「え? 部長、自転車乗れないの?」
 思わず、といった調子で、友也くんはこどもみたいにぽかんと口をあけました。
 そうするともともとの童顔がきわだって、まるでほんとうにちいさなこどもみたいに見えます。
「ちがいます。乗ったことないだけです。乗ろうと思えば乗れると思いますよ」
 私はとくに言い訳するつもりでもなく、そう言いました。
 これはほんとうです。経験はなくても、日々樹渉はやろうと思えばたいがいのことはとくに苦労するでもなくできてしまうのです。自慢でも傲慢でもなく、単に事実として。
 たしかにあんたなら手放し運転もできそうだけど、と友也くんは納得したようにうなずいて、ちょっと首をかしげました。
 あいかわらず敬語が苦手な子です。同じユニットの子ウサギさんにはもうすこし敬意をはらった接し方をしているようなので、これは悪行の結果というやつかもしれません。もっとも、いままで友也くんにしてきたことすべて、結果としていじめたようになっておもしろおかしく思ったことは何度もありますが、最初からいじめるつもりだったことは一度もありません。世の中すべてのことに意味があるとはかぎりませんが、友也くんにやってきたことにはそれなりに意味があるつもりです。
 友也くんが、私と対峙するときにいつもただよわせていたうなるような声色をひっこませて、最近なぜかよく見せてくれるようになった無防備な顔でぽかんとしたのは、北斗くんが欠席をしてふたりきりの部活動の休憩中に
「自転車通学にしようかなあ」
 と彼がなにげなく言ったことがきっかけでした。
「おや、トレーニングですか?」
 と私は聞きました。
 友也くんのおうちは学院から電車を二本乗り継いで二十分ほど。こどもたちの声がにぎやかな住宅街にあります。何度か休日の彼へちょっかいを出すためにお邪魔したことがありますが、最寄り駅も乗り継ぎ駅も、たとえば電車が一時間に一本しか来ないようなへんぴな場所ではなく、コンビニもスーパーもファストフードもドラッグストアも本屋もレンタルビデオ店もあり、寄り道には事欠きません。
 定期代は親御さんに出してもらっているようですし、自転車で通学するとなれば、友也くんの体力では四十分ほどはかかるでしょう。
 となれば、目的は利便性の向上でも節約でもなく、体力強化か減量です。先月体調を崩して——それは私のせいなのですが——ステージを欠席せざるをえなかった友也くんはもともとひょろひょろしていたところをさらに数キロやせてしまったので、ダイエットではない。
 トレーニングですか、という言葉に、友也くんは軽い調子でうなずきました。
「はい。最近レッスンで疲れきっちゃうことが多くて。体力つけたいから」
 こんなふうに彼と雑談をするだなんて、すこし前までは考えもしなかったことです。
 彼の前で涙をひとつぶ見せたあの日から、どうにも友也くんは私への態度を変えることにしたようでした。いえ、「ほどほど」という言葉を考えるようになった私が接し方を変えたのも事実ですが、友也くんが私の目をじっと見るようになったのは、きっとあの出来事がきっかけだと思います。
 あんな、うそかほんとうかもわからないような話で。演技か素かもわからないような涙で。
 日々樹渉の語る言葉は、すべて愉快なそらごとだというのに。
 それでも、あんな話をごくごくふつうの友也くんに語ってしまったのは、春に出会った彼が、どうせほかの子たちのようにすぐに背中を向けて逃げ出すだろうと思っていた彼が――実際やっていることといえば逃げ回る彼を追いかけまわすことばかりでしたが――この私の城から逃げ出すことなく、夏を、秋を、そして冬を迎え、それでも私の前に立っていたからです。
 存外、楽しい日々を送ったからです。
 甘えてしまったのかもしれません。
