Aロマンティック・Aセクシュアル(他人に恋愛感情を持たない/性的欲求を持たない)の渉と、ロマンティック・セクシュアル(他人に恋愛感情を持つ/性的欲求を持つ)の友也くんの話。
ハッピーエンドですが、婉曲的な死ネタを含みます。
受け攻めは決めていません。どうぞお好きな解釈で読んでください。










 くちづけのために近づいてくるやわらかなくちびるを、渉はそっと人さし指で抑えて遠ざけた。
 腰を抱く細い腕には痛いほど力がこもっていて、友也の目は、恋の熱とこれからの期待と、ほんのすこしの不安に甘くたゆたっていた。
 渉が友也のキスを拒んだのは三度目。ふたりがお互いにふれあう許可をいちいち必要としない関係になってから、三か月ほどが経っていた。

 抑えた指の下で、ふわふわとしたくちびるがきゅっと噛みしめられる。
 大きな目がしばらくじっと渉の目の中を、そこにあるものを覗きこむように見上げて、そしてあきらめたように伏せられた。
 薄いからだをそっと離して、ため息をつく。
「日々樹先輩は、俺とこういうことするの、いや?」
「いやではありませんが……」
 渉にしてはめずらしいことに、言葉をにごす。なんと言えばいいのかわからなかった。
 いい雰囲気を狙った友也がそっとキスを迫って、渉が拒むのはおよそ三回に一度。つきあいたて……と言ってもいいだろう若いふたりには、きっとそうない頻度だろう。
 けれど、どんな言葉を使えば渉がキスを拒む感情を理解してもらえるのか、見当もつかなかった。
 ハグは嫌いではない。ほかほかとあたたかい友也の体温を全身で感じるのは心地がよかった。腕の中でリラックスした様子でからだを預けてくれる友也はかわいいし、ぴったりとくっついたところからトクトクとすこし早い鼓動が伝わって、目を閉じてじっと抱きあうだけで心が凪ぐ。
 しかしそれ以上のふれあいにはとんと利点を見出せなかった。
 正直なところ、粘膜をくっつけて唾液を交換することのなにが楽しいのか、さっぱり理解できない。キスをしてくちびるをふれ合わせているよりも、ひとつでも多く言葉を交わすほうが渉にとってはずっとずっと魅力的だ。
 それに、キスをしたいときに友也が漂わせる甘ったるい空気は、どうにも落ち着かない。
 学生のころからふたりのあいだにあったのは、一触即発、捕食者と逃げ惑う被捕食者、あるいはあの冬の日からは、ほどけて気安いどこか幼い子を見るような抱擁じみた視線——少なくとも、こんなあまったるくてつまさきがむずむずするような、居心地の悪いものではなかった。
 どんな顔をすればいいのかわからないのだ。この日々樹渉ともあろう者が。
 世界中、ありとあらゆる恋愛劇のセオリーならばもちろんよく知っている。舞台の上で何度それらの恋を咲かせ、実らせ、ときには散らせてきたか、もはや数えきれない。けれど、そういった名のある役ではなく、「日々樹渉」としてでもなく、ただ友也がとろけた目で見つめる「私」であるとき、渉の胸を支配するのは、ただただ困惑だった。
 見知った物語のうわべだけをなぞって友也が納得するように演じてみせることも簡単だったけれど——いやだった。
 だって、「思うとおりにしろ」と、友也が言ったのだ。

 言葉の先を溶かしてしまった渉の肩に、そうっと友也が頭を寄せる。
 上から見下ろすくちびるは不満そうにつんととがって、心なしかふくらんだほおはふくふくと丸く、恋の色にあわく色づいている。
 愛しい。友也のことを心からかわいいと思う。けれどそのくちびるに、からだにふれたいかと問われても、渉に返せるのはあいまいな否定だけだった。
「キスばかりしても、つまらなくないですか?」
 肩にこすりつけられるやわらかい髪をとかしながら、純粋に浮かんだ疑問を口にする。いじわるをしたつもりはなかったのだけれど、友也はひどく傷ついた顔をして、むっと黙り込んでしまった。
 どうやら機嫌をそこねてしまったようだ。赤子のようにまろい線の後頭部が、いやいやをするみたいにぐりぐりと渉の胸板を圧迫して、さすがに痛い。
「友也く〜ん、ごめんなさい。ごきげんなおしてくださいよう」
 よしよしとあたまを撫でる。
 ぎゅっと眉を寄せてきつく下されたまぶたが、ちらりと薄く開いて渉を見上げる。
「……キスしてくれたら許す」
 はいはいと嘆息して、渉は自分を待つ愛しい人のくちびるに、したくもないキスをそっと落とした。

 そうっとふれるだけのそれは、もしかしたら友也にとっては不誠実なキスで、けれど渉にとってはまちがいなく愛のキスなのだった。











 「友也くんの卒業祝いを、うちでやりませんか」と言い出したのは、渉のほうだった。
 春、友也は学院を卒業した。
 渉が最終学年だった年の年度末にはいろいろとごたごたがあって、たしかに北斗とも、そして友也とも――うわべだけではない言葉を交わした。しかしもともと友也は「暗殺する」「訴えるからな」と常日頃から憎まれ口を叩くほど渉を敬遠していたのだ。渉が卒業したあと、同じESという大きな組織に所属するとはいえ、同じ学生同士でも、ましてや演劇部というつながりもなくなれば――疎遠になるのかと思いきや。
 友也がゆび先を伸ばして掴んだふたりの縁は、お互いの努力と好意でふしぎなほどに長く続いていた。なんと、まる二年のあいだも。
 この春から寮を出てひとりで暮らしはじめた部屋に友也を招いたのは、四月もなかばのことだった。ユニットや、演劇部の後輩や、あるいは同級生たちとの集まりのことを考えてだった。
 もちろん三月二十九日、その当日にはリズムリンクの事務所で盛大に友也の十八歳の誕生祝いのパーティーが行われたし、渉もにぎやかしとしてそこへ出席してとっくにプレゼントも渡してある。けれどこうしてふたりでささやかにゆっくりと過ごしたいと、そう打ち明けられるほど、渉は友也との心地よい距離感に心を許しはじめていた。

