ふたりきりで会うのは四度目だった。
 一度目は部活の帰りにちょっと足を伸ばして学院から数駅先のシネコンへ映画を見に行った。二度目はまた部活の帰りに映画を見に行って、帰りにお茶をした。三度目は、休日に待ち合わせて気になっていた劇団の公演を見に行った(部長の顔が異様に広いので、うちの部活には一般の劇団からもフライヤーが送られてくるのだ)。ファミレスでお昼を食べて、とても寒い公園で缶コーヒーを飲みながら野良猫にかまったりして、ぶらぶらして帰った。
 四度目のきょうは、日曜日だった。待ち合わせは朝の十時。お互いの家からちょうど中ほどにある大きな駅にくっついているシネコンも入った商業施設。
 金曜日の部活後、ちょうどその日から公開だったハリウッドのアクション大作が見たいのだと話すと、渉も興味があると言うので、じゃあ日曜にでも一緒に見にいきませんか、という流れになったのだ。
 話に聞いていた渉が好むような映画からすればいくらか幼稚っぽいのではないかと思ったが、おもしろければジャンルやテーマは問わずなんでも見るというし、なによりいままで自宅でレンタルビデオを見てばかりだったという渉は「だれかと一緒に映画館で映画を見る」という行為自体を楽しんでいるようだ。だから、あまりあれこれと気にしすぎないことにした。いやならばすげなく断るような人なのだし。
 「じゃあ日曜にでも一緒に見にいきませんか」だって。我ながら、とてもじゃないが自分があの日々樹渉に言ったとは思えない言葉だ。
 ミステリーステージで渉の仮面の下を見たあの日から、友也は渉と向かいあうとき、これまでとはちがってかたひじ張ることがなくなった。
 以前は渉と正面切って向き合うのが、いやでいやでたまらなかった。この人の言うことはなにもかもめちゃくちゃで、どうすれば正解なのかちっともわからなくて、とても友也なんかには理解できなくて、だから怖かった。渉に求められているものをどうすれば返せるのか、わからなくて不安だったのだ。
 そうじゃなくて――渉がよろこぶものは、もっと簡単で、友也にも――ともすれば友也くらいにしか手渡せないものなのだとわかったときから、友也は変に身構えるのをやめた。
 すなおに受け止めてやって、あとはがんばってがんばって、せのびするだけでいいのだ。
 そうわかったときから友也はこのいやに目立つ先輩を、もう四年目の付き合いになる親友や、生意気盛りの妹とほとんどおなじように扱うことにしている。
 そうすると渉はいかにもふつうですねえと友也をばかにして、鳩や花を出したりときには出さなかったりしながら、そしてほんのちょっとだけくすぐったそうな顔を見せてよろこぶのだ。





 映画はいい具合だった。目玉であるアクションシーンの迫力はもちろん、衣装も美術も音楽もすばらしかった。ストーリーは観客を飽きさせない緩急のはっきりしたつくりで、それでいて随所をつらぬくテーマやモチーフがちりばめられており、王道ながら含蓄に富んだものだった。
「すごかった……」
「おもしろかったですね」
 上映後の人の波に流されながら、ふたりで劇場を出た。
 渉は作品の世界に入り込んでぼうっと余韻にひたったまま足元のおぼつかない友也の腰をさりげなく抱いて、ぶつからないように気をつけてくれる。
 ちいさく鼻歌を歌っていて、機嫌がよさそうだ。考えすぎないようにしているといっても自分から誘った映画の評価は気になるもので、すこし安心した。悪くなかったらしい。おもしろいと思うものがぜんぜんちがっていたって、趣味があわなくたってべつにかまわないが、せっかく一緒にすごすのだ。やはり楽しんでくれるほうがうれしい。友也が見たいと言って声をかけたから、なおさらだ。
「パンフレット買ってもいい?」
「もちろん」
