《二回目 一月》


 友也は震えていた。
 あたまは真っ白で、ドクドクと壊れそうな心臓の音だけが耳の奥で鳴っていた。そして両ひざはいまにも崩れ落ちそうなほどがくがくと震えていた。
 けれど倒れ込んでしまえば、それこそおしまいだとも理解していた。
 あいつは、日々樹渉は、ほんとうに頭がおかしい男だ。
 「今度友也くんが演じるライオンの役の参考に♪」と引きずってこられたサファリパークで、サファリゾーンを走るバスから、集まってきた猛獣の群れの中に友也を放り出すなんて!
 グルル、とうなりながら牙を剥きだして近寄ってくるライオンに、トラに、チーター……その唾液をしたたらせる牙のあまりのおおきさに、全身からぞっと血の気が引く。
 たしかに、友也は動物に好かれやすい。好かれやすいがそれとこれでは話が違いすぎる。たまたま出番のもらえたバラエティや若手アイドルが特集される雑誌で友也が話すようなそれは、せいぜい野良猫が逃げずにゴロゴロ言いながら膝に乗ってくるとか、通りすがりの散歩中の犬があまりになついてきてうれしすぎてオシッコしてしまうとか、知り合いの飼っている鳩に恋をされてなついていた一匹が嫉妬でいじめられたとか、それくらいのことなのだ。
 こんな、こんな猛獣の群れなんてどうにかできるわけがないだろ!
 ひときわ近くにいたオスのライオンが、腹の底までふるえるような大きな重低音で吠えた。あまりのことに、必死で意識を保とうとしていたのもむなしく友也はめまいを起こして。
 そして、その瞬間、思い出した。
 いや、「気づいた」と言ったほうが正しいかもしれない。
 ――これ、前にもあったぞ!
 それは、いわゆるデジャヴとか、極限状態での錯乱とか、そういったものではなかった。
 確実に違っていた。
 あるいはこう言ってもよかった――確信。
 保健室のベッドで目を覚ました友也は、知っていた。サファリゾーンに放り出された自分が、過労で倒れたこと。ついさっきまでの自分が、渉の手によってわざわざユニット衣装に着替えさせられ、事件現場に見立ててレッスン室に飾りつけられていたこと。
 そして創に抱きかかえられながら、この保健室に運ばれてきたこと。
 外はもう真っ暗で、きょうRa*bitsが立つはずだったドリフェス――ミステリーステージには、もう間に合わないこと。だけど友也ひとりがいなくたって、アイドルの舞台も、演劇部の公演も、大した問題もなくつつがなく終わること。
 「察した」とか、「想像がついた」とかいうレベルじゃなく。
 いまうしろから友也をぎゅうっと抱きしめて抱きまくらにしながらすやすや眠っているのが、創でも変態仮面でもなく、なぜか転校生の先輩なことすら知っていた。
 ――まさか。
 流行りの漫画やアニメには詳しいほうだ。映画でだって何度も取り上げられるモチーフでもある。
 ――そんな、まさか……。
 なにをさせても人並みで、せっかくあこがれだった夢ノ咲学院のアイドル科に入学してもいまいちぱっとしないままでいる、いてもいなくても同じ、友也なんかが、そんな。
「友也くん! さぁ早く、私のいる高みまで羽ばたいてきなさい!」
「兎も人間も空は飛ばんっ、基本的に!」
 友也の復帰の日。空から気球で現れて、相変わらずめちゃくちゃなことばかり言う変態仮面に、ついかっとなって廊下から身を乗り出して叫んだ言葉すら。
 (あ、俺、また同じこと言っちゃったな。これじゃまた変態仮面に『またその言い回しですか? もっとアドリブが利かなければ演者としてはまだまだひよっこですよ~、ああ、友也くんは子ウサギさんでしたっけ♪』なんてバカにされるっ)、とむっと渉をにらんだ友也に帰ってきたのは、どこかあきらめたような笑顔だけだった。
 この顔も見たことがある。でも、こいつがこんな顔を俺に見せたことなんてあったっけ? いったいいつ――どこでだっけ……。
 見える景色、聴こえる声、すべてがデジャヴなんて目じゃないほどの「既視感」だった。
「一緒にすんなっ、俺はあんたとはちがうんだよ……!」
 あたまの裏側でいつ、どうして、と巡らせる思考とはうらはらに、無意識のうちに口はいつものような憎まれ口を叩いていく。その言葉ですら、たしかに前に、この口で告げた覚えのあるものだ。
 混乱のなかにいる友也を無視して、渉はふと自嘲するように笑った。
「ごめんなさいね、友也くん。私が浅慮でした、さんざん振り回してしまいましたね……」
「な、何だよ……。今さら謝られたって、絶対にゆるさないからなっ?」
 でしょうね、とうなずく顔にどきりと心臓が跳ねる。
「私、忘れていましたけど……人間って、脆いんですよね」
 あっ、これって、もしかして――言っちゃいけないことじゃなかったっけ?
