——髪を長くして待ってろ、日々樹渉!
 あのときから、友也くんが私の目をじっと見つめて、そして笑って啖呵を切ったときから。
 彼のことをずっと考えています。私がひとり立ち尽くす舞台に、わっせわっせと登ってきて勝手に「共演者」になってしまったあの子。
 そんな人は、まあ十八年ぽっち生きてきたなかでは、いままでひとりもいませんでしたから。興味はとうぜん湧きますし、その興味で、彼との細い糸をつぶしてしまわないよう自分をセーブするということも、ここ最近になって私は知りました。
 さて。あいにく、ときは進んで私は社会人一年生。彼は高校二年生。所属タレントの多くが寮を利用するようになったとはいえ、なかなか以前のように——そう、演劇部の部室で、北斗くんと三人でまるでねこのこみたいにひっついて親しくする機会はとんと失われてしまいました。
 ええ、きっと、だからなのです。この日々樹渉が、朝、道を行く人の波の中に彼の姿が見えないか、無意識に探してしまっているなんて。
 などということを冗談まじりに交換日記に書くと、英智から帰ってきたのは「まるで恋をしているみたいだね」と、どこまで本気かわからないからかいの言葉でした。
 私が? 恋を?
 だれに? ——友也くんに?
 これまで舞台の上で私は、何百という恋を実らせ、あるいは散らし、そして愛をささやいてきました。
 恋だなんて。
「恋だなんて」
 ひとり、呟いた言葉がだれもいない控室に消えてゆきます。
 劇団のだれかがつけっぱなしにしていったテレビからは、お昼の情報バラエティがにぎやかに流れています。
『さあ始まりました、春の先輩&後輩これってどーなの!?特集! 生放送でお送りします本日のゲストは、アイドル界のかわいい後輩代表、Ra*bitsのみなさんです!』
 画面の中では、ユニットのうさぎさんたちと揃いの明るい衣装を着た友也くんがにこにこと手を振っています。
 ふふふ。先輩特集ですって。北斗くんの話でもするんでしょうか。
 熱の入った調子で力説するところを想像して、つい笑い声を漏らしてしまいました。
 ひとしきり笑ったあと、楽屋に持ち込んだ贈り物の花束を私はそうっと撫でました。
 マチネのあと、プレゼントボックスから受け取ったかすみ草の小さな花束です。色とりどりの鮮やかな花のなかでひときわ地味で、贈り主の名もメッセージカードもない、きっと他の演者なら目にも留まらなかったような花束。
 恋だなんて。
 そんな、まるでごくふつうの凡人がするようなものは――私には無縁なものだと思っていました。
 こんなふうに、小さな花にだれかの顔を思い浮かべるような、陳腐でありきたりな恋なんて。



「あ、おかえりなさい」
 帰宅して寮の廊下を歩いていると、お風呂上りらしくほかほかと上気させたほおに首からタオルを下げたままの友也くんとすれ違いました。
「ただいま帰りました……♪」
「今日は公演、お疲れさまでした」
「ありがとうございます。友也くんも、お仕事の前なのによく来てくれましたね」
 もう遅い時間なのでさすがに声は控えめに、ニコニコと笑いかけると、大きな目がちょっと驚いたふうにさらに大きくなりました。うろうろとさまよう視線が片手に提げた小さな花束をちらっと見て、気まずそうに反らされます。
「……匿名にしたのに。よくわかったな」
 わかりますよ。まじめな顔でうなずいてみせると、やわらかなラインのまだ幼い輪郭は、じわじわと赤くなってうつむきました。
「友也くん」
 その、とがらせたくちびるや、まだしずくの滴っていそうな濡れたまつげや、いつものふわふわがぺたりと落ち着いた髪を見ていると、どこか胸のあたりがむずむずするような心地がして、私は無意識に口を開いていました。
「今度の週末はオフですか?」
「一日空いてる予定だけど」
「寂しい休日ですねえ」
「どっちが」
 いつからかめずらしくもなくなった軽口の応酬に、なんだかうきうきとしてきます。まだ肌寒いはずの夜の空気も、ふわふわと綿菓子みたいに甘いにおいをはらんで肌にまとわりつくようです。友也くんも一瞬むっつりと渋そうな顔をしてみせて、すぐに耐え切れずににやっと笑いました。
 だから、私は自然と口にしていました。
「私の部屋で、いっしょに映画でも見ませんか?」
 友也くんはにこっと笑って、
「うん」
 とうなずきました。
 ほんの少しなんでもない雑談をしたあと、お互いの部屋の前でバイバイ、おやすみなさいと手を振って、私たちは別れました。
 早寝なみなさんが寝静まった部屋にそうっとすべりこみ、私は、音を立てないように——これくらいは日々樹渉にとって朝飯前です——水を張った花瓶を用意し、ベッドのサイドテーブルに花束を活けて、耐え切れずにもう一度フフフと笑いました。
 ああっ、恋とはなんと楽しいものなのでしょう!