 いくつかのスクリーンで上映が終わったばかりなので、レジはとても並んで混雑していた。店の外で待っているのかと思いきや、渉もグッズのたぐいを楽しそうに見ながらちょこちょことついてくる。なにに使うのかよくわからないようなグッズを手にとってあれこれうれしそうに話すにぎやかな渉は、その長身や長い髪とあいまって人混みのなかでひどく目立つ男だった。
 ふたりでどこかへ出かけて、こうしてたくさんの「ふつう」の人の中で見上げるときの渉は、まぎれもなくぴかぴかの「特別」だ。
 ときおり人々のあいだにまぎれるような変装をしてくることもあるが、そうではなく素の渉をさらして歩くとき、たしかにこのひとはアイドルなんだなあ……と、自分もアイドルのくせして、ひとごとのように友也は思う。
 fineはユニットの方針でプライベートな場での握手も写真もサインも禁止で、ファンもそれは承知しているはずだが、それでもふたりで歩いていると「渉さまですよね?」「あの……日々樹くんですか?」と声をかけてくる人は多い。そのたびに渉はファンサービスができないことをていねいに詫びて、こぶしの中から花を出したりしてファンの人を楽しませていた(さすがに渡しはしていなかった)。
 その気になればほんとうに誰にも気づかれないようくらい入念なメイクや変装をいくらでもできるのだろうが、友也とちょっと出かける程度の渉は、せいぜいが長い髪を帽子の中にしまいこんでおしまい、くらい。髪型が変わるとかなり印象が変わるのか声をかけられる頻度はわりと下がるが、それでもただでさえとんでもなくうつくしい男だ。どうしたって人目を惹く。
 いっぽうの自分がほとんど見向きもされないことには若干落ち込みつつ、そつのない渉の対応を見ていると、ギリシャ彫刻が動きだしたみたいにうつくしいこの男の、クラッカーみたいににぎやかで落ち着きのないこの人の笑ったりはしゃいだりするだけではない一面を知っていることに、なんとも言えないこそばゆい、しかしけして悪くはないきもちになるのだった。
 無事パンフレットを購入して、カフェで昼食を摂った。見た作品のあそこがよかったここがどうだったと自分の感情を語り合うのはお互いにへたくそなので(渉は批評や考察ならすらすらとしてみせるが)、話題は学院のことや、これから見たい作品のことだ。
 カフェを出て、じゃあ、とそのまま帰るのもなんとなく名残惜しく、どちらからともなく駅に入っているレンタルビデオ店に連れ立って入る。店内はよく暖房がきいていて、コートにマフラーを巻きつけたままではちょっと汗ばむくらいだ。
 友也ひとりならばまずコミックコーナーへ向かっているところだが、きょうはその奥にある映画の一角へ。今週の新作に並んでいたSFを「これ見たかったんだよな」なんて話しながら、恋愛ものとホラーの棚をひやかして、あいうえお順に並んでいる旧作の棚へのんびり歩く。
「あ、これ好きです」
「へえ。見たことないや」
 ふと渉が手に取ったジャケットは白黒だ。抱き合う家族の場面が映っている。
「八十年近く前の作品ですが、名作ですよ」
「ふうん……」
 渉が簡単にあらすじを解説してくれる。
 自殺を考えた、生まれなければよかったと言った男が、天使にみずからが生まれなかった世界を見せられ、人生のすばらしさを思い出す話。
 ああ、たしかに渉が好きそうな話だと思った。この人はなんというか、生命賛歌というか、愛の話が好きなのだ。難解で鉄錆のように暗い作品も評価するが、「好きだ」とまで言うのは人と人の強い愛が描かれているものが多い。
 もしかしたら、そう信じたいのかもしれないな。
「これ、いまからうちで見ません?」
 そう思ったら、創を家に呼ぶのと同じくらい気軽な感覚で家に誘っていた。
 渉は一瞬、ほんとうに一瞬だけ、ぽかんとあっけにとられた顔を晒した。その顔をよくよく見ていないと気づかないくらい、一瞬。それでも、そんな一瞬でも渉が無防備な顔を晒すのはとてもめずらしい。
