ふたりのアイドルとしてのキャリアは、ひと月後、ちいさな路上ライブからはじまった。
 事務所の公式SNSだけで告知した小規模なものだったが、複数の路線が乗り入れる主要駅近く、くわえて人出の多い休日の昼下がりということもあって、それなりに足を止めてくれる人も多かった。
 許可が取れた時間もたいして長いものではなく、誰もが知っているような、有名な紅音の曲をいくつかふたりで歌った。
 それが、一騎が五年ぶりに歌った歌だった。
 本格的なファーストライブのためにユニットに与えられた数曲以外、時間に余裕もなくまともなレッスンはしていなかったから、ほとんど素人そのままの簡単な振りで歌うだけだったが、一騎はみっともないくらいにおどおどとうろたえてしまった。
 真夏の太陽がむき出しの二の腕に刺さる痛み。じとりと肌にまとわりつくような湿度。毛先からしたたるほどたくさん汗が出た。からだの使い方で困ったことはいままでないほど、一騎は身体能力が平均よりも突出して優れていたから、こんなに汗だくになったのはほんとうに久しぶりのことだった。のどがからからに渇いて、最後にはお礼を言う声がかすれていた。
 それくらいのことしか覚えていない。
 五年ぶりに歌ったあの歌が、総士が好きだと言ったあの母の歌が、興味本位に自分たちをみつめる大勢の前で、どんな音で響いていたのか。はたして自分が、いったいどんな声でいまさら歌を歌ったのか。
 ――あのとき、楽しいと言った総士が、どんな顔を、どんな声をしていたのか。
 うまく笑えていたかどうかすらよく覚えていない。後ろで待機していた溝口の表情は険しくはなかったから、総士が歌うメロディの三度上で鳴らしたコーラスは、ひとまず音は外さなかったようだ。
 こんなに一騎がおぼつかない理由は、人前で歌うことに対する緊張などではなかった。
 正式なデビューの前に、生の反応を知りたいとあまり期待をかけずに行ったものだったが、多めに用意したチラシは半分ほど捌け、次はいつやるのかと直接声をかけてくれる人もいた。ネットでの反応もそこそこにあったらしい。まずまずってところだな、とマネージャーの溝口も総士も手ごたえを感じたようだった。
 一騎には、よくわからない。
 このひと月、いくつかの曲を与えられ、総士と一緒にレッスンとデビューの準備に明け暮れた。
 総士は歌もダンスも、お世辞にもうまいとは言い難かった。なぜよりにもよって、アイドルを目指したのか。しかし総士のレッスンへの熱の入れ方や研究への取り組み方をとなりで見ていると、これがいっときの酔狂とも思えない。いくら父親の残した事務所を守ってゆくためだとしても、他にいくらでも方法はあっただろう。総士がこれほど熱心にこの道にこだわる理由が、一騎には理解できなかった。
 前途多難だったのは、むしろ、一騎のほうだ。一騎にはもっと根深い課題があった。パフォーマンスの問題ではない。もっと根本的な、一騎と総士の関係の問題だ。
 もとよりまともに総士を見ることもできないのだから、わかりきっていた話だ。振り付けで手がふれあうたびにびくっと固まり、パフォーマンスの最中もアイコンタクトどころか総士のほうを見ることもおぼつかない。
 ふたりが初対面だと勘違いしたダンスレッスンの講師から、「真壁はダンスはいいから、皆城とまず打ち解けるところからだね」と言われてしまう始末だった。
 総士や史彦から期待された歌でも壁が見えていた。ボイストレーニングは素人あがりとは思えないほどそつなくこなすが、ボーカルレッスンではテクニック以外の部分がどこか一歩足りない、本人にそれを掴もうという意欲もない。うまく歌うことには長けているが、感情に訴えかける力のない空虚なもの――というのが、いまの一騎の歌を総合した評価だった。
 総士の歌やダンスは、本人の向上心も手伝い、少しずつ、しかし確実に上達していった。
 一騎はずっと、重く濁った海のような場所に足をとられたまま、そんな総士に追いつくことができないでいる。
 期待されているとおりにできないもどかしさと、やはりこんなことができるはずがなかったのだという諦念。
 もっとも、自分に足りないものがなんなのか、一騎はなんとなくわかっていた。
 ただ総士に歌え踊れと言われたから従うだけで、それをする理由がみずからのうちにはひとつもない。
 そんな人間が、誰かの心に響くものを作り出せるわけがない。



 総士にも、史彦にも溝口にも打ち明けられない、相談などするたちではない一騎の、どこへも行けない不安や閉塞感をただ聞いてくれたのは、同じ事務所に所属する遠見真矢と春日井甲洋だった。
 ふたりは一騎と同い年で、すでに本格的な活動を続けているアイドルだ。
 夢にあこがれてデビューを望んでいる人間が星のようにいる中に、とつぜん現れてそのくせくすぶっている、芸能の仕事をなめていると取られても仕方がないような態度の一騎のことを、特別肯定も否定もしないふたりだった。
 プロフィール上では非公開とすることになっているが、事務所内では一騎と総士が幼なじみであることは周知の事実だ。だというのに一騎と総士のあいだに横たわる、だれが見たってあきらかなぎこちなさに、聡明なふたりが気づいていないはずがない。
 事務所の元代表の息子とともにユニットでデビューすることになった、ぽっと出のその幼なじみ。いや、現代表の息子と言ったほうがいいだろうか。そんな立場の一騎を、それでもなにも言わずに、ただ同じ場所を目指すひとりの仲間として扱ってくれるやさしさが、心地よかった。ふたりのそばでは、やっと息ができた。
 不調を克服できない一騎のことを心配して、ふたりがレッスンを見学しに来てくれたのは、ファーストライブを目前に控えたある日のことだった。
「総士、一騎も。おつかれ」
 水滴のついた缶ジュースを差し入れにふたりがレッスン室を訪れたとき、一騎と総士はその日の最後の通しをちょうど終えたところだった。
 予定時刻を過ぎていることを確認して、講師は次のレッスンまでに今日の復習をきちんとしておくように、とその日に指摘したふたりの課題をもう一度挙げたあと、早々に「今日はここまで」とレッスン室を出た。気を遣ってくれたのだろう。
「遠見、甲洋……」
「調子、どうかなあって見に来ちゃった。はい、おつかれさま」
「あ、ありがとう」
 手渡された冷えた缶が気持ちいい。真矢のほっとするやさしい笑顔に、レッスン室のはりつめていた空気がゆるんだようだ。
「皆城くんも」
「……すまない」
 受け取った缶を汗ばんだ首筋にあてて、総士がため息をつく。
 総士はこのあと、事務の仕事があってひとりで事務所へ戻ると言っていた。クールダウンもそこそこに、せっかく差し入れてもらったジュースにも手を付けないまま、雑に汗をぬぐっただけで荷物をまとめはじめる。
 ダンスレッスンの講師は、けっこうスパルタだ。一騎でもそれなりに疲れを感じているのに、総士はきっともっと消耗しただろう。それでもこのまま事務所へ行かなければならないような仕事なのだろうか。こんなに疲れているんだ。明日じゃだめなのか。
 疲労の色を隠しきれない総士の、汗ばんでいるくせにやたらと青白い顔色を見ていると、そう口を挟みたくなってしまう。それこそ、一騎にそんなことを言う権利はないのに。
 几帳面にスポーツバッグの中身を整理して帰る準備を終わらせ、上げていた髪をほどいて立ちあがった総士に、甲洋が心配そうな声をかける。
「総士、事務所戻るんだろ。気をつけてな」
「ああ」
 ほんとうに急いでいるのか、言葉少なにうなずいて、総士は部屋を出て行った。心なしか、ほんの少しだけやわらいだ顔をしていたような気がした。
 なにかが喉の奥でつっかえる。わだかまる。素直に甲洋のやさしさを認められない自分が情けない。なにも言えないと、自分から目をそらしているのは一騎なのに。
 ドアをくぐるぴんと伸びた背中さえ、壁一面の鏡越しにしかみつめられないのは、一騎の問題だ。
 ついさっきまで、あそこにすぐとなりで光る汗を散らせて踊る総士が映っていた。手を伸ばせばすぐにふれられるほどほんの近くにいたのに、明るい室内を映すスクリーンのようなそこは、一騎にはあまりにも遠かった。
 鏡の奥で味気なく閉まったドアから目が離せないでいる一騎に、真矢がタオルを差し出す。
「皆城くん、がんばってるんだね」
「ああ」
 ありがたく受け取って、頭から被った。
 そうだ。総士はがんばっている。
 ただでさえ、レッスンや打ち合わせや広報でほとんど休む間もなく働いているのに、アイドル以外の仕事だってまだ大人に混じって続けている。
 こちらが――アイドルのほうがうまく進めば、さすがにそのうち事務系は僕の手から離れる、とは言っているが、そうそうとんとん拍子にうまくいくわけもない。きっと当分は平行するつもりだ。
「きっとこれからもどんどん伸びるね」
「……ああ」
 真矢の言うとおり、総士はゆるぎない意志と努力で、これからますます伸びるだろう。
 そんな総士に、はたして一騎は報いることができるだろうか。からだを動かすことと歌うことが人よりもちょっとだけ得意なくらいにしか、能のない自分が。
 自分で総士のとなりに立つと決めたくせに、こんなにうずくまったままで前へ進めないでいる自分が。
「一騎くんも、きっとこれからちょっとずつ、皆城くんと話していけばいいじゃない」
 目の前を塞いでいたタオルを持ち上げられて、まぶしさに目がくらんだ。覗きこんだ真矢が目を細める。