 友也くんといると、ふしぎな気持ちになります。
 友也くんといないときにも、ふと彼のことを思い出してしまいます。
 まるで、いままでになかった――いいえ、知りもしなかった自分の新しい顔をみつけられたような。だれかの笑ったときの白い歯のちらつきや、やさしい声にまぎれる吐息や、眉の下がった具合を手に取るように思い出したくなることがあるだなんて、考えたこともありませんでした。
 思えば、これまで彼と一緒に過ごした時間は、すべて友也くんから声をかけてくれていたものでした。
 私が、ふと友也くんのことを思い出すと、まるで魔法のように、見透かしたように、「いっしょに遊びませんか」と連絡がくるのです。
 そんなとき、彼も、こんなあたたかい気持ちになっていたのでしょうか。
 そうだとしたら――それはどんなにうれしいことでしょう、と思うのです。





 待ちかねた週末、友也くんが部屋をノックしてやってきたのはお昼ごろでした。どうせ同じ寮内にいるのだから、と何時からと待ち合わせもしていませんでしたが、私が「そろそろ友也くんのお顔が見たいですね」と思ったころに、やっぱり彼は来てくれたのでした。
 同室のみなさんが仕事やプライベートに出かけてふたりきりの室内で、ささやかな花だけが静かに佇んでいます。開け放った窓からはやわらいだ風が吹き抜けて、とびきりの映画鑑賞日和です。
 ラフな部屋着姿の友也くんは、両手におべんとう包みをふたつ抱えていました。
「日々樹先輩、昼まだですか?」
「ええ」
「おにぎり作ってきたから、食べる?」
「おにぎり」
 ご実家から持ち出したらしいファンシーな柄のおべんとう包みの中には、それぞれ大きなおにぎりが三個ずつ入っていたのでした。
 食べながら一緒に見ようと思って。なんと言えば正解なのかわからずにひとまずうなずくと、友也くんはほっとしたような顔で笑いました。
「のりが一枚のやつが梅で、二枚のやつがしゃけです」
 差し出された包みはまだほのかにあたたかく、意外にずっしりと重みがあります。
「いただきます」
 友也くんも、こんなにちいさなからだでけっこうたくさん食べるんですね。育ち盛りの男の子ですしねえ。おもしろく思いながらそうっとラップをはがして、ほんの少しいびつな三角形のてっぺんを一口食べてみます。
 きりっと塩味がして、そして固めに炊かれたご飯がほろほろほどけます。梅はていねいに種が抜かれて、甘いはちみつの味がしました。なんでもない、ほんとうにこれといって言うこともないような、ごくごくふつうのおにぎりの味です。けれど。
「おいしい」
 ぽつんと呟いた言葉に、友也くんはよかった、とにっこり笑いました。
 あーんと大きな口でおにぎりにかぶりつく友也くんを横目に、もう一口食べてみます。
 とってもふつうの、とくべつに味がいいわけでも、どこか特徴があるわけでもないおにぎりなのに。ほおの奥がきゅっとして、もう一口、もう一口と食べたくなって、そして空腹を感じてもいなかったおなかがぐうっと鳴りました。
 すごくおいしいのです。
「……昔、子どものころ、母が作ってくれるおにぎりが好きだったんです」
 脈絡もない話を始めた私を、友也くんは口を挟むでもなく、まあるい目でじっと見つめて、おにぎりをもぐもぐとほおばっています。
「作ってもらえたのは、運動会か遠足のときくらいでしたけど。こうして甘い梅を、種を抜いてくれていました」
 ああ。友也くんといると、どうしてこんなにどうだっていい話をしてしまうのでしょう。だれに聞いてもらう必要も、聞かせたいわけでもない、私のことを。どうして知ってほしいと思ってしまうのでしょう。
 友也くんはしばらく口をもぐもぐさせたまま首をかしげて、そして口の中のものをごくんと飲みこんでから、言いました。
「先輩とおかあさんとが、どういう関係なのかはわかんないけど。……食べたいなら、今度実家に帰ったときに作ってもらえば?」
 私は、つい面食らって、そして思わず吹き出しました。
「そう、そうですね!」
 そうなのです。食べたいのなら、作ってもらえばいいだけなのです。
 なんてあたりまえのこと!