 プレゼントはすでに渡していたので、渉は友也のためにはりきって部屋を飾りつけ、好物のオムライスを用意した。
 友也が部屋を訪れたときのお約束として、鳩たちもいつもよりも長めに放鳥してやった。友也のことがたいそう好きな鳩たちはよろこんでくるくると喉を鳴らし、頭に肩にと群がって我さきにと撫でてほしがった。
 友也がとくべつ好きだと言う学食のものをアレンジした特製オムライスに、友也はしきりに感動していた。おいしいおいしいとふだんより五割増しでほころんだ顔に、渉もうきうきとうれしい気持ちになる。
 それほどよろこんでもらえるなら、とついサービス精神がはたらいて、さらにふところに仕込んだ花をまこうとしかけて、やめた。
 友也は、ふたりでゆっくりと過ごす日に渉が過剰にあれこれとにぎやかしをするのをいやがる。せっかくの友也の晴れの日だ。水を差すのはやめたほうがいいだろう。
 オムライスに集中している友也を横目に、カーディガンの中へすべりこませた手をそっと戻す。
「日々樹先輩」
「はい?」
 友也が好きな――忌み嫌われていたころから、よく本人は気づかれていないつもりでぽうっと見つめられることが多かった――顔でにっこりとほほえんでやったのに、まるい目はじとりとすがめられた。
「いまさ、なんかやりかけて、やめただろ」
「いいえ?」
「あのさー……」
 オムライスの最後の一口をゆっくりとそしゃくして、お行儀よく飲みこんでから、ちいさな口はそうっとためいきをついた。
「思うとおりにしてよ」
 「思うとおりに」? 渉にしてはめずらしく、かけられた言葉の意図がわからずに返事に詰まる。
「それは……」
「わかってる。こういうとき俺をよろこばせたいって思うのがあんたって人で、でも、あんまりやりすぎるとまた加減がわからないからってがまんしたんだよな」
 む、とくちびるをつぐんで、渉はうなずいた。友也がこういう口のきき方をするとき、どうしてだか渉は、いつものような軽口を叩けなくなる。
「べつに、それくらいでダメになったりしないから。チャンスは一回だけで失敗したら即アウトなんてこと、世の中にはあんまりないんですよ」
 ――そうなのだろうか。よくわからない。一度失ったなにかの取り返しがついたことなどないから。
 「ごちそうさまでした」と両手を合わせて、友也はスプーンを置いた。
 これ、流しに持って行ったらいいですか? と立ちあがった友也を制して、ソファのほうへ背中を押す。お客さまなのだから、食器の後始末など気にしなくてもいいのだ。
 友也は、ふだんなら押し切って無遠慮に自分で勝手に流しを使っただろうが、さすがに今日ばかりはこれくらいのもてなしは受けてくれるらしい。
 渉の手を引いて、大人しくソファに腰かけた。話のつづきをしたいようだ。渉も大人しくついていって、となりに腰を下ろす。
「それでさ、俺だっていやだったらちゃんといやだって言う。そしたら謝ってやめてくれたら、だいたい許しますから。取り繕わないでいてください。そうやってあんたのこと許したいって思うくらい、俺はあんたが大事なんだから」
「……むずかしいですね」
 渉は日々樹渉だ。日々樹渉は、人々の驚きと、よろこびと、期待のまなざしを、愛を集める者だ。渉は愛されたい。世界中のひとびとに。そしてそれは憎しみでもかまわない。軽蔑でも、嘲笑でもいい。道化は、偶像とは、目を向けてもらわなければ、それはそこにいないのと同じだからだ。
 そんな渉に「取り繕うな」などと、なんと残酷なことを言うのだろう。
 けれど。
「でも、やってみます。私も友也くんが大切ですから」
 友也が言うのなら、そうしようと思った。
 そうしたい、と思った。
 友也が渉に望む在り方は、けして日々樹渉がほしい愛ではない。そうすることで友也の好意を得たいと思うわけでもない。
 だけど――だけどもしかしたら、まだまだちいさなこの後輩は、渉が知らないなにかを教えてくれるのかもしれない。
 へへ、と笑いあって、見つめあう。
 友也の甘い色の瞳はやわらかく、熱を帯びてうるんでいた。舞台に立つ仕事をしている身としてこんな目で見つめられることにはとっくに慣れてしまっている。けれど友也が自分に対してそんな目を向けることを、渉は妙にくすぐったく感じた。
 ふと、近づいた友也のからだが身を寄せる。
 ふわふわとしたやわらかい感触がくちびるにふれた。
 焦点があわないほど近くで、薄い色の細いまつげが伏せられてふるえている。
 しばらくくちびるをくっつけたあと、友也は音もなく離れて、そして震えながら息を吸って、吐いた。前髪の絡む距離でまたじっと視線を絡めて、えへへ、と幼い顔がはにかむ。
「……なぜキスを?」
「わっ……わかるだろ、そんくらい」
 友也は真っ赤になってむっと黙り込んだ。
 そう言われても、わからないものはわからない。
 渉も返事を待って黙り込む。
 ふたりで見つめあってまばたきをしていると、友也はしばらく考えるように視線をうろうろとさせて、こほん、と咳払いをした。
「……あんたが好き」
 わかるだろ、とぶっきらぼうに言ったときとはちがって、まっすぐに心に届けようとする声だった。
 これは――きっとこれは、先輩後輩や友人としての好きではなくて、そう、恋の告白というものなのだろう。いくら人間の機微への共感が薄いといっても、渉は鈍いわけではない。それくらいのことには気づく。
 友也は期待をするようにじっと渉をみつめて、返事を待っている。
 恋の告白には、イエスかノーかの返事があるのがセオリーだ。だから渉も、イエスかノーかを友也に告げなければならない。
 渉が友也に、恋をしているか否かを。
 けれど、応とも否とも、頭のてっぺんからつまさきまでをひっくり返しても返す言葉が見つからないことに、渉はうろたえた。
「……友也くん。恋とはいったいなんなのでしょうね」
 まるで時間稼ぎをするように、言葉が漏れる。
 いや、それはまぎれもなく、明確な返事を先延ばしにするための時間稼ぎだった。時間稼ぎにはちがいないけれど、同時に、たしかに渉の本心でもあった。
「私にはわかりません。欲望も、血潮がわき立つような高揚も、切なく腹の奥で凍りつく悲しみも」
 「恋とはどんなものかしら」。やわらかで軽快なメロディに乗せた、しかし切実な苦しみの吐露。思い浮かんだのは、かつて両親に連れられて見たオペラの一節。
「あなたのことは、そう、……大切だと思います。でも、わからないんです」
 渉にはわからない。あんなにも支離滅裂で、自分が自分でコントロールできなくなる衝動など。欲望など。それが恋だと言うのならば、渉には恋など存在しない。
「……それでもいいよ」
 ちいさく、やわらかく、あたたかい手がそっとふれた。
「俺はあんたが好き。好きだから、いつかあんたにも好きになってもらえるようにがんばります」
 ふたまわりも大きな渉の手を握る、友也の幼い手は汗に湿ってふるえていた。
「だから……その……俺と、つ、付き合ってくれる?」
 緊張にか、かすかにふるえる声。
 しばらく逡巡して、やがて渉は、こくんとひとつうなずいた。

 うなずきながらも、心の奥には、どうしても言えなかった言葉がわだかまっていた。
 ——違うんです。友也くん。
 「まだ」恋を知らないのではないんです。
 私はきっと、あなたを、好きにはならないのです。
 けれど、言えなかった。
 恋を受け入れられなかったとき、友也が離れていってしまうのがおそろしかった。
 頭では彼はそんな程度で距離を置くような子ではないと思っていても、実際、その可能性を目の前にしてみると、大きな石で喉がつかえるようだった。

 ほおをばら色に染めた友也がおずおずと渉の胸に顔を埋める。
 はじめて抱きしめたちいさなからだはあたたかく、まるでずっとずっと遠くで荒れ狂う海のようにどくどくと脈打っていた。











 キスをする。
 友也はキスをするのが好きだった。
 「ありがとう」「お疲れさま」「ごめんね」、たくさんのちょっとした言葉のかわりになにかとくちびるをふれさせたがった。
 はじめのうち、渉は幾度かに一度、それをいちいち拒んでみせた――「取り繕わないでいてよ」という友也の言葉に従って。だって、渉はべつに、友也とキスなどしたくなかったから。
 ふわふわとやわらかく、弾力があって、あたたかい、ほかの何物ともちがう友也のくちびるの感触は嫌いではなかった。嫌いではなかったけれど、ではもっとくちびるを合わせたいかと言われると、考えても考えても出てくる答えは「いいえ」だった。
 それよりももっと、言葉を交わしたい。熱っぽくうるんだ瞳と見つめ合うよりも、彼がなにを考えているのか、なにを感じているのか、教えてほしい。
 言葉を尽くしてわかりあおうとすることなど到底無理だと、野暮だと考えていた渉が、自分でも驚くような欲求だった。
 友也くん。あなたはいつも、私の想像の範疇を超えないふつうのことばかり言う。けれどときおり、まるで思いもしなかった、ずっとここにあったのに気がつかなかった大切な子どものころの宝物のような言葉をくれるのです。
 私は、それがとてもうれしくて、愛おしい。
 けれど友也は、渉がそのくちびるをそっと指でおさえてキスを拒むたび、傷ついた顔をする。
 一度、言ってみたことがある。「私はキスをしたくならないのです」と。
 けれどやっぱり友也は実感が湧かないようで――彼はふたりきりになれるタイミングさえあれば、いつでも、何度でも、いつまででもキスがしたいようだった――小首をかしげて、そしてやはり少し傷ついた顔をするのだった。
 罪悪感だの後ろめたさだのはとうにどこかへ取り落としてきた渉だが、ふわふわの髪をしゅんと心なしかしなっとさせて、眉を下げた幼い顔を見ると、生来の癖も手伝って「なんとかこの子を笑顔にしてあげたい」と思ってしまう。
 だから、渉はそのうちに拒むことをあきらめて、つきあうようにした。友也が望む、したくもないキスに。
 それは渉にとって友也へ示す愛に他ならなかったけれど、たぶん、ほんとうはよくないことだった。

 人の口の中の味を知ったのは、いわゆる「恋人」ができて数か月してからのことだ。
 最初のひと月で手をつないで、もう少し経ってからふれるだけのキス、そしてくちびるを開いてするフレンチキス。友也らしい段階の踏み方だった。
 はじめて知った他人の舌の感触には、とくになんの感慨も抱かなかった。最初に友也の舌がそっとくちびるを割って入ってきたときに抱いたのも、舌だな、という感じだけだった。
 友也の口の中はあたたかく、つるつるしていて、なんの味もしない。友也のからだは渉よりもふたまわりほどちいさい。ふだんさほど体格の違いをはっきりと感じることはないが、こうしてみると、ああ、友也くんって舌までちいさいんですね、と妙に感心する。
 どこでどうやって学んできたのかは知らないが、渉の口の中をいろいろなやりかたで探ってみせる友也に、渉はしばらくのあいだされるがままにした。
 さまざまな角度で、歯列や、上あごや、舌の裏のやわらかいところをなぞる友也の舌に抵抗しなかったし、とろっとした顔で
「日々樹先輩も、舌、出して」
 と言われれば、すなおに舌を出した。
 キスに満足すると、友也はいつもの快活に山を描く眉をぼんやりと下げて、紅潮したほおを渉にすりよせたままぎゅうっときつく抱きついてくるのだった。
 そのときの、ふだんよりもいくらか高い体温だけは心地よく、またたびに酔った猫のような友也の様子はかわいらしかったので、渉もそのうち口の中を舌でまさぐられることに慣れていった。
 そしてそのまま半年もするころには、そんなキスにすっかり慣れてしまった。