「逃げないって大事だけど、高いところ怖いのを直したくていきなりビルの屋上から飛ぼうとして、できないって苦しむのとは違うよ」
 どう答えればいいのかわらかず、黙り込む。
 甲洋が背中をぽん、と叩いた。こういうふうに、誰かにふれられるのは久しぶりだ。――そう、これも五年ぶりくらいだろうか。
 軽い感触と温度に慣れず、タオルの端を握る。
「あんなになにかに必死になってる総士、俺ははじめて見るな」
「……そうなのか」
 きっと甲洋は、一騎を元気づけようと厚意から言ったに違いない。そんなことくらい、だれかの感情を受け取るのがけして得意ではない一騎にだってわかる。
 それでも心にひっかかるささくれから、むりやり目をそらした。
 総士から距離を置いていたのは一騎のほうだ。会おうと思えばいつだって会える距離にいたくせに、その左目の傷を何度でも認めることがおそろしく――なにを考えているのかわからない総士が、一騎のことをずっと憎んでいたのかもしれないと、思い知らされるのが怖かった。
 総士が一騎のことをいっときでも思い出さないように祈りながら、息をひそめて生きてきたのだ。あの夏から一騎が背を向け続けた、一騎の知らない総士を、一騎以外のだれかが親しい口ぶりで語ることにこんなに心を揺さぶられているだなんて、あまりに勝手すぎる。
「お前が来てからだよ、一騎」
 俺は、そんなこと、知らない。おとなびた顔で喪服に身を包んでいた総士の、きっちりとネクタイを締めた胸元ばかりが思い浮かぶ。光を呑みこんでしまいそうなほど、深く乾ききっていた黒。
 黙ったままうなずきもしない一騎に、甲洋は安心させるように浮かべていた笑みを困ったように崩した。
 まだなにか、一騎に言いたげな顔をしていた。





 満を持して迎えたはずのふたりのファーストライブは、路上ライブの好反応とはうらはらに、さんざんなものだった。
 いや、はじめてのライブだと考えれば興行としては十分成功した部類に入るのかもしれない。
 まだ実感のないまま開演を迎えてステージに上がり、一騎は驚いた。
 ほんとうにここがいっぱいになるのかと不安になるほど大きく思えたライブハウスが人であふれている。
 けして大きくはない、ほんの少し期待を見込んだ程度の規模の箱で、チケットはなんとか売り切れた。それでもこんな数の人たちが総士と一騎を見るためだけにここへ来たのだと、実際にこの目で見るまで信じられない思いだった。まぶしいライトの元で見た人々は、いままでに一騎が見たことのない表情をしていた。
 総士は、歌もダンスもずいぶん上達していた。最後のレッスンまでうまく当てられないままだったピッチも、本番では見事にあわせて堂々と歌いこなしていた。
 問題だったのは、やはりパフォーマンスなどよりも、一騎の精神状態だった。
 レッスンはあくまでもレッスンであって、本番とは違う。ぼんやりと理解はしていたはずだが、それが具体的にどういう意味を持つのか、一騎は全く想像しようともしていなかった。
 最初のそれは、ライブがはじまってから数曲目のことだった。打ち合わせではステージの両端で、それぞれスピーカーの前あたりへ向けて歌うはずだった曲だ。二番のBメロ、自分の歌割の最中で、こちらへゆっくり近づいてくる総士が目の端に見えた。
 俺、なんか、立ち位置、間違えたかな。この曲、最後までここじゃなかったっけ。なぜ総士が近づいてくるのか、わからなくて混乱する。いままでにない速度で考えを巡らせたがもちろん心当たりもなく、反応すらできずにただまばたきが増えた。
 総士はあっという間に距離を詰めた。その気になれば数歩で縦断できるようなちいさいステージだ。
 総士を見られないでいる一騎の耳に、強烈な音量のオケに混じってざわつくファンの声が聞こえた。いきなり、ぐいと誰かに肩を抱き寄せられる。
 頭が真っ白になった。誰が。
 誰かって、ここには一騎と総士しかいない。
 自分がいったいどこを歌っていたのか、一瞬飛んでしまった。汗ばんだ総士の手のひらの感触と熱を感じながら、心臓が早鐘のように鳴っている。さらさらとしたなにかが首筋を撫でる。くすぐったく反射的に肩をすくめて、あとからそれが総士の髪だと気づき、あやうく飛び上がって叫び出すところだった。
 総士の手が強く肩を掴んで、ぼうぜんとした頭でいま曲のどのあたりなのかを必死で把握する。次は一騎のパートだ。あわてて歌を繋ぐ。総士の手には力が籠ったままだ。
 総士は俺に、どうさせたいんだ。研究としてレッスンの合間に見せられた、いくつかのアイドルユニットのライブ映像をなんとか思い浮かべようとする。こういうとき、アイドルはどうするんだったか――肩を抱き合い頭を寄せて、楽しそうに顔をくしゃくしゃにして歌っていた光景が脳裏をよぎった。
 ファンの熱気とライトの熱で全身汗だくになっているのに、マイクを握る手もその反対も、がちがちに固まって冷えている。ぎこちなく動かし、なんとか総士の肩のほうへ向けた。指先がぶるぶる震えているのが自分でもわかった。
 その先にある総士の肩は、そういえば、そういう衣装だからむき出しだ――と気づいてしまうと、とうとうその肌にふれることはできなかった。肩を抱くふりで、数センチ開けたところで手を震わせるしかない。
 どうか誰も気づきませんようにと、らしくもなくそれだけを祈っているうちに、いつの間にか曲が終わっていた。
 そのあとの記憶は、数曲分、しばらくない。それでも何度も何度も練習をくりかえしてからだに刷り込んだおかげか、無意識にでもなんとか歌えてはいたらしい。
 いちばん危なかったのが、自己紹介も兼ねて挟んだMCだった。
 各々の簡単なプロフィール。本番までのレッスンや路上ライブでのいくつかのエピソード。今日のライブ前半の感想。披露した楽曲のこと。そして終演後にロビーで行う、CDやグッズの手売りについて。
 一騎も総士も、けして饒舌とは言い難いタイプだ。どちらかと言えば口下手な部類に入る。だからこそ事前にMC用に準備していた話題はそれなりにあり、簡単な打ち合わせもしていた。場をもたせるくらいならできると思っていた。
 しかし残念ながら、どうやらそれはずいぶん甘い見通しだったようだ。
 あまり緊張などするタイプではないと思っていたが、やはりはじめてのことに一騎も緊張していたのかもしれない。あるいは、とつぜんいままでにない近さで総士にふれた衝撃が尾を引いていたのかもしれない。
 ふたりの会話は、一度とは言わず何度も途切れた。総士がせっかく広げようと振ってくれた質問や話題に一騎がうまく答えられず、黙り込んでしまったせいだった。
 「べつに」などと、とてもアイドルがライブのMCでするとは思えない切り返ししかできない一騎に、うまく処理しきれない総士が詰まってしまった場面もあった。
 最悪だ。
 終演後の物販で、そつなくファンとやりとりする総士のとなりでなんとかうなずいたり笑ってみせたりしながら、一騎はいますぐここから消えたくて消えたくてたまらなかった。
 CDを買ってくれた最後のファンを見送って、スタッフといくつか確認することがあるから、とステージに戻る総士から逃げるように、楽屋へ飛び込む。
 壁を埋めつくすバックステージパスがごちゃごちゃと目に刺さる。頭が鈍く痛んだ。置きっぱなしにしていた水のペットボトルを一息で空けて、机につっぷす。
 やはり、一騎には無理だったのだ。
 会場が埋まったのも、めちゃくちゃだったライブがなんとか無事に終わったのも、すべて総士の努力と度胸のおかげだ。一騎がやったことといえば、総士に迷惑をかけることだけだった。総士の左目になるどころか、彼を手伝うことすらできずに、ただ足を引っ張っただけだ。
 これからどうすればいいんだろう。
 途方にくれて大きく息をついたとき、控えめなノックが耳に入って、からだがびくんと震えた。思わず立ちあがって凝視したドアが開く。
「お疲れ、一騎……わ、すごい汗だな」
「……甲洋」
 ほっと力が抜けてソファに崩れた一騎に、甲洋は「はじめてだったもんな、ライブ」と困ったように笑った。最後までぐずぐずしていた一騎を心配して、ライブまで見に来てくれたらしい。
「後ろのほうで見てたよ。がんばったな」
「そんな……総士がいてくれなかったら、俺、ステージから飛び降りてたかも」
 あの惨状を「がんばった」だなんて、とんだ甘い評価だ。
 いや、総士がいなければ、そもそも一騎がステージに立つようなこともなかったのか。
 それにステージから飛び降りてでも逃げ出したくなるのは、なによりそこに総士がいるからだ。
 あんまり総士がまぶしくて、そのとなりに立つ自分がちっぽけな黒いシミのように思えて、消えてなくなりたくなるからだ。
「まあ、次はもっとうまくやれるさ」
 となりに腰かけた甲洋が、軽い口調でぽんと背中を叩く。
 慰められていることはわかっていた。甲洋はいい奴だ。自分の仕事だって大変だろうに、こんな一騎のことも気にかけてくれる。それでも、その言葉を素直に受け取ることができない。
 次はもっと? もっとうまくやって? どれだけうまくやったところで、自分からアイドルを目指したわけでもない一騎にできるのは、せいぜいアイドルの真似事ぐらいだ。心からファンを想うことなどできない。
 そんな誤魔化しをこれからも続けてどうするのだ。総士の手助けになるどころか、総士のお荷物になり続けるのか?
