「友也くん! いいお天気ですねえ、お散歩に行きましょう!」
 うららかな休日の朝、すっかり身じたくも済ませ、朝食を終えて、私は華々しくステップをきかせながらいよいよ友也くんに声をかけました。
 私のベッドの上で、ぐちゃぐちゃに集めたお布団に顔を埋めて丸まったままの友也くんの、ふわふわの片耳だけがぴくっとこちらを向きます。
 すうすう寝息を立てるのはそのままに、長い二股のしっぽがしたん、とシーツを打ちました。
 いつまで経っても返事はありません。
 ううん、見事なまでの知らんぷり! 無視されるのはきらいですよっ。といつもならいやがる友也くんとシーツのあいだに入り込んであれこれしてしまうところですが、きょうばかりはご機嫌を損ねないままお出かけしてもらう必要があります。
「公園でひなたぼっこしながらちゅ〜るでも食べたら、さぞおいしいでしょうねえ」
 ぴるるっとうっとおしそうに耳がふるえて、友也くんは逃げるようにもっと丸くなりました。まるであっちへいけと言わんばかりにぶんぶんっとしっぽを振っています。
 自分が散歩に行きたいときには、すり寄ってきて甘えた声で鳴いて、あの手この手でねだるくせに、気分が乗らないタイミングで私が誘ったときにはまるで無視です。
 ちゅ~るをちらつかせればしぶしぶこっちを見てくれることが多いのに、きょうの友也くんはよっぽどおねむなのかもしれません。
 こうなると、もう最終兵器です。
「帰りは北斗くんのところに寄りましょうかね〜」
 両耳がぴくっとこちらを向きました。
 最終兵器、見事目標に命中。友也くんはむくりと起き上がって、ぐちゃぐちゃのねぐせのままふわーんと大きなあくびをしました。それから、前あしのストレッチ。ぐーっ。つづいて後ろあし。ぐーっ。
 また半分まぶたが落ちている目で、友也くんはじとっとこちらを見ます。
「ぶちょう」
「はい」
「ほくとせんぱい、会う?」
「そうですよ〜」
 捨て猫だった友也くんを拾ってきて、お風呂に入れ、病院に通わせ、ごはんをあげてトイレのしつけまでしてあげて、寒くなったら同じお布団で眠っているのは私だというのに、友也くんったら一度だけわが家に連れてきた後輩の北斗くんにそれはもう心を奪われてしまったようです。えらくなついて、私のことまで彼の真似をして「ぶちょう、ぶちょう」と呼ぶようになりました。
 私から言質をとって、やっと友也くんのキラキラした木星みたいな大きな目はにっこりと微笑んだのでした。



 乗り気ではなかったわりに一度出てしまえば一緒なのか、鼻をひくひくさせて、やわらかくなりはじめた初春の風をふんふんとにおって楽しんでいる友也くんと、手をつないで歩きます。
 いまのご時世、猫は完全室内飼いが推奨されていますから、もちろん友也くんも外へは出さない家猫です。
 しかしこうしてゆっくりと時間が取れるときには、もっと子猫のころから私や家族とご近所を散歩したこともあります。道端にたむろっている鳩にちょっかいをかけようとしっぽをふりふりしているところをたしなめても、ゆったりと揺れるしっぽが友也くんのごきげんを表しています。いまのところ、よく見知った道にリラックスしている様子です。
 散歩のコースはいつものとおり。近くの住宅街を抜けて、ちょっとした川沿いの遊歩道をのんびり歩きます。車通りが多い交差点を右へ曲がって、帰り道の公園ですこし休憩。——途中までは、いつもと同じの散歩道。
 交差点でいつもとは違うほうへ曲がったとたん、友也くんははっとした顔でぴたりと立ち止まりました。こんなときばかり察しのいい子です。
 友也くんは先を行く私の手に逆らうように、うしろ足で一生懸命ふんばります。つないだ手にぎゅっと力を込めて、ぐいぐい後ろへひっぱろうとします。かわいい耳は後ろにぺたっと伏せられて、しっぽもへたりと下がっています。
「行きますよ〜友也くん」
「いや!」
「ちょっと遠回りするだけですよ」
「う……うそだ! いたいのだ! 部長のうそつき!」
 友也くんは、いちど慣れるととっても人なつっこい子ですが、そのぶん慣れるまでに時間がかかるようです。人見知りをするので、いまよりずっと子猫だったころから定期的に通っている病院も、いまだに慣れる様子もなく「知らない大きいひとになんだかいろいろといじくりまわされて、たまに痛いことをされる、へんなにおいのするこわいところ」だと思っているのです。
 なので、こんなときばかりいつもと少しでも違う雰囲気を察知しては警戒する、ぜったいにあそこには行きたくない友也くんをありとあらゆる方法で病院へ連れて行くのはいつも一苦労なのでした。
 最近ではなかなか見られなくなった、おびえて逃げ惑う友也くんはなかなかおもしろくてかわいいものですが、あまりに泣かれるとさすがの私でもかわいそうになってきます。楽しくあるのは事実ですが、同じくらいそこそこにめんどうな道中でもあるのです。
「友也くんのためなんですよぅ」
 私が言外に友也くんがおびえる場所へ行くことを肯定すると、半信半疑だった友也くんの毛はいよいよぴゃあっと立ち上がりました。
「ころされる! たすけて! 北斗先輩〜!」
「げっへっへ、助けなんて来ねえんだよ、観念しな!」
「いやだ〜!!」
 一度決めるとてこでも動かなくなるかたくなな友也くんに、私はなかばめんどうになってきてふざけた声でおそいかかりました。
 うわ〜っと泣きわめく友也くんをよいしょとだっこして、いつもとは違う道を病院へ向かってふたたび歩き出します。
 友也くん、いいこにしていればすぐですよ。
 友也くんは私のシャツをひしとつかんで、顔を埋めておいおい泣くばかりでした。



