夜のしじまは、四十年の時間を超えてもたいして変わりはしないのだ。
 沖野が根城にしている廃工場は付近にひとどおりがないこともあり、明るいうちから喧騒とはほとんど無縁だ。しかしとりわけ日が落ちてからの静けといったら、まるでかつての見知ったまちに戻ったかのようだった。
 昭和六十年の夜はかしましい。中心部では自動車が絶え間なくあちこちを行き交い、深夜と呼べる時間帯になっても店々はこうこうと電灯をともして雑踏を吸いこんでいる。暗く、静かで、人びとの寝静まった吐息だけが満ちている――敵国の空襲が来ないかぎりは――故郷の夜を思い出すたびに、ここが真実みずからの見知った場所ではないのだと思い知らされて比治山はほんのすこしだけ、心もとなくなる。
 ほとんど明け方に近づいた未明。沖野は眠っている。
 めずらしいことだった。比治山が眠り、食事を摂るときにも、沖野が同じようにそうして過ごすことはほぼない。土埃まみれの床に学生服の上着だけを広げ、無造作に横たわる比治山に「よくそんなところで眠れるね」と馬鹿にしているのか感心しているのかわからないような言葉を吐いた沖野は、比治山が深い眠りについている明け方ごろ、わずかに並べたパイプ椅子にからだを横たわらせとぎれとぎれの睡眠を取っているだけのようだったし、比治山が食品店で購入してきた食事類にもほとんど手を付けていないようだった。
 そんな沖野が、なぜだか広げた比治山の学生服の上にころんと横たわり、すぐそばで寝息を立てて眠っている。
 沖野は生命のきざしというものにとぼしい男だ。食事や睡眠を比治山と共にしないのも、あえてそうして避けているのだろう。成り行き上比治山と行動を共にはしているものの、いまだに沖野には、比治山に許していない一線があった。
 吊るされた小さな白熱灯がじりじりと立てる音。割れた窓硝子の向こうから聞こえてくる虫の声。ふと目が覚めてどこかへ霧散してしまった眠気を探しながら、比治山は沖野の寝顔をみつめている。
 そのかすかに上下するうすい胸を見ていると、比治山の心に、ふしぎにこみあげてくる感傷があるのだった。
 生きているのだ。この男は。
 少女のような顔をして、比治山よりもずいぶん頼りないからだつきで。いまはまだ、比治山に預けてはくれないなにかを守るために、ひとりで戦っている。
 ふだんの沖野のひょうひょうとした、からかうような言動には過剰に反発せざるをえない比治山だが、沖野のそうしたところにだけは、ひそかに一目を置いている。
 起こさないようそっと起き上がり、パイプ椅子にかけたままだった沖野の上着をかぶせてやる。
 こいつが目を覚ますまで。ほんのいっときの休息のあいだだけでも、この静かな夜が続くように。
 白熱灯の明かりを落とす音が、がらんとした廃工場にひびいていた。

▼ とんでもない勢いでクリアして沖比治にどはまりしました(2020.8.11)