象牙色の鍵盤を踊るしなやかな指。つややかで桜色をした可憐な爪。とぎすまされた氷の糸のような、高くすきとおる音色。ダークカラーのシャツにきっちりとタイを締めた、おとなびた知性のにじむ容姿の中にも、ほんのひとかけらのあどけないひたむきさを残す少年。グランドピアノの前に腰を下ろした彼が指をすべらせるたび、淡い色の細い髪がさらさらと肩をすべり落ちる。
 孤独に鳴いていたピアノに、甘い歌声が乗る。
 瀟洒な暖炉に火が灯されただけの薄暗い部屋。たっぷりと波打つベルベットのカーテンをなぜて、歌をつぶやきながら彼へ近づく人影。
 もうひとりの少年。
 おとなびた細身のウェストコート。甘い菓子を思わせるやわらかくカールした髪を揺らして、彼はピアノに手をかけ、少年の背中にけだるく覆い被さる。
 物憂げにふりむいた薄いくちびるに、差し出したつややかなそれがそっとふれて――。



「一騎くん、そろそろ時間じゃない?」
「遠見……」
 とつぜん真っ暗に消えたテレビにおどろいて振り返ると、リモコンを持った真矢が困ったように時計を指していた。
 たしかにもうそろそろ出なければ危ない時間だ。あわてて真矢に礼を言って荷物をまとめ、ぼんやりと腰かけていたソファから立ち上がる。
 午前中にひとりでボーカルレッスンを済ませ、午後からのダンスレッスンまでの時間つぶしだった。事務所で特に見たいわけでもないテレビをながめているうちに、ついぼんやりしてしまったようだ。
 総士は、今日は、新曲のリリースイベントがある。午後のレッスンにも来ない。昨日はラジオのゲスト出演と雑誌のインタビューで、一昨日は歌番組の撮影。その前はバラエティの打ち合わせだったか。
 新しいCMの放送がはじまり、最近の総士は、甲洋との仕事が増えた。
 CMの出来も、タイアップした新曲も、どちらもとても評判が良いようだ。ふたりにはラジオやテレビの仕事がずいぶんたくさん来るようになって、レッスンも撮影もラジオの収録も、当分一緒にはならないらしい。
 いまの総士はほとんど、期間限定だったはずの甲洋との仕事の合間に、あらかじめ決まっていた一騎とのライブだけをかろうじてこなしているような状態だ。ユニットだというのに一騎が総士に会えるのは、数週間に一度の定期公演か、テレビや雑誌の中だけだ。
 時間つぶしに眺めていたテレビから流れてきたのは、そしてつい見入ってしまったのは、総士と甲洋の出る例のCMだった。もう九月もなかば、これからの寒い季節を感じさせる明度の低いライトや音楽、そして知的な表情やけだるげな色気を全面に押し出した映像は、率直に言って総士にとてもよく似合っていた。そばにいるのが、総士と同じく年齢のわりにおとなびている甲洋だというのも大きい。
 いつだってどこかぶっきらぼうさが拭えなくて、デビューから時間を重ねてもなかなかぼうっとした素人くささの抜けない一騎と一緒の仕事だったなら、きっと、こんな総士の一面は絶対に見られなかっただろう。
 総士は、父の残した事務所を守るためにアイドルをやっている。しかし、彼の動力になっているのは、きっとそれだけではない。アイドルの仕事自体も向いていたのだろう。ファンの人たちのことをとても大切にしているし、人前で歌ったり踊ったり話したりすることが得意ではないなりに、レッスンやライブにひたむきに打ち込んでいる。総士は自分の大切なもののために、未来を見ている。そんな総士の足を、ただなんの展望もない自分がひっぱってしまうのはいやだ。
 だけど、総士には俺の、俺だけのパートナーでいてほしい。
 ――そんなことを言えるわけがない。
 不安と劣等感。それに――自己嫌悪。
 一騎にもっと才能があり、そして努力を惜しまなかったのなら。総士のとなりにいられる資格を、与えられただろうか。最近は、そんな詮無いことばかりが思い浮かぶ。