 ――いいや、それよりも早く。
「総士は、もういいって言うかもな」
 総士は一騎に愛想をつかしたかもしれない。アイドルらしいふるまいも、まともな受け答えもできない。期待はずれでがっかりしただろうか。やはり一騎では力不足だったと、次の方法を考えているのだろうか。
 なかばなげやりに自嘲した一騎をじっと観察するようにみつめて、甲洋はいやにまじめな声を出した。
「……一騎、ほんとうに、一度ちゃんと総士と話したほうがいい」
 「皆城とちゃんと話すんだぞ」だなんて、ダンスレッスンでもボーカルレッスンでもうんざりするほど聞き飽きた言葉だ。
 あの日、一騎は総士から逃げたのだ。苦痛に呻く総士を守ることも、誰かに助けを求めることもできなかった。
 そんな一騎に、いまさら、総士と話す言葉があると言うのか。総士のとなりに立つことが許される道があるとするなら、それは、彼の望みを叶えるためにこのからだを使うことだけだ。
 いまだにすっきりと頷けないでいる一騎を、甲洋は痛ましいものでも見るように顔を歪めている。
「お前ら、もうプロになるんだぞ」
 ほんとうにこれから、この世界でふたりでやっていくつもりなら、お前にその覚悟があるのなら。
 強く両肩を掴まれた。大きな手が、まだ着替えていなかった衣装に食い込む。白いジャケットに皺が寄る。あまりくしゃくしゃにすると、衣装さんに怒られるかもしれない。
「自分が総士の相棒だって、自覚持てよ」
 まるで自分のことのように苦しげに甲洋が絞り出した言葉に、一騎は場違いにも、ついあっけにとられてしまった。
 相棒? 俺が? 総士の?
 まるで現実味のない単語がうわすべりするようだ。
 甲洋、おまえ、本気でそんなこと思ってるのか、と問いかけて、バタンと乱暴にドアを閉める音にとつぜん遮られ、反射的にくちびるが閉じた。
「……なにをしているんだ」
 低くかすれた声が突き刺さる。楽屋の入口に総士が佇んでいた。はじめて見るほど不機嫌そうな声に、反射的にひくっと喉がふるえる。
 甲洋は苦笑して一騎の肩を握っていた両手をほどき、総士へ向きなおった。
「総士、お疲れ」
「ああ、来てくれたのか、甲洋……ありがとう」
 どこかそっけない。総士も疲れているのだろうか。きっとそうだ。総士にとってもはじめてのライブだったうえ、一騎の尻ぬぐいまでしなければならなかったのだ。総士だってさっさと帰りたいはずだ。
 こちらを見もせずに楽屋に置いていた荷物のほうへ向かった総士は、なにかクリアファイルに入った紙の束を取り出している。
 ああ、このままミーティングに入るのか。ライブ中の自分のふるまいを思うと、どんなふうに注意されるか気が重かった。違う。総士に叱られることはいやじゃない。総士になにかを叱られるとき、それでも総士は一騎を頭ごなしにどなったりにらんだりはしない。あくまでも冷静な口調で、なにが間違っていたのか、どこをどう改善するべきなのか、一騎に教えてくれる。
 だからそんなとき、一騎はいつも自分の身の丈にあわないていねいな扱われ方をされているような気がして、息ができないような気持ちになる。緊張感でこわばりつづけていた全身も固まってしまって、まるで鉛のようだ。
 しかし、どんなに疲労していたとしても責任感の強い総士が反省会をおろそかにするわけがない。重いからだをのろのろと引きずって、総士からいちばん遠い席に放ったままにしていた自分の荷物のもとへ向かう。筆記用具とノートを取り出す。
「先生、呼んでくる」
「いや。今日は疲れただろう。ミーティングは今度でいいから、お前は先に帰っていろ」
「え……」
 思わず総士のほうを見た。総士は手元の紙に目を落としたままだ。
「僕は甲洋と仕事の打ち合わせがある。ちょうどいいから、ここで済ませていく」
 なんで、甲洋と。甲洋自身も心当たりはないのか、きょとんと総士を見ている。
 ミーティングを後日に回して先に帰れと言うことも、なぜか甲洋と打ち合わせをすることも。総士がなにを考えているのか、一騎にはわからない。
 一騎と一緒に帰途につきたくないのかもしれない。あるいは、ほんとうに一騎を気づかってくれているのかもしれない。仕事の話だって、ほんとうなのか、総士がうそをついているのか、一騎に確認するすべはない。
「……わかった。おつかれ……」
 総士が言うのなら、一騎はただ、そのとおりにするだけだ。
 一度取り出した筆記用具を片付けた。こちらを見ない総士の顔は、見られないままだった。



 帰りの電車に揺られながら、事務所の公式SNSを開いた。ついいましがたスタッフが投稿したところらしい、簡単なメッセージと数枚の写真が載せられている。
 『真壁一騎&皆城総士ファーストライブ「fly me to the sky」、無事公演が終了しました! 本日お越しくださった皆様、誠にありがとうございました。まだまだ初々しい二人でしたが、精いっぱいのステージをお楽しみいただけましたか? これからも真壁一騎&皆城総士は成長していきます! 次のライブをどうぞお楽しみに!』
 本番前にSNS用だと撮られた、そつなくほほえむ総士と、その横でぎこちなく笑う自分。終演後にファンとともに撮った集合写真。それに、いつの間に撮られていたのだろう、まさにライブ最中のステージ上で歌う一騎を総士がみつめている横顔が添付されていた。
 総士は振りどおりに踊りながら、ひたむきな顔で、じっと一騎のほうを見ていた。ステージの上で歌っていた総士の顔を、一騎はどうしても思い出せないというのに。
 「真壁一騎&皆城総士」――ふたりのユニット名だ。一騎は最初からなんでもいいと言って関わらなかったから、どういうプロセスでこれが選ばれたのか、詳しいことは知らない。ただ最終的に決定したのは史彦だが、数ある候補の中で、最初にこれを選んだのは総士だったと聞いた。
 どうして総士がこのユニット名に決めたのか、一騎はなにも知らないままだ。
 おのおのの知名度を上げたかったのだろうか。あるいは――いつでもソロ活動に転向できるようにだろうか。
 ――ほんとうにこれから、この世界でふたりでやっていくつもりなら、お前にその覚悟があるのなら。
 日曜日の二十一時過ぎ。どこかへ帰る人でごったがえす車内。最寄り駅まで開かない側のドアに重いからだを預けて、一騎は何度も何度も甲洋の言葉を思い浮かべた。真っ暗な窓に、こうこうと照らされた車内が反射している。なんのおもしろみもない自分の見慣れた顔が、影を浮かべたうすい茶色の目がぼんやりとこちらをみつめ返す。
 総士は、あんな顔で、俺のことを見ていた。
 目を焼きそうなほどまぶしい照明を受けて光るその目には、いったいどんな景色が見えていたのだろう。
 ――知りたい。総士がなにを見ているのか。
 それが、総士から目をそらし続けていた一騎の中に、はじめて芽生えた視線だった。





 「太陽と月」。
 新しく用意された、ふたりの新曲だ。
 八月も終わりの土曜日。デモ音源を前に、一騎と総士は事務所の一室で打ち合わせを行っていた。
 空調がよく効いた室内は快適だが、半端に下されたブラインドから差し込む日が首筋をじりじりと焼く。白い長机が光を反射して、濃い影と日向のコントラストが目に痛い。向かいに腰かけた総士の、机に投げ出されたままの細い指がいやに白くまぶしかった。
 新曲は明るい雰囲気のポップチューンで、レコーディングは半月後。まだ日程は調整しているところだが、音源の発売よりも先にライブで初披露を予定。
 これまでに与えられたいくつかの書き下ろしの曲は、歌う楽しさがわからなくなって久しい一騎にとって、どれもたいして興味を惹くものではなかった。しかし今回は、いままでの曲とはわけが違う。
 新しい曲の詞は、総士がつけたらしい。
 どこかほこらしげに言うスタッフに、歌詞の紙に記された「作詞:皆城総士」の文字を指でなぞる。
「この歌詞を……おまえが?」
「ああ」
「いつの間に……」
 ライブやレッスンや広報や、それだけでなく事務所の仕事でもあんなに忙しくしていたのに、作詞まで。総士のどこにそんな時間があったのだろう。とても十四歳のこなす量とは思えない。
 今日はなぜかいつにも増して口数が少ない総士の顔を、気づかれないようにそっと見やった。きまじめな顔は長いまつげをふせて、総士が書いたという歌詞に目を落としている。
 ――もしかして、気恥ずかしいのだろうか。
