ボクのウチはその昔に祖父母が建てた一軒家で、築五六十年は軽く経っているため、わりと古い。
 基本的に部屋は和室で、畳敷きだ。もちろんリビングなんて洒落たものはないし、ソファだのなんだのというものもない。低い机に座布団が標準スタイルだ。寝具は敷き布団だし、壁は土。
 そういう文化で育ってきたボクは、はじめて火神くんのマンションにお邪魔したとき、えらく衝撃を受けた。
 広くて開放的なリビング(もちろんフローリング)に、ふかふかのラグマット。重厚なソファ。それにアイランド型のキッチン。
 おまけに、食後にコーヒーを飲む習慣のある火神くん。
 ウチでは、食後といえば祖母の好みで熱いほうじ茶だ。
 ゆったりした座り心地の良いソファで、たっぷり砂糖とミルクを入れてもらったコーヒーをちびちび啜りながら、そんなもんコーヒーじゃねーよ、とうんざりした顔の火神くんが、いつもなら腹が立つだけなのに、そのときだけはずっと大人っぽく見えた。
 自宅と違いすぎる生活文化に面食らったところもあるけれど、なにより、外じゃ見たことがない、火神くんの知らない一面が衝撃だった。学校や部活では見せない、いつもの「素直で単純でバカな火神くん」とは違う印象。
 火神くんちのソファに座ると、そのたびに彼はいろんな顔を見せてくれる。
 それまで知らなかった火神くんの新しい顔を知れるのがうれしくて、火神くんちのソファは、まるでボクにとって魔法のソファだった。


 たとえば、休みの日、何をするでもなく思い思いに好きなことをして過ごしていた午後。
 ソファの上に縮こまって持ち込んだ文庫本を読んでいたボクは、ふと尻の下のやわらかいクッションが左側の重みで沈んだことで、細かい文字を見下ろしていた顔を上げた。下のラグに座ってテーブルに頬杖をついていたはずの火神くんが、いかにもヒマそうな顔でとなりに座っている。
 さっきまで平日に撮り溜めたビデオを消化していたはずだけれど、それらもとうとうぜんぶ見終わってしまったらしい。それで、どうもボクが一人小説に夢中になっているので、つまらなくなったようだ。
 火神くんは肘掛けに肘をついて、さもつまんねー、みたいな顔で口を突き出しながら、ちらっと目だけでこっちを見ている。
 ボクは、目の端にその様子を捉えながら、わざと無視をした。
 ボクが気付いていないと思った火神くんは、うーん、とか、うあー、とか、なんだかそういうわざとらしい声を出しながら、ソファの背もたれに大げさな動作で沈み込んだ。
「火神くん、ちょっと静かにしてください」
 目をページから離さないまま言えば、となりの背もたれに沈んだ頭が、ふくれた顔でじっとこっちを見つめている気配がする。
 火神くんは、カッコイイ。そりゃあもう、文句のつけようがないくらい。背は高いし、筋肉質だし、顔立ちも整っている。見た目だけじゃなくて、頭はそんなに良くないけれど気は利くし、ぶっきらぼうだけど素直だし、根はすごくやさしい。彼氏として、申し分ない男だ。
 そんな火神くんが、ボクに構ってほしくて、まるで子どもみたいなしぐさをしている。気付いてほしくて、すごくわかりやすくてわざとらしい行為で、こっちの気を惹こうとしている。
 それが、たまらなくかわいかった。
 だから、もっとそんな顔を見せてほしくて、気付いていないふりをした。



 それから、火神くんちに泊まった夜。
 お風呂上がり、髪からポタポタと雫を垂らしたままのボクを見て、火神くんはいつも目を吊り上げながら「しっかり乾かせって言っただろ!」って叱ったあと、仕方ねーってポーズで髪を乾かしてくれる。
 はじめはほんとうに面倒で家と同じように雑に頭を拭いただけだったけれど、さすがにこう毎度毎度叱られると、いくらボクでもお風呂上がりに鏡を見て「あ、ドライヤー」くらいは思う。ましてや勝手知ったる恋人の家だ。ドライヤーや櫛の在処だってちゃんとわかっている。だから、いつだってやろうと思えば自分できちんと髪を乾かすことくらい、出来るのだ。
 出来るけれど、火神くんの前ではやっぱり忘れているふりをする。
 だって、クセのつきやすいボクの髪を柔軟剤の効いたふかふかのバスタオルでやさしくタオルドライしたあと、ソファに腰掛けてボクにドライヤーをかける火神くんが、あんまりうれしそうなものだから。
 自分では使わないくせに洗い流さないトリートメントなんてものまで買ってきて、あの大きな手に広げて人の髪に揉み込んで、ボクの朝の寝癖を少しでもマシにしようとせっせと梳かしているものだから。
 べつにボクは自分で乾かしたって良いのだけど、火神くんの楽しみを奪ってしまうのは忍びないから、毎回下のラグに腰掛けて火神くんの足の間に収まって、大人しくドライヤーをかけられることに決めている。
 それに、そんなふうな、人の世話を焼いて楽しそうにする火神くんなんて、外ではあんまり見られないのだし。
 相棒としてボクをよほど見込んでくれているのか、それともただの照れ屋なのか、部活中やコートの中での火神くんは、あまりボクをあからさまに気遣ったり世話を焼いたりしない。
 もちろんボクにだって男としての矜持があるから、おいそれと彼に頼るのも虫が好かないし、それを察してくれているのかもしれない。
 その代わり、教室や帰り道や、特に火神くんちのソファの上では、彼の世話焼きは顕著だ。文句を言いながらもボクのことを甘やかすし、そんな火神くんはどこか楽しそうにしている。
 ボクだって、恋人として彼に甘やかされたり甘やかしたりするのは、決してきらいじゃなかった。



