「う〜ん、ちょっと大きいですかねぇ」
「あがが」
 後輩の遠慮がちに開いた口の中に、ひとつの遠慮もなく両手の親指を突っ込んで、渉は友也の咥内を覗きこみう〜むと検分した。
 真っ白で小さな歯は、お行儀よく整列するように友也の口のなかに並んでいる。はたしてこれらは全部ほんとうに永久歯なんだろうか? 本人のあどけない顔つきや子供っぽい未発達なからだと相まって、いっそまだ乳歯にすら思えてくる。
「ん~~~っ」
 強引に開きっぱなしにされたくちびるから、口の中に溜まった唾液がたらたらとこぼれてくる。細いおとがい、まだ喉仏の目立たない首、くっきりと浮いた鎖骨を伝って体操着の中へと落ちてゆくそれに、友也はむずがるような声を出していやがった。
 いやいやをするようにかぶりを振って渉の手から逃れようとするちいさな頭。いつものいたずら心が湧いて、よりいっそう胸元へ抱き込むようにぎゅっと抱きしめた。友也は力では渉には勝てない。だからこうしてさんざんおもちゃにされてきたのだ。
 友也が腕の中で、きっと渉への苛立ちだの殺意だの苦しさだの気持ち悪さだのに胸をいっぱいにされていることを思うと、たいそう気分がいい。鼻歌でも歌い出しそうな機嫌で、最初の目的も忘れてあたたかくぬるつく咥内を好き放題いじくりまわしていた渉の指に、そのときぎちっと痛みが走った。
「おやあ」
 ずるりと指を抜く。さんざんくちくちと撫でまわしていたからか、友也のあわく色づいたくちびると渉の指のあいだには透明な糸が引いている。
 親指の先――関節のところには、くっきりと深く痕が残っていた。
 ちいさなちいさな犬歯が残した歯形が。
「つぎの衣装の……っ、きばの、試着なんだろ……っ」
 やっとのことで部長の魔の手から逃れた友也は、相当苦しかったのか哀れにも胸を激しく上下させて呼吸を乱している。
 次に予定している公演での友也の役どころは、渉扮する始祖と呼ばれる高貴なヴァンパイアに虜にされ、その傀儡となってしまう愚かな元人間の吸血鬼だ。人間であった彼が始祖に魅了され夜の一族の一員となるまで、そして最後には北斗の演じるヴァンパイアハンターから主人を守り死ぬまでと、そこそこ舞台には出ずっぱりになる。
 もともと牙を持たない人間から、牙の発達した吸血鬼に変わるという役でもあるため、幕の途中でつけるつけ牙――渉が芸の肥やしにと通っている日本舞踊教室で仲良くなった開業歯科医師に好意で作ってもらったものらしい――がしっくり友也に装着できるかどうか、付け心地と見た目の違和感を確認するための時間だったのだ。
「これは失敬、友也くんたらお口の中までこぉ~~~んな赤ん坊みたいにちいちゃいものですから☆」
「そんなちーさいわけあるか‼」
 こぉ~~~んなに、と指でごく小さなサイズを示してやると、素直で扱いやすい後輩は憤りでほおをカッと赤くして叫んでいる。
「友也くんのお口の小ささは置いておいて、さ、もう一度あーん、してください」
「ええ? まだやんのかよ」
 唾液でべたべたになった口周りを体操着の袖でごしごしと拭いて、友也はいやそうに後ずさりかけている。よっぽど他人の――というよりも、「渉の」――指で咥内を新しいおもちゃのようにいじくりまわされたのがいやだったのだろう。
「やだよー。きもちわるかったし」
「と言われても、まだ右のほうしかアタリがつけられていませんし。次はちゃんときもちよくしてあげますから~♪」
「きもちよくってナニ⁉ そっちのがコワくてイヤだわ!」
「はいはーい、いい子であ~んしてくださいね~」
「んががが!」
 じりじりと後ずさる小動物のような後輩まで一歩で距離を詰めて、いとも簡単に確保する。残念ながら友也は力でも、身体能力でも絶対に渉には敵わないのだ。
「さあ、恐ろしければ目を閉じていましょうね。そうすれば苦しいことも、怖いこともなにも起こりませんよ」
「く、口ん中ヒトにいじりまわされて、怖くないわけないだろ……っ!」
 それにあんたのさわり方、遠慮なさすぎで乱暴でコワイんだよっとまだきゃんきゃん吠えているくちびるに、人さし指をそっとあてる。しい、と耳元でささやくと、扱いやすくわかりやすい友也はじわっとほおを赤くして、ぎゅっとまぶたを閉じ、そしてカチコチに固まった。
「友也くん、お口を開けてください……」
 脳に刷り込むようにささやき続けると、固まっていたからだがやがてふるふるとふるえだし、そしてためらいがちにちいさなくちびるがふわっと開かれた。
「もう少し」
「ん……っ」
 渉の指を迎えるために開かれたくちびるの中は、赤い。無遠慮にいきなりつっこんだ先ほどとは違って、一本ずつ、ゆっくりとちいさな口のなかに含ませてゆく。指が奥に進むたび、くちゅりと音を立てる粘膜がくすぐったいのか、ん、ん、とむずがるような声がした。
「そう、いい子ですね」
 人体の内部に触れることは、さすがの渉であってもそうそうない。ひとの粘膜は想像よりもずっと濡れていて、熱く、やわらかく、吸いついてくる。奥に縮こまっていたうすい舌をからかうようにくすぐると、「んんーっ」と抗議の声が漏れた。
 残っていた左側の牙の具合も確かめて、歯科医師にどう修正を頼めばいいか検討をつけてゆく。真剣に見定めはじめた渉の態度を悟ってか、今度は友也もおとなしくじっとされるがままに突っ立っていた。
「……さて、こんなものでいいでしょうね」
 ひととおりの確認を終えて、渉はじっくりと友也の咥内を見つめていた顔をそっと遠ざけた。
 ふー、と緊張がとぎれたくちびるの端からつう、と唾液がこぼれてゆく。生ぬるく、他人のからだから出た、ふしぎとあまいにおいのするそれ。必要となればキスでもなんでもこなせるけれど、正直に言ってあまり自分から触れたいとは思わないもの。思わないはずだったもの。
 なぜか無意識に、友也の華奢な首筋をすべり落ちるそれを舌で舐めとっていた。
「ひっひぃ⁉ 何何何⁉」
 友也が腕の中で暴れ出す。抜け出されないように要点を抑えて抱きしめて、無防備にさらけ出された白い首筋を噛んだ。
「いっ、イタ! なっ……なんですか⁉ 何⁉」
 友也はもうほとんど半泣きだ。もともとわけのわからない変態と呼んではばからない渉が、さらに友也の理解の範疇を超えたのでパニックになっているのだろう。
「いえね、私もそろそろ役作りが必要かと……♪」
「はあ⁉」
 いまにもこぼれおちそうにうるんだ目に溜まった涙は、唾液とおなじ色をしていた。
 あれを舐めとっても、夜露のようにあまい味がするのだろうか?
 フィクションでよく題材にされるスタンダードな吸血鬼。実を言うと侮っていたが、なかなかコツを掴むには苦労をするかもしれない。
 まずは、なぜあの白い首に噛みつきたくなったのか、その腑分けからはじめましょうか



おわり

▼ (2021.9.12)