おそろいで買った色つきのリップを塗った友也くんのちいさなくちびるが近づいてきたとき、ぼくは、なにかとってもすてきなことが起こるんじゃないかという予感にはっとして、胸をどきどきと高鳴らせていました。
 というのも、近づいてくる友也くんのまあるくて大きな目が、まるでこの世で最初に明けた朝のように、いのちをいっぱいに実らせた穂波のように、うつくしくあかあかと濡れて、燃えていたからです。
 見たこともない顔でした。
 とてもひさしぶりのお仕事のない週末が明けた月曜日。朝からどこかぼんやりとして、なにかを言いかけてはやめ、決意をしたような顔をしてはためらい、をくりかえしていた友也くんは、お昼休みになってからやっと、オレンジ色のおべんとう包みを開くまえに、そのなにかをぼくに教えてくれると決めたようでした。
「友也くん?」
 せめてちょっとでも友也くんがそのお話を気楽にできるように、とぼくはちょっと笑って、友也くんがすきだと言ってくれた角度で首をかしげました。
「……はじめ」
 友也くんが、こくんとつばを飲み込んだ音が聴こえました。
 あのさ。
 はっと息を吸い込んで、やわらかなピンク色のくちびるを緊張したしぐさでちいさな舌がぺろっと舐めます。
 部長と、エッチした。
「……へへへ」
 とんでもなくひそひそと、吐息のような言葉を口にして、とっても大きな一仕事を終えたみたいにふうー、と大きく息をついた友也くんのなめらかなほおが、すこしずつ、ぽうっと赤くなってゆきます。
 友也くんがなんと言ったのか理解すると同時に、ぼくは、目の奥が熱くなって、鼻がつんと痛くなって、くちびるがひくひくふるえるのをがまんできなくなりました。
 気が付くと、ぽろぽろと涙がこぼれていました。
「はっ、はじめ⁉」
「あーっ! 友ちゃんが創ちゃん泣かせたー!」
 購買から両手いっぱいにたくさんのパンを抱えて帰ってきた光くんが、大きな声で叫んでこっちへやってきます。
「ちっ、ちが、いや違わない? のか? ごめん創、びっくりさせた…?」
 ぼくは、とうとう耐えられなくなった嗚咽にわんわんと声を出しながら、両手で顔を覆って、首を振ります。
 ちがいます。友也くんのせいじゃありません。
 そう言いたいのに、喉がきゅうっと詰まってせつなくてせつなくて、なんにも声が出てきません。
 止まらない涙を拭ってくれる、友也くんのハンカチのやわらかいふわふわした感触にまた胸がぎゅっと締めつけられるみたいで、ぼくはしばらくみっともなく声をあげて泣き続けました。
 ちがうんです。友也くんはなんにも悪くありません。
 ――ぼくが男の子だったらよかったのに。
 教室ではどうしたどうしたとみんなが集まってしまうので、友也くんはまだ泣き続けているぼくの手を引いて、保健室へ連れて行ってくれました。
 先生はおらず、友也くんはぼくをベッドに座らせてとなりに腰かけ、よしよしと背中を撫でながらごめんな、ごめんな、としきりに謝っています。
「ごめん。創、いきなりあんなこと言ったから……びっくりしたんだよな」
 創は純粋だから……、と友也くんはうつむいています。
 ぼくはふるふると首を振りました。
 友也くんが、部長さんとおつきあいをはじめたのは、ずっと前から知っていました。そのときだって、友也くんがぼくに「部長と、つきあうことになったんだ」と教えてくれたのです。
 そのときは、笑って「おめでとうございます」ってちゃんと言えたのに。
 友也くんはぼくのあたまをなでて、そうっと自分の肩に引き寄せました。ぼくはおとなしく引き寄せられて、こてんと友也くんの肩にあたまをのせました。泣きつかれて汗ばんだ髪を、やわらかな手がゆっくりと梳いてくれます。泣きはらした目がひりひりと痛んで、ぼくは目を閉じます。
「でも、創には伝えたくて……こんなこと教えるの、創だけだから」
 ぼくは、一瞬、ほんとうかしら、と友也くんのことを疑いました。
 たとえばぼくじゃなく、ひなたくんや、鉄虎くんにだって、友也くんはこんなふうに世界から隠れるみたいな内緒話をしてしまえるんじゃないかしら。
 まるでやつあたりみたいにそんなどうだっていいことを考えながら、ぼくは友也くんが貸してくれた水色のタオル地のハンカチをぎゅっとにぎりしめました。
 ぼくの涙でびしょびしょになってしまったハンカチ。これは、友也くんと一緒に、仲良くなってはじめて一緒に遊びに行った雑貨屋さんで、おそろいで買ったハンカチ。
 どうしてお姫さまには、王子さまが現れて、ふたりは結ばれてめでたしめでたし、になることが決まっているんでしょう。
 お姫さまがおともだちとずっとふたりだけで一緒にしあわせに暮らしました、なんてお話は、だれも書いてはくれないのです。
 ああ、どうしてぼくは、お姫さまに訪れた幸せを、笑って一緒によろこんであげられないのでしょう。
 だって、あの人とからだを重ねるなんて。
 おとこのひととおつきあいをはじめたと知ったときだって、友也くんは、友也くんだけは、そうじゃないってなぜだかぼくは根拠もなく思い込んでいました。
 そしてこんなに、勝手にショックを受けているのです。
 ぼくがこんなことを考えていると知ったら、きっと友也くんは怒ると思います。
 ううん、ぼく自身ですら……。
 おんなのこは、おとこのひとに処女でなくされたからといって、なにも失いはしません。友也くんは友也くんのまま、世界でいちばんかわいくて、やさしくて、あったかくて、頼りになる、大好きなおんなのこのままなのです。
 だけど、もし、ぼくが男の子だったら。
 友也くん。
 ぼくの、ぼくだけのたったひとりの勇敢な王子さま。
 なびかせたマントをふわふわのきれいなドレスに着替えて、出会った背の高い王子さまと手を取り合って。
 ……まだ舞台の袖で立ちすくんでいるぼくを、どうかおいていかないで。


 ――だけど、ほんとうは、すこしだけ思います。
 ぼくが男の子じゃなくて、よかった。
 あかあかと燃える友也くんの目。いままでに見たことがないなんて、うそです。
 ぼくは何度も、友也くんのあの目をとなりで見つめていたのです。
 それがぼくにはけして向けられることがないと、知っていたから。
 だって、きっと、ぼくが男の子でも――友也くんが男の子だったとしても、変わりはしないのです。それを認めずに済んで、よかった。
 ぼくがあのひとには勝てないのだと、思い知らされずに済んで、よかった。
 友也くんがあの人をみつめる目。
 恋をしている目。
 きっとぼくだって同じ目で友也くんのことを見つめているのに――世界でたったひとりだけ、気づいてくれない王子さまは、

▼ (2021.10.1)