 この会話が続くと、たしか、良くなかった。少なくとも、友也にとってほんとうにたどり着きたい結果へは届かなかった。そんな気がする。
「あまり友也くんを無理させてはいけないと、反省しましたので。今度の演劇部の舞台には、出演しなくても結構ですからね」
「えっ? あっ、はい……。そりゃあ、助かりますけど。アイドルの仕事も演劇部の公演も、どっちも完璧にこなせるほど器用じゃありませんし」
「うんうん、あなたは『Ra*bits』としての活動を、優先させなさい」
 けれど、そんな友也を置いてきぼりにして、渉はにっこりと笑ってうなずいた。
「ライブをがんばりなさいね、応援していますよ……友也くん♪」
 あれっ……?
 日々樹先輩って、あんなに冷たい――さみしい目をしていたっけ?
 ミステリーステージの間じゅう、もやもやと心を支配する違和感にも覚えがあった。
 見捨てられた、あきらめられた、……ううん、そんなんじゃなくてもっと、寂しがりの子どもが自分から手を放してしまったみたいな――。
 渉の助言通り、演劇部の公演は欠席した。からだには倒れたときの疲労がまだ残っていたし、出せるものはすべてミステリーステージに出しきった。そんな状態で公演に出ても、渉のことも北斗のことも困らせるだけだと思ったのだ。
 そしてなんとなく、それからは演劇部よりもRa*bitsでの活動に重きを置いたまま、何事もないまま二月のショコラフェスを迎え、返礼祭を迎えた。
 ――部活では、返礼祭ってないよな。
 ふとそんなことに気づくころには、なずなが卒業したあとの新しいユニット体制と引継ぎのことでいっぱいいっぱいで、もう卒業式のその日を迎えていた。
 卒業式当日は、一応北斗とふたりで渉を祝った。
 花束とちょっとしたプレゼントを用意していたが、渉が放った「演劇部は私の代で廃部にします」という宣言にお祝いなんてムードではなくなってしまい、結局うやむやにその日は解散することになった。
 友也も北斗も、廃部にするという渉の突然の言葉に驚きながらも、すこし前からなんとなくそうだろうな、という雰囲気は感じていたのだ。友也に至っては「前回」の記憶があったから、ほとんど確信として渉がそう言いだすと「知っていた」と言ってもいい。
 友也も北斗も、それぞれアイドルとしてユニットの活動が忙しくなって、最後にはまともに演劇部としての公演をすることもできなかった。渉の卒業公演も、「ふたりはそれぞれユニットのことでお忙しいでしょうから!」と渉がひとりで準備をして、公演当日もキャストもなにもかもひとりでこなしてしまった。
 知っている。知っていた。こうなることは。たぶん――これは、「前」にもあったことだったから。
 でも、ほんとうにこれでよかったんだろうか?
 友也は知っていた。渉があきらめたような目で自分を見ることも、演劇部からすこしずつ距離が遠くなってしまうことも、そして渉が自分の代で廃部にすると言い出すことも。
 そこに未練なんてないと思っていた。そりゃあ、ちょっとは――ほんのちょっとは寂しく思わないでもないけれど、北斗先輩とはこれからも学校で会えるし、あの変態仮面がやっと卒業するなんてせいせいする。
 でも――知っている友也が、「ちがう」ふうに生きていたら。
 なにか変わっていたのだろうか。
 もうそんなことは、考えても意味がないのだろうけれど。
 だけど、最後くらいは、お世話になったんだからやっぱりもうすこし、ちょっとくらい――お祝いしたりすればよかったな。そう思いながら眠りにつき。
 そして翌日。
 目が覚めると、高校一年生の――夢ノ咲学院に入学する前の、四月一日だった。







《三回目 四月》


 ループだ!