 とんだ見当違いかもしれない。単に機嫌がよくなくて、一騎とは話したくないだけかもしれない。しかし紙に落とした視線をうろうろとさせている総士は、けして悪い雰囲気ではない。……ように思う。
 にわかにどきどきと走りはじめた心臓をなだめて、乾いたくちびるを舐める。
「なんか……すごいな。総士」
 つぶやいた言葉に、自分で頭を抱えそうになった。思い切って口を開いたはいいが、ろくな感想になっていない。
 総士があきれるでもなく促すように黙ってこちらを見ていることにかろうじて勇気づけられ、あわててもう一度ぱくぱくとくちびるを開閉する。
「こういうの、書けるのか」
 がんばれ。もう一息。
「い、……いい歌詞だと、思う」
 総士はとぎれとぎれで乏しい一騎の言葉を最後まで辛抱強く聞いて、ただ「そうか」と肩をすくめた。
 本気だったんだけどな。うまく伝わらなかったようで、少し気分が塞がる。
 『違っているほど――』。総士はなにを思って、この詞を書いたのだろう。
 ファーストライブの日。総士を知りたいと強く思ったときから。一騎は、総士の目に映っているなにかを捉えようとあがきはじめた。その傷をたたえた目を直視することはまだできない。しかし総士のとなりに立つために、きっと総士の見ているものを共有しなければならないのだということは、わかる。
 たぶん甲洋が言ったのは、そういうことなのだ。
 そんな一騎のしぐさをうっすらと感じ取っているのか、最近の総士はどこかやわらかい。ときおり、とつぜん不機嫌になってはしばらく考え込むことがあるものの、沈黙ばかりがふたりのあいだに横たわっていた以前と比べれば、総士のほうからぽつぽつと声をかけてくれる機会も増えた。
 いや、変わったのは総士ではなくて一騎のほうなのだろう。総士の声に怯えてばかりいたから、その音がどんな色をしているのか気づくことができなかった。
 どんな色をしているのか、一騎はまだ解ったわけではない。それでも解りたいと思う。ただ息をひそめて総士の命令だけを叶えようと背を向けていたころとは、もう違う。
 細部の決定はレコーディングを終えてからになるが、デモに合わせて歌割や解釈の確認をしていたとき。外が騒がしくなったかと思うと、どたどたとにぎやかなその音の主が会議室の前までやってきて、乱暴にノックを寄こした。返事をする前にドアが開く。
「お前ら、テレビの仕事が来たぞ」
 騒がしく飛び込んできた溝口は、意気揚々と企画書を掲げていた。



 日曜の昼下がりの情報番組に、なんでも駆け出しのアーティストやアイドルに密着取材をして取り上げるコーナーがあるらしい。そして「真壁一騎&皆城総士」が、どうやらそのコーナーに取り上げてもらえることになったようだ。撮影は一週間後。
 ライブの回数を二度三度と重ねるうちに、ふたりには少しずつではあったがじわじわとファンがついていた。二週間に一度のペースで行う公演にいつも来てくれる決まった人が、はじめのうちはほんの数えるほどだったが、いまでは両手では足らない数になっている。SNSでもふたりの名前で検索すれば、ひっかかる件数が以前とは比べものにならないほど増えた。
 それでもまだまだ弱小と言える程度のユニットだが、ここで全国ネットで取り上げられれば、知名度の向上にはかなり期待ができる。これからの活動にも勢いがつくだろう。
「ま、だからってあんま身構えることはねえよ。普段どおりのお前らを見せりゃいい」
 はじめてのテレビ撮影、おまけに二日間にわたる密着取材という、いきなり一足飛びでやってきた消費カロリーの高そうな仕事に顔をこわばらせた一騎に、溝口は軽い調子で笑った。
 ――そして迎えた撮影当日、事務所に出てくると、すでにロビーには大きなテレビカメラが待っていた。
 ほんとうに、テレビに映るのか。内心、ほんの少しだけ溝口の質の悪い冗談ではないかと疑っていたので、あらためて腹の奥が落ち着かなくなる。
「真壁一騎くん?」
「あ、はい」
 カメラの近くで紙の束を確認していた長身の男性が、一騎に気づいて近づいて来る。中央放送の堺です、と名乗られ、とりあえず頭を下げた。
「俺のことは気にせずいつもどおりやってくれればいいから。……っつっても難しいか。まあ、よろしく」
 今回の撮影は彼ひとりで担当するらしい。そんなものなのかと拍子抜けしたが、たしかに放送されるのも十分程度の簡単な特集だと聞いている。番組にとっては穴埋め程度の、さして力を入れているわけではないコーナーなのだろう。
 もともと一騎はどちらかといえば神経が太い――あけすけに言えば鈍いタイプだったし、大勢に注目されることにもライブを通して慣れてきたと思っていた。
 しかし四六時中、大砲みたいな大きなレンズがどこへでもずっと追いかけてくる状況は、想像以上に息が詰まるものだった。
 今日の撮影では、もともと入っていたスケジュールにあわせて、一騎と総士の一日を撮るそうだ。さらに来週に予定されているライブでも密着取材としてカメラが入り、そのときに時間をとって少し長めのインタビューも行われるらしい。いきなりなにか長い時間しゃべらなくて済むことにはほっとしたが、なにをしていてもどこにいても一挙一動を「撮られている」という感覚は、どうしたって一騎の言動をぎこちなくさせた。
 一方で、総士はやはり幼いころの経験からテレビ慣れしているのか、カメラの前ではいつもより異常に愛想がいい――というよりも、なぜかずいぶん機嫌がいい様子だった。
 具体的にどうおかしかったかと言えば、こうだ。
 午前中いっぱいはダンスレッスンだった。甲洋の曲だ。ユニットの持ち歌だけではまだライブの曲数が足りないので、事務所のほかのアーティストのカバーもセットリストに組み込まれている。その振り入れだった。
 レッスン室の隅から見慣れないカメラと数人のスタッフに注視される違和感で、どうしても集中しきれず調子の出ない一騎に、総士ははじめての言動を見せた。
 壁一面の鏡の前で少し難易度の高かった振りをくりかえし確認する一騎に近寄り、「そこの動き、どうなっているんだ」と。
 レッスンの場ではじめてアドバイスを求められ、一騎はひどくぎょっとした。戸惑ってみつめた総士の奥に無骨な黒いカメラが見えて、ますますうろたえる。
 新しい曲の振り入れは、一騎にとってあまり難しいことではない。事前に与えられた練習用の映像を見て、同じ動きを感覚で真似すればだいたいは理解ができる。ぴくりと反応する一瞬の筋肉の動きや特徴的な服のしわで、自分のからだをどう動かせば良いかなんとなくわかるからだ。
 総士は違う。振り自体の覚えは良いほうだが、ひとつひとつの動きをより磨くために、からだのどの部分をどう動かせばパフォーマンスの質がもっとも良くなるのか、具体的に言葉で説明を受けて理解したいタイプだ。
 そんな総士に一騎が教えるだなんて、相性が悪いにもほどがある。
「えっと……ここの、脚のつけねのところ、を、スリーカウントでこっちになめらかにねじる、みたいな」
 一騎なりになるべく具体的に言語化したアドバイスをおどおどと差し出したつもりだったが、総士にはばっさりと切り捨てられてしまった。
「見ただけでは実感がわからない。触っているから、一度やってみせてくれ」
 言うが早いか、さっさと床にあぐらをかいた総士が内ももにそっとふれてきて、あまりのことにからだが固まる。
 こうしてとつぜん総士にさわられることはステージ上でも増えたが、まだまだ慣れることができない。まして、意識のスイッチの切り替わるステージ以外でこんなふうにさわられたことなんてなかった。
 いきなり心臓がトップスピードで動き始め、胸が痛む。さっきまで気にもしていなかった自分の汗のにおいが気になって気になって仕方がない。
 結局、総士にふれられたままゆっくりと踊ってみせた一騎の動きは、ラジコンのほうがまだましだと言いたくなるほど軋んでぎこちないものだった。
 一連の様子を黙ったままただ撮っていたカメラマンは、ほほえましそうな顔で笑っていた。



 昼食を挟んで午後からは事務所に戻り、CDの特典やグッズに使う書きものを消化した。そこでも総士は妙だった。
 一騎は総士のように字がきれいではないし、気の利いたコメントを考えるのも下手だ。だからこういった書きものはたいそう苦手で、いつも決められた量をこなすのにとんでもない時間がかかって、よく総士には先に帰ってもらって居残りをしている。
