友也はひとりだった。
星奏館の敷地のほとんどはしっこ。さやさやと青い木々や植木のあいまにぽつんと設置されたベンチには、遠くからわずかに寮内のにぎやかな明かりが漏れ聞こえてくる。
どうということもない夏の夜。日が落ちると日中の焼けつくような暑さもずいぶんましになって、半袖の中を通ってゆく風が涼しい。
きょうは、来ないかもしれない。
サンダルのつま先で、芝生に混ざるちいさな石をこつこつといじる。
でも、消灯時間までは、あとまだ一時間ほどある。
べつにひとりでだって、のんびり星を見るのもいい時間だ。
それに虫よけのスプレーだって、万全に準備してきたし。
言い訳をするような心細い気持ちをふわっと浮上させたのは、芝生を踏んでこちらへやって来る、やわらかな足音だった。
「こんばんは」
リラックスした部屋着の渉が、静かに笑いながら友也のとなりに腰かけた。
「こんばんは。……きょうは来ないかと思いました」
あ、ちょっとすねてるみたいに聴こえちゃったかな。内心でどきどきしながらうつむく友也に、渉は気にしたそぶりもなくふしぎそうに首をかしげた。すぐそばのからだから、ふわっと清潔で高そうなシャンプーのにおいがした。
「fine、忙しかったんですよね? 姫宮も学校休んでたし」
「そうですね、今日はMV撮りが長引いて。ついさきほどみんなで帰ってきました」
「ふーん。……お疲れさまでした」
渉はただにっこりと笑うだけだったから、しばらく黙って、ふたりで空を見た。こんな都会のど真ん中では星はずいぶんとちいさく、かすんで、溺れかけただれかの夢のようにちかちかと明滅している。
けれどまちがいなくそこにあった。
そこにある光を、いまにも肩と肩がふれあいそうな距離で、渉とふたり、だまって見上げていた。
▽
眠りにつく一時間前、こうして渉とふたりで奇妙な時間を過ごすことが習慣になったのは、夏のはじまりのある夜だった。
友也はその日、どうしても寮でくつろぐ気分になれず、いつかに見つけた秘密の場所でひとりぼうっとしていた。
ちかちかと星のまたたく空。真っ黒な夜。吸いこまれるように見上げつづけて、目の奥が熱くなって、首が痛くなっても、友也はどうしようもなくひとりぼっちだった。
通話が切れて画面が暗くなったスマートフォンを片手に、硬いベンチの背もたれに体重をかけて、大きく息をつく。
とくべつに仕事でいやなことがあったわけでもない。だれかと喧嘩をしたわけでもない。この春からRa*bitsは大きく体勢が変わって、友也自身新しい環境と仕事に奔走する毎日で――大なり小なりの悩みこそ抱えていたが、まだ大丈夫、まだ大丈夫、とごまかしながら日々を過ごしていた。
仕事が終わってから、消灯時間の一時間ほど前。寮生活がスタートしてからはや数か月。アイドルたちはみな、それぞれの寮室ではじめのころよりもずいぶんと打ち解けてきた同室の者と過ごすか、あるいは共有スペースで既知の相手とのんびり過ごすことがほとんどだった。
友也も例にもれず、風呂上がりに共有スペースで何人かとぼうっとテレビを見ていたのだが。
『おにいの部屋の呪術廻戦、友だちに貸していい?』
ピロ、と着信音が鳴って、そんな妹からのメッセージが携帯に入った。
『いいけど、返ってきたら元のところへ戻せよ』と返信をして。
なんとなく寮を出て、妹に電話をかけた。
どしたのいきなり? いや、べつに用事はないんだけど。みんな元気か? 何言ってんの、先週も帰ってきたじゃん。それもそうかあ。あ、でもね、おかーさんがこないだおにいの出てるバラエティ見てて。「友くんちょっと顔つき変わったね」って言ってたよ。なんか、やっぱり友也も家を出て大人っぽくなったのかな? って。あたしはわかんなかったけどさー。
『ねえ、おにい、寮、楽しい?』
のどの奥に詰まった大きい氷みたいなかたまりをぐっと飲み下して、友也は笑った。
『……うん、楽しいよ』
それでしばらくなんでもない妹の学校の愚痴を聞いて、ユニットのみんなの近況なんかを話して、電話を切った。
どうしてだか寮には戻る気になれずに、部屋着にサンダルに片手にスマートフォンを持ったままうろうろとして、気がつけばここでぼんやりしていた。
――つまり、まあ、ただのホームシックなんだよな。
新しい環境で。新しい人に囲まれて。新しい仕事に、新しい責任。自分がうまくだれかに甘えられる性分でないのはよくよくわかっていたけれど。
「はあ~……」
大きくためいきをついて、ベンチに引き上げた膝にひたいをくっつける。
――さみしいな。
「――――大丈夫ですよ」
びくっと顔を上げる。すぐそばの木立の向こうから、どこかで聞きなれた声がした。
いまの、口に出ていただろうか? だれかに聞かれていたんだろうか?