 これが、あの有名な。噂の。フィクションで何度も何度も見た――くりかえしなんだ。
 どうしてごくごくふつうに生きてきた友也が、こんな事態に直面しているかはわからない。
 けれど思い直した。だって考えてもみてほしい。フィクションの中でこういう目に遭う主人公は、得てして「ふつう」のやつばっかりだったじゃないか。
 とにかく、友也が覚えているかぎりでは、「今」は「三度目」――それ以上の自分の意識がなかったループがあるなんておそろしくて考えたくもない――「前」も「その前」も、友也は中学のときから憧れていたあの女神さまを追いかけて演劇部に入り、そしてあの変態仮面によって最低最悪の、屈辱と混乱にまみれた高校一年生を送らされた。
 だけど、それは友也がこれまで気づいていなかったからだ!
 せっかくのループなんだ。いままで後悔してきたあれこれを、後悔のないかたちで生きなきゃもったいない。
 三度目の夢ノ咲学院の入学式を終えて、友也はこれまでと「ちがう」生き方をすることにした。友也のいちばんの後悔――すなわち、あんな変態野郎と関わりあってしまった高校一年生を、もっと明るく楽しく健康的に、あの変態にしか脱がせられないわけのわからないタコのぴったり全身タイツを着せられたりなんかしない学院生活を送るのだ!
 どういうわけでこんなことになっているのかはさっぱりだけど、きっと、これはそのために与えられた時間にちがいない。
「友也くん、ぜったい演劇部に入るんだって言ってませんでしたっけ?」
 受験前に一緒に公演へ忍び込みさえしてくれた創はふしぎそうに首をかしげていたが、友也は一度もあの魔窟――演劇部の部室へは訪れなかった。「前」や「その前」とおなじように、日々樹渉の魔力に吸い寄せられたかつての同じ穴の狢たちが数人、入部届自体は出したらしいが、それも数日でみんなやめてしまって、結局部員は渉と北斗だけに戻ったようだった。
 演劇部部員ではない真白友也の生活は、解放感にあふれている。
 放課後、チャイムが鳴って、朝の十倍も重く感じるからだで立ちあがりながら「部活に行くか……」と腹の底からため息をつかなくてもいい。遠くからすこしずつ近づいて来る奇怪な笑い声に怯えたり、あるいはいつどこで捕まるかわからない不安に動悸がしたりすることもない。
 友也にとって魔の月曜日だった部活動のある日は、一週間でいちばんひまな日になった。
 それぞれの部活に顔を出すクラスメイトを見送って、教室でちょっと宿題を片付けたりしながら時間をつぶす。
 創が紅茶部から帰ってきたら、のんびり本屋やレンタルビデオをひやかしながらふたりで帰るのだ。
 ただ、ひとつだけ問題が残っていた。夢ノ咲学院では、生徒は必ずどこかの部活に所属しなくてはならない。
 入学式から設けられた入部期間がそろそろ終わりに近づこうとしているのに、友也は演劇部に背を向けて、代わりにどの部活へ入ればいいのかいまだに決めかねていた。
「演劇部のこと以外、考えたこともなかったもんなあ……」
 あの日。
 忍び込んだ講堂で、ヒロインを演じるあのひとをはじめて見たときから。
 目が離せなかった。北斗がメインを張るシーンでも、ただ舞台の隅にたたずむあの人の憂い顔があまりに美しくて、友也は客席に座るひとりの観客でしかなかったのに、手を伸ばしたいと思ってしまったから。
 自分はぜったい、ぜったいに死ぬ気で夢ノ咲学院に合格して、演劇部に入って、あのひとのとなりに立つのだと、それ以外の未来なんて考えもしなかった。
 ……なのにまさか、まさかあの女神さまみたいなひとが、あんな変態だなんて思いもしなかった!