 そうそう、あと外せないのが、ケンカしたときの火神くんだ。
 だいたいボクたちには口喧嘩が絶えない。口喧嘩というより、ボクがなにかとつっかかって火神くんがそれに反応して、という軽快な言葉のやりとりは、もはや形式美に近い。火神くんはそのたび、かわいくねーやつ、と文句を垂れているけれど、ボクとしては火神くんに吠えられて頭だの胸ぐらだのどこかしらを掴まれるたび、一人の男として張り合う相手として認められたような気がして、わりと満更でもない。
 お互いそのあたりの加減もよくわかっていて、言ってはいけないことや引き際や、空気の切り替え方はそれなりに把握しているつもりだけれど、ボクたちはまだ高校生だ。売り言葉に買い言葉で、ヒートアップしたそれを止められないことがある。わかってはいても、相手のことばにカチンときてしまうことがある。
 なにより大切な人なのに、相手を傷つけるために言葉を選んで、そして自分も傷ついて、バカみたいなやりとりをしてしまうときだってある。
 そういうとき、たとえば最初にダメなことを口に出したのが自分だったとしても、きちんと謝れないことがボクの欠点だ。相手を傷つけた言葉を何度も反芻して、後悔しているのに口が動かない。謝りたいのに、なんて言えば許してもらえるのかわからなくて、怖くて唇が強ばる。良くない強情さだ。
 そんなボクでも素直になれるのが、火神くんちのソファだった。
 火神くんと言い合ったあと、本当はもっと傍に居たいのに、ここに居ても良いか不安になる。だからボクはいつもどうしようもなくて、ただ無言でソファに座って帰る準備をする。荷物をまとめ終えてもなかなか出て行けやしないくせに。
 嘘。そうやって帰るそぶりを見せれば、火神くんが引き止めてくれると知っているからだ。
「……帰んのかよ」
 そうしているうちに、期待通りに腰掛けたソファの左側がふと沈む。重みと唸るように呟く声が恋しい。
 喧嘩したくせに、まだちょっとボクにムカついてるくせに、声にはしないまま、「帰るなよ」って言ってくれる。
 火神くんがまっすぐにボクへぶつけてくれる気持ちで、ボクの不安もきれいに溶けて、素直になれる。
 やっぱりボクにとって、火神くんちのソファは魔法のソファだ。




