四月。コンサートのために書き下ろされたユニットのシングル曲が発売され、合同コンサートに向けてのスケジュールがいよいよ本格的に動きはじめると、ふたりは一気に多忙になった。
 レコーディングやジャケット撮影、MVの撮影が済んで発売日を迎えても、本番に向けたダンスレッスンに余念はなく、隙間の日程には全国を巡ってのリリースイベントがねじこまれる。
 そんな日々の中、やっと迎えたオフの一日。総士はひさびさに自宅のベッドに横たわりながら、静かで穏やかな時間をだらだらと堪能していた。分刻みのスケジュールや絶えまない歓声やざわめき、同行者のきりのないおしゃべりなどに追われない時間はひさしぶりだった。
 すでに時刻は午後十時。カーテンを閉め切った窓の外もすっかり日が落ちて、入浴もあすの準備も済ませた。あすからは、また怒涛のスケジュールがはじまる。
 今日はほとんど一日、ベッドでうとうととまどろんでは目を覚まし、ぼんやりと携帯をいじったり文庫本を開いているうちにまた眠気におそわれて気が付くと寝入っている、という自堕落の極みのような過ごし方をしてしまった。
 いくら一騎ほどの体力はないとはいえ総士も健康な成人間近の男性で、日々のトレーニングも一応欠かさないプロだ。きついといえばきついにはちがいないが、単に肉体的な疲労だけであれば、ここまで疲弊したりしない。
 総士がこれほどぐったりとくたびれてしまった理由はひとつ。ともにスケジュールをこなす相手が、一騎ではないからだ。今回発売されたシングルは、コンサートを記念して一騎と甲洋、総士と操のユニットに分かれてのものだった。
 操に不満があるわけではない。くるくると表情が変わる無邪気なところも、世間知らずで何にでも好奇心旺盛なところも、感情を素直に表に出すところも、少々疲れこそするが見ていて飽きず、好ましいとすら思う。
 十六のとき、総士のことを歌番組で見た勢いでみずから事務所の戸を叩きそのままデビューが決まった、という破格の経歴を持つだけあって、彼の歌やダンスなどのパフォーマンスも申し分ない。操が悪いわけではけしてないのだ。
 ただ、違っていた。一騎と過ごす日々とは。当然だ。ふたりは別の人間なのだから。
 いつだって左隣にいた一騎が、いない。左目の死角から伸びてくる手をさりげなく遮ってくれることも、はじめて訪れる場所で総士から見づらい場所にある障害物をなにも言わずによけてくれることも、スタッフが総士の視野の外にあるものの話をしている最中、自然と言葉で説明を補ってくれることも、ない。
 なにも操に一騎のようにしろと言いたいわけではない。一騎のそれは、むしろ、過剰だ。総士以外のだれにも気づかれないほどのさりげなさで、自然さで、しかしひとりでも問題なく日常生活を行える総士に施すには、過剰なくらいの気遣いだ。
 それでもその違いが毎日のように降り積もり、重なってゆくにつれて、総士の中に解消できない澱のような、ぬぐいきれない違和感のようなものが溜まっていった。
 一騎がいなくても、総士は生きてゆける。アイドルとしての仕事も問題なくこなせる自信がある。しかし、その一騎の手が、言葉が、存在が、どれほど総士の中で大きな場所を占めているのか。それをまざまざと思い知らされるような心地がして、余計に神経をすり減らされてしまったのだ。
 先週末のリリースイベントなど、二日間で六都市を回るかなりの強硬スケジュールだった。各地のショッピングモールや書店での簡単なテーマにあわせたトークショー、それに握手会というシンプルなイベントだが、なにせ朝から晩までせわしない。おまけに操は総士と一緒の仕事がうれしいのか、移動時間にも興奮してのべつまくなしにしゃべっているありさまで、付き合わされた総士も移動中にまったく休憩を取ることができず、さんざんだった。
 食生活も身だしなみも最低限のものをこなすだけの、よれよれの総士を「あー、わかった。皆城くん、一騎くん不足なんでしょう」とからかったのは、地方土産を渡しに事務所へ立ち寄ったとき、居合わせた真矢だったか。「そうやって髪をゆるくひとつ結びにしてるのって、一騎くんがいなくてめんどうなときだよね」と。次に一騎と一緒になる仕事は、一週間は先だったか。
 情けない自分の醜態にため息をつきながら、SNSのアプリを開く。あすは朝からラジオへの生出演、それに夕方からも都心のCDショップでのお渡し会がある。どんなにぐったりしていても告知だけはしておかなければ。フリック入力をする指もけだるい。
『あす朝七時から、操と二人でみらい放送「ななまる!」にゲストでお邪魔します。通学通勤や家事、はたまた就寝のお供にぜひお聴きください。
 また十八時からは、BASブックス中央通り店にて皆城総士+来主操ニューシングル「逆光で君が見えない」のお渡し会です。皆さんに会えることを楽しみにお待ちしています。』
 添付する画像をしばらく探してデータフォルダをさかのぼるうちに、最後に撮った一騎の写真が三月末に撮った二週間以上前のものだといまさら気がついた。ため息をついて、その最後に撮ってあったものを添付する。コスメのCM撮影を行った日、帰りの車で総士の肩に寄りかかって眠りこんでしまった無防備な顔。投稿しました、と表示されたいつもの画面が妙に空しい。
 今日とあすは、一騎と甲洋が先週末の総士たちと同じ行程をこなすリリースイベントが開催されている。いまごろ、一騎もホテルで休んでいるところだろう。電話をかけようか少し迷ったが、いくら体力に優れている一騎といえ、一日中移動に次ぐ移動、そしてトークショー、握手会で、少なからず疲れているだろうところを付き合わせるのはさすがに気が引けた。