 ぶつぶつと口のなかでつぶやきながら、気分転換に購買まで飲み物を買いに行こうと階段を下りていたとき。
「そこのあなた!」
「ひぃっ!?」
 がしっ、と有無を言わさない強い力で、背後から友也の肩にかかる手があった。
「いま私の耳は聞き逃しませんでしたよ、『演劇』と! そう言いましたね!」
 聞き覚えのある――いやになるほど聞いた独特のトーンの声。力強く、けれど粗暴な印象は持たせない大きな手。おそるおそる振り返る。
「げぇっ! 変態仮面!」
 そこにいたのはやはり、というか案の定、というか――友也がこの世で最も顔を合わせたくない男、日々樹渉であった。
 しまった。油断した。入学してからしばらくのうち、友也は演劇部の「え」の字がつくものから背を向けて一心に逃げ回っていた。そのせいで、北斗先輩恋しさに泣きながら眠った夜が何度あったかも数えきれない。
 しかしそのうちに、演劇部にみずからおとずれない友也のことを渉は知らないし、めちゃくちゃな奇行につき合わされたり、つきまとわれたりする理由はないということに気づいて、さいきんではめっきりのほほんと毎日を過ごしていたのだ。
「おやぁ? あなた……」
「なっ、なに……?」
 渉は華やかなたたずまいのまま、なにかに気が付いたようにぐい、と上半身を近寄らせた。びくびくと追いつめられた子ウサギみたいな友也を、遠慮なしに上から下までじろじろと見る。
「変態仮面と? 私のことを? もう新一年生にまで、北斗くんが付けたあだ名で私の存在が知れ渡っているのですね! なんとすばらしい!」
 なにがすばらしいんだよ!?
 そうつっぱねてやりたいが、なにせひさしぶりの「生日々樹渉」だ。なかば忘れかけていた――忘れられるはずもなかったが――その存在感とでかい声、おおげさな身振り手振りに圧倒されてしまって、あわあわと口がふるえて言葉が出ない。
「ところで、あなたさきほど『演劇』と、そう言っていましたね! 演劇に興味がおありで?」
「いや、その、まあ……」
「ふうむ……」
 渉はもう一度、今度は一歩引いて友也をじろじろと眺めまわした。
「本来であれば我が部は来るもの拒まず去るもの追わず! あなたのようななんの取り柄もなさそうな子にこの私みずから声をかけたりはしないのですがね? 今回ばかりはちょおっと困った事態になっておりまして……ああ、申し遅れました。私はアイドル科演劇部部長の日々樹渉と申します」
 わあっと洪水のように、それでいて端正な軌跡を描く流水のように流し込まれる言葉に目を回しかけながら、友也はなんとか渉の言いたい要点をくみ取った。残念ながら、「前」や「その前」で培われた渉との付き合い方――こいつがなにかをまくしたてているときは、だいたいの言葉を聞き流して、なんとなく重要そうなところだけに絞って話半分に聞くしかない――はまだまだ身に染みついているらしい。
「こ……困った事態って?」
 おそるおそる口を挟むと、渉は大きくため息をついた。
「一年生がみぃ~んな逃げてしまったのですよ。それはまあいいとして、彼らから苦情を出された生徒会の怖ぁいひとに『このまま新一年生がひとりも入部しなければ、今年度の部費は半分にカットする!』なんて言われてしまいましてね」
 よよよとほんとうに涙を流しながら泣き出した渉を前に、友也はぼうぜんとするしかない。
「ということで、あなた、我が演劇部に入部しませんか?」
 なんていうか、なんていうか――よくやってたな、「前」の俺。
 すがすがしい風をまとう嵐みたいなこのひとを前にしていると、うまく言葉にできないが「日々樹渉メーター」みたいなものがどんどん溜まっていって、最後にはそれがあふれて爆発してあたまが変になってしまいそうなのだ。
 このところ、この男の騒がしさに触れていなかったせいか、「日々樹渉耐性」をちょっと失くしていた友也にはいっそう堪える。
 ぽかんと口を開けて間抜け面を晒していた友也は、はっと我に返るとあわてて首を振った。
「おっ、お断りします! 俺、あ、あんたみたいな……ひとと、一年やってく自信ないし……!」
 ついでに両腕もぶんぶん振って、全身で拒絶を表しながら後ずさる。
「ということは、まだ他の部活には入っていないのですよね?」
「うっ、そ、それはそうだけど」
