「火神くん、最近よく食べますね」
 んあ、とカツサンドをかじるために大きく開いた口から妙な声を漏らした火神の前には、大分片したものの相変わらず菓子パンやら調理パンやらがまだまだ山積みになっている。一方のそれを見ながらぽつりと呟いた黒子の机の上にはといえば、食べかけのたまごサンドとまだ手すらつけられていないメロンパンがひとつ、それから200ミリの牛乳の紙パック。
 開放感と空腹でざわついた生徒のあふれる、昼休みの教室である。冗談かと思う量を一気に平らげる火神と、こちらはこちらで冗談かと思うくらいスポーツに励む男子高校生にしては食欲に乏しい黒子。正反対のどこかちぐはぐな食事風景は、最初こそ周囲の注目を浴びていたものの、もうクラスメイトにも日常茶飯事として受け入れられている。
「そりゃ、おまえに比べれば」
「僕と比べるまでもなくキミは大食いですよ…そうじゃなくて、最近、食べる量増えたじゃないですか」
「そうか?」
 そう言われてもあまり実感がない。いちばん目に見えるのは食費だが、そもそも家計簿のエンゲル係数は最初から高値を記すばかりだ。一人暮らしの男子高校生にしては高すぎるその数値は、ちょっとやそっと上がったくらいでは違和感にもならない。
「絶対増えました。練習量増えたわけでもないのに、火神くんってホント、燃費悪いですよね」
「うっせー」
 喧嘩を売っているとしか思えない黒子の口ぶりだが、ほんの少しつっかかってくる火神を期待しながらも、思ったことを素直に口に出しているだけで、決して本当に怒らせたいわけじゃないのだと火神は知っている。かと言って無視してもこの男の機嫌が悪くなることも学んだので、マジな喧嘩に発展しない程度に軽く言い返して、残り少なくなったパンをせっせと詰め込む。楽しい昼食時にわざわざ喧嘩することもあるまい。つーか、そもそも、めんどくさいし。
 一抱えもあった昼食を終えて、スポーツドリンクで喉を潤す。ふう、と一息ついて、パンの袋をがさがさビニール袋に詰め込んだ火神は、それでも満たされない感覚に、ふと顔をしかめて呟いた。
「んー…食い足んねー」
「それだけ食べてまだ足りないんですか」
 見てるだけで胸焼けしそうです、とふたつめのサンドイッチを一口かじって、黒子がちょっと呆れたような顔をする。
 特別食べる量が増えたという自覚はないが、そういえば確かに最近物足りなさを感じることが増えた。食べ終えた直後は確かに腹一杯満足するくらい食べたと感じるのに、ふと気付くと何かが足りないような、ぽっかりした穴が心に開いているような気がする。食べ足りなかったのかと思って何かを口にしても、その物足りなさが消えることはない。だから結果として、食べる総量は黒子の言う通り、増えているのかもしれない。
 けっこうな量の昼食を既に終えてまだ物足りなさを感じている火神とは対照的に、黒子は食べる量も少なければ食べるのも遅い。この分だとこいつ、メロンパンは残すだろーな。ちまちま片していたたまごサンドを食べ終えて、手についたフィリングをぺろりと舐めた顔をなんとなくじっと見る。
「……おまえって、ウマそうだよな」
「は?」
 案の定、黒子は怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「ダイフクっつーか、餅っつーか、なんかそんな感じ」
 やらかくて甘くて、ウマそう。男にしては白い、まだおさないラインを描く顎のあたりは思わず噛み付きたくなってしまう。舐めて味見をしてみれば、きっとミルクのようなバニラのような、やさしい味がするだろう。涼しげな目は、綺麗に透き通っていかにも爽やかなゼリーみたいだ。その髪と同じ、夏の空の、突き抜けるような突き放すような強烈な炭酸とソーダの味。
 想像した甘さが口の中に広がって、ますます物足りなさが酷くなる。ふと気がついた。そういえば、物足りなさを感じるのは、決まって目の前にこの男がいるときだ。
 唐突に意味の分からないことを言って黙り込んだ火神に、む、と目だけで不満げな色を伝えて、黒子は咀嚼していたメロンパンを飲み込んだ。
「食べられるのは、僕じゃなくて火神くんのほうでしょう」
 暗にベッドに入ったあとのことを仄めかすような言い方に、かっと頬が熱くなる。確かに、日が落ちてふたりで寝室に入ってしまえば、ひとつも残さず「食べられる」ほうなのは、やわらかくて甘くていかにもおいしそうな黒子ではなく、火神だ。
 三大欲求のうち食欲が欠如しているような食生活を送る黒子だが、ことべつの欲求となると、案外欲しがりなことが多い。もちろん火神のほうが腕力も体力も欲求も有り余っているため、黒子の欲が火神の負担になることはあまりないが、その分黒子は時間をかけて、まず自分より火神の欲をある程度満たしてしまおうとする。そうして火神がすっかり蕩けて荒い息と言葉にならない声を繰り返すだけになったら、やっと自分の欲を剥き出しにして、めいっぱい食べてくれるのだ。
 ……黒子に「食べられている」ときの温度や声や感触が甦りかけて、火神はあわてて掻き消すように思わず席を立った。
「おっ、オレ、食い足りねーから! 購買行ってくる!」
 がたがたと騒がしく机を離れようとした火神の腕を、それよりもずっと細い、だけど有無を言わさない強さの黒子の手が掴んだ。
「わざわざ購買まで行かなくても、僕、もう飽きたから、これあげますよ」
 三分の一ほどしか手のつけられていない、かじりかけのメロンパン。
 こんなんじゃ足りねーよ、と不満げな声が口をついて出たけれど、身体は言葉とは裏腹に大人しく椅子に身を沈めている。ず、と残った牛乳をパックから吸い上げる透明な瞳に見つめられて、先程の発言のせいで身体が思い出した熱に、思わず悪態を吐く。
 だけど、バターの香りのする甘いビスケット生地を飲み込めば、さっきまで心を占めていた物足りなさだって、どこかへ消えてしまうのだ。

▼ 21巻の「僕」をどう処理して良いかまだ整理がついてません。「ボク」が可愛くてひんやりしててトボけた感じで大好きだったんですが、「僕」も自分の切り札を防がれてなお悔しがるんじゃなく「手強すぎて笑っちゃいますね」ってより強い相手と対峙できたことに対する雄っぽい興奮を露にする男前なテツヤさんにはぴったりで、カッコよくて、困ります。ちょっと「僕」って使ってみて折り合いをつける作業。(13.2.10)