 もっとも、そう思っているのは内心だけで、結局はライブにもラジオにも握手会にも身が入らないままでいる。一騎にとっての「アイドル」には、総士の存在が必要不可欠だ。総士から求められてステージに上がった。総士のとなりにあるために、そこに立ち続けることを決めた。どうしたって現状に塞いでしまうのは避けられなかった。
 そんな一騎の様子など、とっくに気が付いていたのだろう。この間はとうとう総士にも直接叱られてしまった。
 つい先日の、一騎の誕生日公演のライブが終わったあとだ。
 一騎の色のペンライトで一面の客席に応えたアンコールも済んで、残すは終演後の握手会だけだった。最後まで客席に手を振りながら舞台袖にはける総士を目の端にとらえながら、ああ、疲れたな、と他人事のように思った。
 やっとまともにかたちになってきたと思っていた総士とのパフォーマンスは、ここ最近の総士の多忙の影響でレッスンとリハーサルも最低限になり、またふりだしに戻ってしまったかのようだった。至近距離で目と目をあわせるところでは甲洋とのパフォーマンスで総士が見せる表情がちらついて顔をそらしてしまうし、甲洋がどんな手つきで総士にふれたか思い出してしまって、その肌にふれることも、ふたたび一騎には難しくなっていた。
 楽屋で簡単に汗の始末をして、握手会の準備に整ったステージへ戻る。疲労と心労の募ったからだは雲の上を歩くようにあいまいで、ふわふわとどこか現実味がない。しかし全身は鉛のように重く、ほんとうならすぐにでも、楽屋のソファに全身を投げ出して眠ってしまいたい。
 ライブ終わりの握手会は、まるでベルトコンベアの流れ作業のようだ。会議室のような長机をへだてて、目の前をファンの人たちが握手をしながら歩き去ってゆく。
「一騎くん、お誕生日おめでとう!」
「あ、ありがとうございます」
「ダンスかっこよかったです!」
「ありがとう」
「ソロよかったよ! 十五歳楽しんでね」
「はい」
「かずくん、今日もかっこよかったよ~! おめでとう!」
「ありがとうございます」
「カズキ! 生まれてきてくれてありがとう!」
「え? あ、ど、どういたしまして?」
 ひとりにつき一言、多くてもせいぜい二言返せれば十分な握手の短さ自体は、 けして話すことが得意ではない口下手な一騎にとっては助かる。しかしやはりライブ終わりの疲弊したからだには、いくら一騎の体力が人より優れているといっても、とうてい楽な仕事ではない。
 総士だってけして口数の多いほうではないのに、こういうときばかりは器用だ。ファンの人たちが熱心に浮かされた目で総士をみつめながら、あるいは気軽に投げかける言葉に、ほほえんだり、おどろいたり、くるくると表情を変えて対応してみせる。
 こんな一瞬で言われたことにどう返すのが正解なのか、とても一騎には判断がつかない。めまぐるしく変わってゆく人の波に、条件反射のように「ありがとうございます」「ありがとうございます」と口ばしる。かろうじてこわばっていないだけの笑顔を浮かべて、それが誰のものかもほとんど意識しないまま、差し出される手を握り続けた。
 無事に握手会が終了し、すべてのファンにそつのないアイドルの顔を見せおえた総士は、楽屋に戻るなり深い深いため息をついた。
「一騎。なんだ、あの歌は」
「え……」
 うなるような声に、ぎくりと身がすくんだ。音を大きく外したとか、歌詞や振りを間違えたとか、今日のライブでは大きなミスはなかったはずだ。しかし、最近の自分の気のゆるみ方は自覚していた。総士に叱られる原因ならいくらでも心あたりがある。
「惰性で歌っても意味がない。それくらい、お前だってわかっているだろう」