 友也と舌を舐めあうキスをするようになって半年ほど。
 それまで渉はずっと、友也の好きにさせていた。違う言い方をすれば、されるがままになってみずから積極的になることはまったくなかった。
 ある日。
 渉は友也との口を開くキスに慣れ切って、そしてその日の友也のキスにはいやに熱が入っていた。ふだんならもう満足してうっとりとからだを預けきってくるころになっても、しつこく渉の舌を吸い、唾液の味しかしない口の中を熱心に舐めまわした。
 そんなふうにされると、渉はほとんど無意識に――おそらく人体のなかで敏感であろう箇所をなぞって、友也をよろこばせようとしてしまった。
「ん……っ」
 口の中を渉にまさぐられる感触に、友也はくぐもった声でおどろいたように声をあげた。
 そしてちいさなからだは感極まったようにふるふるとふるえて、背中と腰をきつく抱いていた腕がゆっくりと動き出した。なかばすがりつくようだった手はじっくりと渉の腰を撫で、きっちりとベルトの下に収められたシャツの中へ、もぐりこもうと蠢きだした。
 渉にもわかった。――これは、欲情している男の動きだ。
「ちょっと待ってください、友也くん」
 深く絡みあっていたキスをほどいて、渉は思わず友也を引きはがした。
 キスだけならともかく、これ以上はされるがままに流されるわけにはいかなかった。
 口の端から唾液を垂らしたままぼうぜんとしている顔をぬぐって、渉はじっと友也を見つめた。
「もしかして、あなた、私とセックスがしたいんですか?」
「そ、そういう言い方……」
 あまりにあけすけな言い方すぎたのか、友也がただでさえキスに紅潮していたほおを真っ赤にして、涙にうるんだ大きな目を眇める。あわてて首を横に振りかけて、――考え込むように固まり、そしておずおずと、うなずいた。
「……うん、そう。したい、です」
「どうして?」
 どうしてって……。
 いっそ赤子のように、すきとおって清純そうに見える目がじっと渉を見つめ返す。ほんとうに、心の底からふしぎそうに。まるで意味の通じないことを言われたように。ぽかんとした顔で。
「……すきだからしたいんだよ。わからない?」
「わかりません」
 渉はすげなく答えた。
 そんなふうに、当然のことのように言われたってわからない。
 実感として渉には理解できない。キスも、体温も、友也の舌の感触も、愛らしい顔も、なにひとつ――渉の欲望にはむすびつかないからだ。
 とくべつに友也だから、肉欲を刺激されないというわけではなかった。これまで渉は、だれにも、なににも、欲望を感じたことはない。ずっと幼いころからそうだった。それが渉にとってのあたりまえだった。
 友也と恋人という関係になってからも。
「私は、キスもセックスも、したくありません」
 長いキスにほてったからだを持てあましている友也とは対照的に、渉のからだは醒めている。
 あたまは熱に浮かされることもなくふだんどおりに冴えわたっているし、からだが反応しているわけでもない。
 自分と渉の温度差に気が付いた友也ははっと息をのんで、とてもショックを受けた顔をした。
 あまりにわかりやすい子だ。こんなときだというのに、かわいそうになって苦笑いしてしまいそうになる。
 きっと渉が中途半端にキスを受け入れたりしてきたからいけなかったのだ。
 友也の中で、「好きな人」とは手をつないで、ハグをして、キスをして、そしてそのあとはきっとセックスをするのが「あたりまえ」なのだろうから。それが友也が望んだ恋人という関係だったのだろう。
 渉の「したくならない」という言葉を、ちょっと欲求が薄くて慣れていない、程度に考えていたにちがいない。
 そして、いま、ほんとうにひとつも生理的な反応を見せていない渉のからだを前にして――ひどく傷ついた。
 少しも興奮していない渉が、これまで友也に付き合っていたことにやっと気が付いて。
 渉がほんとうに、これっぽっちも、「したくない」のだということを知って、落ち込んだのだろう。
 わかりました、と渉はあえて友也に微笑みかけた。
 友也のちいさな手を取って、スラックスから引き出したシャツの中へ導く。
「べつに、してもかまいませんよ」
 汗ばんだやわらかなてのひらはびくっとふるえて、あわてて渉の乾いた肌から距離を取った。
「けれどそれは、私にとって『かまわない』以上に意味を持ちません。友也くんはそれでも私とセックスがしたいですか?」
 意地の悪い言い方だとはわかっていた。
 したいわけじゃない。けれど、あなたが望むのなら。
 そういう言い方をすれば、きっと友也は断る。友也の性格からして、渉の欲望を伴わないままにからだをつなげても、きっとあとでああだこうだと考えては後悔をするだろう。
 そうなるくらいなら、と、みずからの欲望も、都合も、おさえこんでしまうような子だ。
 だからいっそ――それでもいいからどうしても渉のからだがほしいのだと彼が言うのなら――友也にならば、それくらいなら、いくらでもあげてもいいと思った。
 シャツの下にひきずりこまれたままの少年の手が、おずおずと胸に触れる。
 とくん、とくんと平常どおりの速度で鳴る心音にしばらく手を当てて、そしてそっと引き抜かれた。
「……しない。……ごめん、あんたの気持ちも考えずに先走って」
 友也はやはり首をふって、渉からすこし距離を取った。
 傷ついた顔で目をそらすその顔に、自分からそう導いたにも関わらず、渉はほんの少し、後悔をした。
 失敗した、と思ったのだ。
 友也はずるい。
 以前友也は、一度きりしかチャンスがないことはないと言った。
 失敗すれば即アウトなんてことは、そうないのだと。
 ――けれどその一回が当たってしまったら?
 一度きりのその失敗を、渉が引き当てないとは限らないのだ。むしろ、渉だからこそ最悪のその選択肢を選んでしまうことだって、大いにありうる。
 そうなったら、そうしたときは――どうすればいいのだろう。
 黙り込んでしまった友也を前に、渉のほうがいっそ途方に暮れてしまう。
 こんなときこそべらべらと回る口で挽回できればいいのに。なんと言えば彼が機嫌を直してくれるのかがわからない。きっときょうは、キスをしたっていつものようには笑ってくれないだろう。
 それに、こんなに手もつなげないほど遠くに居られては、そもそもそれもままならない。

 渉がどうすればいいのか、友也は教えてくれない。
 きっとそれは、「思うとおりにしてよ」と――そう言った通りに友也が思っているからだ。
 渉の思うとおりに。
 ほんとうにずるいのは、渉のほうだ。
 渉には友也が求めるものを返してあげられない。——彼が欲しがっているものを、渉はどこにも、ひっくり返してさかさまにしたって、持ち合わせていない。
 そのことをよくよくわかっていながら、なかば確信すらしているくせに、友也にそれをひみつにしている。
 ほんとうに彼のことを思うのなら、私はあなたの理想の恋人ではいられませんと誠実に告げて、ただの先輩と後輩の関係に戻るべきなのだ。
 そんな簡単なことが——これまで渉が何度も何度もやってきたことが、できないままでいる。前と同じの、気安い仲に戻れるならいい。けれど一度くちびるのやわらかさまで知った相手に、友也はそんなふうな態度はきっと取れないだろう。
 一心に渉を映していたひとみをだれか別の人に向けて去っていく友也を、ぽっかりとわずかにちいさいひとりぶんの空虚が空いた自分の人生のことを思うと——まだ渉は、その選択をできないでいる。
 ——いつか、彼がこのことに気が付いてしまったら、どうすればいいのだろう。
 求めたものが返されないと気づいて、友也が去ってしまったら。
 彼が差し伸べてくれた手からはじまったこの関係があまりに心地よすぎるから――そうなってしまったとき、渉には耐えられる自信がない。










「友也くぅ~ん! ほらほらここです! あなたの日々樹渉ですよ~!」
「でっ、でかい声で呼ぶなぁ!」
 イルカプールのふちに仁王立ちして大きく手を振れば、友也はおもしろいほどムキになって叫び返した。ばかな子だ。だまっていればだれが「ともやくん」なのだか、ほかの観客にはわからないだろうに。そういうすなおで扱いやすいところは、はじめて出会ったころから変わらない。友也のそんなところを気に入っていた。
 春が近づいた、晴れた日のイルカスタジアム。『それじゃあ、イルカさんとタッチしてみたい人はいるかな~?』というおねえさんのアナウンスに元気よく返事をした渉は、その体格と声と容姿と服装と……とにかくなにもかもで目立っていたこともあって、無事イルカさんとタッチできる権利を得られた。数人の幼いこどもたちに混じって。
 いささか場違いにも感じる、しかし妙になじんでも見える渉の姿に、観客席の全員が釘付けのようだ。
 やはりいい。日々樹渉はこうでなくては。
 友也は顔を真っ赤にして、ふたりで座っていたうしろのほうの席でちいさなからだをさらに小さくして縮こまっている。