 しかし今日ばかりはそうも言っていられなかった。撮影が入っているというのもひとつだが、もともとのスケジュールの都合で、このあとにふたりでファンクラブ用のラジオ収録がある。おまけに一騎が後回しにして溜めていた書き物のうちのいくつかは、今日までの締め切りだった。
 真っ白な紙を前にしてうんうんうなる一騎をよそに、総士はやはり小一時間ほどで早々に自分の分の原稿を終えてしまった。ラジオの収録予定は夕方だ。いつも通りなら、それまで総士は事務の仕事をしたり、自主練をしたりでどこかで時間をつぶすはずだ。このペースでは、一騎はまたラジオの収録が終わったあとに、数時間はひとりここに缶詰だろう。
 なかばあきらめきって、下書き用の裏紙にらちが明かないことをだらだらと落書きする。例のカメラが部屋にひとりになった一騎を向かいからじっと捉えていることもあって、余計に集中ができなかった。いまさらどうしようもないことだが、雑な字を撮られるのも嫌だったし、自分や総士や担当のスタッフ以外にコメントの中身を読まれていると思うと、いつものように書けと言われても抵抗感がある。
 ペンの出を確かめるために裏紙に書いた「真壁一騎」のとなりに、なんとなく、「皆城総士」と書いてならべた。
「僕の名前を練習してどうする」
 あきれた声がかかって、どきっと心臓がはねる。
 原稿の紙を几帳面にそろえてスタッフへ提出しに行ったはずの総士が、なぜか戻っていた。
「お前、それじゃいつまで経っても終わらないだろう」
「……う、うん」
「見せてみろ」
 総士は、一騎のお世辞にもきれいとは言えない字をもくもくと確認し、思った以上に進みの遅い状況に眉を寄せた。
 ひとまず今日中に必ず提出しなければならないのは、来月の一騎の誕生日近くに行われる特別公演で新しく出るコレクション生写真に印刷するコメントだ。写真の上に手書きのコメントが印刷されたものが何種類か、ブラインドの状態で販売されることになっている。
 一騎が残しているのはあと四枚分。誕生日用のコメントを書いた写真は他にあり、いままでのライブで販売しているものもあり、それらと被らないように新しいものを考えるというのがなかなかに難しかった。
「どうしてもなにも思いつかないのなら、こういうものには定型を決めておくといい」
 原稿の上を白い指がなぞる。覗きこんだ総士が近い。いやに緊張した。
 一騎のペンをとって、総士は裏紙にいくつか例を書いてみせてくれる。よどみない手つきでさらさらと書かれたそれは、次のライブの公演名だった。『真壁一騎&皆城総士 定期公演ライブ「Shangri‐La」Vol.5』。読みやすくてきれいな字だ。
「たとえば公演名を必ず入れるとか、テーマを決めてなにか絵を描くとか。……もちろん絵じゃなくてもかまわないが」
 絵……と情けなく眉を下げた一騎の顔を見て、あわてて言う。図工の授業で飾られていた、けして上手な部類ではなかった一騎の絵を思い出したのだろう。
「なるべく書きやすいテーマを決めて、そのことについて書けばいい。お前だったら……料理についてなんかいいんじゃないか。定型といっても、なにも心がこもっていないというわけじゃない。ちょっとしたテクニックのようなものだ」
 総士のアドバイスをもらい、結局一騎はそれぞれ色を変えて公演名を書いたものを二枚と、最近の夕食の献立について書いたものを二枚、なんとか仕上げた。
 うちの夕飯のことなんかでいいのかと不安になったが、「それくらいのほうがよろこんでもらえる」と総士が言うので、ほんとうになんの変哲もない夕食について、書いた。ああ、これ、もしかしてうちの献立がテレビで流れるのかな。



 総士が見てくれたおかげで残りの書きものもペースよく進み、予定通りの時刻からラジオの収録がはじめられた。
 まだまだ会員の少ないファンクラブ用のネットラジオで、毎週木曜日に更新。ふたりが交互にパーソナリティを務めるものだ。十分という短いラジオで、その十分という枠でさえ満足に話せない口下手なふたりだが、ファンクラブ用コンテンツの少ない現状ではそこそこに再生数も伸びていた。
 録音と編集の手間を考慮して、よっぽどスケジュールの都合がつかないとき以外はふたりの収録日をあわせ、事務所の会議室で何本か一気に収録することになっている。収録自体はひとりでも、同じ部屋で総士が静かに自分の話すことを聴いているというシチュエーションは、いつも一騎を畏縮させた。ひとりで話すということが得意でないことも相まって、精神的につらい仕事だ。自分の収録を待つ間の総士がいつも淡々と台本に目を落として、一騎のことを特別見るでもなく興味がなさそうにしていることだけが、唯一の救いだった。
 しかし今回録るラジオは、来月の一騎の誕生日にあわせてアップロードされる、ふたりで出演しなければならない特別回だった。ライブに何度も足を運んでくれるファンをして、MCを「たまたま帰り道が一緒になってしまった大して仲の良くないクラスメイトの会話」と表現されてしまうふたりだ。
 収録がはじまる前から、机の端に固定され自分と総士を映すカメラに、一騎の心臓はいやな速さで打っていた。テレビの放送では音声をカットしてナレーションをかぶせるということだったが、音だけではなく、自分がぶっきらぼうに話す様子まで撮られてしまうのは、とても気が重い。
「……ということで、これが公開される九月二十一日は一騎の誕生日だ。十五歳、おめでとう」
「あ……ありがとう」
 オープニングトークから、台本が用意されていても一騎は言葉に詰まった。まだ迎えてもいない誕生日を「おめでとう」と総士に祝われると、いったい総士になにを言わせているのかと苦しくなる。あわてて言葉をつなぐ。
「なんか、これ、録ってるのまだ八月だから、変な感じだ」
「そうだな。僕もまだお前に渡す誕生日プレゼントを用意できていない」
「えっ!? い、いいよそんなの」
 総士がそんなふうに考えていただなんて、初耳だ。ぎょっとして顔を上げた先には思いがけずこちらをじっとみつめる真剣な目があって、ついうつむいてしまう。
「僕が用意したいからするだけだ。それとも、僕からは受け取りたくないか?」
「そんな、そういうわけじゃ……でもほんとうに、そういうの、無理してくれなくていいから」
 とつぜんそんなことを言い出したのは、テレビ局の人間がここにいるからだろうか。それとも、これがふたりのファンの聴くラジオだからだろうか。なんにせよ、たとえ総士がどれだけ仕事に責任感を持っているのだとしても、やりたくもないプレゼントになど手間をかけてほしくはない。
 それだけの一心で言い募ると、総士は静かに目を閉じてうなずいた。うつむいた視線の先で、机に投げ出されていた白い手がきゅっと握りしめられる。
「……わかった。それで。十五になって、なにか目標や抱負はあるのか」
「目標……。あんまり、考えたことないけど。……いま、俺はなんにも知らないから。これからいろんなことを知りたい、かな」
 そのあとは、じっと投げかけられる総士の視線のほうに緊張して、いつのまにかテレビカメラの存在を忘れてしまっていた。
 目が合ってはうつむき、目が合ってはうつむきをくりかえす一騎がどんなふうにカメラに捉えられていたのか、確認することがおそろしかった。



 総士は結局、一日、妙に気安かった。
 テレビに映るから、一騎と親しい様子を撮ってもらいたかったのだろうか。メンバー同士の仲が良いグループのほうが、ファンからある種の人気が出やすいということくらいは、一騎だって知っている。しかし総士が、営業のためにしたくもない親しいそぶりを演出するような、そんなタイプだとは思えなかった。
 今日は一日の最後まで一緒に動くスケジュールだったので、当然、帰りも一緒になった。たいてい別仕事のスケジュールが挟まるか、一騎がひとり残って書きものやコメントを片付けるはめになるか、総士が事務仕事で事務所に残ることがほとんどだが、ごくごくたまに、こうして帰りが一緒になる日がある。
 それぞれの最寄りの路線へ乗り換える駅まで、ほんの十数分。ひとりでたどればなんてことはないはずの帰路が、総士がとなりにいる日はとても長く感じる。
 とっぷり日の暮れた土曜日の夜。都心の大きな乗り換え駅へ向かう車内には、仕事や学校帰りの疲れた様子の人々と、休日の外出帰りらしい人、それにこれから出かけるのか、浮かれた空気の人々が入りまじっている。ドア近くに陣取って、一騎は手持ち無沙汰に手すりをつかんだ。混んだ車内は、冷房が効いていてもむっと湿って息苦しい。