 こんなに一騎と顔を合わさない日々を過ごしたのは、五年前に総士と甲洋が期間限定のユニット活動を行ったときぶりかもしれない。それでもあのころはけっこうな頻度で定期公演を行っていたこともあり、スケジュールの合間に必ず直接顔を見る日があった。
 その点、この二週間はひどいもので、ユニットだというのに直接会うどころか総士が一騎の顔を見たのはSNSで上がる写真か、テレビで流れてくる芸能ニュース、それにテレビCMくらいだ。
 そういえば、今日のイベントの様子も早速ネットニュースになっていたか。
声を聴けないのならばせめてその様子をと、ブラウザを立ち上げて、ニュースサイトを開いた。『真壁一騎+春日井甲洋ニューシングル「ちゃんと蒼だよ。」発売記念特別イベントレポート』。ちょうどトップページに今日のイベントのレポート記事が表示されている。イヤホンを挿して、記事に張り付けられていた動画を再生する。
『こんにちはー! 春日井甲洋です』
『真壁一騎&皆城総士の黒髪のほう、真壁一騎です』
『うわ、すごい人だな』
『みんな来てくれてありがとう』
 動画は、ショッピングモールのイベントスペースに立ってあいさつをする一騎と甲洋の姿からはじまっていた。吹き抜けになった中心部分がちょっとしたステージのようになっている。握手会はその場でシングルを購入した人のみが参加できるが、トークショー部分は観覧無料というだけあって、周囲の観覧スペースや上階の手すり付近には老若男女問わない人があふれている。ちょうど切り抜かれた部分のトークテーマなのか、甲洋が持つスケッチブックには無骨な黒いペンで「一家団欒」と書いてあった。
『……うちは実家が飲食店だったから。あっ、もう辞めちゃったんですけど。だからご飯どきはたいてい営業中で。店の端でひとりで食べることがほとんどだったかな』
『うちも父さんとふたりだから、あんまり団らんって感じじゃないな。お互い無口だし』
『でもこのイベントでさ、二日間一騎とマネージャーさんとずっと一緒だろ。三人で地方名物の店で食べたりしてると、なんかふつうにプライベートの旅行みたいで楽しくて』
 このふたりにこのトークテーマを設定したことがそもそもの悪手だったかもしれないが、甲洋がなんとかうまくつないでいる。
 そういえばイベントの合間にもひんぱんに更新されていた甲洋のSNSには、ふたりが食事を摂る写真も載せられていた。朝は新幹線で一騎が持ってきたおにぎりとサンドイッチ。昼は京都で蕎麦。夕方に奈良でカフェに寄って、夜はたしか、大阪のホルモン焼きとかすうどんの店だったか。
『あ、たしかに。今日の昼も京都で蕎麦食べたの、うまかったなあ』
 一騎はぱっと顔を明るくして話題に乗っかっている。美食家とまではいかずとも、自分が料理をすることもあってか食事の味にはこだわるほうなのだ。いや、うまい食事を食べたいからこそ自分で料理をはじめたのか。
 団らんの話から食事の話にすりかえた甲洋の判断は大正解だ。ふだんから口下手を自称してはばからない一騎はこういったトークショーも握手会も得意ではなく、シングルのボックス購入特典で行われる握手会でも、ファンのあいだで「一騎とまともに会話がしたいなら、一騎個別券は全部総士と料理の話に費やすくらいのつもりで行け」と言われているほどだった。
 もっとも、総士からしてみれば一騎はけして会話が下手なわけではない。頭の回転も速いほうで、ときおり絶望的ににぶいタイミングこそあるが、基本的には相手の発言をきちんとそしゃくして理解し、自分の考えだって堂々と発することができる。単に、興味を抱く範囲が非常にせまく、それ以外にはとたんにどうでもよくなって引き出しが減る——というだけで。
 なんにせよ話題選択がうまくいったようで、あの店のあれがうまかったこれがよかった、あのメニューは今度家で真似してみたい、と、同じくそれなりに料理をする甲洋とともに、一騎は機嫌よく会話をつないでいる。
『そういえば、メニューに衣笠丼ってあっただろ』
『うんうん』
『これってなんだろうって言ってたら、総士が』
『総士……?』
 気にせず話を続けようとする一騎に、怪訝そうな声で甲洋がつぶやく。
『あっ、まちがえた。マネージャーさんが』
 悪びれもせずしれっと言う一騎に、観覧スペースがどっと沸いた。甲洋がくずれおちる。
『悪い、総士のことで頭がいっぱいだったから……』
 なぜかまばらな拍手まで巻き起こっている。これまでさんざんテレビやラジオで垂れ流してくれたおかげで、昔からのファン以外の視聴者にとっても、一騎の公共イメージはおおむねこのとおりだ。思いがけず出てきたみずからの名前にため息をつく。
『お前なあ……どうせ総士への土産、なににしようか考えてたんだろ』
『昼につまみ細工の髪留めは買ったんだけどさ、大阪でもなんか買っていこうかな? みんな、おすすめの大阪土産ってあるか?』
 話を向けられた観覧スペースから、いくつか有名な土産物の名前を挙げる声が飛ぶ。一騎はふんふんとうなずいて機材のほうから黒いペンを取ってきては、開かれたままだった「一家団欒」と書かれたスケッチブックのページの隙間に、そのまま聞き取った単語をひらがなでメモしはじめた。甲洋も『みるくまんじゅうつぎでしょう、じゃなくてみるく饅頭月化粧だよ』などと言っている。
『お菓子でもいいんだけど、総士、あんまりそういうの食べないからな』
 結局困ったように頭をかいて、一騎がペンを置いてスケッチブックを閉じるところで動画は終わっていた。
 ちょっと待て。衣笠丼の話はどうなったんだ? これのどこが新曲のリリースイベントなんだ?