 渉が好きだと言う愛の話を、友也にとって自然でリラックスできる場所で、一緒に見たいと思った。それを教えてほしいと思った。
 らしくない渉の顔に、心臓がどきどきする。やっぱり家はいきなりすぎたかな。いや、でも、映画を見るだけだぞ。見るだけっていうか……暖房でにじんだ汗がつうっとシャツの下でからだをつたう。
 おじけづいた友也がいやだったらいいけど、と言う前に、渉は深く深くうなずいて「友也くんさえよければ」と言った。





「ただいまー」
 いつもの自宅のドアを開けると、ぬるんだ空気がふわりと漂ってきた。奥からおかえり、と口々に言う家族の声がする。
 きょう出かける予定をしていたのは友也ひとりだったから、この時間は両親も妹も家にいるはずだ。
 門の外でめずらしく所在なさげに突っ立っている渉を、寒いから早く入れよと手招いて呼ぶ。横着して足だけでスニーカーを脱ぎながら、居間に向かってもういちど声を張った。
「今日部長も一緒だからー!」
「なあに? 部長さん?」
 来客があると気づいたのか、ぱたぱたとスリッパの音を立てながら母が居間から出て玄関へやってくる。
 先に連絡を入れたほうがよかったか。いや、でも創や鉄虎を連れてくるときだって、いつもいきなりだし。母はむかしから筋金入りのアイドル好きで、夢ノ咲の同級生をうちに連れてくるとたいそうよろこぶのだ。
 ついさっきまでもじもじとしていたくせに、母を見るなり渉はこんにちは! とでかい声で元気よくあいさつをしながら、どこからともなく一輪のばらを出した。
 とつぜんのできごとに一瞬ぼうぜんとして、息子が連れてきた男があの日々樹渉だとわかると、母はまるで女の子のように口元を両手で覆って、ぱあっとほおを赤くする。
「やだ! 日々樹くん!?」
 声がいつもよりも一オクターブは高い。それはもう、朝いつまでも寝ている友也を「早く起きなさい!」と叱りつけるときよりもうんと。
「友也くんのお母さまですね! そうです! あなたの日々樹渉です……☆」
「あら~、いらっしゃい! いつも友也がお世話になってます! ちょっと友也、先輩をお招きするならもっとはやく言ってくれなくちゃ。日々樹くん、狭いうちだけどゆっくりしていってね……♪」
 渉の差し出したばらをきゃあきゃあとよろこびながら受け取って、一瞬じとっとした目が友也をにらむ。
 まったくミーハーなんだから……と友也はためいきをついた。このぶんでは、居間のこたつでぬくぬくとしながら映画を見られるまでしばらくかかりそうだ。
「おかあさん誰ー?」
 二階の自室まで渉のでかい声が響いていたのだろう、とんとんと音を立てて階段を下りてきた妹が、ひょっこり玄関に顔を出す。
「えっ! 日々樹くん!?」
 そして渉を見るなり飛び上がって、かーっと顔を真っ赤にした。妹は渉の大ファンなのだ。部屋にはRa*bitsのグッズよりもfineのグッズのほうが多いし、学院のイベントに来るときも全身fineのグッズで固めて、兄に「おにいじゃなくて日々樹くんを応援しに行くんだからね!」と念を入れるほどだ。
 自分の恰好や髪型をあわててたしかめながら、最近中学に入って身なりを気にするようになった妹は、「おにい、学校の人うちに連れてくるなら先に言っといてよ!」と怒った。母とまったくおなじことを言っている。言ってどうするんだよ、と肩から力が抜けた。この性格は、やっぱり遺伝なのだろうか。
「こんにちはっ、友也くんの妹さん♪ どうぞ、お近づきのしるしです!」
 にっこりと日々樹渉の特大の笑顔で笑いかけられてのぼせたような顔で硬直した妹に、渉は右手を差し出す。空だったそこをぱっとひるがえすと、片手に収まるほどのうさぎのぬいぐるみが現れた。妹と、あわせて母もきゃあ、と声をあげて喜ぶ。