 ぼんやりと窓に反射した車内を見ていると、後ろに立つ総士と目が合った。あわてて振り返る。
 思った以上にそばにあった端正な顔に、どきりとした。混んでいる車内で人波を避け、総士はひどく近くに立っていて、向かいあうと胸と胸がふれあいそうな距離だ。
「一騎。新曲のことなんだが」
「あ、ああ」
 息がかかりそうな近さに気を取られ、なにを言われているのかろくに理解しないまま、とりあえずうなずく。
 なんだろう。カメラはもういないのに。一日中ずっと一騎に親しいそぶりを見せていたから、それが残っているのだろうか。
「Bメロの部分、おそらく僕とお前で一節ずつパートが分けられることになる。サビの盛り上がりに向けて、できれば、それぞれのパート間になるべく緩急をつけたい」
 お前はどう思う。
「え……」
 総士がこんなふうに歌のことを聞くのははじめてだった。思ってもみなかった言葉に、少しきょとんとする。
 俺に聴くより、ボーカルレッスンのときに相談したほうが、よっぽどいいんじゃないか。なんと答えればいいかわからず、困った。技術ばかりで、そういった表現が乏しいと注意されているのは一騎のほうなのだ。
 そもそも、曲中の細かいニュアンスはレコーディングのときにあらためて指示されることがほとんどだ。事前にどんなふうに歌を作っていったとしても、結局はプロデューサーや作曲家のイメージにあわせて、レコーディング時に修正することが多い。それでも、この曲に詞を書いた総士にとってはこだわりたいところなんだろうか。
 なんとか返事をしなければならないと、ごそごそとファイルに仕舞ってあった歌詞を取り出した。デモを渡されたあと、携帯に音源を落としてくりかえし聴いたメロディを思い出す。お前はどう思う。一騎だったら。俺だったら、サビに向かって気持ちを高めたいなら、どう歌うか。
「……二回目の最後が、音が上がってくだろ。逆に一回目は落ちてくから、そこの強さをおさえて、そっと着地する……とか」
 なぜそうするのかはうまく言えない。自分が感じたことを分析して、理屈をつけるのは苦手だった。感覚でしか説明できない。
 どうしたらそんなふうに歌えるのかと聞かれた、幼いあの日のことを思い出した。
「なるほど、強調したい部分の直前をあえて弱めるのか……参考にさせてもらう」
 自分の中では納得していても総士を納得させられたかについてはまるで自信がない一騎だったが、総士は総士でひとりうなずいている。こんな意見が、ほんとうに参考になるんだろうか。
 不安にかられる内心のように、がたん、とカーブにさしかかった車体が大きく揺れた。よろめいた人々でいっとき車内がざわつく。
「あっ」
 目の前で大きく後ろへよろけた総士に、思わず手を伸ばしていた。
 とっさに腕を掴み、腰を抱き留めて引き寄せる。転ばずに済んでほっとしたが、胸をなでおろしてみれば、あんなにそばにあって緊張した総士の顔が、さきほどよりずっと近い。
「わ、悪いっ」
 あわててからだを引く。顔が見られなかった。混み合った車内ではたいしてスペースを確保できない。うつむいたままの額を、総士がくすっと漏らした吐息がなぜる。
 あ、笑った。
「ありがとう」
「……べつに」
 近くで揺れていた総士の手が、一騎の甲に偶然ぶつかる。あたたかくて、ほんの少し湿っている。なにも言わないまま、手と手をふれあわせたままでいた。その温度が心地よくて、離れていくのが嫌で。しかし自分からふれる勇気はない。
 ひたりとくっついていた総士の手が離され、ああ、と残念に思っていると、人さし指の先を握るものがあった。
 総士の指だ。
 どきん、と動悸がする。ふれたいと、思っていたのは一騎だけれど。まさか、そんな、総士が――まるで離れがたいみたいに。
 手放すことも、思い切って総士の手を握ることもできない。じわりと手に汗がにじむ。どうしよう。気持ち悪いと思われないだろうか。
 ふれたところが気になって気になってしかたがない一騎をよそに、総士は平然とした様子で窓の外をみつめている。
「……今日は、疲れたか」
 しばらくして、ちらちらと灯りが通りすぎてゆく外から目を離さないまま、総士がひとりごとのようにつぶやいた。
 撮影のことを言われているのだと、それくらいは一騎にもわかった。
「べつに……あれくらい。平気だ」
「そうか」
 なんと言えばいいのかわからずそっけなく答えて口を閉じると、総士もつられたように黙り込む。
 ああ、せっかく総士が話をしてくれたのだから、もっと会話が続くようなことをなにか言うべきだったのか、と後から気づいたが、もう遅い。というよりも、一騎にそんな器用な真似は難しい。
 どうして総士は、一騎のことなど気遣ってくれたのだろう。一騎の様子がおかしかったからだろうか。だとすれば、それは撮影が入った緊張から来るものなどではなく、ひとえに総士が妙に一騎に親しいそぶりを見せたからだ。
 どうして、総士は。
 口に出すか出すまいか、何度か迷って、ふれあったままの手に勇気づけられて口をひらく。
「そ、総士は」
「僕?」
「なんか……今日、いつもと違う」
 一騎の言葉が足りない表現でもなにを言いたいかは伝わったようで、総士は少しおどろいたように目を丸くして、視線を流れる景色から一騎へ移した。
 いっとき、なにかを思い出すように黙り込む。
「……ちがう、か。そうだな。たしかに、いつもと調子は違った」
 淡々と自己分析をするような口ぶりに、焦る。
「体調、悪かったのか?」
「そういうわけじゃない」
 やっと顔を上げてまともに視界にとらえた総士は、一騎をみつめたまま、おかしそうに目を細めていた。
 あ、また、笑ってる。こんなふうに総士が表情を変えるのは、めずらしい。
「……はしゃいでいたのかもしれないな」
 はしゃぐ? アイドルとしてユニットを組んでから、テレビ撮影がはじめてだからだろうか。しかし総士は子役時代にカメラなんていやというほど映ったはずだ。よくわからなくて、黙った。
 ゆっくりと車両の速度が落ちる。そろそろ総士が乗り換える駅だ。
 絡んだままの指を離すのが名残惜しい。なかなか離せないでいると、総士がそっと指をほどいた。ひとりになった手がすうすうと心もとない気持ちがして、ぎゅっと指を握る。
 ぬるい体温の余韻も感じさせない顔で総士は淡々と身なりを整えている。ドアが開いて、じめついた夏の終わりの熱風が吹き込んでくる。
「気をつけて帰れ。また明日」
「……ん」
 ホームに降りる乗客に混ざって、うすい色の髪が階段を下ってゆく。「また明日」って、俺も言えばよかったな。
 総士と別れると、とたんに周囲のざわめきが大きくなったような気がした。冷房が強まったのか、肌寒くなってくる。結局出したままだった歌詞の紙をリュックにしまうついでに、上着とイヤホンを取り出す。
 イヤホンを携帯につなぎ、耳に押し込む。ノイズキャンセリング機能のついたそれは、外でも新曲のデモやカバー曲の確認くらいしろと言って、まだデビューが決まってすぐのころに総士が用意してくれたものだ。
 一騎の携帯には、自分たちが歌うための曲くらいしか入っていない。立ち上げた音楽再生アプリは、このあいだもらったばかりの新曲のデモを開いたままだ。リピート設定にして流す。
 『違う色したってそれぞれ解りあえば――』。自分でも、総士でもない声をくりかえし聴いている。この曲を、総士が選んだ言葉を自分が歌うのだという実感が、一騎にはまだあまりない。
 今日一日、総士が親しげに接してくれるのが、うれしいと思わなかったと言えばうそになる。そして同時に、もし、万が一、それが総士の本心などではなくすべて仕事のためのふるまいだったらと思うと、心の端が暗くなった。
 ぜんぶひっくるめて、一騎がそんなふうに思ってしまうだなんておこがましいと、わかっているのに。
 一騎が総士のために生きることには、確固とした理由がある。しかし一騎には、総士にやさしくされていい理由がない。
 「ありがとう」とやわらいだ笑顔。つないだ手。絡んだ指。
 カメラのいない空間でさえ「はしゃいでいた」と体温を許してくれた総士のそぶりに、どうしても、期待をしてしまう。
 総士を傷つけあんなふうに痛い思いをさせて、そして総士から演技を奪った。きっと自分は憎まれているのだと思っていた。それを確かめるのが怖くて、一騎はずっと総士から目をそらしてきた。
