よっぽどの優等生でもない限りほとんどの男子高校生にとって昼休みとはただただ睡眠を摂るための時間である。少なくとも火神にとってはそうだ。話に聞くかぎり、早朝から厳しい練習を共にするバスケ部の一年坊たちも昼食をかっ込むや否や机に突っ伏しているようなので、きっとそう思っているのは火神だけではないはずだ。目の前でちまちまサンドイッチをかじっている男は別として。
 火神が机の上いっぱいに広げたパンやら米やらを片す間に、黒子は火神からすれば信じられないくらいほんの少しの量の昼食をゆっくり摂る。相変わらずほっせえ食、と素直に口に出して言うと「ボクは火神くんと違って燃費が良いんです」とかなんとか喧嘩を売られることは付き合いの中で既にわかっていたから、心のうちに留めておいた。
 行きつけのファーストフードでも黒子はさして大きくもないシェイク一つで長いこと粘る。粘る、というよりは、火神が山盛りのバーガーを平らげるまでにすら飲み終わらず、結局テイクアウトしていくことが多い。食べる量少ないうえにスピードも遅いんじゃ、そりゃこんだけちっさくて細えのも当たり前だよな、と改めて思う。口に出すと案外沸点の低い黒子の機嫌を損ねてまたちくちくと喧嘩をふっかけられることは目に見えているから、やっぱり口には出さない。
 体格的にも腕力的にも、口以外で火神をぶちかますのは無理だと本人も重々承知しているくせに、黒子は一度機嫌が悪くなると口よりも先に手だの足だのが飛び出す意外と短気なヤツだ。いや、まず口で喧嘩を売りつつ、その間にも両手はやる気満々に構えを取っているタイプだ。なんとなくこの男の扱いがわかってきた今ではそんなコミュニケーションも嫌じゃないが、なにしろ今は睡眠時間が惜しい。「大人になったじゃねーか俺」、とひとり自画自賛している火神だが、端から見ていれば結局黒子のペースに付き合わされてしまっているさまが、黒子のてのひらの上で弄ばれているようにしか見えないことに気付いていないのは本人だけだ。
「今何時だ」
「12時40分くらいですね」
 もぐもぐ口の中のものを飲み込んで、黒子がふと左手を見た。40分は寝れるな、とぼんやり頭の中で計算しながら、ふと気付く。
「おまえ腕時計なんかしてたっけ?」
 む、と黒子が無表情のまま不満そうにするなんてけったいな真似をしてみせる。
「ずっとしてました」
 げっ、もしかしてなんかまたスイッチ入った。思わず眉間を寄せそうになるのを堪える。相変わらずこの男の沸点はよくわからない。大人しそうな見た目に反して、かなり低いということだけは確かだ。
「お、アナログ」
 誤魔化すようにして、男にしては色の白い手首の真っ黒なベルトを覗き込むと、白い文字盤と秒針。時計の色のせいか、その腕がなんだか余計に白く見えた。
「デジタル苦手なんですよ、ボク。根っからの文系なんで、数字だとイメージ湧かなくて」
「ふーん」
 適当に相槌を打っていると、なんとなく気が済んだのか黒子は読みかけの文庫を取り出して栞をたどりはじめた。普段黒子は沸点が低くて熱しやすいくせに冷めにくい、かなり面倒くさいヤツだが、今日はわりと気分が良いらしい。少しくらい斜めになった機嫌はちょっとした会話で戻ってしまうようだ。
 ほっとしたところで机に突っ伏して眠りの体勢に入った。人より図体のある火神が学校用の机になんとか収まろうとしているさまは、ともすると滑稽なような、愛嬌のあるような、不思議な格好に見える。満腹中枢が刺激されて、ただでさえ意志の弱い目蓋がとろとろと下がってくる。重い目蓋にかたちだけでも抵抗せずに済むこの時間は至福だ。
 うとうと半分夢の世界に足を突っ込んだ火神の耳に、しゃりしゃりと聞き慣れない音がした。黒子の腕時計だ。普段は気にもしていなかった秒針なのに、改めて存在を認識したせいで耳に入った音をどうしても意識してしまう。今までは気付きもしなかったのに、どうしてかしゃりしゃりしたその音が身体中に、心臓に響いて仕方がない。
 まどろむ火神の頭に、そうっと覚えのある重さが掛かった。黒子の手が頭を撫でていた。黒子はいつからか、こうやって昼休み机に突っ伏す火神の頭に手を載せて、髪を撫でるようになった。今日もあの指が、短い髪を梳いてみたり、寝癖で跳ねたままの髪をつんつん引っ張ったり、火神の頭の上で好き勝手に動いている。ページを捲る音は相変わらず規則的に聴こえているから、器用にも片手で文庫本を持ってページを捲っているらしい。
 こうして頭でその手の体温を感じるとき、改めて火神は黒子の腕を思う。火神に比べれば細くなるものの、スポーツに打ち込んだ者特有のしっかりと筋肉のついた完成された腕だ。意外と大きい手でボールを捕らえて、火神の気持ち良いところへ魔法みたいにパスを出す、努力と挫折を知っている腕だ。
 こいつは、たまにいるのかいないのかわからないようなヤツだけど、一度意識してしまうと案外そのへんのやつよりしっかりここに存在している。華奢なようでいて意外としっかりした身体も、大人しいように見えて短気なところも曲がらないところも、真面目そうな顔して平気で人を舐めた態度でおちょくってくるムカつくところも、そのくせ真っすぐな信頼をあの強烈なスピードで投げつけてくるところも、薄い薄いと言われているが黒子テツヤという男はなかなかソンザイカンのあるやつだ。少なくとも、火神にとっては。
 ああ、こいつは、秒針みたいだな、と、温かい温度に動きの鈍った頭でぼんやりと考えているうちに、教室の喧噪は遠くへ紛れていった。

▼ (12.8.14)