「……ああ。ごめん……集中できてなかった」
「……最近のお前が、まるで仕事に身が入っていないと言う人もいる」
 なにも言えずにくちびるを噛んで黙り込む。最近のからっぽなパフォーマンスでは、そう思われてもとうぜんだ。人の感情に敏感なたちではないが、現場で自分がスタッフにどんな目で見られているかくらい、わかる。
「スタッフだけじゃない、ファンにもだ。正直、僕もそう思わざるを得ない」
 どきっと大きく心臓が跳ねて、動悸がする。一騎の態度が総士をいらつかせていることにもうすうす気づいていたが、いざ言葉ではっきりと告げられると、覚悟していたよりもショックだった。
「それに、握手はいつにも増してひどかった。今日はお前の誕生日を祝うために来てくれた人だっていたんだぞ」
「わかってる……」
 とても総士の顔を見られずうつむいたままの一騎の視界の端で、白いこぶしがきつく握りしめられる。
「——やはり、お前にとってはライブも握手も、しぶしぶやっていることなんだな」
「……そ、そんなんじゃない、俺は……っ」
 はっと顔を上げたときには、とっくに総士は背を向けてしまっていた。これ以上聞く気はない、とでも言うように、一騎のほうをちらとも見ずに身支度をはじめる。いつものミーティングもする気はないようだ。
「あ……」
 はっきりとつきつけられた拒絶に、もうなにも言えず、ただ口ごもるしかなかった。
 狭い楽屋の、大股で歩けばたった三、四歩の距離が、とてつもなく遠く思えた。
 一騎と総士はふたりの、ふたりだけのユニットだ。とうぜん、総士がべつの仕事で忙しくなれば、一騎はとたんにひまになる。
 ――だから、総士をユニット外でさかんに活動させるなら一騎にも、と事務所が考えるだろうことくらい、わかっていた。午後からのダンスレッスンは、そのためのものだと聞いている。
 気が重い。アイドルだなんて、歌って踊るだなんて、総士に「頼む」と言われたからでなければ、自分からやるわけがない。
 一騎がアイドルでいるには、総士のとなりにいることが必要不可欠なのだ。
 総士以外のだれかのとなりで笑顔を作りながら歌う自分が、一騎にはどうしても思い描けない。





 一騎と組むことになった将陵僚は、同じ事務所の中でもすでにそれなりの知名度のある若手俳優だ。本業は俳優だが、ドラマやミュージカルの出演経験を通して歌手デビューを済ませており、それ専門で学んだのかと勘違いするほど歌もうまい。
 一騎と僚が期間限定のユニットで売り出す曲は、僚が主演を務めるドラマの主題歌だ。高校生同士の恋を描いたラブコメディで、曲自体もあどけなくさわやかなつくりのものだった。
 一騎と総士のふたりには、いままで書かれたことがないタイプの曲だ。そして今回、総士と甲洋に与えられた曲とも全く違うテイストだった。
「よろしくな、一騎」
 レッスン室ではじめて顔をあわせた僚は、ただ黙ってうなずくだけの一騎にもいやな顔ひとつせず、やわらかい顔で笑ってみせた。
 練習が進んでも、もともと誰とでも打ち解けるタイプではない一騎の態度はいつまでもぶっきらぼうで、印象もけして良くなかっただろうに、僚はなにかと一騎を気にかけた。そして一方でほどよく放置し、ときおり、まるで内心を見透かすようなアドバイスを寄こした。
 パフォーマンスの相性もいい。僚の歌はそれだけで歌手として通用するほどで、総士と歌うときには常に意識しているようないろいろなことに気を遣わず、一騎は自由に歌うことができた。
 総士はロングトーンでほんの少しピッチが落ちるくせがあるから、たいてい一騎が意識してわざと低く取り、合わせるのだ。
 僚との距離感は居心地がよかった。けして近づきすぎることなく、しかし遠すぎることもなく、いつでも一騎が緊張せずにすむ距離を保ってくれる。息のしやすい関係だ。