 数か月ぶりのデートだった。
 単純に、仕事に大学にと忙しくするふたりの予定がしばらく合わなかったのだ。
 そうだと思う。きっと。
 あれから――渉が友也のセックスを拒んでから、メッセージアプリで何度もやりとりをしたし、すこし時間のあるときには通話だってした。まるで、性生活になんの問題もない「ふつうの」カップルのように。
 友也は、内心になにか引っかかっていることがあるのを隠しながら、いままでどおりのなんでもないやりとりをできるほど器用な男ではないから――きっと浮気をしたときだってすぐにバレてしまうタイプだろう――今日まで顔を合わせることがなかったのは、だから、きっと単に予定が合わなかっただけなのだ。
 久しぶりにオフの連絡を寄こした友也が提案してきたのは、つきあいたての恋人が行くような、ごく定番のデートスポット――都内の有名水族館だった。

 暦の上では春とはいえ、まだまだ気候は真冬だ。海のすぐそばに建つ水族館は、平日の午前中ということもあってか人影もまばらで、うす青い館内をのんびりとふたりで歩いた。
 友也は館内の細やかな展示物までじっくり見るタイプのようで、世界中の海や海のいきものの解説を、ときおり冗談を交わしながらゆっくりと読んでまわった。
 エスカレーターの前に開設されていた記念撮影コーナーではふたり並んで撮ってもらって、渉はすぐにそれを携帯のホーム画面にしてみせた。fineの皆に見せてやろう。友也はしばらくうーうー照れているようだったが、迷った末、となりに立つ渉がほんのちらりと映った自分の笑顔を、メッセージアプリのアイコンに設定していた。
 出口の手前にあったミュージアムショップで、お互いユニットや家族へのおみやげを買っているとき。渉はふと見つけたそれを手に取って、友也の前でゆらゆらと揺らして見せた。
「見てください、このまんまるの顔! 友也くんみたいですね」
 白いアザラシのぬいぐるみがついたストラップ。ふわふわで、ビーズでできた目がくりっとしていて、ちょこんとしたまるっこい眉がどことなく友也に似ていた。
「丸かったら全部俺かよ」
 友也はおかしそうに笑って、同じシリーズのストラップやぬいぐるみが陳列された棚を覗きこんだ。
「俺がそいつだったら~、日々樹先輩はどれだろ」
「シロクマはどうですか?」
「なんで? 似てないよ。ずんぐりしてるし」
「シロクマはアザラシを食べるので……☆」
「……うーん、ここにはいないかも。あんたみたいなやつって。なんか新種のタコとか、すごい光るヤツとか?」
 でもこういうのは好きそう、と蛍光色で彩られたウミウシのガラス細工を指す。たしかにそれは渉好みの、派手でどこか品のある置物だったので、うちへの土産物に購入するかどうか本気で悩み始めた渉を、友也は「持って帰る途中でめちゃくちゃして割るなよ!」と小突いた。
 渉は、つとめてはしゃいでみせた。
 友也にばれてはいなかったと、思う。というか、渉が本気で「こう見せよう」と思ったことを見透かせる人間なんて、ほとんど存在しないのだ。……目の前の、その「ほとんど」の代表みたいな顔をした後輩は、どうしてだか渉が気づいてほしくないタイミングで気がついてしまうようだけれど。



 水族館を出ると、昼を少し過ぎたころだった。ふたりは海沿いにあるカフェでサンドイッチとあたたかい紅茶をテイクアウトして、砂浜沿いのコンクリートの砂を軽く払い、腰かけた。
 海からはつめたい風がときおりびゅうと吹くので、人の姿はまばらだ。
 渉はストレートで、友也はミルク入りで。ふうふうと紅茶のカップを冷ましながら、いま見たさかなや海獣たちが、くろぐろとして見えるこの海のどこにいるのだろうかと話した。渉は訪れたことのある諸外国の海の様子を思い出し、目の前に浮かぶかのように情景を彩っておもしろおかしく語ってみせた。
 サンドイッチを食べ終わって紙ナプキンで手を拭っていると、「手出して」と促されて、渉はいったいなんだろうとわくわくとしながらてのひらを差し出した。ほんの一瞬、キスだったらどうしましょうね、と思いながら。
「はい」
 てのひらに落とされたのは、鍵だった。
 真新しい鍵に、渉がしきりにかわいいと言っていたあざらしのストラップがころんとくくりつけてある。
「なんですか?」
「早めの誕生日プレゼント」
 首をかしげる。たしかに今月の下旬には、渉の誕生日がある。
「俺……来月成人して、寮を出るだろ」
 その話はすこし前から聞いていた。星奏館にはとりわけ年齢制限といった規則はないが、成人したアイドルは寮を出ることが多い。渉自身、成人した春に一人暮らしをはじめた。――そして友也の卒業祝いに家に招いて、この関係がはじまったのだった。
 あれからもう、二年になるのか。
「新しい家の鍵です。あんたにあげる」
「私に渡してもいいんですか?」
「どういう意味?」
「いえ……」
 しまった。言葉をまちがえた。
 心の中でくちびるを噛む。
 余計なことを。せっかく、きょう一日を楽しく過ごしたというのに。こんなことを蒸し返して友也の気が変わってしまったら。
「……こないだのことは、謝らない。俺も、あんたも、悪くないだろ」
「そうですね」
「でもだからって、あんたのこといやになったりしないから」
 友也の目は、じっと海の向こうを眺めて、そしてふりかえって渉の目を見た。
「……きょうさ、俺は楽しいけど、日々樹先輩はどう?」
「もちろん! 楽しいですよ」
 本心だった。つとめてはしゃぐようなそぶりをしてみせたのもほんとうだが、友也と久しぶりに過ごす時間を楽しんでいたのもうそではない。
 友也だって、それくらいはわかっているだろう。たとえ渉がきょう一日自身をどう見せようとしていたのか、悟っていたとしても。
「俺、いろいろ考えてたんですよ。こういう順番で回って、ショーを見て、って」
 照れくさそうにほおをかく。一瞬、飴のようにとろけそうな大きな瞳が気まずげにそらされた。
「……このへんで、手を握りたいな、とか」
 それは悪いことをした。渉は存分に好きにふるまっていたから、とても手をつなぐ隙などなかっただろう。
「あんたはどっかいつもより静かで、かと思ったら見ず知らずの子どもと一緒にイルカショーに出たりなんかしてて、めちゃくちゃで……ぜんぜん思ってたとおりにはいかなくて」
 はしゃぐ渉の様子を思い出してか、幼い顔がくすっとはにかんだ。
「でも、楽しかった」
 それとおんなじですよ。
 あんたがどんなふうに日々樹渉であろうとしたって。
 俺は勝手に、あんたのこと見て、かわいいな、ああ、好きだなって、思うだけ。
「俺、前に言っただろ。いやなときはいやだって言うって」
 渉は黙ってうなずく。忘れるわけがない。二年前のあの日。「取り繕わないでいて」と、友也が言ったときのことを。
「それってあんたも同じだよ。いやだったら、いやだって言ってください。それでどうしても譲れないことだったら、話しあいましょう」
 人間ってさ、ちがうから、わかりあおうとしなきゃわかんないんだよ。でも、ちがうからきっと好きになったり、こんなに大切に思ったりする。
 俺は日々樹渉じゃない。真白友也です。「それでよかった」って、思ってほしいよ。
 あんたのことが好きで、そばに居たいんだから。
 友也はふう、と大きく息をついて、じっと渉をみつめていた目を、照れたように海のほうへ向けた。
 渉は思う。
 ――友也くん、教えてください。
 ――どうしても譲れないことで、話しあって、そして結局決裂したなら、それって……あなたのいない日々を、私は過ごさなければいけないってことですか?
 けれどそれは口には出さずに、渉は笑ってみせた。
 あの日と同じに。
 時間稼ぎをするために。
「……友也くん、私のことかわいいって言いました?」
 そこかよ? と笑って、友也はまた渉のほうを向いてくれた。