「母さん? 友也? どなただい?」
 さわぐ声を聞きつけて、どうしたどうしたと父まで居間からやってきた。
「友也くんのお父さま、こんにちは! お邪魔します……♪」
「ああっ、日々樹くん?」
 渉を捉えた父の目がきらきら光る。父も父でうんと面食いなのだ。部の公演を見に来たときには、渉の性格も息子が受けている仕打ちも知らずにお姫さま役の渉に「女神さまみたいにきれいな人だね……」とポーっとなっていたし、なにせ、そのむかしに聞いた「おかあさんのどこが好きでけっこんしたの?」の返事が、「う~ん、美人なところかな」である。
 これじゃ玄関に一家集合だ。渉はあきれこそしないだろうが、ちょっとはずかしい。いや、友也だって、たとえば北斗先輩がうちに来たらこれ以上にはしゃぐ自信があるのだが。
 玄関先でやんなくたって。寒いだろ! と両親と妹をぐいぐい中に押し込む。
 「日々樹くんもどうぞ、上がって」と手招きされて、渉は行儀よく靴を脱いでそろえた。
「友也くんのご家族はみなさん友也くんにそっくりで、驚かしがいがありますね」
 居間へもどる背中に、目を細めて美しい顔が笑う。いつものように楽しげなはずの笑顔が、ふとどこかいつもとは違って見えた。
 うちの玄関を通ってからの渉はふだん学院やふたりきりで遊ぶときと同じようにさわがしくしているが、なんとなく饒舌さというか、なめらかさが足りない気がする。
 もしかして。
「……あんた、もしかして緊張してる?」
 まさか、と思いながら聞いてみると、渉は笑顔を崩さないまま、しかしちょっと言葉に詰まって固まった。
 うそみたいな気持ちで、友也は思わずじっと渉をみつめた。
 まさかこの人が、後輩の家族に紹介されるくらいで緊張するなんて!
 渉は荒れくるう海のように読めない言動で他人を翻弄する人で、すきとおった湖のようにどこまでも他人に開け広げてしまえる人で、だけどそのじつすごくちいさな子どもみたいに見えるときがある。
「なんだ、あんたにもかわいいとこあるじゃん」
 この人はありとあらゆるジャンルの習いごとや意味不明にスケールのでかい経験は山としてきたけれど、友也が小学生、どころか幼稚園のころに済ませてしまったような、こうしてだれかの家に呼ばれてその家族に紹介されるなんてこと、きっといままでになかったのだ。
 渉は嫌がるかもしれないけれど、こんなふうな、慣れなくてきまりが悪くなるような思いを、これからたくさんしてほしいと思った。友也がそうさせてやりたいと思った。あたりまえにだれかが享受しているような、この人がもらいそこねてしまったよろこびを教えてやりたいと。
 からかいじゃなく、ほんとうにかわいくて耐えきれずに笑ってしまった友也に、渉はまためずらしいことにむっとほおをふくらませてすねた顔をした。
 はじめて見る顔だった。
 まるで、ごくごくふつうの高校生のような。











 『よかったら、今度お時間がある日にうちに来ませんか』と渉から連絡があったのは、五月もなかばになってからのことだった。
 卒業式を終えてから、渉と会うのははじめてだった。四月から友也は新しくユニットのリーダーになり慣れない事務仕事や折衝に奔走していたし、渉も渉で以前にも増して英智とふたりで芸能活動に力を入れるようになって、お互い自由になる時間がほとんど取れなかったのだ。
 演劇部で毎日のように顔をあわせていたときには、あんなに嫌気がさしていたというのに。学院の外で渉とふたりで会うようになり、今度はそれがぱたりと止んでしまうと、感じるのは胸のところがすうすうするような、必要ななにかが欠けてしまったような物足りなさだった。
 だから、渉から会おうと連絡がきたときには、それはもううれしかったのだけれど。まさかそれが渉の家になるとは思いもしていなかった。