 ニュースサイトにも『今回のイベントでも忌憚のない皆城担当ぶりを発揮した真壁。』などとキャプションをつけられている。
 あすからの怒涛のスケジュールに若干ゆううつな気分になっていたはずが、どっと力が抜けた。——そして同時にまちがいなく、愉快な気持ちにもなっていた。
 レポート記事の反応を確認しようと、ふたたびSNSアプリを開く。検索バーにURLを貼りつけようとして、通知がついていることに気がついた。見れば、さきほどの告知に一騎からの返信が複数ついている。
『そうしー』
『総士ホテルひとりあきた』
『大阪のうどんってうまいぞ。食べにこいよ』
『出汁の引き方聞いたから、帰ったら作ってやるな』
『総士ーベッドさむい 大阪こいよ』
「……ふ、」
 子どものような文字の羅列に、つい笑いが漏れた。
いいかげんに一騎もそろそろ限界らしい。さきほどはためらったが、この調子なら直接電話をしてもかまわないだろうか、と思っていると。
『もしもし、総士?』
 それよりも早く、向こうから電話がきた。
 あすは早朝から仕事なんだがな、と苦笑しながらも、考えるよりも先に指が応答をタップしてしまっていた自分がいる。
「一騎か」
『いまいいか?』
「よくなければ出ていない」
『へへ』
 なにが楽しいのか、わずかにノイズがかかった一騎の声がふにゃりとふやけた。久しぶりに聴くあまったるい声に、こわばっていたからだのどこかが柔らかくなってゆく。
『総士、今日オフだろ。なにしてたんだ』
「特にはなにも」
『あ、おまえ一日寝てただろ』
 でもまあ、たしかに、疲れるよな最近のスケジュール。総士にもぜんぜん会えないし。さっきまでからかうような声をしていたくせに、静かにつぶやいた言葉はさみしげだ。
 特に用件があったわけではないのか、そのまま一騎はちゃんと食べてるのか、毎日髪はどうしてるんだ、などと雑談をはじめた。
 一騎もベッドに横たわっているのか、ときおり衣擦れの音が混じって聞きなれた声が耳元でささやくように近くなる。吐息まじりの声が、総士が言ったことにすぐに一騎のいつもの反応を返すことに妙に胸がいっぱいになる。ぽつぽつと言葉を交わす合間に、どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っている音が聴こえた。電話越しの特徴的なひずんだ音に、ふたりの間に横たわる距離を感じて、胸がすうっと冷える心地がした。
『なあ、総士』
「なんだ」
『やっぱ顔、見たい』
「……どうやって」
 あまえた声に返事をするまえに、意識して一息飲みこむ。思っていたよりも相当堪えていたのか、うっかり、ぼくもだ、と言いそうになってしまった。
『うーん、ビデオ通話とか』
 いつになく感傷的な気分になってしまっていたが、一騎が提示してきたのはごくごく現実的で、問題を解決するための適切な手段だった。ついうっかり、いやにセンチメンタルな本音を漏らしてしまわなくてよかったと、ひそかに胸を撫でおろす。
 しかし声だけを聴いているいまでさえこんなにも揺さぶられているというのに、顔を見てしまえば通話を切ることすらできなくなりそうだ。
 すぐに応とは言えずしばらくためらったが、『なー、総士の顔見て話したい』『だめか?』『総士ぃ……』と子犬のような声を立てつづけに聞かされて、とうとう総士は根負けした。
「……一度切るぞ」
 うん、と弾んだ声を最後に電話は切れ。
『総士!』
 次に目に入ってきたのは、手のひらの中の画面に映ったぱっと花開くような笑顔だった。
 ホテルの部屋は、一段照明が落とされているのか薄暗い。ベッドに横たわっている一騎はくったりと枕に身を預けて、風呂も済ませたのか黒髪がわずかに湿っているように見える。
 何度もベッドの中で見たのと同じ光景に、なぜここに一騎の体温がないのだろうとふしぎにすら思う。それでも具体的な質感を持ってよみがえる同衾の記憶は、わずかに総士を慰めてはくれた。
『あー、総士の顔だ。安心する』
「いままでさんざん見ているだろう」
 総士がそうであったように一騎もメディアやSNSで総士の様子は目にしていただろうし、なんなら携帯に保存した大量の写真があるはずだ。総士自身のものよりも、よっぽど総士を写した写真の枚数が多いデータフォルダが。
 それでもやはり、こうして顔を見て、目を見て言葉を交わすこととは、決定的に違っているのだ。
 一騎も同じ感覚を抱いているのだろうか。目を細めた顔がふにゃふにゃとゆるんでいっそう枕に沈んでゆく。
『おまえ、やっぱりちゃんと食べてないだろ』
 しばらく総士の顔をまじまじとみつめた一騎が、画面のむこうでちょっと眉をつりあげてわざとらしい怒った顔をしてみせる。
「人前に出るのが仕事だぞ。僕が顔に出すわけがないだろう」
 携帯のカメラではわからないだろうと高をくくったはったりなどではない。いまいち食欲がわかないのは事実だが、けしておろそかにすることなくそれなりに最低限三食摂ってはいた。摂取カロリーも足りているはずだ。メイクである程度誤魔化せるとはいえ、顔色も肌の調子も食事抜きには整えられないから、職業柄気を遣ってはいる。
 たとえそれが、味気ない、栄養補給のためだけの食事だとしても。人に悟られるような顔はしていないはずだ。――一騎と、そういったことにおそろしく敏い真矢を除いては。