 笑いを漏らす私を、友也くんがふしぎそうに見ています。
 友也くんを育ててくれた親御さん、ありがとうございます! と私はなぜだか思いました。友也くんと仲良く過ごしてくれたお友だち、ありがとうございます! ああ、なんてふつうの、あたりまえのことをあたりまえみたいに話す子なんでしょう。
 それは、公園の砂場のちいさな一粒のようにありきたりでなんでもないことなのに――友也くんのやさしい声を聴くたびに、どうしてだかきらきらと光る硝子の粒のように、とても得難いことのように感じるのです。
 ああ、この部屋に大きな姿見でも置いておくのでした。そうしたら、自分がいったいいまどんな顔をしているのかすぐにわかるのに。この目でたしかめてみたい。きっと今までに演じたどの恋よりも真に迫った、におい立つほどに蕩けた顔をしているでしょうから。
 友也くんと一緒にいると、何度も胸のところがちくっとして痛みます。
 けれどそれは、何度だって味わいたい、心地よい痛みなのでした。



「なんだか、今日はずいぶんロマンチックなセレクトですね」
 私が用意した映画たちを眺めて、友也くんは首をかしげました。
 それもそのはずで、これまで友也くんと一緒に映画を見るときにはなるべく幅が広いものをとアクションからミステリー、ホラーにコメディとさまざまに取り揃えていたものが、きょうのそれはすべてがロマンス映画一色だからです。
 フフフ、そうでしょうそうでしょう。
 私はますます愉快な気分になって、したり顔でうなずいてみたりします。
「いえね、古今東西のあらゆる恋愛劇を復習してみたくなりまして」
「へえ~? なんでまたとつぜん?」
 さすが友也くん。よくぞ聞いてくれました!
 友也くんは、はたして恋がこんなに楽しいということを知っているのでしょうか? ひとりぼっちのリビングのテレビの中でも、スクリーンの向こう側でも教えてはくれなかったこと。だれかに恋をするということが、こんなにもうれしく、愉快で、心が躍って、しあわせなことだということを。
 ね。友也くん。私、とっても楽しい恋をしているんですよ。ほかでもない、あなたに。
「なにせこの日々樹渉、人生ではじめての恋をしていますからねっ!」
 友也くんは踊るような私の言葉に、大きな目がこぼれ落ちてしまいそうなほどまんまるくしてぽかんと口を開けました。
「え」
 どこか間が抜けたその反応にうれしくなります。
 おどろきましたか? おどろいたでしょう。私だって恋をするんですよ!
 ねえ、それが自分のことだなんて、きっと思いもしていないでしょう?
「それって……」
「友也くんはベタに幼稚園の先生に初恋を捧げたタイプですか? それともまだ恋を知らないとか……?♪」
 なんと言っても、あなた、生々しい感情が絡むような演技はいつまで経ってもだめだめですからね。そういえばこのあいだ出演したCMでは、ちょっと手をつなぐくらいのシーンでも照れてしまってなかなか撮影がうまくいかなかったのでしたっけ? 子ウサギさんから聞きましたよ~☆
 さんざんにおもしろおかしく友也くんをからかって、そして、それから私はやっと友也くんがむっつりと黙り込んでいることに気が付きました。
「友也くん?」
 どうしたのでしょう? 友也くんはくちびるをぎゅっと噛んで、まるで耐えられない痛みに苦しんでいるようにしかめた顔でうつむいています。
「べつに……俺も」
 絞り出した声は、どうしてだか泣きそうな色をしていました。
「俺だって、好きな子くらい……います」
 友也くんの、好きな子。
 私は、らしくもなくすこしぼうぜんとしてしまいました。二、三度まばたきをして、そして想像にたやすい光景が目の前で上映されるかのように思い浮かびます。
 友也くんはふつうの男の子ですから。きっと、そのうちにかわいい彼女なんかを作って、そして結婚して、もしかすると、いつかあかちゃんができて……。
 その瞬間、いままであんなに愉快な気持ちだったのに、とつぜんなにもかもがつまらなくなりました。
 ふしぎですね。
 友也くんがだれかのとなりで生きていくことを想像すると、どうしてでしょう、それだけで喉の奥に大きな石がつかえたように苦しくなって、鼻がつんとして、心臓はつきつきと痛みます。脈が打つたびに全身を凍った金属がめぐっているようです。ずきずきと疼いて、指先がつめたくなりました。
 いつか、友也くんはだれか私の知らない恋人ができて。――そうなったらもう、私のことはいいのかもしれませんね。
 いいえ。認めてしまいましょう。
 彼が私をあきらめて、だれかほかの人のことに取りかかるようになるのが、とても怖い。口惜しくてたまらないのです。離れていくものを引き留めはしまいと思っていたのに。引き留めてしまえば、それは真実私の執着になってしまう。
 伸ばした手が空を切るのは――いやだから。ならば、手を伸ばさなければいい。……そう思っていたのに。
 しんと重だるい部屋の中で、浮かれながら取りそろえたロマンス映画のうそのように明るい音楽だけが、空しく響いています。画面へ向けられずにそらした視線の先で、ちいさな白い花がぽろりと落ちました。
 知りませんでした。
 恋とはこんなにも、つらいものだったのですね。

▼ おまえ!おまえ!(2021.3.27)