古びた落書き指でなぞった。くりかえし同じ場所ばかりを撫でているせいで、油性ペンで描いた幼い線はすこしずつかすれてきている。とてもちいさな子どもの描いたものだから、ほとんどただの線と点で構成されたような、めちゃくちゃな絵だ。それでも総士にはきちんと見分けがつく。これは花。これは鳥。これは犬。これが自分で、となりにいるのが妹。その反対で笑っているのが―――一騎だ。
 かつて幼い自分が岩戸に描いた落書きを、このごろどうしてか、こうして岩戸に足を運ぶたび、何度も見つめては指でなぞってしまう。すこし奥まったところにあるとは言え、それこそメンテナンスでもすればすぐに目に入る場所だし、筆記用具もただの黒い油性ペンだ。島の心臓ともいえるこの場所に描かれた不届きな落書きがいまだに消されず残っているのは、大人たちか、あるいは父の感傷なのかもしれない。
 感傷を覚えているのは、僕も同じか。
 立ち上がり、正面へと回った。うす赤い血の色に満たされた広い空間は静まりかえって、小さいはずの足音もこつりと反響する。
 いくつか切ってきた花をたばねて、岩戸の近くへそっと置いた。やはりここでは色もわからないな、と苦笑が漏れる。
「庭で咲いたシオンだ」
 背の高い、ちいさなうす紫色の花弁を持つ花だ。
 いつだったか、うんと幼かったころ、うちの庭で遊んでいたときに一騎がこの花を見て、「総士の目の色だ」と言ったことがある。総士には自分の目が、この可憐な花と同じだと言ってもらえるようなものだとはとても思えなかったが、一騎がほめてくれたことは純粋にうれしかった。そう、こんな日に、こうして切り花にするくらいには。
「母さんが好きだったそうだ。お前も気にいるといいんだが」
 そして、いつか晴れた秋の空の下で、ほんとうに僕の目と同じ色をしているのか、お前が確かめてくれる日が来たなら。
 父にすら告げたことのない淡い希望だ。誰にも言うつもりはない。妹にだけ伝わればいい。
 幼いころからずっと、感情が揺さぶられたときには、なにかを求めるように乙姫に会いに来てしまう。
 ここへ来て、なにをするでもない。岩戸に落書きをしてそのまま寝入ってしまった日もあれば、その日一騎と遊んだ内容を言葉や感情で伝えた日もあった。
 そんなふうな、なんでもない、ふつうの兄妹のようなふるまいが、いつも総士の心を落ち着かせてくれた。
 人工子宮で生まれた同級生たちの中には、歳下のきょうだいがいる者も少なくない。彼らから「いもうと」の話を聞くたび、岩戸を出られず、ごくふつう人間としての生も享受できないたったひとりの妹のことを思った。同じ両親から生まれ、同じく運命を定められた、しかし妹とは違って「ふつうの子ども」として生きている自分に、怒りを抱いたこともある。
 しかし、たったひとりでここにいる乙姫のために、総士だけは乙姫を妹として大切にしようと、ごくふつうの兄として振舞おうと決めたのだ。
 「女の子はきっと花が好きだから」と、乙姫に花言葉の本を読み聞かせたこともあったな。今となっては子どもっぽい気遣いに、我ながら笑ってしまう。おかげで、総士もやたらと花言葉に詳しくなってしまった。
 あれはいつのころだったのだろう。気が付けば、もう次の道を選ぶ直前まで来てしまった。
 あと一年だ。
 きょう、一騎は十四になった。
 学校では、もう間もなく目覚めの早い生徒から順に、進路指導がはじまるだろう。どんなに遅いものでも、あと一年。一年のうちにメモリージングが解放され、中学を「卒業」することになる。
 進路指導。まだなにも知らない同級生たちにはそう伝えられている、進路とは名ばかりの、これから自分たちが携わることになる、場合によっては、みずからの死に場所を選ぶ時期。
 一騎はこのままいけば間違いなく、パイロット候補に選抜されるだろう。総士はすでにCDC勤務が決まっている。有事の際には、ジークフリードシステムに搭乗することになる。
 おそらくパイロットとしてファフナーになるだろう一騎と、いつか必ず行うクロッシングが、総士にはほんのすこしおそろしく、抗い難く魅力的なものに思えた。神経を、心の一部を共有したとき、そのつながる歓びに、かつて捨て去ったはずのひとつになる欲望に、総士ははたして耐えられるだろうか。そして、戦いを経て命を削って変わってゆくだろう一騎を、みつめ続けることができるのだろうか。
 一騎に、ここまで来てほしい。
 一騎は、どうか変わらずにいてほしい。
 相反する感情が胸の奥でうずまく。島のために生きることが総士の存在理由だというのに、総士はこうしてまだ、たったひとりにとらわれてしまう。
 あの日、左目と引き換えに、島とコアと、選んではいけないはずのその次を、総士は選んでしまった。一騎だけを求めてしまった。だからきっとこれは、この存在が続くかぎり止めることのできない存在証明なのだ。
 ふと、あたたかい風がほおを撫でた気がした。
「……ああ、乙姫。わかっているさ」
 人工子宮の中で赤く染まった、眠る妹を見上げる。
 皆城総士は島とコアにかしずくものだ。それ以外のためには生きられないし、誰のものにもなれない。この島のために、コアのために命を使うと決めた。
 だが、乙姫、お前がもしひとつだけ許してくれるのなら。
 僕だけは、覚えている。失われてしまうかもしれない命の、日常の中でのかがやきを。たとえ一騎が忘れてしまっても、「総士の目の色だ」と、可憐な花を見てほほえんだ顔を、総士だけは忘れない。
 一輪だけ抜きとったシオンの花びらが、また風に揺れたような気がした。

▼ 総士は一騎の家へプレゼントを持っていく勇気が持てなかったので、乙姫に背中を押してもらいに会いにきました(2018.9.21)