『うん。おまえ、プロだもんな。でもわかるよ。食べてても楽しくないだろ』
 あたりまえだ。お前がいないんだぞ。そう言いたくなって、口ごもる。
『って、遠見も言ってた』
「……遠見め」
 どうやら総士のあずかり知らぬところで、ふたりのあいだでなんらかの情報提供が行われていたらしい。
 まさか「一騎くん不足」だなんて単語を、そのまま事実として一騎に伝えたんじゃないだろうな。
 ぐったりとベッドに身を沈めた総士に、画面の向こうの男は楽しげにくすくす笑っている。わかっているならさっさと帰ってこい、と言ってやりたいくらいだ。
『はー、早く帰りたい』
「西に行くのも久しぶりだろう。そっちのファンにもしっかり会ってこい」
『わかってる。でも、おまえがとなりにいないと』
 俺がなんでこんな仕事やってるか、わかってるだろ。
 あまえた声に、とろとろにあまえた目。いまだに一騎ほどにはアイドルとしてのあり方を開き直れない総士が口に出すことをためらう本音を、素直な言葉で口にしてしまう男。
 単に歌や、ダンスや、トークや演技を売っているだけではない。この顔。この声。たまたま与えられた容姿ですら使って、総士は人々からの恋にも似た歓心を買っている――いや、少なくない数のそれが、事実恋なのかもしれない。
 はじまりは、父の残した事務所を守るために。
 そして――一騎の声を、歌を、あまたの人に届けるために。
 総士がアイドルという職業をはじめた、これまで続けてきた理由は、まちがいなくこのふたつだ。
 作りあげるものの価値を人々に認められ、称賛されることは悪い気分ではなかったし、それによってだれかを楽しませるという行為に歓びを感じていたのもうそではない。
 それでも総士は、すべては「ファンのためだ」と、言い切ることができないでいる。みずからの心にうそをつくことができないでいる。かといって、一騎のようにすべてを認め、すなおになることもできなかった。会社の継続と、一騎のためにステージに立っているなどと――ねつっぽい目で総士をみつめる視線を思い出すと、とても口には出せない。
 そんな総士の葛藤を、一騎はいつだっていとも簡単に飛び越えてしまう。「おまえがいるから」、俺はステージに立つんだと、言い切ってしまう。
「……あすは何時発なんだ? 僕も早いんだが」
 一騎の言葉には応えないまま、思ってもいないことを口にした。明日の予定なんて、ほんとうは、どうだっていい。こんな些細な本音すら、総士はいつも心に仕舞ったままだ。
『えーと、七時にはホテル出るって。総士はラジオだよな。ちょうど特急乗ってるころだから、アプリで聴くよ』
「そうか。じゃあ、もう切るぞ」
『寝てもいいけど、でもつないでて』
「なに?」
 薄暗い画面の中の一騎が、横たわったまま器用に上目遣いをしてみせる。
『総士の顔、もう少し見てたい。満足したらちゃんと俺が切るから。な?』
 一騎がいつもわがままを言うときの、あまえた感じの「な?」を聴きながら、総士は了承の意図のため息をつき、まぶたを閉じた。
 ——一騎は、彼が思うとおりに好きにやっているだけだ。総士のそばにいるためにアイドルを続けることも。総士の身の世話をなにくれと焼くことも。総士が失った、いとしい左目の傷に対する気遣いですら、もはや一騎にとっては負い目や義務感などではなく、単にそうしたいからなのだろう。
 そのくせ一騎はいつも、総士が呑み込む本音に、そのてざわりにうっすらと気づきながら、「そうしたいから」と簡単な顔をして総士の望みを叶えてしまう。
 結局ふだんから宵っ張りの総士と違って早寝の一騎は「ちゃんと切るから」などと言いながら、総士を待つこともなくすぐに眠ってしまった。
 総士が穏やかな休日の最後にしたのは、だらしなく口をひらいたままぐっすりと眠っているおさない顔が映った画面のスクリーンショットを撮り、それをSNSに載せてやることだった。





 およそ三週間ぶりに一騎と顔を合わせたのは、ユニットでレギュラー出演している昼の情報番組のロケだった。
 ふたりが担当しているのは話題のデートスポットを巡る隔週のコーナーで、今回訪れたのは郊外にある公立の植物園だ。園の南半分には整然と整備された花壇や生垣、噴水が置かれた洋風の庭園が広がり、打って変わって北半分は自然林を中心に、桜や梅、あじさい、園芸植物などがなるべく自然に近いかたちで植栽されている。一日かけても回りつくせないほどの広大な園内には、さらに国内でも最大級の規模を持つ大温室を備えている。
 ロケ当日は運よく天候にも恵まれ、やわらかくゆるんだ春の空気は早足で歩いていると軽く汗ばむほどの陽気だ。午前の淡い色の空が目にまぶしい。みずみずしい水色に、色とりどりのまぶしい花や四月もなかばの青々とした木々が映える。平日にもかかわらず、園内はそれなりに賑わっていた。ちいさい子どものいる家族連れに、性別を問わない高齢者の楽しげなグループ。学生らしき若い二人連れ。
 総士はスタッフから手渡されたミネラルウォーターを煽り、薄手の紺のカーディガンの袖をいくつか折った。のんびりと散策する速度とはいえ、園内をうろうろしているとさすがに少し暑い。天気が良すぎるのも困りものだ。
 すれ違う人々は大げさな撮影の機材にものめずらしそうにこちらをじっとみつめたり、ときおりふたりに気づいて手を振ってくる。撮影中なのでサインや写真撮影にはさすがに応えられないが、カメラが止まっているときには総士もちいさくほほえんで手を振り返した。