 性的欲求がだれにも向かないことを、友也のことを大事に思っていても、キスをしたりセックスをしたりしたいとは思わないと話すと、
「……そっか」
 と友也はただひとこと、あいづちを打った。
「あなたが男だからとか、友也くんが嫌いだからとか、そういうことじゃありません。ただ、誰にも……なににも、興奮しないんです。それが私といういきものなんです。だから、友也くんがそういうことをだれかとしたいのなら——」
「だれかじゃダメなんだ。あんただからしたいんだよ」
 それじゃあますます困るのだ。だって渉には応えられないのだから。
 困った顔をして、めずらしくも言葉に詰まった渉に、ぽつぽつとやわらかであたたかい声がそそぐ。
「俺も、あれから……いろいろ考えて。調べたりした。『したくない』って言った、あんたの気持ちのこと。ネットとかは見てもよくわからなかったし、俺は……その……したいから。どういう気持ちなのか想像つかない。わからないよ。ごめん」
「そんな」
 友也が謝ることではない。渉が悪いことでもないが、自分のほうが少数派なのだろうことはわかっている。一般的には、友也の感じかたが「ふつう」なのだろう。
 けれど、この子はふつうで、ふつうすぎて、ふつうじゃないから。
「でも……あんたがしたくないなら、無理させたくない」
「やろうと思えばできますよ?」
「だからさー、そうじゃないんだってば」
 あきれた顔で大きくため息をついて、もう、と咎めるようなデコピンが飛んできた。
 ぺちん、とはじかれた額に冬の風が吹きつけて、ひりひりする。
「……あんたはそういうことしたくないけど、俺と付き合ってくれる。それでいいんだよな?」
 こくんとうなずくと、ほっとしたような顔がうれしそうに笑った。
「じゃあ、俺もそれでいいよ、渉」
 友也ははじめて「渉」と呼んで、風でほおに張りつく髪をそっとよけて笑ってくれた。
 渉も笑った。
 どこかかけちがったかもしれないボタンを、見て見ぬふりをして。











「そろそろ、結婚しませんか」
 ……おれたち。
 高級ホテルの最高層にあるレストラン。ドレスコードの決まったディナーコース。緊張してせっかくのディナーも喉を通らず、渉が子ども舌にあわせて選んでやったワインにもあまり口をつけていない様子の恋人。
 渉の二十七の誕生日に誘われたデート。
 ありとあらゆる要素がたった一つのシチュエーションを表していたというのに、その言葉を聞くまで、悔しいことに渉は一切思い当りもしなかった。
 まさか、彼がプロポーズをするだなんて。
 この日々樹渉に!
 こんなにもベタすぎて使い古されたと言っていいほどベタななシチュエーションを選ぶあたりは、いかにも友也らしい。
 気がつけば、彼と出会ってからすでに十年が過ぎていた。
 一年目。渉は泣き叫んで逃げる友也を追いかけ回し、その心が渉への恐怖と怒りでいっぱいになっていることにいたく悦に入っていた。
 二年目。渉がきまぐれに見せたたった一度の涙でなにかを勝手に納得してしまった彼は、ずいぶんと以前よりも打ち解けた態度で渉の周囲をうろちょろとするようになった。
 三年目。「あんたが好き」といじらしく渉にすべてを明け渡そうとする友也に、渉自身は友也に恋などしていないことをあいまいにごまかして、彼のとなりにいる権利を得た。
 いつ彼が渉の欺瞞に気がついてしまうかと毎年、毎月、毎日思っていた。いつ渉から離れていくのだろうと。
 それなのに、友也はどうしてだか渉のそばに居続けて、居続けて、ときおり怒ったり泣いたり、笑ったりして、そしてもう十年になる。
 あまつさえ「結婚しませんか」などと言う。
 だから――渉は油断していた。いや、甘えきっていたのだ。友也に。
 ぶっきらぼうにプロポーズの言葉をつぶやいて、友也は真っ白なテーブルクロスの上に上品な黒いベルベットの小箱をすべらせた。十年前よりもずいぶん大人らしくなった指が蓋を開く。シンプルで、品のいい指輪だった。この十年でアイドルとしてだけではなく若手俳優としての地位も着々と築いてきた友也にしても、安い買い物ではなかっただろうと容易にわかった。
「けっこん……」
 らしくもなく、つくろえなかった迷子のような声が漏れる。ついさっきまで、友也のべたべたのデートコースをからかってはしゃいで、いつもどおりの日々樹渉でいられたというのに。
 友也の言う「結婚」とは、単なる同棲や、パートナーシップなどとはきっと違うのだろう。
 良くも悪くも「ふつうの」子だから。きっと彼は、渉とともに婚姻届を出して、新しく家族になることを望んでいるのだ。
 ――どうして?
「どうして……友也くんは、私と結婚がしたいのですか」
「そんなの、渉が好きだからに決まってる」
 まっすぐにすきとおった甘い色の目が渉を見据える。
 ほら、またこの目だ。「そんなの決まってるだろ」と言いたげな、子どものように信じ込んでやまない瞳。
 渉を好きだと言ったときも、セックスがしたいと言ったときも。たった一度の失敗でダメになったりはしないからと、そばにいるために――お互いのちがうところをすりあわせていこうと言ったときも、彼はこんな目をしていた。
 渉にはわからない。
 恋とはいったいなんなのかも。どうして彼がこんなに純粋な目で自分の中にあるだれにも見えないそれを信じ込んでしまえるのかも。
 渉を好きだと、好きだから結婚したいのだと、どうしていちたすいちを解いてみろと言われたみたいに当然のこたえとして導けるのかも。
「私は好きじゃありません」
 気が付けばくちびるから言葉が漏れていた。
 次に発する言葉をあたまで思い描くより先に、音になってしまうのはめったにないことだった。
 緊張しつつも、どこか期待していた友也の表情が固まった。
「最初に言っておいたでしょう? 私はあなたのことは好きじゃありません」
 そうだ、たしかに渉は言った。「私にはわかりません」と。それ以来、友也に恋をしていると、明確に口にしたこともない。
 けれどきっと友也は誤解していただろう。渉が――たとえキスを、セックスを拒んだとして、友也に恋心を抱いていることにはちがいがないのだと。
 だからそばにいるのだと。
 はい、と言って、うなずいて、感極まった顔で友也を抱きしめたりさえすれば、すべてがうまくゆくのだとわかっていた。
 友也が抱いている誤解の糸をほどかないまま。見て見ぬふりをして。ほんとうは恋などしていない都合の悪いことはだまっておいて。
 ——だけど、「取り繕うな」と、彼が言ったから。
 あんなにも得意だった自分のありかたを歪めることが、すこし下手になってしまったのだ。
 渉には人の気持ちがわからない。
 掌握はしていても、共感などできないのだ。なにをすれば怒られて、怒鳴られて、泣かれるかは理解していても、自分が放ったどんな言葉がどんなふうに相手を傷つけるかがわからない。
 けして傷つけたいわけではなくたって。
「……そうかよ」
 友也は一言言って、差し出していた指輪をぞんざいな手つきでスーツのポケットに仕舞いこんだ。
 それからはなんにも、たったの一言も話さず、デザートがやってくるのも待たずに席を立って振り返らずにレストランを出てゆき、そしてその夜、戻ってくることはなかった。



