「と・も・や・く~ん♪」
「うわっ」
 とつぜん一年A組の教室に襲来する奇声に、クラスメイトたちはこの一年間でよくも悪くも慣れてしまった。この学院でいちばんと言っても過言ではないほどの無法地帯、アイドル科演劇部のあるじたる日々樹渉が、あわれな愛しい子ウサギをねらってつけまわし、追いつめて追いつめててのひらの中に囲いこみ、そしてとびかかる瞬間のかちどきの声だ。
 道化師としての矜持を貫かんとする彼が聞けば、「かちどきだなんて野蛮な! もっとエレガントに、そして愛のこもった言葉で修飾してください♪」とでも文句をつけるかもしれない。
 まるで仕掛け扉のように天井の一部がすこんと開き、この世にひとりしかいないようなすっとんきょうな声を上げて数羽の鳩とともに飛び出た日々樹先輩は、ぽろぽろと色とりどりのばらをこぼしながらさっそくこの教室へやってきたねらいの獲物――真白友也へとおそいかかった。
 この夢ノ咲学院に入学してから、いや、日々樹先輩が部長を務める演劇部に入部してから、はや一年近く。入部まもないころからいたく日々樹先輩の気を惹いたようで春夏秋冬問わずに追いかけまわされていた真白は、それこそ数えきれないほどこの部長に怖がらせられてきただろうに、いまだに「ウギャー!」とか「ヒエー!」とかいう声をあげながら律儀に驚いている。
 変わりばえしないいつもの――この一年間でよくも悪くも先輩の存在に慣れてしまったのは、ほかでもない真白のせいだ――様子を、あるものは笑い、あるものは驚き、あるものはあぜんとしたまま見守っている。
 しかし、ちかごろのふたりは、どうも「いつもの」様子とはちがっていた。
 いままで先輩の気配を察するやいなや逃げ腰になるばかりだった真白は、いままでのようにその場から飛び出すでもなく、驚きから回復するとなんと腰に手を当てて、「もう」と先輩に立ち向かったのだ。教室内に、おお、とちょっとした感嘆の声が上がった。
「あんたいいかげん、一年の教室くらいふつうに来てくださいよ」
「おやっ、この私に『ふつうに』ですって? さすが友也くん、つまらない冗談が得意ですね~」
 日々樹先輩はあいかわらず真白にウザ絡みしながら、頭上からぽろぽろと小袋入りのふりかけをふりまいている。周囲で机をあわせて弁当を囲んでいた生徒にも手当たり次第に差し出しまくっていた。「昼食時なのでっ、きょうは『おとなの』ふりかけですよ♪」だそうだ。本当に意味がわからない。
 真白というと、すっかり慣れた様子で奇人をはいはいと適当にいなして流している。食べかけていた弁当に蓋をして、先輩の相手をする準備を整えているようだった。
 そうなのだ。半年以上前からクラスメイトたちが慣れてしまうほどくりかえされてきた、この加害者と被害者としか思えない先輩後輩のやりとり。それが年が明けてからこのところ、どうにも様子がいままでとはちょっとちがう。
 それで? と首をかしげた真白に、先輩はどこからか取り出した封筒くらいのセロファンの包みを差し出した。
「はい。このあいだうちに忘れていったでしょう」
「あっ、やっぱ忘れてたんだ。ありがとうございます」
 わざわざすいません。部活のときでよかったのに。軽く言って、ごくごく自然に真白は包みを受け取る。顔色ひとつ変えないその様子に、教室内は一瞬、すこしだけさわっとした。年末までの真白なら、「あんたの差し出すものなんてあやしくて受け取れるか~!」とつっぱねていたにちがいないし、なにより、そう、「あの」日々樹渉の「うち」だって?
 昼食を一緒にしていた紫之や南雲はとくにうろたえた様子を見せないところからすると、彼らは知っていたのだろうか。いつのまにか、真白が先輩のうちにお邪魔するような仲になっていたことに。
 かさっとしたセロファンの包みをじっと見て、こんなにしてくれなくても、そのままでよかったのに。と真白はへんな顔で笑った。手元の包みは手のあとひとつついていない清潔そうな透明のセロファンで、口のところが繊細な花のシールで留められている。かさかさと音を立てながら包みを開いた真白は、うれしいのを我慢するような、さみしいのをこらえているような、迷子になった子どもを見つけたような、へんな顔だ。
 日々樹先輩は、そうなんですか? と首をかしげて、すらっとした長い指で真白の手元を指さした。
「すこしほつれていたので、うさぎさんのアップリケで直してみました」
「あーっ! ちょっと、人のくつしたになにしてんだよ! いや、まあ直してくれたのはありがたいけど……」
 くつした?
 ハンカチかなにかかと思っていたから、聴こえてきた予想外の言葉にあたまのなかにいっぱいハテナマークが浮かんだ。
 くつしたって、どうやったら遊びに行った先輩の家に忘れるんだろう?
「それからこれも、さしあげます」
「なに?」
「保湿クリームです。友也くん、かかとがけっこう荒れていたでしょう。われわれはからだが商売道具なのですから、ふだん目に見えないところも手入れを怠ってはいけませんよ」
 ……後輩のかかとって、ふつう、そんなところまで見るもんだろうか?
