キスが好きだ。
 どこかの誰かの笑い声が校舎内に反響して遠くで鳴っている。いつもならそこかしこで物悲しく響いている吹奏楽の音も、つい昨日から聞こえてこなくなった。運動部のかけ声や、部活動で残った部員たちのはしゃぐ声もない。テスト一週間前からはじまる部活停止期間中の校舎は、そういう風にひっそりとしているはずなのに、勉強のためと言い訳をして居残る生徒たちがひそひそとざわめくから、どこか落ち着かない雰囲気だ。
 人目を忍んで触れてすりあわせたくちびるを離す。余韻にちいさく開いたままの黒子のあわく色づいたくちびるから、ん、と甘えるようなねだるような、かすかな声が漏れた。
 いくらボクの影が薄いからって、一緒にいる火神くんが規格外にでかいと、さすがにバレちゃいます。そう言って黒子は教室の隅、屋外からも廊下からも死角になる位置に窓際の壁を背にしてしゃがみこんで、火神を上目に見ながら手招いた。
 火神はキスが好きだ。偉大な先輩方からきつくテスト勉強を言いつかったはずの放課後に、こんな風に黒子と人に言えないことをしているわけも、その一言に尽きる。
 バードキスが好きだ。ついばむように、額や頬やまぶたや鼻やくちびるにキスを落とすたび、くすぐったがってゆるむ黒子の表情を見ると、たまらなく幸せになる。やわらかく触れた感触を楽しむようになんども押し付けあうと、くっついたところから熱が伝わってきて、それだけで気持ちがいい。くちびるがじんじん痺れてしまう。
 ディープキスだって大好きだ。熱い粘膜をすりあわせて唾液をすすりあうのは、何度やったって気持ちがいい。黒子のちいさいつるつるしたかわいい歯を舌で一本ずつなぞるのは心地良いし、弱い上顎をなぶると快感で喉をひくひくさせるのもたまらない。さんざん好きにされた黒子が、仕返しとばかりに火神の舌をつついて水音をさせながら吸い付いてくるのにも、腰が熱くなる。肌が粟立つ。最後にちゅ、とくちびるを吸いながら顔を離すととろっとした表情でキスの余韻に浸っているのもかわいくて好きだ。
 なにより、黒子はあまりキスが得意ではないのだ。ベッドではどうしてもあの自分の顔の使い方を知っている黒子の表情や言葉に絆されて、気がつけば彼にきちんと触れられないまま朝になっているときすらある。熱心に火神に触れて、撫でて、噛み付いて、うっとりした顔で火神がすすり泣くのを眺めて、そうして最後の最後に火神を食べる瞬間まで、自分のことは放り出してただひたすら火神の気持ち良いことばかりしたがる。何度火神が触りたいと言っても、「ボクは火神くんに気持ちよくなってほしいんです」と言って聞かない。
「火神くん、ボクはね、火神くんに受け入れてもらっているってそれだけでたまらなく幸せなんです。だから、ボクがもらっている以上の幸せをキミにも感じさせてあげたい」
 透きとおったまっすぐな瞳でそう言われて、折れないわけにはいかなかった。
 しかしそういう黒子が、キスになると、とたんに火神にすがりついてくるのだ。くせになるのも仕方がない。火神だって、普段黒子の好きにされてはいるものの、大切な相手を気持ちよくしてやりたい気持ちがないわけではない。そういう火神の心を満たしてくれるのが、キスだった。
 だから今日も、放課後の教室でそっとくちびるをあわせて、ベッドでは見られない黒子を堪能するはずだった、のだが。
「……いたいです」
 まだしびれるくちびるを動かして、黒子がそうちいさくつぶやいた。
「火神くん、くち、痛いです」
 どうやら、乾燥して乾いたくちびるのことを言っているらしかった。
「…お前だって、人のこと言えねーだろ」
 憮然として答える。黒子も火神もスポーツに打ち込む男子高校生で、あまり洒落っ気の多いほうではない。リップクリームなどを使うクラスメイトもいるし、メンズ用のそれだって存在するらしいことは知っていたが、手を出したことはなかった。というか、そもそも今までくちびるの乾燥になんて気を遣ったことすらなかった。黒子だって同じだろう。それに、黒子のくちびるだってそれなりに乾いてかさついている。
 火神はそのかさついた黒子のくちびるが、すりあわせているうちに唾液に絡んでやわらかくなるのがなかなか好きなのだけれど、黒子はどうも皮がひっかかって痛むのが気になるらしい。ぺろ、と自分のくちびるを舐めている。くちびるの乾燥は、舐めると余計にひどくなる、とどこかで聞いたような知識が頭を過って、やわらいだくちびるを親指でそっとなぞった。
「舐めるともっと酷くなるぞ」
「えー、じゃあ火神くん、リップとか使ってくださいよ。それでボクにお裾分けしてください」
「やだよ。お前が使えよ」
「ボク、べつに乾燥して切れたりしないですもん」
「オレだってしねーし」
「でもキスすると痛いです」
「あのな…、こっちだっていてーっつの」
「せっかく火神くんとキスするんだから、気持ち良いのがいいじゃないですか。痛いのはイヤです」
 乾いた教室の片隅、睫毛すら絡みそうな距離で、お互いの吐息を感じながらひそひそと文句を言いあう。文字にすると昼間のざわついた教室でのやりとりとたいして変わらない軽さだが、その実言っていることも、交わす言葉の響きも、昼間の人前でのそれとは比べ物にならないくらい甘い。
「火神くん、ボクと気持ち良いキスしたくないんですか?」
 壁際に完全に座り込んだ黒子が、じっと火神を見上げて言った。それではまるで、黒子とのキスの快感を高める為だけに、リップクリームを買って使えと言っているようなものではないか。そんな真似できるか。百歩譲って薬用のリップクリームを購入するまでは良い。だが、いざ使うとなるといつだって黒子とのキスが過って、それどころではなくなってしまうだろう。
 だけど、先程の一瞬のキスの余韻をまだ残したままの甘えたような目で見上げられて、きっとコイツの思惑通りに健気にリップ買っちまうんだろうな、と思った。どうしたって火神は黒子に甘い。
「バニラの、おいしそうなにおいにしましょうね」
 黒子がまた甘くささやいて痛いと言ったそのくちびるをそっと火神のそれに寄せるから、あとはもう、その感触に夢中になってしまうよりなかった。

▼ 黒子さんはベッドでの主導権を泣き落としで手に入れたのではないか説(13.2.16)