 デビュー当時の知名度では考えられなかったことだが、ここ数年テレビや映画での露出が増えて、こういったロケでもプライベートな外出でも、道端で声をかけられることが多くなった。はじめのうちは動揺してうろたえるばかりだった一騎もすっかり慣れて、「ありがとう」なんて笑いかえせるほどになっている。かつての素人丸出しの対応をしていた一騎がここまで変わったことが少しだけ寂しく、しかし同時にそれだけの時間、総士のとなりでアイドルをしているのだと、実感できることがくすぐったくもあった。
 コーナーのテーマが「デートスポット」だということもあって、北半分の自然を模した園内の様子にもふれつつ、撮影は洋風庭園の散策をメインに進んだ。すっきりと晴れた空と華やかな桜のコントラストはうつくしく、画としてはすばらしいものだったが、情報番組的にはすでに盛りを過ぎている桜ばかりを取り上げるのも避けたかったらしい。
 さまざまな品種のチューリップ、ポピー、ベゴニアに、さして植物に詳しくない総士が名前も知らないような花もあった。どれも手作りらしき簡単な解説が添えてあり、名前の由来や育て方、生態など、それなりに読みごたえがある。
 総士もそこまで植物に関心があるわけではないが、一騎はとくに花にも解説にも興味がないようで、きれいだな、と言いつつも「総士、猫みたいなかたちの雲だぞ」「あそこに蜂がいる」「あっ、ちょっと待て、そこで止まってくれ。いま木漏れ日がいい感じだから、そこで総士を撮りたい」などと肝心の花はそっちのけで好きにふるまっていた。まあいいだろう。仕事ではあるが、「なるべくいつもどおり、おふたりの自然な様子をいちばん撮りたいので自由に過ごしてください」と毎回言われるようなロケだ。
「総士! 休憩だって。あっちのほうとか、好きに行ってもいいってさ」
 喉の渇きを癒して汗を拭き、一息ついた総士に、全く暑そうなそぶりも見せない一騎が機嫌よく駆けよってくる。ベンチのあたりでゆっくりしてもいいが、やはりふだん目にしない盛りの花々は壮観だ。じつは、空き時間にでも花と一緒に一騎を撮ってやろうと、荷物が増えるのは承知でカメラ一式を持参していた。一騎も同じことを考えていたのか、さっそく肩からカメラバッグを提げている。差し出された園内地図の載ったパンフレットをふたりで覗きこみ、どこか撮影ができる場所はないかと探す。
 花見客のごったがえす桜のエリアはさすがに避けたほうが無難だが、その近くの椿を見にゆくのもいい。これまで歩きながらカメラを回してきた庭園をくまなく探索できたわけではないので、このままてきとうにうろうろしていても十分楽しめるだろう。世界の熱帯植物が見られる温室もなかなかよかった。撮影ではさらっと通りすぎただけだったから、もう一度じっくり見てまわるのもいい。
 とりわけ気になるエリアもお互いにないので、ひとまず庭園でももう一巡りしようかと並んで歩き出す。あてどなくのんびりと歩を進めて園のはずれにさしかかったころ、ふと総士の目を奪ったのはいちめんに咲く菜の花だった。
 ふたつある入口の門のどちらからもかなり奥まったスペースで、おまけに整然と石畳で覆われた通りからは少し逸れているからか、あまり人気もない。
 うすい黄色のちいさな蝶のような花が、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。やわらかい若い緑の葉や茎との色合いがうつくしい。一騎の芯のある黒い髪と、今日の衣装の白いタートルネックに映えそうだ。
 風を受けてさわさわと揺れるたびにちらつくあざやかな花が総士の色素の薄い目には少しまぶしいほどで、まるでステージから見るライトのようだった。
「菜の花か」
 思わず立ち止まった総士につられて、一騎も花畑を眺めている。
「おひたしにするとうまいよな。てんぷらもいい。あ、でもこんなに咲いたのはもう食べられないか」
 情緒もなにもないコメントに、つい吹き出してしまった。いや、こいつはいつだって、花や景色のうつくしさなどより旬の食材をいかにうまく調理して味わうかにばかり興味があるような男だった。一騎はこれでいい。そういえば、このあいだ一騎が作った菜の花と卵の味噌汁もうまかった。
「総士」
 笑いをこらえられないでいると名前を呼ばれ、ふりかえるとともにシャッター音が聴こえた。総士が吹き出している様子をカメラに収めた一騎は、うれしそうに顔をほころばせて二度三度とシャッターを切っている。画面を覗きこんで目を細めると、「やっぱり、総士の髪に合うと思った」とはずんだ声でささやいた。どうやらほんとうに、考えていることは同じらしい。
「んん。外だとなんかむずかしいな」
 そのまま好きにするに任せていたが、何枚か撮っては確認し、撮っては確認しているうちに、一騎は困ったような声を出した。花と一緒に撮りたいのに、と顔をしかめている。
 総士もためしに一騎を撮ってやると、あざやかすぎる花が黄色く飛んでたしかに見たままのようにうまく映らない。かといって背景にあわせて設定を調節すると、今度は人物が暗くなる。
「背景と人物との明度が違うからだろう」
 カメラを通してでは、肉眼のように明暗差のあるものを同時に捉えることが難しい。背景に対して適切な露出を設定すれば人物が暗くなり、人物に合わせると背景が白飛びする。