「……なにしてんの」
「ああ、おかえりなさい!」
 翌日、渉は友也のマンションにいた。
 きのう、あれから自宅に帰って、考えた。
 渉は友也に恋をしていない。結婚だってしたいわけではない。友也と家族になるだなんて考えたこともなかったし、渉が知っている「家族」は、両親と真白家くらいだから、友也とどんな関係を築けるのか、想像だってつかない。
 けれど悪い気持ちではなかった。
 たぶん、彼が考えているのは、一緒に暮らして、生活をともにして、朝ねぐせを直してやりながら一緒にはみがきをするような、そういう生活だろう。それはきっと、渉も楽しい。
 だから友也がそうしたいなら、結婚することくらいならいくらでも付き合ってやろうと、渉は思った。
 昨晩は渉の言葉選びがまずかったからか、そこまで話す時間を与えられなかったが、恋などしていなくたって婚姻はできる。
 だから、友也が望むなら、婚姻届でもなんでも書いてやろうと思ったのだ。
 その話をするために午前中に訪れたのだが一日オフのはずの彼の姿はどこにもなく、しかたがないので十二時間もかけて仕込んだデミグラスソースでオムライスを作ってやることにした。
 ほとんど真夜中近くになってやっと帰宅した友也は、出迎えた渉の姿を目にすると靴も脱がないまま固まって黙り込んでしまった。
「昨日の話が途中だったでしょう? だから、あらためてきょうゆっくり話そうと思いまして。婚姻届を出すならまずは事務所と、英智に報告ですかねぇ。同姓にするか別姓にするかも問題ですし。あっ、友也くんもう夕食は摂りました? 私、せっかく忙しい合間を縫って朝からやって来たというのに肝心なあなたがどこをほっつき歩いてるのかいないものですから、ひまでひまで仕方がなくて。これまでで最高傑作のソースを作ってしま——」
 かつん、とするどい音が渉のとめどない言葉を遮った。
 友也が、ポケットから取り出した指輪の入った小箱を床に投げ捨てた音だった。
「なにしに来たんだよ」
「いえ、だから」
「俺のこと笑いに来た?」
「……友也くん?」
 友也はうつむいて、きつく両手を握りしめている。
「あんたの恋人になれたって勘違いして浮かれてプロポーズまでしたバカみたいな俺と、これ以上なにを話すって言うんだよ」
 渉は、いま、やっとわかった。
 友也はひどく傷ついている。
 渉が友也に恋をしていないということを知って。
 恋ではない、恋をできないことがばれてしまったら、どうすればいいのだろう、とずっと思っていた。それで友也が離れてゆくのがおそろしかった。
 けれどほんとうは、なにもわかってなどいなかった。渉から泣いて叫んで逃げ回ったって、「訴えてやる」とあらゆる語彙で罵ってきたって、友也はいつだって、そばにいたから。
 そばにいてくれたから。
 だから、――結局、恋をしていなくたってそばにいてくれるのだと、甘えていたのだ。
 よくよく見てみれば、友也のからだからは強い酒のにおいがした。身なりも最低限取り繕ったという感じで、一日中外をふらふらと飲み歩いていたのか、とてもアイドルだとは思えないような恰好だ。
 渉が、「あなたを好きではない」と言ったから。
 それでこんなに、自暴自棄になるまでに傷ついている。傷つけてしまった。渉が。渉の言葉が。渉が、彼が際限なく受け入れてくれるのをいいことに寄りかかって取り繕うことをせず、あるがままに言ったから。
 これでは十年前とおなじだ。なにも変わっていない。
 あの日。友也を倒れさせた日。彼は、真白友也は日々樹渉ではない――だからそばにいてはいけない。渉のありかたは、彼を傷つけるだけなのだから。そう思い知らされた日。
 でも――だって、あなたが言ったんですよ。
 どうしても譲れないことだったら、話し合いましょうと。
 そう思えるほど私のありかたを大切にしてくれたのは、他でもない、ただひとり、あなただけだったんです。友也くん。
「わかんないよ」
 友也はすべてをなげうつように大きな声を出して叫んだ。
 濡れた声がかすれている。
「俺に恋してくれたから、そばにいてくれるんだって思ってた。キスもセックスもなくても、あんたの気持ちは俺にあるって」
 友也は、部屋の広さがセキュリティがとしきりにせっついても「立地が気に入っているから」とはじめて一人暮らしをはじめた部屋にいまだに住み続けている。成人したての頃に契約をした1LDK。大した防犯設備も、防音設備もない。
 ああ、おとなりさんには聞こえてしまっているでしょうね。と渉は思った。
 まちがいなく、いまこの状況からの現実逃避をする思考だった。
 この日々樹渉が。
「だから……同じ気持ちだって」
 フローリングから上がってきた冷気がつま先にじわじわと染み込む。あたたかいボアのルームシューズを通して、真冬の温度が渉をはしっこからすこしずつ支配していく。友也が、ふたそろい、買ってきたものだった。「あんた、寒いのすきじゃないだろ?」と。うさぎのアップリケがついた、ふわふわのルームシューズ。
「恋なんかしてなくて、性欲もないなら、あんたにとっての俺って何だ? 何だよ?」
 そのくせ結婚?
 はっ、と友也の顔が露悪的に歪む。
 見たこともない顔だった。
「同情で結婚なんかされたって俺はうれしくない」
「同情なんかじゃ——」
 渉ははっと口をつぐんだ。
 友也は泣いていた。
「あんたに俺の気持ちはわからない」
 そうだ。渉に友也の気持ちはわからない。なにひとつ。
 だけど、だから、教えてくれると、あなたが言ってくれたんですよ、友也くん。
「出てってください」
「友也くん、待ってください、」
「出てけ!」
 渉に人の気持ちはわからない。
 どうすればよろこんで、どうすれば激昂するのか、理解はしていてもわからないのだ。
 わからないから、どこまでだって無神経になれる。残酷になれる。
 そのことを忘れていた。彼といるうちに。
 ――ああ、とうとう一回きりが当たってしまった。



 これまで喧嘩のあともあった友也からの連絡は、こなかった。
 いつも先に歩み寄ってくれたのは友也だったから、渉は自分からなんと送ればいいのかわからず、何度か『会いたいです』『時間を取ってもらえませんか』と送ったきりで、それも無視をされてしまうといよいよどうすればいいのかわからなくなった。
 そうして途方にくれているうちに仕事が忙しくなって、数週間、数か月と時間が経っていった。
 どうせいつものことだ。
 人の気持ちがわからない渉は幼いころから周囲から浮いていて、打ち解けると元来の無神経さが表に出てくることもあわせて、少し話せる友人ができてもすぐに怒らせたり、傷つけたり、怖がらせたりして長く関係が続くことはほとんどなかった。いまでも交流が続いているのは、それこそ高校時代に出会った友人たちくらいのものだ。
 友也とも、このまま終わるのだろうか。
 どうせいつものことだ。
 くりかえし言い聞かせている自分が愚かだった。
 何度も何度も自分に言い聞かせるということは、まだ割り切れていないということだ。
 いつまでも返事が来ないのを待つのがおそろしくて、友也とのトークの履歴も一覧から非表示にしてしまったというのに。
 あの子は、あんな一世一代みたいな顔をしたプロポーズのあとで、だれかとつきあえるような男ではない。
 だからきっと、しばらくのあいだは大丈夫だろう。
 「大丈夫」――友也はまだ渉に恋をしたままだし、ほかの誰とも人生を分かち合おうとはしない――しばらくのあいだは。渉がつけた傷が癒えるまでは。
 ――自分が友也の孤独を「幸運」だと捉えていることに吐き気がする。返せもしない恋心を抱かれることに困惑していたというのに、それが他人に向けられることにもひるんでしまう。
 恋にはかならず終わりがある。だからおそろしい。
 いや――ほんとうはかまわないのだ。友也が渉以外の、だれに恋をしても。だれと人生を共にしても。
 ただ、渉のそばにいてくれれば。
 でも、友也くんは、私のことが好きではなくなったら、もういいんでしょう。
 恋人でも、配偶者でもない人間のそばに、これまでとおなじ温度で感覚で、友也が居続けるとは思えなかった。渉のこれからの日々に彼がいないことを思うと、どこか目の前にぽっかりと穴が空いたような気がした。そこへいちど足をすべらせて落ちてしまえば、落ちて、落ちて、もう二度と戻ることはできないのだ。
 友也がいなくなったって、渉の人生は続くだろう。
 あらゆる人々に愛を、驚きをふりまいて、それはそれはおもしろおかしい人生が待っているだろう。
 友也がとなりにいなくたって、渉は楽しく生きていける。
 それでも、知ってしまった。となりに彼がいることのあたたかさ。目が合って、ふんわり笑った顔のいとおしさ。渉の言葉に笑って、あきれて、ときには怒って、歩幅のちがう歩みに置いて行かれそうになって、それでも友也は渉のそばを歩こうとしてくれた。
 これは恋ではない。恋と名付けられるような、自分が自分でなくなるほどの衝動も、焦がれる気持ちも、欲望も、なにひとつ抱いてはいない。
 これは恋ではない。それでも。