 そして、今日も。
 魔法のソファで黙々と読書を続けるボクに、火神くんは案の定ちょっと拗ねている。
 どう考えても悪いのは恋人と居るときに本なんか読もうとするボクなのに、火神くんのかわいい顔が見たいあまり、おまけに火神くんも火神くんでそんなボクをあからさまに言葉にして非難したりしないものだから、調子に乗ってしまうのだ。
 ぐ、と左肩にかかった重みにふと横を見ると、唇を尖らせた火神くんが顎を載せている。
「それ、おもしれーの」
「面白いですよ」
「ふーん」
 オレより? って、歪んだ唇に書いてある。でも、きっと火神くんは、そういうことを言えない。
「何の話?」
「うーん…」
 ボクはその質問がむずかしくて、ちょっと言葉に詰まる。
「愛と、死ぬということの話です」
「はーん」
 あからさまにどうでも良さそうな声だ。たいして興味もないくせに、でもなんとかしてボクと会話をしようとするみたいに、それで? と火神くんは言う。
 ボクとしては誤解なくストーリーを伝えなくてはならない、と使命感にちょっとドキドキしているのに、彼はそういったものにはまったく無頓着で、気にもしていない。
「半年前に恋人を亡くした作家が、恋人の死をモチーフにした作品を書き続けて、恋人と恋人の弟が殺し合いをする話を書いて、とうとう『俺らとねーちゃんが殺し合いする話なんか書くんじゃねーよ!』って恋人の弟に罵られて、自分が恋人の死をモチーフに作品を書いていることや、その死は最早自分の日常に溶け合っている一つの現実なのだということに気付く話です」
「暗い話だな」
「本当はもっとメッセージがあるんですけど、うまく説明できなくて」
「いーよ。どうせオレはそういうの読まねーし。お前が解釈したヤツで」
 ふと火神くんの機嫌が良くなっていることに気付いて、ボクは自分の文字を追う目やページをめくる手が止まっていることにも気付く。
 最初は火神くんのむずむずしている様子をもっと見たくて適当にあしらうつもりだったのに、ボクがおざなりにできないような話題を出されたものだから、ついまじめに答えてしまった。なんだか火神くんに手のひらで転がされているような気がする。
 それ以上読書を続ける気にもなれなくて文庫本をローテーブルに置くと、火神くんの大きな手がすばやくボクの左手を掴んだ。そのまますっぽり握りしめられて、体温より熱い手の温度に心臓がドキッと跳ねる。
 繋いだ手を握り返すと、耐えきれない、というふうに、火神くんの右腕がボクの肩に回った。薄いTシャツに包まれた胸に抱き寄せられる。布一枚隔てた胸からドキドキうるさい心臓の音が響いて、本能的に安心すると同時に、火神くんがそんなふうにドキドキしてくれることがうれしい。
「火神くん、さみしかったんですか?」
「はあ? 別に」
 甘ったるい声でささやいてその胸に擦り寄るとドキドキがいっそう大きくなったのに、ぶっきらぼうに返された声はずいぶん低い。
 見上げると、真っ赤な顔がばつが悪そうにそっぽを向いている。どうやら照れているらしい。
 下からじゃなく、もっと真正面から火神くんのかわいい表情を見たくて、ソファに座った彼の膝へ向かい合って腰掛けた。それでもまだ目線は同じくらいで、相変わらずの体格差にちょっとがっくりきてしまう。でも、今さら体格差を嘆いても仕方がない。そんなことよりも今は火神くんだ。
 顔を隠せなくなった火神くんは、うーとかあーとかボクの気を惹きたいときと似たような声で唸って、ボクの頼りない肩に顔を埋めた。ぴったりくっついた火神くんの胸やお腹はまるで発熱したみたいで、ずいぶん熱い。
「この体勢、やばい」
「何がですか?」
「あんまお前がくっついてっと、興奮する……」
 尻の下で、むくむく何かがかたくなっていく気配がする。言葉の通り、身体がボクのやわらかさや体温やにおいに反応して、興奮してきているらしい。
 顔を埋めたままの火神くんの耳は、もう真っ赤だ。
 実際に行為の際の上下は別として、男の性の対象として火神くんに見られることは、正直なところそんなにイヤじゃない。火神くんが単純に、心の底から、欲望すら伴う気持ちでボクに恋してくれている、って実感できるからだ。
 それに、ボクの貧相な身体に興奮してるような男くさい火神くんなのに、ベッドの上ではボクの与える行為に時に泣きわめいて時にすすり泣いて、きもちよくなって頬を紅潮させて、ボクに縋って全部明け渡してくれるようなギャップも、なかなか気に入っているのだ。
「ボクの身体で、興奮してもいいんですよ」
 すっかりかたくなって尻の割れ目に収まっているそれに、すり、と腰を動かして擦り付ける。
 火神くんはバレてないと思ってるみたいだけど、彼がボクのおしりを大好きだってことは、今までの様子を見る限りバレバレだ。
 ちょっと挟んであげるだけで、もう雄の目をして興奮しきった息づかいで、ボクの尻を両手で鷲掴んでいる。ぎゅうっと握られて少し痛い。
 我慢できなくなったのか、火神くんはボクの腰をぐっと抱いてソファに押し倒した。ぺろ、と乾いた唇を舐めているのは、ボクにキスをねだるときの合図だ。
 雄としてボクに興奮しているくせに、そのボクに行為をねだる火神くんがかわいくて、多い被さる彼の唇に軽くキスをした。首に腕を回して思いっきり引き寄せれば、待ちきれないと言わんばかりに厚い舌がボクの薄い唇を割って入り込んでくる。
 電気も付けっぱなしの明るい部屋に、荒い息とあまい水の音だけが響く。火神くんはキスがすごくうまい。触れ合うだけのキスも舌を絡めるような淫らなキスも彼が初めてのボクは、不本意ながらその舌と唇にいつも翻弄されてとろとろにされてしまう。
 キスを解いてまだぼんやりしたまま、ちゅっちゅとその太い首に吸い付いた。頬に生えかけの髭がざらざら擦ってくすぐったい。火神くんもボクの頬や耳や首筋にキスをたくさん落とす。やさしい唇の合間から漏れる、熱い興奮した息が当たって気持ちいい。
 そして今日も、ボクらは魔法のソファでこっそりセックスをするのだ。

▼ (13.9.23)