 カメラの基本的な使い方や技術を調べているとき、そういった場合のテクニックも見かけたはずだ。いくつかあったそのうちのひとつが、たしか――。
「ストロボ焚くといいんだっけ」
 事も無げに言って一騎はバックからストロボを取り出し、カメラのモードをいじっている。そうだ、たしか日中シンクロと言ったか。背景にあわせた露出の設定にしておき、手前の人物にだけフラッシュの光を当てて明度の差をちいさくすることで、風景と人物を適切な明るさで撮ることができる。まぶしい背景の影になってうまく映らない人を、なるべく目に見えるそのままに捉えるための方法だ。
 そういった知識を一騎が持っているとは思いもしなかったので面食らったが、そういえばこいつは自分の興味のあることならば舌を巻くほどの集中力と貪欲さを発揮してものにしてしまう男だった。やればできるくせに興味がない事務的なパソコン作業ではいまだに右クリックでファイル名を書き換えているくせに、総士が出演している番組を録画したレコーダーや、映像や音楽データ自体をいじるための編集ソフトの扱いには、じつは総士よりも長けている。
 一騎がカメラをマニュアルモードに切り替える前の設定は、いま思い出せばオートではなく絞り優先モードだった。シャッタースピードこそ自動で変化するが、カメラのレンズに取り入れる光の量を調節するための絞り値の設定を撮影者で行うモードだ。使いこなすには、ある程度はカメラの知識が必要になる。
「俺だって勉強したんだからな」
 借り物のいいカメラ、さすがに壊したらまずいし……。一騎は花畑の前に総士を立たせて、何枚かシャッターを切ってはいくつか設定を試している。カメラを操作する手つきは驚くほど危なげない。
 このあいだの撮影でもカメラを持ち出してスタッフに相談しているようだったが、おそらく総士のいない現場でも熱心に勉強をして、また自分なりにいろいろと調べてもいたのだろう。
 なにより。
「総士のこと、ちゃんと撮りたかったから。おまえが見せてくれる顔、ぜんぶ」
 納得のいく設定が決まったのか、うん、とうなずいて一騎がカメラを構えた。
 あざやかでみずみずしい菜の花を背後に、あたたかな春の光を反射して光るレンズをじっとみつめる。
 うつくしい花の可憐さに顔をほころばせるより先に、うまい調理法を考えてよろこぶような感性の一騎が。一瞬の世界を切りとるためのすべを、これほど真剣に、一心に身につけている。すべて総士の、なんでもない表情を撮るために。一騎にしか見せない顔を、ただ大切に心に留めておくために。
 一騎がほかのだれにも見せない顔で、総士だけの顔で笑うとき、すねるとき、いつになく真剣に口をつぐむとき。そのすべてを焼きつけて大事に仕舞い込んでおきたいような、ふりそそぐ日の光のようにそのあるがままを享受したいような。だれにもひみつにしておきたいような、世界中に見せびらかして大声で自慢したいような。そんな気持ちに、総士はなる。
 こんなふうに持て余してしまうほどの大きなものを一騎も抱いてくれているのだと、実感するたびに何度でも胸をよぎる感情を。「いとしさ」のほかになんと呼べばいいのか、総士はまだ知らない。



「わあ、きれいな花束!」
 ロケに同行してくれた植物園の職員から土産にと持たされた菜の花を渡すと、乙姫はいたくよろこんで、帰宅した兄の出迎えもそこそこにさっそく居間へと引っ込んでいった。
「毎日水を換えれば、一週間は保つそうだ」
 もらったアドバイスを教えてやっても聞いているのかいないのか、もう高校生だというのに子どものようにひざをついて花びん花びん、とキッチンの棚の奥を探っている。
 自室で部屋着に着替えて、カメラだけを持って居間へ戻った。ソファに腰かけ、今日撮ったデータの確認をはじめる。
乙姫はキッチンに新聞紙を広げて、ぱちんぱちんと音を立てて、切り花用のはさみで茎を切りそろえていた。手の中の画面にも写る黄色い花が、ちいさな手によって白い陶器のうつわに合うように整えられてゆく。
「アブラナだね、かわいい」
 そういえばたしかに、柵にかかっていた園の解説にはアブラナ科アブラナ属アブラナとあった。総士にはアブラナとカラシナの区別もつかないが、花や葉の状態で見分けられるらしい。乙姫は中学のころから友人にくっついて生物部に出入りしていたので、兄よりもよほど植物や動物、虫に詳しい。
 あまりにうれしそうな様子に、もうひとつ担当者から聞いた知識を思い出した。花がしおれはじめてからでは遅いが、まだみずみずしいうちから風通しのよいところへ吊るしておけば、うまくドライフラワーになってうつくしいままに残せるという。
「早いうちから逆さに吊って乾燥させれば、ドライフラワーになって長く楽しめるらしいが」
「ううん、いいの」
 乙姫は首を振って、ソファの総士のとなりへちょこんとやってきた。棚に飾った花びんをにこにことみつめている。
「いつか枯れても、このアブラナがこうしてきれいに咲いてくれていたことはずっと残るもの」
 やわらかいほおをこすりつけるように肩にあまえて寄りかかった妹は、カメラの画面を覗きこんで、ふふ、とおかしそうに笑った。
「一騎、うれしそう」
 ちいさな液晶の中では、黄色い光に包まれた一騎がカメラを下ろしかけたまま、くしゃくしゃの顔で笑っている。伸びてきた髪を耳にかけながら自分のカメラを見下ろす横顔。子どものようなじゃれた顔の上目遣い。
