忙しい恋人と同棲をはじめて三年目になる。
 何度か引っ越しをしたけど、中でも三軒目に住んだ街は、けっこう気に入っていた。
 仕事柄、帰りが遅くなっても自宅までの道は比較的電灯が多くて明るいし、その割に飲み屋なんかは少ないから治安も悪くない。
 住民には子育て層が多いからか、日付が変わるとぐっと人通りは少なくなるけど、騒いだりする声もなくて住み心地は良いほうだった。


 七月の終わりごろの話だ。
 その日は仕事が早く終わった恋人と、ふたりでテレビを見ながら夕飯を食べていた。
 夏の風物詩というのか、てきとうに合わせたチャンネルで流れていたのは実話を謳ったホラー番組だった。
 次の日は休みだったから、ちょっといいビールを飲みながら、大きい音で怖がらせるのはズルいとか、これはちょっと作りがチープだとか好き勝手なことを言い合いながら見ていた。
 俺も恋人もホラーはそんなに趣味じゃないけど、ふたりとも映画が好きなのもあって、たぶん人よりも数は見ているのだ。

「そういえばね、このあいだ、〇〇にこのあたりの噂を聞いたんですよ」

 番組がCMに入って、俺からすれば目玉が飛び出るほど高いウイスキーの水割りをちびちび舐めていた恋人が、とつぜん切り出した。
 恋人は基本的におもしろおかしく生きているタイプで、こういう生活に根づいたふうなゴシップを話すなんてめずらしいことだった。程度の低い番組に飽き始めていたのかもしれない。

 〇〇というのは、俺も世話になっている、恋人の情報通な同僚だ。

 それはこういう話だった。

 このあたりを日付が変わってから夜、ひとりで出歩くはよくないのだという。
 治安の話ではない。
         ・・・
 出歩いていると、そいつがついてきてしまうからだそうだ。
 そいつと話したり、触ったりしてはいけない。
 できれば見えていることも気づかれないのが、いちばん良い。

「でもね、家にさえ連れてこなければ一応大丈夫なんですって」

「……そいつって何?」
「さあ?」
「家に連れて来ちゃったら? どうなんの?」
「さあ?」

 ちょっと薄寒くなった俺を尻目に、恋人はけろっとした顔でまたウイスキーをなめている。
 とにかく話の全貌が不明瞭すぎて意味不明だ。ついさっきまで眺めていたチープな恐怖映像も手伝い、いやな想像ばかりがぐるぐると頭の中を回った。
 真っ暗な路地に佇む、赤いワンピースの長い髪の女。あるいはガリガリに痩せて目ばかりがぎょろっとした男――。

「そんなん、もう何回も遅くなってるじゃん」

 とつぜん意味のわからない話をはじめた恋人に俺は気味が悪くなって、うっすら立った鳥肌を誤魔化すみたいにばかにして言った。
 テレビのチャンネルも変えた。
 別のチャンネルでは、気が抜けるほど明るい音楽をBGMに、雑学のクイズ番組がやっていた。



 なんとなく変な空気のまま夕飯の片付けをして、風呂に入り、だけどしっかり恋人同士の軽い運動をしてから、ふたりでベッドに入った。
 あんな変な話を聞かされたからか、隣で恋人が静かに寝息を立てはじめてからも、俺はなかなか寝付けないでいた。
 何度も寝返りをくりかえして、とうとう耐えかねてそうっとベッドを抜け出す。
 むしょうにのどが渇いて、冷蔵庫を覗いた。
 冷えているのはミネラルウォーターと牛乳だけだ。
 なぜだかどうしてもコーラが飲みたくてたまらなかった。
 真っ暗なキッチンでしばらく立ちすくんだまま悩んで、結局、財布とスマホだけをスウェットのポケットに突っ込む。

 マンションのエントランスを出ると、夏の熱気がむわっと全身を包んだ。
 徒歩数分のコンビニまでの道は街灯で思ったよりも明るく、こうこうと照らされた店内には、こんな時間なのにだるそうな店員のほかにも何人かの客がうろついていた。
 人の気配とアップテンポな曲に、ほっとする。
 なんだか気が抜けて、五百ミリリットルのコーラとアイスをふたつと、きれかけていたコンドームを買った。

 コンビニを出てまた薄暗闇に包まれると、どうしてもふと恋人の話を思い出して、ちょっと……いや、かなり怖くなる。
 努めてまわりの景色を目に入れないように、下を向いて歩いた。たかが数分だと自分に言い聞かせる。さっきまで安心したはずの街灯の明るさに、かえってなにかが見えてしまったらどうしよう、と怖い想像ばかりが思い浮かぶ。

 街灯。
 暗がり。
 街灯。
 あそこに変な女なんかがいたらどうしよう。
 街灯。
 そういえば、足音がもうひとつ聞こえたりしないだろうか。
 街灯……

 最初は、道路工事かなにかの看板かと思った。
 街灯と街灯の切れ目の、夜が濃くなった暗闇のなかに、ちょうど成人男性くらいの白いものがぼんやり浮かんで見えた。
 目の端でそれが動いた気がして、俺はよくないと思いながらも無意識にそのあたりへ目を向けた。
 向けて、後悔した。