 ――それでも、僚は総士じゃない。
 すっかり日没が早くなった秋の夕暮れ。帰りの電車に僚とともに乗り込みながら、一騎はぶるりとわずかにふるえた。冷たい風がむきだしの首筋を撫でる。暑さ寒さにはわりと強いほうだから油断して薄着で出てきてしまったが、もうずいぶん肌寒くなってきた。そろそろもう少し厚い上着を着てくるべきだろうか。
 僚とのレッスンも回数を重ねて、来週にはとうとう新曲の発売日だ。じきにすぐ十月になるだろう。アイドルの仕事をはじめてから、ぼんやりと毎日をやりすごしていたころよりも、日々がすぎていく速度はひどく早くなった。仕事やレッスンをこなしているあいだに、日が暮れてしまうのもあっという間だ。
 それが、たとえ総士のいない日々でも。
 屋外にむきだしのホームからわずかに暖房が効いた車両に乗り込んで、身にしみる寒さがやわらぐ。ほうっと息をついた。いつもの習慣で、まわりの雑音を締め出すように上着のポケットからイヤホンを取り出す。
「お、それ、ユニットの新曲?」
 携帯をいじりだした一騎に、僚が再生アプリの画面を覗きこむ。
「はい」
「年末にホールコン、あるんだろ。俺も行くよ」
「ありがとう……ございます」
 屈託なく笑う顔をまっすぐに見られない。それまで、はたして、総士のパートナーのままでいられるのか、それすら一騎にはわからない。
「聴いてもいいか?」
 うなずいてイヤホンを渡す。僚が片耳につけたのを確認して、再生ボタンを押した。周囲の騒がしさにまぎれて、一騎の耳にも明るいイントロがかすかに聴こえてくる。僚はちいさく笑って、ふーん、とつぶやいた。
「……これ。総士が書いたんです。詞」
「へえ。総士が?」
 黙って聴き入り窓の外を眺めていた僚が、意外そうに目を丸くする。
「あいつが……なにを考えて、この歌を作ったのか。考えてるけど……」
「……いい歌だな。お前の声によく合いそうだ」
 いたずらっぽく笑われて、なんと答えていいかわからない。口を開けないまま、ぽつぽつと灯る家の明かりが風のように過ぎ去ってゆく真っ暗な景色に目をそらす。窓枠の中に車両の景色がてかてかと反射して、どこか遠く現実味のない絵のようだ。僚は一騎のとなりで両手でつかんだつり革に体重をかけたまま、目を閉じて聴き入っているふうに見える。
「あいつがなにを考えてるのか、か」
 再生が終わった携帯の画面が暗く落ちる。イヤホンをこちらへ返しながら、どこかつかみどころのない先輩は、ぽんと一騎の肩を叩いた。
「直接聞くのが一番だけど、そうでなくても……この歌詞のとおりなんじゃないか?」
「え?」
「『僕ら違うけれど同じ夢みる』ってさ」



 ただいま。
 誰もいない玄関でつぶやいた声を受け止めてくれたのは、靴箱の上に飾った母の写真だけだった。明かりの落とされた一軒家はどこも冷えきって、しんと静まり返っている。
 冷蔵庫にあるもので適当に夕食を作って食べ、史彦の分はラップをかけて置いておいた。今日もまた、史彦の帰りは遅くなるようだ。
 後回しにしていた学校の宿題をなんとか片付け、風呂を終えて簡単なストレッチをこなす。いつもならば早々に布団に入ってしまうところだが、一騎はめずらしくもう一度勉強机に腰かけた。何度か時計を確認しながら、そわそわとそのときを待つ。
 そして日付が変わってすぐ、更新された自分と総士のファンクラブのラジオを再生した。
『……ということで、これが公開される九月二十一日は一騎の誕生日だ。十五歳、おめでとう』
「……ありがとう」
 イヤホンから聴こえる総士の声に、ぽつりと返事をする。日付が変わって今日、一騎は十五になった。総士は忙しくしているから、きっと直接同じ言葉を聴かせてもらうことはできないだろう。