 いわく、以前友也の家で一緒に見た映画のデジタル・リマスター版のディスクを最近購入したそうで、もういちど一緒に見ませんかと言うのだ。近くちょうどオフの日が空いていたこともあり、一も二もなく『行きたいです』と返して。
 そして当日。
 渉の家の最寄り駅で待ち合わせて、やってきた渉はこちらを見つけるなりぶんぶんと子どものように大げさに手を振ってにこにこ笑っていた。
 会えないあいだも連絡こそ取りあっていたものの、SNSやメディアを通してでしか見ることができなかった姿をあらためてじっくりと目にして、やっと実感する。
 ああ、なんだ、俺、さみしかったんだな。
 人前での、ばかみたいなことをしていたってどこかスマートさが抜けきらないふるまいとはちがって、まるでちいさな子どもみたいに無防備な笑顔。ほんとうに久しぶりの姿に、友也は胸がいっぱいになるような思いがした。
 家へ向かう道中、きょうはあれもこれもしたいですねとはしゃぐ渉に苦笑して、そういえば、と持ってきた手土産を差し出す。
「あの、これ、簡単なものですけど」
「おや、シガールのヨックモックですね。ありがとうございます」
 父が大好きですよ、とにっこりして、渉はとてもとても大事そうに紙袋を受け取った。いつものように、いかにもふつうだとからかわれるかもしれないと思っていたので拍子抜けする。
 いや、この人はもしかして、人の家に遊びに行くときに持っていく手土産の定番なんて知りもしないのかも。
 そう思うと、なんだか心臓のところがきゅうっとなって、友也よりもずっと高いところにあるそのかたちの良い頭を、創にするようにやさしく撫でてやりたくなるのだった。
 渉の自宅は、想像していたよりもずっとずっと「ふつう」の家だった。
 へんな仮面の置物もなければ鳩がそこらじゅうを飛んでいるわけでも、ばらの花がいたるところに植わっているわけでもない。閑静な住宅街のなかの一軒家だ。
 渉の両親は品のよい家具でそろえられたリビングで、そろって友也を出迎えてくれた。渉が友也の両肩に手を置いて、いたく機嫌がよさそうに、にこにこと紹介する。
「おかあさん、おとうさん、お友だちの真白友也くんです」
「こ、こんにちは。お邪魔します」
 うわあ。「お友だち」だって。
 ほおがかーっと赤くなる。
 あの渉に「お友だち」だなんて言われたことと、あの渉の両親にあいさつをすること、二重になっての「かーっ」だった。
 もともと、当日は家に両親もいると聞いていたのものの、やはりどうしたって緊張する。創のうちでおばさんや妹や弟たちと雑談をするのとは、やっぱりちがうのだ。この人が「おとうさん」「おかあさん」なんて呼ぶ人が存在することも、あたりまえのようで、妙に現実味がない。
 しかし予想ははずれて、渉の両親は拍子抜けするくらいに「ふつう」の人だった。この家とおなじように。
 ふたりはがちがちになっている友也にいらっしゃい、とにっこりして、あたたかい紅茶を勧め、「ゆっくりしていってね」ととても親切そうに言った。
「友也くんは演劇部の後輩ですよ」
 ティーカップを片手にうれしそうに友也の話をする渉に、おとうさんが友也を見てうなずく。
「渉くんからいつも聞いているよ」
 どきっとした。いつも。いったいこの人は、やさしそうな両親を相手にいつも友也のどんな話をしているのだろう。
 渉は自宅でも変わらずいつものように背筋をぴんと伸ばして、まるで撮影のときのように優美な格好で腰かけている。その様子はとても自然で、そして穏やかな空気の流れるリビングによく調和していた。きっとふだんからこんなふうなんだろう。友也のように、自宅でタンクトップに下着姿でうろうろしてカーペットの上に寝転びながらテレビを見るなんてこと、ないのかもしれない。