「見たところあなた、忙しい強豪ユニットに入れるような子じゃありませんし、どうせヒマしてるんでしょう?」
「うるさいな! たしかにまだユニットも組めてなくて放課後はひとりで宿題とかしてるけど……!」
 後ずさる友也にじりじりとにじり寄っていた渉はぴたりと歩を止めて、大きくため息をついた。
「……あなた、つまらない子ですねぇ」
 心底つまらなさそうに渉が吐いた言葉に、ぐっと胸がつまる。
「せっかく夢ノ咲学院アイドル科に入学したのに。趣味は? 特技は? なにかしたいことはないんですか? 憧れていることや、愛していることや」
「……そんなの」
 俺にだって。あんたと。あんたみたいに。
 あの日の、あの女神さまの、スポットライトに照らされた姿を思い出した。そしてはじめて主演として舞台に立ったときの高揚感。ステージライトの、あの熱。息を呑んで舞台上を見つめる真っ暗な客席の何百というまなざし。どしゃ降りの嵐のような拍手。きらきらとまばゆい、光を透かす星空みたいな銀の髪。カーテンコールで隣に立って肩を抱く、このひとの体温。
「……や、やっぱり。俺も……入れてください! 演劇部」
 無意識のうちに、そう口にしていた。
「よろしい!」
 まるで物語の悪戯の神のように、渉がにやっと笑う。
 気が付いたときにはもう遅かった。
「我が王国へようこそ、なんの取り柄もなさそうな子ウサギさん♪」
 こんなつもりじゃなかった。
 こんなつもりじゃなかったんだ。
 友也の後悔の言葉は、強引に腰を抱いて踊り出したこの荒唐無稽な男の前に、どこかへ霧散してしまうのだった。







《七回目 四月》


 だめだ、だめだ、だめだ。
 友也は後悔していた。
 覚えているかぎりで七回目、もしかすると、もっともっとくりかえした高校一年生の四月一日。
 「前の前の前の前」の回では、あの変態野郎と関わらないように演劇部に入部もせず、注意深く奴の気配を避けて過ごしていたのに、ちょっとしたきっかけで結局は演劇部に入ることになってしまった。――まあ、演劇は好きだし、Ra*bitsが結成できたのもあのひとのおかげ……というかきっかけみたいなところはあるから、それだけはありがたいんだけど。
 それで、結局その次も、そのまた次もだめだった。友也がどれだけ固い意志を持って日々樹渉から逃げようとあらゆる手段を講じても、どうしてだか気がつけばあいつに引き寄せられて……いやひっ捕まって! 演劇部に入ることになってしまう。
 これまででもう六度、友也はあの男に蹂躙される高校一年生をただただ送るはめになっていた。あの男から逃げるための、平穏で、明るくて、尊厳があって、楽しい高校生活を送るためのくりかえしなはずなのに!
 七度目の春の朝、とうとう友也は決意した。
 あの学院にいるかぎり、変態仮面との縁は切れないんだ。
 だったら、あの学院に行かないことでしか平穏は訪れない。
 そして友也は、創と抱き合って泣いてよろこんだはずの夢ノ咲学院の合格通知を机の奥に仕舞いこんだ。
 親に頼み込んで、滑り止めに受けていた地元の公立高校に進学することにした。
 創は「ぼくも友也くんとおなじところに行きます」と言ってきかず、せっかく受験勉強にずっとつきあわせて私立の高い受験料も払わせたのに、それだけが申し訳なかった。
 「ふつうの」公立高校での生活は、それはそれは「ふつう」だった――創が一緒にいるからとさほど心配もしていなかったが、それでもあんまり平凡すぎて、拍子抜けするくらいに。
 入学式でさっそくできた友人はいいやつばかりだった。みんな友也と同じか、それ以上に平凡で、光みたいに目が離せないやつや、同じクラスのやつらみたいにちょっと変わっているけれど楽しいやつらとはあまり出会わなかった。
 夢ノ咲に行かなかった友也の高校生活は順調だ。友だちもいるし、成績もまあ問題ない。
 そもそもあの学院は変人ばかりだった。日々樹渉ほど頭のおかしいやつはさすがに飛びぬけすぎていたにしても。変態仮面以外が原因のさわぎに居合わせたことも一度や二度ではない。「ふつう」の公立高校ではだれそれがだれそれに拉致監禁されたとか、授業中に窓の外を虹色のド派手な気球が飛んでいるとか、そんなことは一度も起こらない。大財閥の跡取り息子な異様に怖い先輩もいないし、もちろん部活動の時間以外にも女装を強要されることもない。
