「友ちんはこのあと、ちょっと残ってくれるか」
 とレッスン後に突然に〜ちゃんに言われて、俺は思わずカチコチに固まった。この瞬間は、何回か経験してもさっぱり慣れない。
「あっ、ちがうちがう! 居残りとかじゃないって。リーダーの引き継ぎ、基本では資料渡そうと思うんだけど、ちょっと直接話したいこともいくつかあるから」
 明るくに〜ちゃんが手を振って笑った。俺はほっとする。もうすぐに〜ちゃんは卒業してしまうのに、この期に及んでまたダメ出しだなんて、考えただけでも気が滅入る。
 名残惜しそうな——ふたりだって、ちょっとでも長くに〜ちゃんと一緒に過ごしたいんだろう——創と光を先に返して、たしかに文字と映像や写真だけの資料ではちょっとわかりにくそうな引き継ぎを受けた。各レッスン室の鍵の場所とか、生徒会へ提出する書類をなるべくすんなり受け取ってもらえるような態度とか。
「うん、こんなもんかな。あとはまあ、日々のレッスンだけど……こればっかりは慣れていくしかないなあ」
「うっ……俺にうまくやれるか、不安です……」
「あははっ、だいじょーぶらって! おれのへなちょこレッスンでも、おまえらずっとがんばってきたんだから!」
 あははは! と明るく笑って、そしてちょっとだけ苦笑いしながら、に〜ちゃんはつぶやいた。
「おれは最後までダメダメだったけど……友ちんなら大丈夫だ。ぜったいに」
 そして、ほんのすこし、うつむく。
「不安だよな、だって、お手本がおれしかないんだもん……おれしか知らないんだもんな。……うまく教えてやれなくて、ごめんな」
 うつむいて、だけどなんでもないいつもの明るい声で謝るに〜ちゃんに、鼻の奥がつんとした。目がじんじん熱くなって、ああ、だめだ、と思ったときにはもう、ぼろぼろと涙が出ていた。
 そんなことない。に〜ちゃんは、右も左もわからない赤ん坊だった俺たちに、一から生きていくすべを教えてくれた。こんなにちいさなからだで、精一杯両手を広げて俺たちをぎゅうっと抱きしめて、守ってくれた。に〜ちゃんだって大変なことがあって、心の整理がついていなくて、先輩とはいえまだ十八歳の子どもだったのに。たったひとりで。
「うっ、っひ、ひくっ」
「友ちん、ごめん、友ちん……」
 ちがう。ちがうんです。に~ちゃん。大好きな俺たちのに~ちゃん。
「おれ、……っく、なんにも……にーちゃんに返せなくて……うまくできなくてっ」
「ううん。おまえらはよ〜くついてきてくれたよ。リーダーどころか、ニンゲン一年目のおれに」
 情けなく泣きじゃくる俺の頭を、よしよし、とに〜ちゃんが撫でた。
 ちいさくて、女の子みたいにかわいくて、なのに、こうしてやわらかいてのひらであたまを撫でられると、ものすごく安心してぜったいに大丈夫なんだって気持ちがして、心からほっとする。
 だから、俺たちはみんな、に〜ちゃんにほめてもらって、よしよしっさすがはうちの子たちだ〜! ってあたまを撫でてもらうのが、大好きだった。
 大好きだったんだよ、に〜ちゃん。
 いままで、ごめんね。
 俺たちを守ってくれて、ありがとう。

「さーて、なんか腹減ったなあ〜、ラーメンでも食べて帰るかあ」
「!」
「創ちんと光ちんにはナイショな?」
 いたずらっぽく人さし指を立てて、しーっ、をするかわいい顔にどきどきと心が高鳴った。ふたりだけで帰りにどこかへ寄るのははじめてだった。創にも光にもナイショで、と大好きなに〜ちゃんに特別扱いされるのは、ほんの少しの罪悪感と、飛び上がりそうなうれしさがあった。
 ねえ、こんなふうななんでもないこと、もっともっとたくさんしておけばよかったね。
 もうすぐ行ってしまう、大好きな人。
 あなたが選んだ道を、俺たちは守りたい。俺たちにできる精一杯で。
 だから、どうか、見守っていて、そしてまた「さすがうちの子たちら!」って、あたまを撫でてよ。
 ね、に〜ちゃん。

▼ ラビッツwebオンリーRabbit summitでのペーパーでした(2021.10.17)