 それでも「おかあさん」「おとうさん」と子どものように両親を呼ぶ姿は、なんだか年相応の子どものようだ。
「友也くん、このあいだの公演で高校生の女の子の役をしていましたよね?」
「あ、そうです」
 おかあさんが前回の公演のことを知っていて、すこし驚く。このあいだは、渉が引退してからはじめての公演だった。
「あの恋人相手に啖呵を切るシーンがよかった」
「渉くんと一緒に観に行ったんです。とっても可愛かったですよ」
「あ……ありがとうございます」
 両親も観劇が趣味なんです、と渉が付け足した。渉が多忙の合間をぬって来てくれていたことは知っていたが、まさか家族を連れてきているとは思いもしなかった。
 おそらくとても目が肥えているのだろうふたりに演技をほめられたことは単純にうれしいが、ほめられたのが自分の女装姿だと思うと、どうにもふくざつだ。
 いつにも増してにぎやかな渉は、忙しくしていて友也と会えなかったあいだのことをおもしろおかしく語ってみせた。
 トーク番組の収録で渉が話した学院でのエピソードがことごとくNGを食らったこと。ラジオでの視覚情報がない状態でもファンの人たちに驚きを与える方法を考えたこと。帰宅途中に通りがかった花屋にうつくしいブーケがあったので、つい購入して帰ったこと。地方でのライブのあいまに、英智とふたりお忍びで電車に乗って海を見に行ったこと。
 そのどれもが友也の知らない渉の姿で、ほんのすこしさみしく思うけれど、この人が健やかに毎日を暮らしていたことがうれしかった。
 そういえばきょうの本題を、と渉が部屋から持ってきた映画のディスクをリビングの大きなテレビで観て、ふたりで映画を観終わってあれこれと話し、はじめは渉以外の存在を意識してばかりでがちがちに固まっていた友也の緊張はいつのまにかほどけてしまっていた。
 渉の両親は会話に入ってこそこなかったが、気を遣わせないタイミングでおいしいお茶のおかわりを淹れてくれたり、ふたりの会話を聞きながら邪魔にならないくらいの大きさでくすくすと楽しげな笑い声を立てていた。そんな様子はあまりにも穏やかで、やさしくて友也の気持ちを軽くするには十分だったし、なにより夢中になってしゃべっている渉をいとおしそうににこにことみつめている人のいるリビングは、ひどく居心地がよかった。
 好物というのはほんとうなのだろう、渉の父は友也が持ってきた手土産の焼き菓子をそれはそれはうれしそうに、整ったしぐさでかけらひとつこぼさずに食べている。
 おとうさんのティーカップのふちをなぞる手つきも、おかあさんの笑ったときの声のくぐもりかたも、渉によく似ていた。
 なるほど、この人の身のうちから湧きたつような上品な所作やふるまいは、まちがいなくこの家で育まれたものらしい。


「渉くんはにぎやかな人だから、友也くん、たまに困ってしまうときがあるんじゃないかい?」
 渉が手洗いで席を外したとき、おとうさんは眼鏡ごしにおだやかなまなざしを友也に向けて、ひっそりと聞いてきた。
「うーん、いままで困ったことがないって言うと嘘になるんですけど……」
 苦笑いする友也に、ふたりは目を見合わせてちょっと悲しそうな顔をする。
 いつかに渉から聞いた昔話がほんとうのことなのかどうか、いまも友也は知らない。渉はなにも言わないからだ。あれから渉が友也の前であんなふうに涙をこぼしたことも、自分のなかにある大切なやわらかいところをそっと打ち明けてくれたことも、ない。
 けれど、渉と一緒に過ごす時間のなかで、友也はいままでに知りえなかった――知ろうともしなかった――渉の心のまあるいところをたくさん知った。渉はそれを教えてくれた。