『あ……ありがとう。なんか、これ、録ってるのまだ八月だから、変な感じだ』
『そうだな。僕もまだお前に渡す誕生日プレゼントを用意できていない』
『えっ!? い、いいよそんなの』
『僕が用意したいからするだけだ。それとも、僕からは受け取りたくないか?』
『そんな、そういうわけじゃ……でもほんとうに、そういうの、無理してくれなくていいから』
『……わかった』
 ぎこちない会話に目を閉じて、冷たい勉強机につっぷす。まぎれもなく自分と総士が交わしたはずの会話だが、こうも時間が空くと新鮮に聴こえた。目を閉じてじっと耳をすますと、総士のしずかな声がいつもより少し低くなっているのがわかる。
『それで。十五になって、なにか目標や抱負はあるのか』
 話題を切り替えるように総士の声色もわずかに明るくなり、ぱきりと声質を変えた。
 ああ、こいつって、こういうところ、ちゃんとするんだよな。いまさらそんなことを感心する。思えばいつだって、総士は一生懸命だ。一騎のあいまいでぼんやりした、目標とも言えないような話にも、ちょうどよいところで相づちを打ってくれる。
『総士はなにかあるのか。目標』
『誕生日でもなんでもない僕になぜ……』
 それ以上話を広げられなかった一騎の苦し紛れの話題振りに、あきれた声が苦笑する。それでも総士はまじめに考えて、答えを返してくれた。
『まあ、そうだな。目標ならたくさんあるぞ。まずは、もっと大きい会場でコンサートがしたい』
『ふうん』
 自分の気の抜けた返事が間抜けだ。
 そういえば、これ、叶うんだっけ。総士がどんなところを思い描いて「大きい会場」と言っていたのかはわからないが、いまのライブハウスの倍の規模となれば、十分「大きい会場」と言えるだろう。
『テレビやここ以外のラジオの仕事もできたらいいな。――ああ、これに関しては、いまはまだオフレコですが、そのうちにうれしいお知らせができると思います』
 ちょうどこのとき入っていた撮影のことだ。総士の声がやわらかくなって、ファンへ向けた敬語になる。
 あのとき、総士はマイクに向かって話しながら、ふたりを撮るカメラのほうをちらりと横目で見やっていた。やっぱり、大きい仕事が入って、うれしかったのか。「はしゃいでいたのかもしれない」とおかしそうに笑っていた横顔を思い出す。
『それに……いまはライブでのカバーも多いが、早く僕たちの歌だけでセットリストを組んでみたい』
『あ、そうだな。まだ半分くらいカバーだし』
『僕とお前の歌が増えるのはうれしい。一騎はどうだ?』
 しずかな声がすなおに口にした言葉に、胸の奥がしめつけられた。
 ――この歌詞のとおりなんじゃないか? 『僕ら違うけれど同じ夢みる』ってさ。
 いままでずっと総士のとなりにいたはずの、何度も何度も総士の言葉をくりかえし聴いていたはずの一騎には、ほんとうはなにも聴こえていなかったのかもしれない。
 もしかしたら総士はずっと、こうしてすなおに、一騎に伝えようとしてくれていたのに。
『え? うーん……そうなったらいいな』
「俺も、うれしいよ」
 そうだ。
 総士のとなりにいられることは、総士と一緒に歌えることは、うれしいことだ。総士もそれを、「うれしい」と言ってくれるのなら。総士のとなりにいることを、許してくれるのなら。
 一騎はそこに、総士のとなりに立っていたい。
 ラジオを撮ったあのときには――いまも、まだうまく言えない。そばにいたいと、総士のパートナーでありたいと、そんなことを自分が口にしてしまってはたして許されるのか、不安なままでいる。
 それでも。
 たとえいまは、べつべつの場所にあっても。それは同じ未来へ向かうためだと。
