止めて、何を言うつもりなんだ。なにを言う資格もないくせに。総士に言える言葉なんて、一騎にはもう、なにひとつ見当たらないのに。
 総士は、足を止めて、一騎が口を開くのを待っている。
「あの……、ありがとう。お、おやすみ」
 結局なにも言えずに、その顔も見られないまま、ただ誤魔化すように言葉を口から出して、目をそらした。
 ああ、とうなずいて手を振った総士が遠ざかっていくのを見つめて、立ちつくす。その背中が見えなくなって、はじかれたように家へ駆けこんだ。もう、走りに行く気には到底なれなかった。靴を脱ぎ棄てて、ぎいぎい軋む階段を駆け上がる。寝ている父のことを気にする余裕はなかった。
 自分がどんな気持ちで、どんな声で総士の名前を呼んでいたのかすら、今の一騎にはわからない。総士と純粋に隣に並び立ち、手を取り合ってどこまでも駆けていけた幸せな時間を、宝物のようにとっておいて、ときおり取り出しては眺めることは、一騎にとって、間違いなく罪だった。今、くり返し一騎の脳裏に再生されるのは、目と耳に焼き付いて離れないのは、自分が総士の目を奪ったあの日の光景だけだ。
 自室のふすまを開けて、やっと花を握ったままだったことに気が付いた。水につけてやらなければ、すぐにだめになってしまうだろう。小さなうす紫色の花は一騎の右手にきつく握りしめられて、もうしおれてしまっている。ふと、この花を「見たことがある」と感じた理由がわかった。花の色だ。この色とよく似たものを知っている。
 総士の目と、同じ色だ。
 気づいた瞬間に、がくがくと膝の力が抜けて座り込んでいた。どうしたいのか、どうされたいのかもわからず、ただ両手で顔を覆う。
 涙は出なかった。眠りのきざしも、とうぶん訪れてはくれないようだった。



 総士