 病院の待合で私の膝にしっかりとしがみついて、友也くんは両耳をうしろにぺたりと伏せて、かわいそうなほどぶるぶると震えていました。長いしっぽはぶわっとふくらんで、くるりと脚の間に巻かれています。あまりにきつく抱きついてくるので、爪が食い込んで痛いほどです。
 診察室からときおり漏れ聞こえてくる、よそのお宅のだれかが泣いたり、大きな声でいやがったり、わがままを言ったりするのに耳をすませては、どきどきと瞳孔を大きくしています。
「日々樹さん。日々樹友也くん〜」
 受付さんから呼ばれて、膝の上の猫がびくっと跳びあがりました。
 いまにも待合の隅に逃げていって丸まりそうな友也くんの脇の下をよいしょと抱えて、逃げ出さないようにしっかりと診察室へ連れて入ります。
 友也くんがうちに来てからずっと診てくれているいつもの先生は、いつまで経っても慣れない友也くんにすこし苦笑しています。
「はい、おなかを見せてね~」
 ぺろんと上着をまくられて、友也くんは、ぅゔ、と喉の奥でうなりました。
 唯一この病院で懐いている看護師さんにぎゅうっと抱きついて、――この看護師さんは、背が高くすらっとしていて、切れ長の目は涼しげで、なかなかの美形で友也くんのお気に入りなのです――あとはもう哀れにただただ耐えるのみでした。
 ――診察が終わり、ぐずぐずと鼻を鳴らす友也くんを抱っこしながら、私まで一仕事終えた気分になって、病院の自動ドアを出ました。
 病院が終わったあとの友也くんは、いつもしばらくはとんでもなく甘えたのままです。とは言っても、家に帰ってひと眠りでもすればけろっと忘れて、私にも日常のつんとした態度に戻るのですが。
「よしよし、えらかったですね」
「……」
「北斗くんのところ、行きますか?」
 ぎゅっと抱きついた腕に力がこもって、肩口に埋まった頭がふるふるとちいさく首を振りました。
「……かえる」
 きょうは定期健診と一緒にワクチン接種もあったので、よっぽど疲れたみたいです。
 ぐったりした様子の友也くんは、しっぽをしんなりとしょげさせて、自分のあしで歩くのもだるそうにしています。
 でも、いじわるでしているんじゃあないんですよ。
 私は、友也くんのやわらかい髪を撫でながら、心の中で言い訳をしました。
 こねこの友也くんに言ったってわからないかもしれませんね。
 動物の寿命はたいてい、人間のそれよりもずっとずっと短命です。
 そんな当然のことを、幼いころから両親にもらった鳩たちに囲まれながら、よくよく意識することもありませんでした。友也くんがやってくるまでは。
 いいえ。なんだって、だれだって、いつか私から離れてゆくのがあたりまえなのだと思っていました。ずっと。
 喪失をおそろしく思うことが、こんなにもよるべなく、苦しいことだなんて。
「友也くん、うちに帰ったらちゅ〜る食べますか?」
「たべる。……だっこもして」
「はいはい」
 友也くん。どうかずっとずっとそばにいてくださいね。
 傾きはじめただいだい色の日を浴びながら、私の腕の中の友也くんの体温だけがあたたかく、しっかりと実感をもってここにあるのでした。

▼ ねこまたの友也くんへの劣情(2021.2.26)