 総士は一騎との未来を望んでくれていると――そう自惚れることを、許されるだろうか。





「あ……」
「……一騎」
 翌日は土曜日だった。もともとはオフの予定だったが、溜まりに溜まった書きものをいい加減にそろそろ片付けてくれ、と溝口にせっつかれ、事務所に出てきた一騎は午前中から会議室に缶詰めになっていた。
 一騎にしてはまじめな態度でとりかかってなんとか半分以上は片したが、夕方にさしかかり、切れてきた集中力とあともう少しで終わりそうで終わらない量を天秤にかけ、今日はもうあきらめて帰ろうとしたとき。
 会議室の扉を出たところで、総士とばったりはちあわせた。
「総士……」
 最近は多忙な総士とまさかこんなタイミングで会うとは思っていなかったので、とっさになんと声をかければいいのかわからなくなり、口ごもる。
 総士とまともに顔をあわせたのは、あの、叱られたライブが最後だ。さすがに少し気まずい。
 いや、だけどあれは、総士は理由なく怒っていたわけではなくて、いつまでも不甲斐ない一騎に対して叱咤してくれていたのだ。自分を鼓舞して、せっかく会えたのだからせめてもう少し会話がしたい、と気合を入れて顔を上げる。
「それで? 書きものは終わったのか」
 そしてまじめな顔の総士に現実をつきつけられ、空気の抜けた浮き輪のように勢いをなくしてしまった。
「……えっと」
 顔をあわせない日々が続いても、ユニットとしてお互いの仕事の予定は溝口を通してふたりに伝えられていた。オフのはずの一騎が事務所に出てこざるを得なかった理由も、おそらく溝口に聞いたのだろう。
「まだなんだな」
 胸を張って肯定することもできず視線をうろうろとさまよわせる一騎に、あきれた顔がため息をつく。とりあえずここまで終わらせたのだからいいだろう、とさじを投げたことなどお見通しらしい。
 このあいだ――カメラが入った日――は総士がついて見てくれていたからいままでにないスピードで書きあげることができたが、ふだん一騎がうんうんうなりながらのろのろ動かす筆の遅さなんて、もちろん総士はよく知っている。
「い、いちおう進んだんだぞ。……半分くらい」
「何時からやっていたんだ?」
「う。……十時」
 こんなに時間をかけておいて、やっと半分か。自分でもあきれて肩を落とす一騎に、総士はくすっと笑った。首をかしげた拍子に、前髪がさらりと流れる。
「お前にしてはがんばったな。お疲れ」
「……ん」
 ひさしぶりに目にした総士の笑顔に、なぜかほおが熱くなった。
 総士にほめられるのは、少し前までの一騎にとっておそろしいことだった。とても身の丈には合わないような扱いをされている気がして。総士から労わりの言葉をかけられるたびに、おまえにそんなふうに言ってもらうためにやったんじゃないと、身がすくむようだった。
 いまは。いまも、総士にやわらかい声を向けられると、喉の奥が苦しくて、胸がぎゅっと締めつけられる。だけどそれは、いやな苦しさではない。
 思っていたよりも砕けた、以前のようなやりとりに一騎はほっと胸をなでおろした。
 ほんの少し余裕ができて、あらためて総士の様子を伺う。なにか事務所に用事があったのだろうに、総士はぼんやり立ちつくす一騎の前から動こうとはしない。上着も着こんだままだ。
「総士こそ、今日はどうしたんだ。忙しいだろ、最近」
「どうしたって、今日はお前の……」
「俺の?」
 総士はどこかむっとした様子で、しばらく言葉を探すように何度か口を開いたり閉じたりしたあと、ぼそぼそとつぶやいた。
「……今日は、お前の誕生日だろう。おめでとう」
「えっ? あ、ありがとう」