 実際、ときおりこの日々樹渉をまるで既知の仲かちいさなこどもであるかのように扱う友也くんの口ぶりは、不思議となぜかいままで知らなかったふうに心地よく感じるのでした。
 だから、うっかり口がすべってしまったのでしょう。
「私、自転車、乗ったことないです」
 ついぽろっと、ふと考えたことが口からそのまま出ていました。
「自転車乗ったことないって……えええ、どんな生活してたんだ」
「それはもう、ふつうの友也くんには想像もつかないような愉快で楽しい暮らしですよ〜」
 フフフ、と笑ってみせます。
 幼いころから早熟だった私はクラスでも腫れ物扱いされていて、自転車で連れ立って遊びにゆくような友人はおらず、高齢の両親と出かけるときにはたいてい徒歩かバス、ときには自動車でした。
 ひとりで外を遊びまわるよりも家で過ごすほうが多かったので、プレゼントとしてふつうの家庭のように自転車を買い与えようとする両親にもマジックの道具や鳩や書籍などをねだってばかりいました。そうして自転車というものについぞ乗る機会がなくこの歳まで過ごしたのです。
「乗ったことはありませんが、この日々樹渉に任せていただければ? 三人乗りや四人乗り、ありとあらゆる曲芸でもこなしてみせましょう!」
 つい口をついて出た言葉がまるで迷子になったこどものように無防備だったことがひどくはずかしく思えて(はずかしいだなんて感じたのはとてもひさしぶりでした)、騒ぎ立ててにぎやかしをする私に、ふつーでいいんだよ、ふつーで。と友也くんはあきれたふうにため息をつきました。
「まあ特に不便はありませんから、そういった芸事で必要にかられたときまで私が自転車に乗ることはなさそうですねえ」
 凡人のようにはずかしくなって照れ隠しをするということさえ、私にとっては「ふつうではない」ことでした。そんなことさえ知らずに、友也くんは私の言葉を聞いているのかいないのか、あいまいに首をかしげて「ふうん」とつぶやきます。
 ああ、これはまたなにかひとりで思い込んで考えているな、と私はおかしくなります。
 友也くんがあんまりにもすなおで、お人よしで、人の話をすぐに頭から信じ込んでしまうので、この子はほんとうにアイドルとしてやっていけるんでしょうかね、とらしくもなく心配になってしまうくらいです。
 けれど、そんなおばかな友也くんが私の話を真に受けて、私がすこし生活のにおいのする話題にふれるたびにいらない気を回して彼のよく知るふつうの日常になんとか私の手を引こうとする、そのいじらしい仕草が、けして不快ではなくて、どうしても邪険にはできないのでした。
 うーん、としばらくうつむいてなにかを考え込んだあと、ちらりと私の顔を見上げて、
「乗ってみます? 自転車」
 と友也くんは言いました。



 次の日、友也くんは我が家まで自転車でやってきました。
 ごくごくふつうの、荷台がついた水色の自転車。前かごに通学用のリュックを突っ込んで、サドルに跨ったまま、友也くんは門の外で待っていました。
 いったい何時に家を出たのでしょう。友也くんのおうちから学院をはさんでちょうど反対側にある我が家へ来るには、とても遠回りになります。マフラーをきつく巻いた彼のやわらかくて丸いほっぺたは、寒さで真っ赤になっています。
 おはようのあいさつもそこそこに、白い息を吐く友也くんが
「手袋しないと、寒いですよ」
 と言うので、私は家へ戻ってクローゼットの奥から革の手袋をひっぱりだし、家族に二回目の「いってきます」を告げて家を出たのでした。
 マフラーに口元を埋めた友也くんが、ん、と毛糸の手袋に包まれた手を突き出します。
「鞄。かごに入れるんで」
 一瞬、手渡す鞄を仕込んでいる鳩へ変えて友也くんを驚かせてみたいとも思いましたが、きょうは機嫌をそこねてさけんでいる彼よりも、ちいさな歯を見せて無防備に笑ってくれる顔のほうが見たい気分です。すなおに台本のほかにはほとんどなにも入っていない薄い鞄を預けました。
