「そろそろ結婚しませんか、俺たち」
 しまった~~~~~。
 冷や汗がどっと出た。
 うつむいて、にぎりしめた自分の両手をじっとにらんでいても、渉がにこりともしないで俺をみつめているのがわかる。
 あまりの緊張感にあたまが真っ白になって、つい口をついて出た言葉は何か月も思い描いてずっとずっと練習していたものとはぜんぜんちがっていた。
 ほんとうは、ほんとうは、「俺が幸せにするから、結婚してください」ってまっすぐに目を見て言いたかったのに。
 俺ってやつはいつまでたってもこうだ。こんな遠回りな、なんでもなさを装った言葉じゃとてもカッコがつかない。
 知りあってから十年。つきあいはじめてから七年。下の名前で呼べるようになってから五年。いっしょに暮らしはじめてから、二年。渉の二十七歳の誕生日。
 この日にプロポーズすると決めて予約したのは、めったに足を踏み入れることはないようなドレスコードのあるフレンチ。さっきから一言も発さない渉は髪をまとめて、ダークカラーのスーツが嫌味なほど決まっている。俺はとてもじゃないが緊張で胃がひっくりかえりそうで、せっかくのコースも食べた気がしなかったくらいなのに。
 スーツのポケットの中では、完全に渡すタイミングを見失った指輪がずっしりと石のように重い。
「けっこん……」
 まるで知らない単語の発音を確かめるみたいに、かたちのよいくちびるがおそるおそる口にした。
 いつものにぎやかさはどうしたんだよ。からかいでも、おおはしゃぎでも、いっそとつぜん立ちあがってマジックショーをはじめてくれたっていい。なにか言ってくれ。
 沈黙に耐えきれず、何度も乾いたくちびるをなめる。
 ああ、ここが自宅のリビングで、ふたりきりで、つまらないテレビでも見ながらだったなら、いくらでも黙ったままくっついていられるのに。
「……返事は」
 向こうからなにかを言ってくれるのを待ちかねて、急かしたふうになってしまった。うなるような声が自分であんまり不機嫌みたいに聴こえて、びっくりして咳ばらいをしてとりつくろう。
 渉は、とくに俺の態度は気にしていない様子で、すずやかな目をぱちぱちとまたたいて、
「あ、はい」
 とつぶやいた。
 「あ、はい」だって! あの日々樹渉が!
「それって、俺と結婚してくれるってこと?」
「は……はい、します、結婚。友也くんと」
 情けなく念押しをする俺に、渉はこくんとうなずいた。
 ほんとうに本物の日々樹渉か疑わしいくらい言葉少なだったけれど、ひとまずプロポーズを受けてもらえてほっと安堵の息をつく。
 恋人にプロポーズをしよう、と決意をしてから何か月ものあいだ、「結婚してほしい」という言葉にこの人がなんて答えるのか、ずっとずっと考えていた。にっこり笑ってよろこんでくれるのか、愛の言葉をまくしたてられるのか、もしかしたら、ほんの一ミリくらいは、断られるかもしれないって思っていた。真実はそのどれともちがっていた。
 ううん。わかってる。
「じゃ、手、出して」
 たったいま恋人から婚約者になった目の前の男は、おとなしくてのひらを上に向けて、両手をそろえて差し出した。
「こういうときは左手を出すもんだって」
 男にしては細くて白くて長くて、けれど長年手先をあつかう訓練をくりかえしたせいで節ばって固くなったたしかに男の人の、左手の薬指に、ふるえる手で指輪をはめる。
 仕事のあいまに何度もショップに通って、このひとの品のいい手にいちばん似合うものを探した。
 しっくりくる場所におさまった細い金属に、一世一代の大仕事を終えた気分になって、ふう、と腹の底からためいきをつく。
 友也くんの指輪は、と渉が言う。
「友也くんの指輪は、今度の休みに、一緒にあつらえに行きましょう」
 うん。
 うなずいて、何か月ものあいだうっすらと漂っていた緊張感がやっと解けて、つい軽口を言う。
「あんたなら、俺が用意したのよりずっといいのを先回りして用意くらいしてるのかと思ってた」
「だって、こんなことが起こるなんて……」
 いつものばかみたいにでかい声はどこへいったのか、消え入りそうな声で渉がひとりつぶやく。
 俺があんたに結婚を申し込むなんて、起こりもしないと思ってた?
 一生、死ぬまで、いっしょにいてくださいと言うなんて?
 十年もそばにいるのに?
 ふつうは、自分の誕生日に高級ホテルのダイニングを予約なんかされたら、「プロポーズされるかも」って思うもんなんですよ。
 なんでもわかってるみたいな顔をしているくせに、いまだに俺がどれくらい渉を好きでいるのか、どれくらい渉がほしくてほしくてたまらないのか、ちっともわかっていやしないばかなひと。
 だから、これから長い時間をかけて、俺が渉をどれだけ手放さないつもりなのか、教えてあげるのだ。
 きらきらひかる指輪がはまったこのひとの手を握りながら、思い描いていたよりずっとカッコがつかなかったけれど、たしかに今夜はこれまでの人生でいちばん幸福なとびきりの夜なのだった。

おわり

▼ (2020.11.2)