 日付が変わってすぐに、ラジオでもう聴いた言葉をかけられて、ついうろたえる。こんな仕事をしているから、デビューする前と違って「誕生日」はもうひとつのイベントのようになっている。忘れられているとまでは言わないが、まさかこうして総士から直接言ってもらえるとはつゆとも思っていなかった。
 それ以上、胸に湧いた感情をどう言葉にすればいいのか黙り込んでしまっているうちに、こころなしかうつむいていた総士が気を取り直したように一騎をじっと見る。
「今日はもう帰るのか」
「ああ。総士は」
「僕も、帰る」
「そっか」
「……」
 それきり落ちた沈黙に、からだがかあっと熱くなった。じんわり汗がにじむ。自分が言おうとしていることに、心臓がさきばしってどきどきと走り出した。
「い、一緒に、帰るか」
「ああ」
 思い切ってかけた言葉に迷いなくうなずかれて、なんとも言えないむずがゆさのような、痛みのようなものが喉の奥にわだかまる。一騎と同じく、総士も今日明日は久しぶりの連休のはずだ。
 甲洋との仕事で毎日を忙しくしている総士が、せっかくの休みの日にわざわざ事務所まで出てきた理由。
 ――期待をしてしまう。
 妙ににこやかなスタッフに見送られながら並んで事務所を出た。外はすっかり日も落ちて、土曜日だというのにこうこうと灯ったビルの明かりが目にまぶしい。
 とくに会話らしい会話もないまま、ふたりで無言で駅までを歩く。事務所から駅までは歩いてほんの数分、十分もかからない距離だ。電車に乗れば、ふたりが別れる駅まで、十数分。
 総士とこうしてゆっくり話す時間がほしいと思っていたはずなのに、いざそれが与えられてみると、どんなことを話したかったのか、どんなふうに話せばいいのかわからなくなる。
 聞きたいことも、聞いてほしいことも、たくさんある。しかしすぐそばにあるこの関係があまりに大切すぎて――なにも知らないままで口を開けば、また、なにかを傷つけてしまいそうで。
 こんなことに悩まずに、無邪気に言葉をかわしていた日がとてつもなく遠い昔に思える。
 びゅうっと吹き付ける風があまりに冷たく、身がすくんだ。事務所の周りは大きいビルが多く、風が強い。
「なにか、僕にしてほしいことはないか」
「えっ?」
 前を見てもくもくと歩いていた総士がとつぜんこちらを向いた。
「お前の誕生日だろう。プレゼントも断られたんだ。それくらいはさせてくれ」
 僕とお前は、ユニットなのだし。きまじめな声で続けられ、ん……と口ごもる。
 誕生日のプレゼント代わりに、なにかしてくれるということだろうか。ラジオで聴いた、かたくなに総士のプレゼントを断ろうとする自分。それにしずかに応えた、しかしまちがいなくトーンの落ちた総士の声が、まだ頭に残っている。
 総士が差し出してくれた厚意を、もうつっぱねることはしたくない。
「えっと……、じゃあ、相談に乗ってくれないか。仕事のことなんだけど」
「なんだ」
 ひとつだけ思いついたことをおずおずと提案すると、総士の涼し気な目元がわずかにやわらぐ。
 ああ、やっぱりだ。総士はきっと、一騎がアイドルという仕事に対してまじめに向き合わないことに苛立っていた。だからこうして一騎が前向きにやる気を出しているということを知れば、ほっとしてくれるはずだ。
「僚先輩との歌でさ。どんなふうに歌おうか迷ってるところがあって」
 うそではない。僚との曲はいままでに歌ったことのない方向性のもので、レコーディング自体はとっくに済ませていたものの、これからステージでどう歌うべきなのか総士の意見も参考に聞きたいとは思っていたのだ。あの日のあの電車で、新しい曲をどんなふうに歌えばいいかと、一騎に尋ねてくれたときのように。
 聴いてくれないか、と上着のポケットからイヤホンをごそごそと取り出す。携帯に差し込んで片耳を差し出すが、総士は黙ったまま、なぜか受け取ろうとしない。