 黒いリュックの隙間に私の鞄を押し込んだ手が、うしろの荷台をぽんぽんと叩きます。
「どーぞ」
「お邪魔します……☆」
 にっこり笑って、硬いそこに腰かけました。どういった姿勢でもバランスを取るのはさして難しくはなさそうでしたが、ここは友也くんの作法に則ってスタンダードに座ってみることにしました。すこし足が余ります。こういうとき、手はどうしておくのがスタンダードなんでしょうか。
「ちゃんと掴んでてください」
 私は、「はい」と返事をしながら友也くんのどこを持てばいいのかしばらく迷ったあと、そっとその細い腰に両手を添えました。
「もっと!」
 両手がぐいっとひっぱられ、彼の腰の前に回りました。そのまま私の両手をしっかりと組ませて、友也くんは前に向き直ります。
「じゃ、行きますよ」
「ええ」
 そうしてゆっくりゆっくりと景色が動きはじめました。
 自分よりも体格のいい相手をうしろに乗せるのは勝手が違うのか、友也くんは慎重な様子でえっちらおっちらとペダルを漕ぎます。自転車はしばらくあやういバランスでふらふらと蛇行していましたが、背後の自宅が見えなくなるくらいまで距離を稼ぐと、慣れてきたのか車輪は順調にスピードを上げてゆきました。
 びゅうびゅう風が吹きつけて髪が乱れます。友也くんはずっとちいさいので、前をふさいでいても風よけにはなりきらないのです。
 吐いた息がほわっと白くなって、目の前のちいさなかわいい頭にぶつかるよりもはやく消えてゆきます。
 家々や枝ばかりになった街路樹やビルやお店がつぎつぎと遠くなって、うつむきがちに道を歩く人をどんどん通り越してゆきます。
 気球で空を飛んだときよりもずっと遅く、ずっと低く、ありふれていて、なんにもへんてこではなくて、けれど等身大というのか、ひとびとの暮らしがずっと近く、この手をのばしたすぐそばにありました。
 ほおがかっと熱くなるような真冬の冷たさも気になりませんでした。
 私は、こんなに心が躍るのはいつぶりだろうとさえ思うほどとても愉快なきもちになって、大きな声でさけびました。
「友也くーん!」
「さけばなくても聞こえるよー!」
 友也くんもさけびました。前を向いているので、すこし大きな声を出さないとうしろにくっついている私まで届かないのです。
 通り抜ける私たちを、道ゆく人々はちらっと見て、さすがに私の目立つ容姿にいっとき目を留めますが、そのあとは気にもせず自分の進むほうへ目をそらしてしまいます。朝の通学時間帯、ふたり乗りをしている男子学生なんてめずらしいものではないのです。
 だれも私たちを見ないのをいいことに、私は友也くんの腰へ回した腕にぎゅっと力を込めて、ちいさな背中にぺたりとほおをくっつけました。この私が、人々の視線を集めることよりも、まさか無関心を選ぶなんて!
 けばけばしたコートの生地が薄いほおにこすれて、すこし皮膚がぴりっとします。友也くんの背中は薄くて、華奢で、力いっぱい抱きしめればつぶれてしまいそうで、けれどとてもあたたかくて、清潔な家庭のいいにおいがします。
 赤信号で足を止めた友也くんが、背中になついてくる私に気がついて、すこし息を切らしながらうしろをふりかえりました。
「ね? ふつうでよかったでしょ」
 私は、はい、とうなずいて、コート越しの友也くんの背中に、『と・も・や・く・ん』と指で書きました。
 友也くんは「なんだよ」と笑って、また前を向いて、えっちらおっちらとペダルを漕ぎはじめます。
 自転車は、友也くんの言うとおり、すこし試してみれば簡単に乗れるようになるでしょう。
 けれど、やっぱり私がひとりで自転車に乗ることは、しばらくのあいだはない気がします。
 ひとつくらい、この日々樹渉にもできないことがあってもいいかもしれませんね、といまは思うのです。


おわり

▼ 二人乗りは危険です(2020.10.23)