 しかし憎んでいる人間に、あんなふうに笑って、ふれてくれるものだろうか。一騎をみつめる総士の目は、憎むどころか、まるで――なにか特別な色を探してしまいそうになる。
 『開き始めたドアをこじあけて――』。
 知らない人の歌う総士の言葉が、イヤホンから流れ込む。
 このままでは、心の奥に根を張り大きく成長しはじめたその感情を、見て見ぬふりができなくなってしまいそうだ。





 翌週のライブでは、会場入り時間からカメラが入った。
 楽屋入りのところまで撮られて、こんなところを撮って一体なにに使うんだろう、と首をかしげる。総士はいつでもぱりっとした小ぎれいな恰好をしているが、一騎などは結局すぐ汗をかくのだからと、そのままリハーサルに入れるように若干よれたTシャツにジャージ姿だ。こんな所帯じみた恰好を見られて、PRになるどころか、逆にファンをがっかりさせないだろうか。
 今日はお互いのソロ曲のリハーサルの合間を見て、交互にひとりずつインタビューをすることになっている。数日前にはいったいなにを聞かれるのかと思うと胃の底が重くなるような心持ちがしたものだが、当日になってみればなんだかどうでもよくなってしまった。どうせどれだけつくろって見せたところで、一騎の言うことなど底が知れている。それなら、あまり気にしすぎないほうが楽だ。
 楽屋の入口からいちばん遠い奥の席に腰を下ろした総士の、ちょうど背を向けるかたちになる、対角のところを一騎は陣取った。顔を上げると、鏡越しに総士の背中が見える。髪をまとめてリハーサルの用意をしていた総士がふと顔を上げるのが見えて、あわてて目をそらして見ていないふりをした。総士のことをみつめていたいと思う気持ちはほんとうだが、目と目をあわせてみつめあうのは、まだ一騎には心の準備がいる。
「よろしくお願いします!」
 いつものようにステージからスタッフに挨拶をしてはじまったリハーサルは、すべてワンハーフで済ませることもあって、あっという間にソロ曲まで進んでしまった。先に総士のソロがあるから、インタビューの撮影は一騎からだ。
 総士が立つステージを舞台袖で汗をぬぐいながら覗いていた一騎のところへ、大砲のようなカメラを抱えたカメラマンがやってくる。
「そんじゃ、真壁くん、インタビュー、いいかな」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 カメラを構えているのは、先週と同じ人だ。とは言っても、撮影だけを目的にしていたこの間はただ笑いながら一騎と総士の様子をあますことなく撮られていただけで、最後までひとことも発することのなかった相手に、どう話をすればいいかよくわからない。はじめに名乗られた名前もとうに忘れてしまった。
 よくわからない赤や緑のちいさなランプを点滅させながら向けられるカメラに、ぎこちなくうなずく。くもりのないレンズに映った自分からつい目をそらしそうになって、ぐっとこらえた。
「ふふ、緊張してる?」
「緊張……よく、わからないです。慣れることはなさそうだけど」
「ライブは楽しい?」
「あんまり、楽しいとか楽しくないとかは、考えたことないです」
「へえ。じゃあ、いつもどういうこと考えて歌ってるの?」
 つい口ごもる。楽しいとか、つらいとかは、一騎が考えるべきことではない。そういう感覚をなんと言えばいいのか、はたしてカメラの前で口に出してもいいものか咄嗟に判断できず、しばらく黙り込んだ。
 結局、隠そうとしたところで自分にそんな器用な真似はできないと思いなおして、おずおずと口を開く。カメラは待ってくれている。
「……うまくできてるか、とか。総士が言ったとおりに、ちゃんとできてるか」
 総士に乞われてステージに立つようになってから、歌うときにいつも浮かぶのは、ただ総士のことだ。自分ははたして、総士の期待に適うように歌えていたか。総士の望む「真壁一騎」でいられたか。
 一騎が心配しているのは、それくらいだ。
「真壁くんのファンも今日のライブのこと、楽しみにしてたと思うけど」
「そう……なんですか」
 そう言われても実感が湧かず、ぼんやりとした返事だけが口をつく。
 ライブに来てくれるファンは少しずつ増えているが、それはひとえに総士の努力と魅力の成果だ。たまたま一騎のことが目に留まった人もいるのかもしれないが、なんの志もなく、ただ言われたとおりにやっているだけの自分を応援してくれるなんて、申し訳ないとすら感じる。
 暗闇に光る自分と総士の色のペンライトを、どういう気持ちで受け止めればいいのか、いまだに一騎は整理がつかずにいる。
「真壁くんは、もともとアイドル志望じゃなかったんだって?」
「はい。そういうの、自分に関係ない話だと思ってました」
「お母さんみたいな歌手になりたいとは思ってなかった?」
「ぜんぜん。俺は、母さんみたいに特別歌がうまいわけでもないし……」
「じゃあどうしてアイドルに?」
 聞かれるかもしれないと想定はしていた質問だったが、ほんとうにこんな返事をしてもいいものか、一瞬、ためらう。
「それは……、総士が、いたから」
 インタビューがはじまってから、ずっとカメラを覗きこんでいた顔がちらりとこちらを見て、うなずいた。
「真壁くんにとってさ、皆城くんってどういう存在?」
「……」
 とうとう本格的に黙り込んでしまった一騎に、いっとき、沈黙が下りた。
 こんなふうに口ごもって、困らせてしまっていることはわかっているが、それにうまく答える言葉は一騎にはない。こんな、自分でもその手ざわりをわかっていない、誰にも――総士にも言えやしない感情を、どう言い表せばいいのか、一騎にはわからない。
 それでも、ひとつだけいまの自分が持っているものがあるとすれば、それは。
「お、俺……」
「お、ちょっと待って。……はい」
 もう返答を期待していなかったのか、下ろされかけていたレンズがふたたびようやく口を開いた一騎のほうを向く。
 撮られている。煮え切らない一騎の態度も、なにもかも。それがあらためて目に見えてぎくりとしたが、ここで一度言葉にしておかなければ、一生その先へ向かえない気がした。
「俺は、総士の役に立ちたい。総士が、俺にステージに立てって言ってくれるなら……となりに居たいんです」
 総士が、一騎をとなりに置いてくれるのなら。
 ここにいろと言ってくれるのなら。
「……それだけです」
 妙に気まずくなってぼそぼそと締めくくった一騎に、カメラマンはなるほどなるほど、と訳知り顔でうなずく。
「皆城くんのことが大好きってことかな」
「え!? えっと、ん……」
 思いもよらぬ要約をされて、うろたえなにも言えない一騎に、彼は苦笑してレンズを下げた。インタビューはこのあたりで終わりらしい。
 ステージのほうからは、ありがとうございました、とマイクを通じた総士の声が聴こえてくる。ちょうど総士のリハーサルも終わったようだ。
「おっと。そろそろ次は真壁くんのリハか。ありがとう。がんばって」
「あ、ありがとうございました」
 ぽん、と一騎の肩をひとつ叩いて、カメラマンは液晶を覗きこんだ。映像の確認をしているようだ。
 準備の声がかかるのを待つあいだに、総士がステージから舞台袖へ戻ってくる。パイプ椅子にかけていたタオルを差し出すと、ありがとう、とまだ荒い息でつぶやいて、乱暴に汗を拭った。
 ペットボトルの水をあおる総士の、髪を上げてあらわになった首の裏を、つぎつぎと珠のような汗が浮いては流れてゆく。
「インタビュー、終わったのか」
「ああ」
 そうか。総士はぽつりと言うだけで、なにも聞かない。出来を確認されなくてほっとする。とはいえ、いくら編集が入るとはいっても全国放送で流されてしまうものだから、いずれ総士も見ることになるかもしれない。
 となりに居たいと、言った一騎の言葉を、総士は受け入れてくれるだろうか。
「リハ、お疲れ」
 わずかな不安を打ち消して声をかける。総士は無言でうなずくだけだった。
「一騎くんソロです、よろしくお願いします!」
「はい。お願いします!」
 スタッフからリハーサル開始の声がかかり、一騎はあわててステージに踏み出した。
 『真壁くんにとってさ、皆城くんってどういう存在?』――もし、同じようなことを聞かれたら。総士は、なんと答えるだろう。知るのはどこかおそろしかった。そして同時に、まぎれもなく、期待をしてしまっていることも事実だった。