 楽しいことを見つけたときに宝石のようなあの目がきらきらと光るところ。友也がなにかお願いをしたときには意外とすなおに聞いてくれるところ。友也がごくごくあたりまえみたいにいままで友だちとしていたことを渉に提案すると、まるでそんなこと考えもしていなかったというふうにちょっとびっくりしたような顔をして、それからとてもうれしそうに笑ってうなずくところ。
 そして、きょうのこのやさしい時間。
 あの人はきっと、家族のことが大好きで、そして家族からも大切に大切に愛されて育ったのだ。
 だから、渉を愛しているふたりにも、そんな顔をさせたかったんじゃなくて。
「でも、ぶ……日々樹先輩が悪い人じゃないのも、俺のことを考えてくれてるのもわかるから。俺は好きです。一緒にいられて、うれしいですよ」
 おどろくべきことに、友也は本心からすらすらと口にしていた。
 渉の家族の前だからと無理をするでもなく。ふだんなら照れくさくなってとても言えないことやできないことがすんなりとできてしまう。自然とどこかやさしいきもちになって、明るい声が出る。ふと気がつくとにっこりと笑顔になっている。
 ここはたしかに、そういう場所だった。日々樹渉が育った場所だった。
 最初に感じた気恥ずかしさや緊張などとうに忘れて、友也はこの家が大好きになりはじめていることに気が付いた。
 渉くんが、お友だちを家に招いてもいいですか、と言ったときには、驚きました、とおかあさんは言った。
 なんでも以前、自分が友也の家族に紹介されてうれしかったので、自分も友也を家族に紹介したかったのだと言う。
「渉くんがお友だちを連れてきてくれたのなんて、はじめて」
 また来てね、とおかあさんのやわらかくちいさな、深い皺の入った手が、机の上に置かれていた友也の手をそうっと握る。
「これからも渉くんと仲良くしてあげてね」
 友也は実感を込めてその言葉に、はい、と深くうなずいた。











 ふたりそろったオフの日の午後。息子の「彼氏」としてもうすっかりなじみになった真白家で、日々樹渉がくつろいでいる。

「ただいま」
「おじゃまします」
 こんにちは! ときょうも元気よくあいさつをして、渉は玄関をくぐった。
「あら、渉くん。いらっしゃい」
 居間でテレビを見ていた母が、ふたりをふりかえってにっこりと笑う。はじめて渉が家に来たときはあんなにはしゃいでいたというのに、あれからいくたびも渉はうちにやってくるようになって、いまではまるで親戚の子が来たかのような歓迎のしかただ。
 けれど渉は、それがうれしいのだと言う。
 お茶飲む? と台所に立った母の向こうから、妹が顔を出した。
「わたるくん来たの?」
 渉のよく響く声を聞きつけたのだろう。最近じゃずっと自分の部屋にこもりっぱなしのくせに、渉が来ると現金にもわざわざ二階の自室からすぐに降りてくるのだ。
 居間のテレビでレンタルビデオ店で借りてきた映画や渉が家から持参したディスクを見たあと、しばらく両親や妹と雑談をして、それからふたりで友也の部屋に引っ込むのが、うちに来たときのいつもの定番だった。そのまま夕食を一緒にしていくことも多いし、ときには泊まっていくこともある。
 友也としては、外で会うときとはちがってせっかくふたりきりでゆっくりできる機会なのだから、さすがに家族のいるうちでそういう……ことまではできなくても、はやく自室に引っ込みたいと思わないでもない。そういう下心がないでもないが、渉が家族と気安くしゃべっているところを見るのはなんだかいつもより恋人がかわいく見えてそれはそれで気分がよかったし、なにより渉も、友也の家族とたくさん一緒に過ごしたがる。
 母も妹も、父も、すっかりこの人が大好きになってしまった。
 そして、友也も。
「わたるくんがうちの子になったらいいのになあ」
 一緒になって借りてきた映画を眺めながら、ふと妹がつぶやいた。