 俺は想像する。
 日々樹先輩の根城。それはきっと、何度か覗いたことのある演劇部の部室ように、たっぷりとしたかずかずの暗幕や意味不明などこか遠くの異国の織物に覆われて、薄暗く、明度の低いぼんやりとしたあやしいランプが灯されているのかもしれない。
 豪奢でごちゃごちゃした部屋のベルベットの壁には、日々樹先輩が変態仮面と呼ばれるゆえんのさまざまな仮面のコレクションが。たっぷりと広がる布の奥には、よく躾けられた彼のしもべである純白の鳩たちの繊細なケージが。
 そんな部屋でひときわ目を引くヴィンテージのしっとりとした皮作りの猫足のソファ。
 ――くたりとソファにからだを横たえ、とろんと瞳をうるませた真白の脚を、男の手がときおりくすぐるようにねっとりとした手つきで撫でながら、するするとなぞっておりてゆく。そしてたどり着いたつま先から、かろうじてひっかかっていたくつ下を落として、日に焼けていない素肌をさらして――その筋張った少年の白い足の甲に、薄いくちびるが――。
「あなたが次に演じる人魚姫は、うつくしい声と尾びれの代わりに新しく人間の足を手に入れます。そうっ! まるで生まれたての赤子のようにやわらかく、もろく、儚い新たな器官を……♪ そんないたいけな柔肌はひとあし歩くたびいばらに突き刺されたような痛みに襲われ、血を流しぼろぼろになりながらも、健気に王子と結ばれることを夢見てダンスを踊るのですよっ! そ~んなカサカサで砂漠の干上がったネズミのような足では、説得力がゼロ! いいえっゼロ以下のマイナスです!」
「だれが干上がったネズミだっ」
 ……もやもやと浮かんでいたあやしい想像上の光景が、あまりに色っぽさのない言い合いにかき消されていく。
 ダメダメ。いくら真白が「かわいい」が売りのユニットに入っているからといって、クラスメイトのそんな姿を勝手に妄想するなんて、あんまり失礼だ。頭では理解していても、いつも快活でまじめでごくごくふつうの真白の、想像上のなまめかしい乱れた姿に心臓がどきどきしている。
 いやあ、まあ、そんなことはあるまい。いくら日々樹先輩が、なにかと真白に女装を強いては半裸姿をふんじばって悦に浸っているような人でも。いくら真白が、最近だれにも見せたことのないような――アイドルとして撮られちゃいけないような、熱っぽい目で先輩を見ているときがあるからといっても。
 きっと部活の関係かなにかで、家に泊まりでもしたんだろう。風呂でも借りれば湯上りにははだしを晒すこともあるだろうし、先輩の自室で寝泊まりしたなら着替えを忘れていくことだってあるだろう。
「あなた!」
「はッ、ひゃい⁉」
 とつぜん一直線にこちらを指した日々樹先輩の声に、俺は跳びあがっておどろいた。さっきよりもすごい速さで胸がどきどき鳴っている。口から心臓が飛び出すかと思った。さすが演劇の天才と言われるだけあって、日々樹渉の声はまっすぐに届く。
「はい、どうぞ。あなたにもさしあげます。『おとなの』ふりかけです……♪」
「は、はあ? どうも……」
「ただ……、あなたにはまだ、ちょっぴりツンと刺激が強すぎるかもしれませんねえ」
 まだ誰でもない、名無しの権兵衛さん♪
 あいかわらず意味不明なことを好き放題言って、先輩は「ではでは! A組の幼子さんたち! ごきげんよう~☆」と教室のドアから颯爽と去っていった。いや、帰りはふつうに帰るのかよ。
「おまえ、何味もらった?」
 真白がふと俺の手に残った『おとなの』ふりかけを覗きこむ。
 わさび味。
「ええ~? なんでだよ。俺だけもらったの、おとなのふりかけじゃなくて「のりたま」だぞ? まだまだヒヨッコってことか? ちくしょ~!」
 真白は日々樹先輩からもらったかわいいうさぎのアップリケつきのくつしたと、高そうな丸いケースに入った保湿クリームと、なぜかひとりだけ特別に渡されていたチャックでふた閉めるタイプのでかいサイズののりたまを手に、なんだかよくわからない決意を燃やしていた。
 次の公演、真白の人魚姫、見に行こうかな。
 一年生も終わりにさしかかった冬。
 俺はこんな教室での光景も、ふたりのやりとりも、ぼんやりと同級生へ抱いた自覚もないあわ~い胸をつくドキドキも、そのうちにすぐに忘れてしまって、夢ノ咲を卒業するころにはなんの残滓も残っていないのだった。

 ――そして両手で数えるくらい数年後、ワイドショーで流れた『アイドルの日々樹渉さんと真白友也さんが入籍』のニュースに、「ああ、あれって、牽制だったのかあ」とやっと気が付くのであった。

▼ 周りから逆なんだろうな~と思われてる友渉が好き(2021.8.28)