 ソロのリハーサルを終えて戻ったとき、総士もすでにインタビューを終えていた。いったいなんの話で盛り上がっているのか、カメラマンと雑談をしている。
 戻った一騎に気づいて、一緒にリハーサルの続きに戻る。それぞれのソロのあとは、ふたたびふたりで歌う曲がいくつかある。開演までそうそう時間の余裕があるわけではないので、そそくさとひととおりのリハーサルを終えた。
 なにを聞かれた? だなんて、無駄話をする時間がなくてよかった。もっともそんな時間があったとしても、一騎にはなにも聞けなかっただろう。
 楽屋に戻って軽く汗の始末をし、衣装に着替える。ステージに立つ前にメイクをすることには、いつまでも慣れない。まだ僕らは中学生だから、と総士に言わせればずいぶん薄めのメイクらしいが、それでもいろいろなものを肌に直接ぺたぺたと塗るのは、なかなか慣れない感覚だ。
 ふと目の焦点を、自分から鏡越しの総士にあわせる。やわらかい色の髪が、さらさらと流れる背中が見える。総士は髪を梳いて、いつものように下のあたりで結いなおそうとしているようだ。ていねいに梳いてブラシをとおしているが、総士から見えないのだろう、後ろのところで髪はくしゃっと歪んでいる。
 なんでもそつなくできるように見えて、案外、ぶきようなんだよな。そういうところは、昔から変わらない。俺ならもう少し、見栄えよくましに結ってやれるかもしれない。
「一騎」
 口を挟もうかどうか逡巡しているうちに、とつぜん名前を呼ばれてつい姿勢を正した。こっそり見ていたことがばれたんだろうか。そっとからだごと総士のほうへ振り向く。
 総士は、なんだかいつにも増して真剣な顔で一騎へ顔を向けている。
「急な変更だが、今日のラストMCで告知をすることになった」
「告知?」
 あらためて告知するような内容が、なにかあっただろうか。ひとしきり脳内を探してみるが、とくに思いつくものはない。
「年末に、ホールコンサートの日程が決まったんだ」
 総士がむずかしい顔で言う。そういえば少し前から、そろそろライブハウスよりも大きな箱にチャレンジしたいと、総士や溝口がいくつかのホールに問い合わせていた。いろいろな折り合いがついて、早くも年内にはひとつ上の目標が実現するらしい。
 一騎自身は、ホールと言われてもその規模がよくわからない。ライブハウスでさえ、規模によってはずいぶん広いなと圧倒されることがあるのだ。さらにその上、と言葉で言われても、あまり想像がつかない。
 ぼんやりした反応の一騎に、総士は「いままでのライブハウスのキャパは、大きいものでせいぜいが七百人程度だ」とわかりやすく説明をしてくれた。
「ホールとなると、ちいさくてもその倍程度だな」
 いままでの、だいたい倍。いきなりスケールアップをしすぎているような気もするが、いつだってステージに立つときには目の前の光景よりも心を囚われていることのある一騎には、実感が湧かない。
「このあいだ渡された新曲は、ここでの初披露になるそうだ」
「ずいぶん先なんだな」
「ああ。節目と絡ませることで、特別な曲だと印象付けたいらしい」
 特別な、曲。たしかに、一騎にとっても特別だ。総士がくれた歌。そうでなくてもアイドル自身が作詞したというのは、ある程度話題性が見込めるのだろう。はじめてのホールコンサート、というわかりやすいひとつの節目で発表したいという事情は、理解ができた。
 それから……もうひとつ。こちらを見ていた総士が、ふと鏡に向きなおる。
「実は、とあるCMとタイアップして新曲を出すことになった」
「へえ」
 今度こそ、一騎は心から感嘆の声を漏らした。ホールコンサートがどうのというよりも、よっぽどなじみがある。いくら一騎でも、まだ駆け出しの自分たちに、テレビで日常的に流れるCMの仕事が決まるのはすごいことだということくらいはわかる。
 それにしても、ほんとうに急だ。総士が先に仕事や経営に絡む話を聞いているのはいつものこととしても、今日発表するこんなに大きな話がまだ自分にも聞かされていないのはふしぎだった。それほど急に決まったことなんだろうか。
「なんのCMなんだ?」
 総士が口にしたのは、スーパーやコンビニでよく見かける、大手菓子メーカーのチョコレート菓子だった。一騎自身、好んで買うわけではないが、食べたことはもちろんある。
 どんなCMなんだろう。新曲ということは、CDも出すんだろうか。であれば、CMそれ自体のほかにも、撮影はたくさん入るだろう。
 総士とふたりで臨む撮影の仕事が、一騎はあまり得意ではなかった。背中をあわせたり、ほおを寄せたり、手をつないだり、なにかと総士と密着するような姿勢を要求されるからだ。そんなふうに気軽に、自分が総士にふれてもいいものか、いつだって一騎は逡巡していた。
 ライブ中に総士から伸ばされた手なら、まばゆいライトと汗の熱に浮かされたまま、取ることができる。最近、やっと取れるようになった。はじめのうちはうろたえるばかりでうまく返せたためしがなかったものの、何度も場数を踏むうちに、ステージにいるあいだはある意味でスイッチが入るようになった。あの光と熱の中でなら、一騎は総士と体温を分けあうことができる。
 しかし、ライブ以外で、ステージ以外でとなると話が違う。グッズの撮影も、SNSに載せる用の写真も、なにもかも一騎にとっては心臓がひっくり返りそうな過度の近さだ。いままでは自分たちの営業に使うための素材ばかりだったから、ある程度のぎこちなさには目をつぶってくれていたものの、商品のCMともなればそういうわけにはいかないだろう。
 ——だけど、もうそろそろ、手を伸ばすことを怖がらなくたって、いいのかもしれない。
 だって、総士はふれてくれたのだ。カメラも、照明も、ファンの目もない、ありふれたざわめきだけが充満した電車の中で。まるで、離れがたいとでも言うように。一騎の手を――ほかでもない、総士を傷つけた手を、そっと握ってくれたのだ。
 それが、一騎がとなりに居てもいいのだと、せめて総士がつむいでくれた声だと信じたいから。
 そっと決意を秘める一騎を現実に引き戻すように、総士はふう、と大きな息をついた。
「それが……僕とお前の仕事じゃない」
「え?」
 総士が言った言葉の意味が、よくわからない。
 こちらに背を向けた総士の顔を、どんな顔をしているのか知りたくてみつめるが、鏡に映った総士は静かにうつむいていて、影が落ちた表情は一騎からはよく見えない。
「僕と甲洋の仕事なんだ」
 一瞬、ぽかんとした。
 しばらく頭が真っ白になって、フリーズした機械のようになにも働かなくなる。「僕と甲洋の」という言葉の意味がのろのろと這うような速度で意識に染みてゆく。
 そして長い時間をかけてようやく、総士のとなりに立つのが一騎ではないのだ、ということだけは、理解した。
「……そっか。……すごいじゃないか」
 自分が、どんな顔をしているのかわからない。なんとかステージやカメラの前でするように笑ってみせる。うまく笑顔になっていることを祈った。総士はこちらを見ないまま、「ああ」とうなずくだけだった。
 ああ。ファーストライブのあと、「甲洋と仕事の打ち合わせがある」と言っていた総士。あれは、このことだったのか。一騎だけが、なにも知らされていないままだった。
 そのあとのライブのことは、よく覚えていない。
 まざまざと思い知らされてしまった。
 はじめてステージで見せてくれた総士は、あんな顔で、一騎のことを見ていた。
 強烈な光に透ける、まぶしいその目には、いったいどんな景色が見えていたのだろう。
 それを一騎にも、見せてほしい。そしてできることならば、総士のとなりで、その歌を聴いていたかった。ずっと。一騎だけに、許してほしかったのだ。
 やっとわかった。
 気がつくのが、あまりに遅すぎた。
 総士に、他でもない、俺を必要としてほしかったのだ。
 一騎の、一騎だけのパートナーでいてほしかった。
 たとえ総士が、大切なものを守るための武器として、もう一騎を必要としていなくても。いまの一騎はもう、総士が少しずつぶきように伸ばしてくれる手を、つかんでしまった。その温度を知ってしまった。望まれたいと、渇望する心に気づいてしまった。
 「一緒に」と言ったのは、総士だったのに。

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