どきどきと固まってじっとしていると、黒々とした木々のあいまから顔を出したのは、スマートフォンの画面の明かりにほおを照らされた渉だった。
どうやら通話中だったようだ。聴き慣れないおだやかなトーン。やわらかに目じりの下がった顔。――何度か見たことがある、渉の自宅に招かれたとき、家族と接するときの息子の顔をした渉だ。友也とおなじに、家族と電話でもしていたのだろうか。
「おやあ? 奇遇ですね友也くんっ! こんばんは……☆」
息子の顔をした渉は友也を見つけるなり、ぱっと「いつもの」笑顔になった。
「こんばんは……」
時間も時間だ、いちおう小声で返事をする。正直、いまの気分で「いつもの」渉とやりあう気にはなれない。
さっさと寮に帰ってくんないかな。ますます縮こまって気まずげにベンチに背中をくっつける。渉はなぜかこっちを観察するみたいにじっと見て、そして友也のとなりにストンと腰かけた。
「なっ、何、ですか」
「友也くん」
「え……」
そして美しい顔が、真剣な面持ちのままゆっくりと近づいてくる。友也のものよりもふたまわりは大きな手のひらがほおをそっと包んだ。えっ。えっ。こういうシチュエーション、演劇部のときになかったわけじゃないけど。でもそれって、いわゆるラブシーンで、えっと、いつでもそれは台本の中でのことで……。
ばくばくと壊れそうな心臓を抱えてカチコチになるしかできない友也の、真っ赤になったほおを、男らしい親指がやさしくなぞった。
「……ここ、虫に刺されていますよ」
「……えっ? あっ、ほんとだ!?」
自分で触れてみると渉の言うとおり、熱をもったそこがぽちっとふくらんでいる。なんだかそう言われると、とたんにそこがかゆくなってきたような気がする。よくよく見てみれば、そこだけではなくて、半袖に半ズボンの部屋着からむき出しの手あしにもいくつか。う~っと顔をしかめて掻こうとすると、渉の手がそれをとどめた。
「掻くと痕になっちゃいますから。じゃんっ! 魔法のお薬を塗ってあげましょう!」
「魔法の……って、ムヒじゃん。そんなんなんで持ってるんですか……」
鼻歌を歌いながらあちこちにくりくりと塗られて、ひんやりした薬液が腫れたそこに気持ちいい。
「あんたは刺されてないの? やっぱ変態の血だからか……」
「そうですよっ私は超人なので♪ というのは冗談で、こちらに虫よけスプレーも、ほぅら、じゃん♪」
どこからか取り出したスプレーを、もう遅いかもしませんがね、とシューとされる。かすかな薄荷のにおい。夏のにおいだ。思わず目をつぶった。
ずいぶん昔、まだひとりで眠れもしなかったころ、母か父がこうして虫よけスプレーをかけてくれたときには顔にかかってえらくむせちゃったんだっけ。渉の手はスプレーが友也の顔にかからないよう、目立たないところで、しかししっかりと守ってくれている。
「……家のひとと話してたの?」
「ええ。母がね、心配性で。声を聴くと安心してくれるんです」
「ふうん。俺も妹とちょっとしゃべってた」
だいじょうぶですよ、とささやいたやさしい声。いつか渉の家で見た、家族に向けていたあのやわらかな笑顔。
それが渉にとって、大事にしまっておきたい宝物なのか、それとも飽きれば脱ぎ捨てて着替えられるようなものなのか、友也は知らない。
