昔、ボクはコガネムシになりたかった。
 知ってますか? コガネムシ。緑色で、少し赤混じりの。きらきらした虫。よく網戸にひっかかったり、窓ガラスにがんがんぶつかってたり、自転車を漕いでたら突撃してきたりする。きれいな虫ですよ。まるっこくて、小さくて、短い足を六本ばたつかせてる様子なんか、それでいてなかなか愛嬌がある。つぶらな目でね。ちょこんと生えてる触覚とか、思わずつつきたくなりますよ。かわいくって。

 いつもより心なしかなめらかに口を動かす黒子は、同時にしっかり猪口を握った右手もなめらかに動かしていた。さっきから冷やを一度に三合、冷えたと言って燗を二合、なんだかぽかぽかしてきました、と言ってまったくこりずにまた冷やを二合、鰹のたたきの残ったみょうがをちびちびやりながら続けて流し込んでいる。
 よくない飲み方だ。高校を卒業して、進学先の進路が別れてからも何度も連絡を取り合って、成人してからはその場に酒が入ることも多くなったオレだから解る。
 顔色や態度に出ないから、黒子は酒に強いと思われがちだ。ていうか、本人も強いと思っている。だけど、そうやって調子に乗って飲んでるうちに、そのうちしらふみたいな顔をしながら妙なことを言い出したり、やたらと甘えたになったり、愚痴が多くなったり、ひどいときには足にモロに出て、オレがおぶって家まで連れて帰ったことだってある。そのくせ次の日に残らない体質なもんだから、味を占めてまたぐいぐい飲んで、オレにお守りが回ってくる。いつものことだった。

 そのコガネムシにね、ボクはなりたかった。

 黒子は今日もしらふみたいな綺麗な白い顔で、如才ない口ぶりで、だけど明らかに普段なら夢中にならないような虫の話をよく冷えた猪口を片手に一生懸命やっている。
 だって、きれいじゃないですか。あんなに小さくて、弱っちくて、ちっぽけな虫なのに。
 愛嬌があって、きれいで、気付かないうちにふとそこに居たって、誰も怒ったり怒鳴ったりしない。むしろ、よく来たね、ってふうに、やさしく撫でてあげたり、外へ逃がしてあげたりする。

 オレは黒子のオチの見えない話を、アルコールでぼんやりしてきた頭で頑張って追っている。
 空きっ腹に飲んだビールはただでさえ軽い脳みそをとろかしたが、黒子のぶんまで食った焼きつくねや串カツ、生ハムのサラダに揚げ出し、それに今もオレばっかりがちまちまやっている枝豆でずいぶん落ちついた。
 口の中の鈍い青味と塩気を追いながら、黒子の酔っぱらい話に付き合っている。
 だって、普段から口数のあんまり多くないヤツの話だ。クソみたいな酔っぱらいだとしても、ちゃんと聞いてやりたい。

 ボクだって、撫でてほしかった。
 ビックリしないでほしかった。
 いつの間に、って怒らないでほしかった。
 苦しいんです。気付かれないのにはもう慣れました。ウソだ、慣れてなんかいないけど、仕方ないって、我慢できます。
 でも、ボクに気付いた人が、驚いて怯えて、怒鳴るのだけは悲しかった。遠巻きに怯えられるのが辛かった。
 だから、ボクが小さくて弱っちくてちっぽけなだけじゃなく、もっときれいで、愛嬌があって、きらきらしていたら、みんなもボクに気付いても、怒鳴ったり怯えたり、しなかったかもしれないって思ったら、ぼく、羨ましくて。
 だって、そしたらキミだって。

 言葉に詰まったようにうつむいて、はっと息を呑んだ黒子が、かすかに震える白い手で口元を抑えた。

「………はきそう…」

 バカ野郎調子に乗って飲んでるからだぞ!! 吐くならトイレ行け!! とその手から無理矢理猪口を奪って、個室を出てすぐだったトイレに黒子を放り込んで、ため息を吐く。
 足下が雲に乗ったようにふわふわしている。黒子のお守りしなきゃなんねーし、と思って控えたつもりだったけど、酔っぱらいに付き合ってるうちにオレも結構回ったみたいだ。
 男子トイレの個室に消えていった、縮こまった情けない背中を思い出す。
 あのな、黒子。
 そりゃ最初は、オレだってお前のこと、幽霊みてーとか、急に出てくんじゃねーよとか、沢山思ったけど。つーか今でも、ちょっと思うときあるけど。
 お前の、曲がらない意志や、まっすぐな好意や、いちばん中心を通ってる誰よりも強い茎は、今じゃオレにとって、あのちっぽけな虫なんかよりよっぽど、きらきら輝いてるよ。
 あいつが真っ青な顔で出てきたら、とりあえずそう囁いて、あとは酒だと誤魔化してお冷やを飲ませよう。
 丸まっていても大きく広く見えた背中が思い浮かんで、オレも結構ろくでもない酔っぱらいだな、と塩気の残った唇に苦笑が浮かんだ。

▼ (14.1.31)