「総士?」
「……ずいぶん熱心なんだな」
「え? そりゃあ……僚先輩に迷惑かけられないし」
 一騎から目をそらして、総士はくちびるを噛む。かたちのよい桃色がいびつに歪んだ。差し出したはいいが受け取ってもらえなかったイヤホンの行き場がなくなって、困惑したままひとまずポケットに戻す。
「お前がそんなふうに一生懸命なところは……はじめて見た」
「そ、そうかな」
 ほっとした。よくわからないが、どうやらほめられたらしい。静かな声がぽつんと落ちる。さっきも感じた、胸の奥がぎゅっとするあの感覚がむずがゆい。
「……」
 総士はそれきり黙り込んだまま、なにも言わない。
「総士?」
「いっそ……」
 のろのろと足を止めた総士に、一騎も歩道の端に立ち止まった。どうしたんだろう。気分でも悪いのかと思い、顔を覗きこもうとするが、総士はいやがるように顔をふせた。低い声が早口に言う。
「いっそ、僚先輩と組むか?」
「え?」
「僕はそうしたってかまわない」
 仕事帰りの人が行き交う雑踏に紛れそうな、ちいさな硬い声だった。
 いったいなにを言われているのかわからない。
 ほんとうに総士が言ったことの意味がわからず、それをそしゃくする間もなくつぎつぎと言葉を向けられて、ただただ困惑する。ちょっと待ってほしい。どういう意味か説明をしてくれ。
「総士、なに言ってるんだ?」
「そうすることでお前がほんとうに心から歌えるのなら。ユニットを解散してもかまわない」
 解散。
 心臓が止まったのかと思った。
 総士がなにを言っているのかわからないまま、きっと一騎がいちばん聞きたくなかった言葉だけが、まっすぐに耳に届いた。頭が真っ白になって、周囲から音がなくなる。ここがどこだかわからなくなる。自分が立っているのか座っているのかすら。
 一騎をすべてから締め出すように、総士が背を向ける。
 思い出したように、心臓が信じられない速さで動きだした。胸が痛い。耳の奥がどくどくとうるさい。ひどく喉が渇く。まだ一騎はなにもわかっていないのに、心よりも先にからだが理解しているみたいに、がくがくと足がけいれんする。指先がぶるぶるふるえておぼつかなくなる。
 いやだ。理解したくない。その意味が脳みそに届きそうになって、頭がとっさに拒否をする。
「……冗談だよな?」
「僕がこんな冗談を言うと思うか」
 総士の言っていることをまったく理解できないのは、まるで、一騎とのユニットを解消したがっているように聞こえるのは、一騎の頭が馬鹿すぎるからだと言ってほしい。いつものように。お前はもう少し自分で考えろ、と。あきれた顔でため息をついてはくれないだろうか。
 どんなにどんなに願っても、ぴんと伸びた背中は振り向いてはくれない。
「それに……そのほうが評判もいいようだ」
 総士の声が、自嘲するようにひずむ。
 ひえた指先まで鮮烈な痛みがずきっと走って、一騎はやっと、自分が傷ついていることに気が付いた。全身の血液がどろどろに冷えて固まった鉛になったようだ。心臓が動くたびに、何度でも新鮮に痛みが走る。
「俺と、ユニットじゃなくなってもいいって、……本気で言ってるのか」
「だからそう言っている――一騎?」
 どうして、そんなふうに言うんだ。
「――わかった」
 総士が、いらないと言うのなら。
 もう、一騎がとなりにいる必要はないと言うのなら。
 歌う意味も、アイドルでいる意味もない。
 ――総士がなにを考えているのか、一騎にはわからない。
 怪訝そうな声に、背中を向けて駆けだす。いまの一騎にできるのは、ただ総士の前から一刻も早く姿を消す、それだけだった。

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