「日々樹先輩は……」
知らないけれど、あの日渉が友也になら見せてもいいと差し出してくれたものが目の前によみがえって、胸の奥がぎゅっとなる。
「……さみしくない?」
渉はちょっとびっくりしたみたいに目をひらいて、そして、ふ、と笑った。
「そうですねえ……。大丈夫ですよ、と言うと……うそになっちゃいますね」
「うん……」
うん、うん、とただうなずく。
渉が、言葉に迷いながら、ぽつぽつと伝えてくれた言葉がうそでもほんとうでも、どっちだってよかった。ただ、このさらりとしたすずしい風の吹く夜が、渉がそれを口にすることを手伝ってくれたのだと思った。だったら、友也はそれを信じる。自分の言葉で自分の感情を表現することが苦手なこの人が教えてくれたことを。
俺も。さみしくて、ふあんで、こわくて……どうしたらいいかわからなくて。だから、ひとりは……ひとりじゃいやなんだよ。ねえ、日々樹先輩。目の奥のほうからこぼれてしまいそうな気持ちがじわじわとのどを上ってくる。
だけど、友也はぐっとこらえて、黙った。なんとなく、この人はそんな友也のことをぜんぶわかってくれている気がしたから。
「でも、いま友也くんの虫さされさんには、私がムヒを塗ってあげますから」
「……なんだそれ」
すこしだけほてりの落ち着いたほおを、渉の指がつんとつついた。
▽
しばらくふたりでだまったまま、空を見上げた。今日は、午前から夕方までは雲が多かったけれど、いまはすっきりと晴れてちいさな星もあちこちで瞬いている。
夜、眠る前の一時間。なんとなくこうしてここで渉と一緒に過ごすことが日課になった。
黙って空や木を見ているだけのことも多かったし、その日にあった出来事をおもしろおかしく話すときもあった。友也は、他にはだれにも言えないようなちょっとした汚い気持ちを、吐き出すこともあった。
日中よりも涼しいとはいえ、まだやはり汗ばむような温度の中。さらりとした白い首筋を、渉の指がポリ、とかく。
「あっ、あんた虫よけは?」
「忘れちゃいました」
「も~、ほら」
あの日からずっとポケットに用意しつづけて、やっと出番が来た虫よけスプレーを自信満々に取り出す。しっかりと顔を手で覆って、首筋に、手に、あしにミントのツンとしたにおいのそれをシューとふりかけてやる。
うなじにもかけておいてやろうと、下されたままの長い髪をまとめて持ち上げる。
絹のような手ざわりのそれは、すこし湿って、ひんやりとしていた。
忙しい一日を終えて寮に帰り、風呂に入ったあと、乾かすのもそこそこに切り上げたのだろう。長く美しく手入れされた髪が商売道具である渉にはめずらしいことだ。いつもなら、どんなに暑い日でも夜が遅くなった日でもきっちりとケアしているくせに。
――なあ、そんなに急いで来てくれたの?
俺が待ってるからって、思った? ちゃんとした約束もしてないのに?
あんたにとってもこの夜は、このふたりで過ごす時間は、大事な生活の一部になってるって思ってもいい?
「ありがとうございます」
下した髪を梳いて、渉が笑う。
友也も笑った。
あんたがうなじを刺されたら、俺がちゃんとムヒ、塗ってやるよ。
「だってさ、ひとりじゃないもん。」
▼ (2021.9.20)