 そうか、一騎はうれしそうな顔をしているのか。総士をみつめる一騎はいつだってこういった顔をしていて、客観的に見てそこにどんな感情がにじんでいるのか、あらためて自分たち以外に言及をされると妙に胸がくすぐられる。
 一騎はいつだって、はじめから、総士のとなりに立つために、そのためだけに努力をして、そして総士をみつめている。
「一騎の撮った総士の写真も楽しみだね」
 ねえ、とあまえてひざに乗ってきたちいさな頭に見上げられて、ついすなおにうなずくことができずに苦笑した。一騎のものとも少しちがう黒髪を梳く。
 はたして一騎の撮った自分がどんな顔をしているのか、いまさらながら若干不安な気もしてくる。だって、きっと一騎とおなじような顔をしているに違いないからだ。アイドルとして――ましてやファンのために出版する写真集として、まるでほめられたものではない、目の前の人に夢中ですと言わんばかりの無防備な顔を。
 白い陶器の花びんに活けられた、あわい黄色の花。
 花は枯れる。いつか必ず。
 いま、この容姿を使っている仕事のうちいくつかは、いつかそのうちに必ず限界が来る。終わりがやってくる。
 それでも、ステージを降りたとしても、心のほとんどを占めているたったひとりの男がいることを不誠実だとなじられたとしても。そのとなりに一騎がいてくれるのならば、恐れることはなにもなかった。





「総士でーす」
 のんきな声に集中を削がれ振り向くと、一騎がカメラのレンズをこちらに向けていた。
 ファインダーではなく液晶を見ているので、どうやらメイキングDVD用の動画を撮ろうとしているようだ。衣装のジャケットの襟が立ったままなことにも頓着せず、舞台袖でリハーサル映像の確認をする総士の頭を上から撮っている。
 さらに一騎の向こうでは、スタッフがビデオカメラを回しながら笑っている。ときおりふたりが写真を撮りあうさまを映像に収められているときがあったが、今日はこんなところまで撮るのか。
「今日の髪は冒頭のメドレー衣装に合わせて白いレースのリボンにしました。総士が白着るの、めずらしいな」
「操が黒だからな」
 むっ。一騎のくちびるがきゅっと尖った。ふたりが二手に分かれるセットリストが決まったときから若干操に妬いているらしい一騎は四人で集まるたびにそれとなく総士への独占欲を見え隠れさせていたが、ユニットらしい衣装が決まってからは、それがますますわかりやすくなった。
 合同コンサート本番前日。今日一日は衣装を着てステージでの通しのリハーサルだ。コンサートのオープニングはシャッフルユニットのニューシングルからで、まずは一騎と甲洋、そして総士と操でのメドレーが続くセットリストだ。オープニングでの衣装も、それぞれが対になるコンセプトのものが考えられていた。
 一騎と甲洋の曲は夏の気配のするさわやかなバラードで、白いリボンタイに青いサマージャケット、白いアンクル丈のパンツ。一騎には白い花の飾られたカンカン帽が用意されている。
 一転して総士と操の曲は、激しく明滅する照明を伴うような二面性のあるダンスナンバーだ。総士は白、操は黒の襟口のゆるいだぶついたフェイクファーの揃いのトップスにタイトなダメージジーンズというラフな衣装。今日の髪型は、一騎がこの衣装に合わせて考えてくれていたものだ。
 一騎が総士の髪をやるようになって、はじめのうちは衣装やテーマに合わせた髪型や使う髪飾りを指定していたが、そのうちに総士などよりもよほど一騎のほうがヘアアレンジに長けてきたので、いまでは髪型もどんな髪飾りを使うかも、すべて任せきりにしている。総士自身でできるというと簡単に結ったりみつあみにしたり、せいぜいがカールアイロンで巻く程度だ。一騎の作るような乱れのない編み込みや複雑にヘアピンを使うものは、構造を頭で理解しても手が追いつかない。今日も一騎は迷いのない手つきでひとつに下ろした髪をフィッシュボーンにしながら、選んだ白いレースのリボンを編み込んでいた。
「今日は下ろしてみたけど、本番は上げてみるか? 来主も最近伸びてきて、長めに下ろしてるだろ。どう思う?」
「お前も確認をしろ……」
 のんきな提案に深々とため息をついて、一騎からノートパソコンの画面に向き直る。
 そう、いま総士が確認しているのは、ほかでもない一騎と総士の曲のリハーサル映像だった。コンサートも終盤でのユニット曲。客席から録画しておいた映像を見返して、歌やダンス、アイコンタクトのタイミングはもちろん、照明や衣装、ステージセットの使い方の最終確認をする総士をよそに、一騎はちらりと画面を見ただけだ。
「おまえが見てくれるだろ。俺はそのとおりにするよ」
「お前の考えはないのか?」
 一騎はもともとCDのジャケットや宣材の撮影でも自分の映りをさして確認しないタイプだが、一応はまじめにこなしていたはずのパフォーマンスの確認も、最近では総士に任せるようになった。
「総士を信じてる、のが俺の考え」
 のんびりとカメラを回し続ける一騎に、総士は肩をすくめただけで確認に戻った。
 記録から改善点や計算的なパフォーマンスを考えて洗い出し、どうしてそうするべきだと思ったのか論理的に言語化して共有するのは苦手だと一騎は言う。たしかに自分の感覚をわかりやすくアウトプットすることはあまり得意ではないのだろう。一騎の物言いはいつも独特だ。そして総士はというと、そういった論理的な言語化はたいそう得意だった。性格なのだ。適材適所と言われれば違いはない。