 インターフォンを押してから、しばらく沈黙が続いた。
 ピンポーン、ともう一度慣らして、待つ。
 友也は自宅にいるはずだ。きょうは彼のマネージャーに頼んで教えてもらったオフの日だった。駐車場にはいつもどおりオレンジ色の軽自動車が停まっていたし、最近は飲み歩くのもやめて、もっぱら自宅に引きこもってばかりいるようだとマネージャーは話していた。事前に連絡もしていないから、渉を避けて出かけるようなこともできないはず。
 ピンポーン。もう一度。沈黙。
 渉は玄関ドアをノックして、「友也くん」と声をかけた。
「友也くん。私です。開けてもらえませんか」
 十秒。二十秒。三十秒。無意識に数を数えて、そして一分が経ったころ、インターフォンがかすかにノイズを立てて応答した。
『……なに』
「ここの鍵を返しに来ました」
 マイク越しにでも、はっと息を呑む音が聴こえた。
「郵便受けにでも入れておけ、だなんて悲しいことは言わないでくださいね。最後にあなたの顔が見たいんです」
 友也はしばらく黙って、そしてインターフォンの応答が切れた。渉はただ、黙って待つ。
 ドア越しにかすかな物音がしたあと、玄関ドアがチェーンをつけたままわずかに開いた。
 そこから手が伸びている。パーカーから覗く手首は――少し痩せただろうか。十年前の、骨ばった少年の鋭利さと幼い子どものやわらかな曲線を持ちあわせていたちいさな手は、すっかりおとなの男性のそれになった。まだ渉よりは、ひとまわりほどちいさいけれど。
 その手が、てのひらを差し出して、待っている。渉がこの部屋の鍵を返すことを。
 手首など指が簡単にひとまわりしそうなその手を――渉は掴んだ。びくっとふるえた指に指を絡めて、手をつなぐ。
「な……」
「これで最後にします」
 弱弱しく内へ引っ込もうとするそれをぎゅっと握って、渉は口を開いた。
 そう、これで最後にしよう。友也へ渉の都合を押しつけるのは。それがだめなら。
 友也との重ねてきた時間を、感情を、切り離して脱ぎ捨てて生きてゆけばいい。
 これまでしてきたように。
 きっとそのほうが友也のためにもなる。彼は、彼がそうであるように、もっと愛情深くやさしい人と結ばれるべきなのだ。
 これ以上、友也を渉につき合わせるのは、きっと「かわいそう」なのだろう。
 そして友也にあわせて渉がその在り方を変えるのも、きっと、「かわいそう」だ。
 ふたりは一緒に生きていくために、ぴったりとかさなりあう、正しいかたちをしていない。ひとつになるための片割れではない。
 陸のいきものが海では生きていかれないように。海のいきものが、陸では死んでしまうのとおなじに。
 それでも、最後に一度だけ、チャンスがもらえるのならば。
「あなたは私の特別ではありません、友也くん」
 だれか、たったひとりのだれかを自らのいちばんに据えること――その人への焦がれる気持ちに心をゆさぶられることを恋と呼ぶのなら、やはり渉の中には恋心は存在しない。友也は渉のいちばんにはなれない。友也だけではない、ほかのだれも。だって渉は人を、あらゆるひとびとを愛しているからだ。
「ごめんなさい。私はだれにも——あなたにも恋はできない。やっぱりわからないんです。自分が自分でなくなるほど焦がれる気持ちも、想いを返してほしいと切望することも」
 追い打ちをかけるような、身勝手で残酷なことを言っているのはわかっていた。
 黙ったままの友也の手に、ぐ、と力がこもる。
「それでも!」
 それをきつく握りしめることで引きとめて、渉はいっとき声を荒げた。
「……それでも、そばにいたいと思います。ほかの誰でもなく、あなたのそばに。恋ではなくても。あなたを愛しているから」
 そうだ、渉は、彼を愛している。
 あらゆるひとびとを愛しているのとおなじに。
 そしてもし、だれかが人生のとなりにいてくれると言うのなら、それは――渉は、友也がいい。
 ずっと、あれから、「思うとおりにしてよ」と言った友也の言葉を、宝物のように心にしまいつづけているのだ。
 恋心という水の満ちる海で生きている友也は、渉のいる陸へ上がれば息ができずに死んでしまうのかもしれない。
 そんな水から酸素を取り入れるすべを持たない渉も、友也のいる海へ潜ってもきっと生きてはいけないだろう。
 それでも――となりにいるすべがあるのだと、信じたかった。
 ふたりが共にあれる場所が、波打ち際が、ここにあると。
 そうして一緒にいようと、友也が教えてくれたから。
「これが私のすなおな気持ちです」
 渉は友也の望むものを与えられない。
 きっと、おそらく、死ぬまで。
 渉が言っているのは、枯れると知っていながら鉢植えのばらに水をやらずに殺してしまうのと同じことだ。
 残酷なことだ。
 けれど——この手で殺してしまうことを知っていてすら、ここにいてほしかった。
 だって、友也が言ったのだ。
 ——人間ってさ、ちがうから、わかりあおうとしなきゃわかんないんだよ。でも、ちがうからきっと好きになったり、こんなに大切に思ったりする。
 ——俺は日々樹渉じゃない。真白友也です。「それでよかった」って、思ってほしいよ。
 友也くん。あなたが日々樹渉ではなくてよかった。あなたが私に恋をしてくれて、よかった。
 私はあなたに恋はできないけれど。
 あなたの焦がれる気持ちや、熱くくするぶる欲望には応えられないけれど。
 あなたを愛しているのです。
 こんなに、こんなにあなたの存在がわたしの中であまりに大きく息づいているほどに。

「……あんたは俺を愛してるの」
 ちからなくだらりと下がった手を握りながら、かすれて震える声に応えて、渉はうなずいた。
「ええ」
 あなたを愛しています。
 あまねく人類を愛しているのとおなじに。
 つめたい指先に渉の体温が移ればいいと思いながら、そっと両手を添える。
「そばに……いたいの?」
「あなたが許してくれるなら」
 そっか。と一言つぶやいて、それきり友也はだまった。
 かちかちと金属のこすれる音がして、ドアのチェーンが外される。
 開いたドアの向こうで、部屋着のままの友也はやつれた顔でうつむいている。
 深く、深く息を吸いこんで、そしてひとつ大きな息をついた。吐く息はどこかうわずって、ふるえていた。
 ぽたぽたと玄関に濡れた染みが落ちる。
「……じゃあ、いいや」
 しばらく鼻をすすって、そうしてやっと顔をあげてくれた友也は、泣きながらおかしそうに笑っていた。


 なかなか涙が止まらない友也をソファに座らせ、ひとまずは落ち着かせようと冷蔵庫にあった期限ぎりぎりの牛乳でホットミルクを作って戻ると、いつのまにか友也は席を外していた。
「友也くん?」
 トイレかと思っていると、泣きはらして目元を赤く腫らしたままの友也がひょこ、とリビングに顔を出した。
 手には、あの指輪の小箱が握られていた。
 今度は渉がはっと息を呑む番だった。
「あの日放り投げてから、ずっとあそこにほったらかしで」
 まだいたましい鼻声のまま、ばつが悪そうに友也が笑う。
「……受け取れません」
「わかってる」
 しずかにつぶやいた渉に、友也は軽い調子でうなずいた。
 渉の手元のマグカップに気が付いて、ホットミルクだ、とうれしそうにはにかむ。
 厚手のマグカップを受け取って、それと引き換えに黒いベルベットの小箱が渉の手に渡った。まるで人質にするみたいに、あるいは取りすがるように、友也は湯気の立つあたたかいマグカップを両手でつつんでいる。
「いいんだ。受け入れてほしいってことじゃなくて……ただ、渉が持ってて」
 ホットミルクをひと口飲んで、おいしい、とつぶやいた友也は、ぽろりと一粒涙をこぼした。
「友也くん、」
「これがあんたの愛の味?」
 涙でいっぱいになった大きな目で、けれど友也は笑っていた。
 なかなか寝付けない夜、いつも渉が作ってやったホットミルクだった。ミルクパンは使わずお手軽にレンジで軽くあたためる代わりに、はちみつと、ラム酒をほんのひとさじ溶かすのだ。友也は気に入っていて、ときおり、眠れない夜以外にもねだった味だった。
「つけなくても、大事にしなくてもいい。捨ててもいい。ただ俺の気持ちとして、いまだけ、持ってて」
 すん、と赤くなった鼻をすする。
「俺のエゴ。……これだけ、ゆるしてほしいんだ」
 渉は、手の中の小箱をしっかりと握りしめて、うなずいた。
 渉のエゴを受け入れてくれた友也への、これが精いっぱい返せる誠意だと思ったから。
 友也はにっこり笑って、またひとつぶ涙をこぼした。
 それはまだ、整理のつかない心のさみしさの涙で、だけどきっと、それだけではないはずだった。
 そう信じられた。いまの渉になら。