 そして、学ランから半袖シャツに衣替えしてしばらく経ったころ――友也にはじめての彼女ができた。一学期から一緒にクラス委員をしていた彼女に告白されたのだ。
 まだ成長期の途中でさして背が高いほうではない友也よりも、ずっとちいさくて、肩くらいで切りそろえた髪がふわふわとかわいくて、ちょっと引っ込み思案なところがある、たまらなく守ってあげたくなるような、かわいい女の子。
 創は最初、一緒に過ごしていた時間の半分近くが彼女との時間になることにほんのすこしすねているようだった。それでもそのうちに慣れてくると、「彼女さんと仲良くしてくださいね」と笑っていた。
 公立高校にも演劇部はあったが、なんとなく入る気はしなかった。代わりに、レンタルビデオ店のバイトの合間に、彼女に誘われて映画研究会に入った。彼女は自主制作映画に夢中になっている様子だったが、友也はそこでも演じる気にはなれず、かといって映像制作に興味も持てず、ただときおり開かれる参考資料としての上映会に顔を出す程度だった。
 そこで、ひとつの映画を見た。
 ハリウッド制作の、よくあるスパイもののエンターテイメント作品だ。あるエージェントが主人公で、そいつは人嫌いで愛想の悪い殺しの天才だった。仕事で組む仲間からも遠巻きにされていて、だけどぶっきらぼうで露悪的なその態度は、みずからの大切なものになることで、敵対する組織に狙われるひとを生まないためのものだった。だれかを思うあまりのことだった。
 そんな彼が、ある日新人エージェントとコンビを組むことになる。王道の展開だ。
 新人は彼にあこがれてエージェントを目指した若者だった。彼は、まだ若く、未熟で、あまりにひたむきすぎる新人と組むことに難色を示す。どうせだれとも居られないのだから、だれかと育む絆など必要ないと。ビジネスライクな関係以外のものなど、築くつもりもないと。
 映画の序盤から中盤にかけては、それでも食らいついてくる新人に彼が絆されかけている場面が描かれていた。天と地ほども差がある実力とキャリアを前にしても、彼に追いつくことを、手を伸ばすことをあきらめない姿に、調子を狂わされてしまうのだ。
 彼はなんとか自分を保とうとする。危険が伴う任務は彼ひとりで赴こうとし、自分の感情もほとんど開示しようとはしない。
 彼の存在が、またそのひとを殺してしまうかもしれないと、恐れているからだ。
 ……結局、かすかに生まれかけていた感情の交感をそのままに、彼の相棒は命を落とす。
 彼はそれからも変わらない。だれとも絆を結ばない生き方もそのままに。いっときの相棒との、いっとき結ばれた関係は、ただ、彼に寂寞だけを残していった。……けれど、彼がはじめて知ったそのやわらかな永遠は、まぎれもなく美しい愛の瞬間なのだった。
 ――あなたみたいになりたいんです。
 と、新人エージェントはまっすぐな目で彼を見る。
 ――お前みたいな、なんの取柄もないふつうの奴が?
 ――たしかに僕は、まだ未熟で、あなたにゆびさき一本届かないかもしれない。
 ――けれどあなたのその目、そのからだ捌き、生ける伝説であるあなたに、いつか追いつきたい。あなたにあこがれてこの世界に、死ぬ覚悟で入ってきたのだから。
 にらみあったまま拮抗していた視線が、ふとやわらぐシーンを友也は見た。
 ――まあ、せいぜい、死ぬな。
 そうため息をついて目をそらした彼は、とても相棒を拒みきれるような男には見えなかった。
 あのひとみたいに。
 そう、あのひとみたいだったんだ。
 あいつはいつだってうるさくて、ニンゲンのことが大好きで、隙があればやかましくだれかれ構わずかまい倒すようなやつだったけれど。
 どうしてだか、ときおり、――あんな顔をしていた。
 結局夏につきあいはじめた彼女からは、キスもする前に「真白くんって思ってたよりふつうのひとなんだね」と秋が来るより早くふられてしまった。
 そのままだらだらと送った高校一年生が終わり――そしてまた、高校一年生の四月一日が、来た。



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