 妹はもともと渉のファンだから、家族のなかでもとくに渉と親しくなるのがいっとう早かった。いまでは、ときおり渉とメッセージのやりとりまでしているらしい。
 それにしても「うちの子になったらいい」だなんて。
「それは楽しそうですね」
 ふふふ、と笑って、渉は声をはずませる。
「友也くんのおうちはとっても素敵ですから」
 友也が仕事で家を空けているときにも、渉はひとりで顔を出していくことがあるようだ。
 母と一緒に刺繍だかパッチワークだかをやりながらおしゃべりをして、父と囲碁を打つ。妹はこのところ演劇に興味が湧いてきたようで、渉の古典劇の本を借りたり、かつての演劇部の公演ビデオを見せてもらっているらしい。
 そういうふうに家になじんでゆく渉が、友也はうれしかった。
 だって、友也も渉の家族のことが大好きだったから。
「でも、私のうちもいいところなんですよ」
「わたるくん、おうちの人大好きだもんね」
 ええ、と妹にうなずきながら、渉は買ってきたポテトチップスの袋を開けた。
 うちでくつろぐときの渉は、よそで見せる姿よりも、いつもちょっとだけ行儀が悪い。
 ポテトチップスをパーティー開けにして、袋からそのままつまんでいる。きっと自分のうちならそのままつまむなんてことはやらないで、別にお皿に出すだろう。パーティー開けを知らなかった渉に、そのやりかたを教えたのは友也だ。
「おにいもわたるくんち、好き?」
 渉のとなりで黙ったままそれを見つめていた友也に、妹がふりかえる。
「……うん」
 うなずいた友也を見て、渉がにっこり笑った。
 渉がそうやって笑ったときの顔が、友也はとても好きだ。目の細めかたが、眉の下がりかたが、渉のおかあさんにそっくりの顔。
 「好きです」と渉が大切に部屋に飾っている、抱き合う家族が映った白黒のジャケット。
「あんたがあのうちの子どもでよかった」
 私もそう思います、と言う渉の声は、ひどく穏やかでやさしかった。
 まるであの家みたいに。
 渉はほんのちょっと友也のほうへにじりよる。手がふれそうなほど近くでテレビに視線を戻した渉は、ソファではなくてじかにカーペットのうえに腰を下ろして、ひざをかかえている。画面に映った鮮やかな日差しが反射して、渉のすずしい目が太陽の差し込む硝子の落とすすきとおった影のようにきらめいている。
 友也はなんとなくすごく渉をあまやかしてやりたい気分になって、しっかりしたその肩に頭をこてんと乗せ、よりかかった。この人はさわりたがりで寂しがりなので、こうしてくっついてやるととてもよろこぶのだ。
 つきあいはじめてから最初のうちは家族の前で彼氏といちゃつくなんてはずかしくてとてもできやしないと思っていたが、そうっと友也にさわりたがる渉とそれに慌てる友也の様子を、なんでもないふうに笑って見守られるうちに、とうとう慣れてしまった。ふふふ。無邪気な声で渉がうれしそうに笑う。
 身を寄せあうと、ふわっと花のようなにおいがした。渉のにおいだ。渉は変装やサプライズの邪魔になるといってふだんから香水もにおいの強い製品も使わないので、これは真実、友也の好きな渉の、渉だけの香りだった。
 ポテトチップスをつまみ、塩味のついたゆびさきを渉はぺろりと舐める。
 かけらひとつ落とさずお上品に焼き菓子を食べていた横顔が、いまはこんなに近くで、子どもみたいに無防備にリラックスした顔でおやつをつまんでいる。
 ティッシュでゆびさきをぬぐう所帯じみた仕草を見ながら、友也は、はやくふたりで二階の自分の部屋へあがって、思う存分キスがしたいな、と思ったのだった。


おわり

▼ 相手の家や家族がリラックスできる大好きな場所である仲だといいなあ、渉が友也くんのうちだとつられてちょっとお行儀が悪くなったり、友也くんが渉の家の雰囲気につられていつもよりすなおになったりしているとかわいいなあという想像(2020.09.28)