 「四十にして惑わず」とはよく言ったものだが。
 まさかこの歳になっても、こんなことでふたりあたまを突きあわせて悩むことになるとは思わなかった。
 渉は幾たびか世界的な賞を受賞し、四十を手前にした友也もテレビに映画に舞台にと見かけない日はないほど、世間にひろく名前を知られるようになっていた。いまでは「真白友也にあざといおじさんを演じさせれば天下一品」とまで言われるほどだ。
 そんなふたりだから、年に一度、取れるか取れないかといった、せっかくのそろったオフの日である。
「どこか行きたいところ、ある?」
 朝からいいおとながふたりで、うんうんと悩んでいるのがそこだった。
 せっかくのオフの日なので、家でゴロゴロするだけではもったいない。かといって、人の多い街へ買い物なんかに出れば、道中は車を出すからいいにしても、変装に長けた渉はともかくぼうっとした友也などすぐにバレてあっというまに人波に囲まれてしまう。
 そろってしっかりと朝食を摂り、はみがきをしてねぐせを直し、みじたくを整えてからはや一時間。出かけるのならば、そろそろ目的地を決めなければならない時間だ。
 しばらく考えて、「あの水族館はどうですか」と渉は言った。
 都内にもいくつか水族館はあるが、「あの」と呼べるほどふたりで行った場所はひとつしかない。友也が成人する年にふたりで訪れた、海沿いに建つ有名なデートスポット。
「もういいおじさんふたりが行くところじゃなくないか?」
 ええ~っ、と不満げな友也に、渉はにやっと笑った。
「おやぁ! 真白友也といえばかわいこぶったおじさん、は過大評価でしたかねえ? まあこの私は? いくつになっても日々樹渉ですので! どんな場所にもあっという間になじんで、かつ派手に目立って見せますが……☆ と、それはともかく、若いひとたちのデート以外にも家族や友人同士で来ている人はたくさんいますよ。それに……」
 それに、とはにかむ。
「あなたが、はじめて私を名前で呼んでくれた場所です」
「……そうだっけ?」
「そうです。よく覚えていますよ~。友也くんが、はじめて私を許してくれた場所ですから」
 ――人間ってさ、ちがうから、わかりあおうとしなきゃわかんないんだよ。でも、ちがうからきっと好きになったり、こんなに大切に思ったりする。
 あの日、彼が渉にくれた言葉。
 渉と友也は、ちがういきものだ。ひとつになるためにぴったりと重なるおうとつは持っていない。けれど。
「私、きっと、一生ずっとひとりきりで生きていくんだと思っていました」
 ええ、それもきっと、おもしろおかしくて楽しい人生だったでしょうね。
 だけど友也くん。
「だけど、友也くん。あなたがいてくれた」
 ちがういきものでも、そばにいることはできると――あなたがそばにいてくれると、そう教えてくれましたね。
 私がそのとき、どんなに苦しかったか――そしてどんなにうれしかったか、わかりますか?
「あのとき、友也くんが新しい部屋の鍵を私にくれたとき……そう思ったんです」
 友也はなにも言わない。
 ただ、目を見開いて、ぼうぜんとした顔をしていた。
 まるではじめて聴く音楽に心を打たれたひとのように。
「友也くん?」
「……ごめん」
「どうして謝るんですか」
「どうしてかな」
 どうしてだろう、と何度もつぶやく声は、次第にふるえて、かすれていった。
「ごめんな」
 うつむいた友也は、声をふるわせて泣いていた。どうしたんですか、友也くん、急に泣き虫さんになっちゃって、と渉がおどけても、泣きながら笑って、ぽたぽたとすきとおった涙の粒をつぎからつぎにこぼしていた。渉はいよいよどうしていいかわからなくなって、ねぐせのおさまったふわふわの髪をやさしく撫で、ただ彼を抱きしめた。
 少しのあいだ肩をふるわせながら泣いたあと、友也は渉の腕を離れて、リビングの棚の引き出しからあるものを取り出した。
 あの日、渉が受け取った指輪の小箱だった。
「とっくに処分したんだと思ってたのに、あんた、大事にしまいこんでるんだもんなあ」
 渉がそこへ指輪を保管していることを、友也は知っていたようだ。いや、彼から本気で隠そうと思っていたのならば、ほかにもっと隠し場所はあったし、ぜったいにバレない自信もあった。そこへ指輪を置いていたのは、渉なりのけじめと、そして後ろめたさの現れだ。
「友也くん、私は……」
「うん」
 うなずいて、泣いて熱くなった額がこつんとぶつけられた。歳をとって、もう四十に近い年齢だというのに、いまだにあどけない童顔がうんと近くで笑っている。
「うん。わかってる」
 いまだに涙をにじませる友也は、もしかすると、はじめて見るかもしれないような晴れやかな笑顔だ。
「そうじゃなくて、一緒に処分してほしいんだ」
 渉ははっと息を呑んだ。
 あの日、「処分したってかまわない」と友也は言ったけれど、そんなのは建前だと、なにより友也自身より渉のほうがよくわかっていた。
 この指輪は、友也の恋心だ。
 だから渉に持っていてほしいのだと。
 友也はきっと、恋をしない渉を許してはくれないだろうと――そう思っていた。だからせめて、彼から預かった恋心を、受け入れることはできなくても大切に懐にしまい続けることが、渉にとっての誠意だったのだ。
 恋をしないことを、ずっと許してほしかった。
 ――けれどほんとうは、恋をしないことをいちばん許せていないのは、友也ではなくて渉だったのだろう。
「恋じゃなくていいってわかった。あんたはずっと、俺を愛してくれてたって」
「……ゆるしてくれるんですか」
「許すもなにも! あんたは俺を愛してるんだろ?」
「……愛しています。ずっと。友也くんのことを」
「うん」
 うん、うん、と友也は何度もうなずいた。
 そしてまたすこし泣いて、ごめんな、とつぶやいた。
 渉は首を振った。
 そして、あなたをあいしていますよ、とくりかえし、くりかえし呟いては、両腕に友也をきつく抱きしめた。
 もう何度も抱きよせた、いまだに渉よりもちいさなからだはあたたかく、そしておだやかな海の寄せてはひいてゆく波のように、とくんとくんと脈打っているのだった。











 やわらかな春の風が、ふたりで暮らす家の窓から吹きこんでいた。
 渉はいよいよ生よりも死のふちに近く、老いて、痩せさらばえ、おとろえて、このところベッドで横になってうとうとと眠っては起きてをくりかえすばかりになっていた。
 かかりつけの医者には、ひとつきほど前に、もういつ、と言われていた。
「……友也くん」
 ベッドの脇に置いた椅子で読みものをしている友也を、もうかすかにしかひらかないくちびるで、呼ぶ。
 このおとろえた声で友也を呼ぶたび、彼は「ことあるごとにアメージング、なんてうるさかったあんたが! これぐらいでちょうどいい」だなんてからかっては笑っていた。
 渉の時間に限りがあることを知らされてから、友也は今では大御所と言われるほどの俳優になったくせに、ほとんど仕事を断って、渉のベッドのそばに侍っていた。
 それでもオファーを受けた数少ない映画の台本に落としていた目が、渉を見た。老眼鏡越しの、十代のころから変わらないたれ目がちな大きな瞳がにっこり笑う。
「なに? わたる」
 何年、何十年とそばにいて、彼がそうして笑うたびにできる目じりの皺の数を、渉はこっそり数えて覚えていた。年々増えてゆくそれをあまさずに。ひとつも見落とすことがなく。
 友也がそうして笑う顔が、渉は大好きだったから。
「さいごにひとつ教えてくれませんか」
「いくつでも」
 友也の目じりにひとつ皺が増えるたびに、ともに過ごした時間を思った。やさしい友也の性質を表したようなやわらかな線を描くそれは、友也が渉のそばにいてくれた時の証明だった。
 友也は台本を閉じて、膝の上に置いた。横たわる渉へ向き直って、ゆらゆらと友也のほうへ伸ばされていた手を握る。
「……どうして私のそばにいてくれたんですか?」
 渉はやっと口にした。
 おそろしくて、あの日からずっとずっと言えなかった言葉を。
 そんなこともわからないの、と友也は一瞬目を見開いて、そして心底おかしそうに吹き出した。
「あんたを愛してるからですよ」
 わかった? と笑う友也に、渉も笑い返した。あたたかい手を握り返したかったが、もうそれができる力も残っていなかった。
「――きょうは、なんだか、とっても眠いんです。友也くん……」
 このまま目を閉じてしまったら、どこかへ行って帰ってこれなくなりそうな。
 渉は、もうすこし、友也のそばにいたいのに。
 力なく預けた手をきゅっと握って、友也はうなずいた。何十年も前のあのころと、ちっとも変わっていない力強さだった。
「大丈夫。俺はずっとここにいるよ。渉のとなりに」
 やさしく、低い声が染みこんでくる。
 その声に、きっと、ほんとうに友也はずっとそばにいてくれるのだと思った。だって、彼が渉にうそをついたことはなかったのだから。
 渉は安心して、ほうっと息をついた。
「だから、ゆっくりおやすみ」
 しわだらけの、やせて、ずいぶん細くなった指が髪を撫でる。
 ぽつぽつと、ぬるい水が渉のほおに落ちた。
 泣いているんですか? 友也くん。まったく、泣き虫なところはおじいさんになったって変わりませんねぇ。
 ああ。潮のにおいがする。
 波の音は、赤ん坊が母親の胎内で聞く音とよく似ているんですって。
 知っていました?
 海に抱かれたとき、人が愛を信じられるのなら。
 友也くん、あなたは私のいちばん近くにある海だったのですね。
 ――なんてね。

 握られた手に、どこかいつも隙間の空いていた胸がいっぱいに満たされるような心地がした。
 なあんだ。友也くんは、私のことを愛していたんですね。
 ――よかった。
 ふたりで選んだレースのカーテンを揺らすあたたかい風が気持ちがよくて、渉はひとつ大きく息をついたあと、ゆっくりと目を閉じた。





おわり

▼ AロマンティックAセクシュアルの日々樹渉を書かないと成仏できないので書きました!
私は日々樹渉はあまねく人類を愛しているけど友也くんに恋に落ちてしまったと思ってるし、
性的欲求も友也くんへ向かう人だと思ってるけど、それはそれとして「そうではない」という可能性をどうしても閉じたくなかった。
「友也くんかわいそう」という感情が私の中にもあり、
しかしその「かわいそう」な状況はほとんどのAセクが実際強いられてきたことで、
その現実社会へのカウンターをやりたかったというのもあります。
かつ、それを許して受容してくれる柔軟性が友也くんにはあると私は信じてます(2021.10.15)