 明るい街灯の下に、見えてしまった。

 全身真っ白で、どうもバランスが不恰好でおかしい、子どもみたいな奴だった。

 目が合った、んだと思う。
 俺がそいつに気づいたことを、気づかれたんだと理屈じゃなく悟って、心臓がどっ、と音を立てて痛いくらい鳴った。
 そいつは「ん〜〜ん〜〜」みたいな、声とも言えないような音を出しながら、ゆらゆらと左右に揺れていた。
 そして揺れながら、ゆっくりと、俺のほうへと近づいてきた。
 あきらかにふつうの人でも、尋常な様子でもなかった。

 冷や汗がどっと出て、脚ががくがくする。
 どうしよう。
 のどがからからに渇いていた。

 ゆっくりと近づくそいつがとつぜん、はっきりとした低い男の声で、
「あーんちゃなやっちゃなあ」
 みたいな、どう書くのが正しいのかわからないけど、とにかくそういう感じのことを、言った。

「あーんちゃなやっちゃなあ」

「あーんちゃなやっちゃなあ」

 とぶつぶつくりかえしながら、そいつはこっちへやってくる。
 そいつと話したり、触ったりしてはいけない。
 恋人が語ったあいまいな話を思い出す。
 がくがくする脚をなんとか動かして、とにかく逃げなきゃ、と焦る。
 スニーカーの底でアスファルトがじゃりっと音を立てて、それがやけに大きく聞こえた。
 あーやばい、と咄嗟に思った。

「……ふふふ」

 気を失いそうになっていた頭によく知った笑い声が聴こえて、緊張しきっていた全身がどっと緩んだ。
 恋人の声だった。

「……もお~~~」

 腹の底から息を吐きだしながら前を見ると、もうそこにいるのは何の変哲もない、いつもの恋人だった。
 なんてことはない、からかわれたのだ。
 恋人はこういうところがあって、変装したりするのが異常にうまく、人をだますのにものすごく長けていた。
 夕飯のときに変な話をはじめたのも、最初からこうして俺で遊ぶつもりでの雰囲気づくりだったんだろう。

「びっくりさせんなよ……」

 本気で怖かったんだからな、とその場に座り込みそうな俺に、恋人はよほど楽しかったのか、それはもうとてもうれしそうにニコニコしていた。
 俺はすごくほっとして、もう怒るのも忘れて袋からコーラを取り出してごくごく飲んだ。
 恋人と一緒にいるとこんなことは日常茶飯事みたいなものだったし、これくらいで本気で機嫌をそこねるくらいのレベルはとっくに通りすぎてしまっていた。

 マンションはもうすぐそこで、コンビニの袋を持っていないほうの手をつないで、人気がないのをいいことにちょっとイチャイチャしたりしながらふたりで帰った。

 あたりまえだけど、家には何事もなく着いた。

「ついちゃったねぇ」

 エレベーターを降りるときに恋人がふとそんなことをつぶやいて、俺は、ふたりでイチャイチャしながら夜の街を歩くのもけっこう悪くなかったもんな、と思い、恋人もそれを惜しんでいるのなら、かわいいな、みたいなことをのんきに考えていた。
 またふたりで深夜の散歩に出るのもいいかもしれない。

「なんか目、覚めちゃったな~」

 あしたは恋人も休みだったはずだ。恋人のせいでこんなにどっと疲れて汗もかいたんだから、寝る前にどうせなら一緒にシャワーくらい浴びてくれてもいいんじゃないか。
 そういう下心もちょっとあって、俺はそんなことを言いながら鍵を開けた。

 鍵を開けて玄関を入ると、眠っていた恋人を起こさないようにと消したまま出てきたはずの電気がついていた。
 きっと恋人が出てくるときにつけたんだろう。

 冷房の効いたリビングからは、パジャマ姿のままの恋人がひょこっと顔を出していた。

「あっ、おかえりなさい」

 ……えっ?

「あんなテレビを見たからか、様子が変だったでしょう。怖かったのかと思って。待っててあげたんですよ」

 そんなことを言いながら、リビングの恋人はクーラーのリモコンをいじっている。

「外、暑かったでしょう。汗びっしょりですよ」

 一瞬、またふざけているのかと思った。
 ビビっている俺を見て調子に乗って、楽しんでいるのかと。
 それでも、あんな蒸し暑い中を歩いて帰って来たにしては汗ひとつかいていない、さらさらと乾いたままの肌は、恋人がまちがいなく冷房の効いたこの部屋でずっと待っていたことをはっきりと語っていた。

「……いや、やめろって。俺のことからかって遊んでるんだろ? あんな怖い話まででっちあげてさ」

 震え出した俺に、恋人はほんとうにわからない、というような怪訝そうな顔で首をかしげた。
 俺は仕方なく、夕飯のときに恋人が語ったはずの話を一から説明して、さっきコンビニに行き、帰りにふざけた恋人と合流して一緒に帰ってきたということを、恋人自身に説明してみせた。
 それでも恋人は、話の意味不明さに少し血の気の引いた顔で首を振るばかりだった。
 長いこと一緒にいる仲だから、それがふざけてるんじゃなく本気の顔だとわかってしまった。

「私……そんな話、していませんけど」
「いや、だって、そんな——」



「ついちゃったねえ!!!!!」


 背筋が凍った。
 たしかに手をつないで一緒に帰った恋人が、——恋人ではないなにかがいるはずの後ろから、玄関を入ってすぐの廊下のほうから、知らない男の叫び声がした。
 後ろは振り返れなかった。

 血相を変えた恋人がリビングから飛び出してあらためたが、そこにはなにもいなかった。


 そのあとも変なことが続いたので、結局、その街はすぐに引っ越した。

▼ (2021.7.19)