 しかし一度ステージに立てば、一騎はその場の咄嗟の判断でアドリブも、アクシデントの処理も器用にこなす。天性の才能と言うよりもこなしてきた場数からの経験だろうが、それがアイドルとしての一騎の強みでもある。
 なんだかんだと言っても結局はこうして一騎の好きにさせているのも、一騎がだれよりも総士を信じて、総士が期待する以上の精度でステージに立てる男だと知っているからだ。
 液晶を流れる映像にもう一度集中する。今回の箱ははじめてのホールだ。会場でのリハーサルもまだ二度目で、自分たちはもちろんスタッフも慣れていないことを考えるといつもよりも念入りに確認が必要だった。スタンド席の傾斜が想定していたよりもきついのか、最上階からの映像では、一騎も総士もいまいちカメラと視線が合っていない。ステージからいちばん遠い席でも楽しんでもらうためには、もっと仰のいて視線を届ける必要がある。
 ふりかえろうとした頭を、下した髪をそっと撫でた一騎が押しとどめた。
「あ、ここほつれてる」
 ひとつに編んだ髪がほどけてきているらしい。今回はかなり激しいダンスがあるセットリストだ。ざっくりとラフにほぐすことなくきつめに編んでいたようだが、ある程度崩れてしまうのはどうしたって仕方がないだろう。
 「かわいいんだけど、やっぱ崩れやすいよなあ」とぼやきながら、一騎はむずかしい顔をしてうなっている。
「リハなんだからかまわない」
「直すからじっとしてろよ」
 言うが早いか、カメラの録画も止めずに机に置いて総士の髪をほどきはじめる。いったんすべて解いて、いちからやり直すつもりらしい。撮影こそ入るものの誰に見せるでもないリハーサルだというのに、まるで話を聞いていない。
 不本意ながら身動きが取れなくなってしまい仕方なく画面をみつめたままじっとしていると、手櫛で総士の髪を整えていた一騎がとつぜんくすっと笑った。
「……俺が総士を撮ってるのを撮られてた。変な感じだ」
 きまじめにこちらをカメラで捉え続けるスタッフにちらりと目をやる。一騎が撮影した映像も収録するメイキングDVDのはずが、自分のカメラを完全に放置して総士の髪を整えはじめているが、そんな様子もとくに気にすることなくカメラが回り続けている。
 慣れた手の感触がそっと髪を梳く。一騎が肩をゆらすたび、やさしく手に取られた毛先がわずかにゆれる。
「なんかさ、昔も密着取材だって一日ずっとカメラに撮られてたことあっただろ。あれ、思い出した」
 いつの話をしているのかはすぐに総士にもわかった。デビュー当時、いまも放送されている日曜の昼下がりの情報番組で、駆け出しのアーティストやアイドルを扱うコーナーに取り上げられたことがあったのだ。レッスンやラジオ収録、ライブの裏側への密着取材ということで、二日間カメラが入った。当時まだカメラ慣れしておらず素人同然だった一騎は、かわいそうなほど困惑して戸惑っていたようだった。
 番組内の十分程度のコーナーで、さして尺を割いた目玉コーナーというわけでもなかったが、ふたりにとってははじめてのテレビ仕事だった。あれがきっかけになってファンクラブの会員数もずいぶん増えたときいた。
 ふたりのアイドルとしての転機になったと同時に、総士にとっては、一騎との関係におけるひとつの節目でもあった。
 あのとき、一騎はプライベートはおろかステージやカメラの前ですらまともに総士と目を合わせようとしなかった。いつだって上目に総士の様子を伺って、狭い楽屋の隅で身の置き所がないような顔をしていた。せめてステージの上では抱き返してほしくて伸ばした手は空振りばかりで、一騎の手は総士の肌にけして触れようとはしなかった。
 そのうちに、総士も一騎へふれることをためらうようになった。返されない温度におびえ、そんな顔をさせてまで一騎にそばにいてほしいと望むことがはたして正しいのかどうか、自分でもわからなくなっていた。それでもやっと手の届くところへ来た一騎を手放すことができず、自分へ見せる顔とは違って彼が笑いかける他のだれにも余裕がなくなって、一騎のことをずいぶん不安定にさせた。そのせいか、堂々と彼にふれられるはじめての撮影がうれしくて、らしくもなく調子に乗ってしまうほどだった。
 心から渇望したあの手がこうして笑いながら、なんでもない仕草で総士の髪を梳いて、編み、整えている。
 完全にすれちがっていた、あの時間が無駄だったとは思わない。あのときがあったからこそ、いまこうして一騎は総士のとなりにいる。
 総士にとってももはや日常の、あたりまえのものになったその手の感触が、たった数年前まではどれほど得難いものだったのか。不意に思い出されて、総士はカメラの存在も気にせずに目を閉じた。できたぞ、とそっと肩を叩いてくれる、いつものあたたかい手が愛しい。
この手が総士を傷つけた恐怖に怯え、自分の存在を疎んで立ちすくんでいたところはもう見たくない。
 それでも、あのときの日々をもう一度繰り返すことになったとしても。
 総士はこの傷を求め、ステージに一騎を縛りつけることをもう一度選ぶだろう。その温度を、歌を手に入れるために。
 たった数年前の日々が、ひどくなつかしく思えた。
 ――今年ももうじき、夏がくる。あの日とおなじ、すべてがはじまった夏が。 

 5