やっとボクにも牙が生えはじめた。火神くんと暮らしはじめて三年になる、春先のことだ。ボクの種の平均から言っても、だいぶ遅い。
火神くんなんかは種が違うものの、同い年なのにもうずいぶん前から立派な犬歯が生えそろっていて、からだの大きさも相まって見た目だけはすっかり成獣だ。なのにボクときたら、からだも大きくならないうえに牙すら生えてこなくて、ずっと一人こども扱いで、くやしい思いをしていた。そんなふうだったから、歯茎から頭を出したばかりの牙がほんとうにうれしくて、一日に何回も鏡を覗き込んでしまっている。今日も朝起きてから、もう五回は鏡に映ったちいさな牙を確認していて、「何回見たって生えてくる早さは変わんねーよ」と火神くんに笑われてしまった。
それにしても牙が生えるというのは、なんというか、むずむずする。いや、精神的な話じゃなく、物理的に。
生えかけの牙が、なんとも言えない感じでかゆいのだ。お陰でバニラシェイクが主食と言わんばかりだったボクの食生活は、あっという間に固い食べものが中心になってしまった。火神くんも自分の経験でわかっているのか、朝食にはミルク少なめのシリアル、昼食や夕食には、軟骨の唐揚げや、れんこんの煮たのや、大根サラダや、きんぴらごぼうや、とにかく固めのものを作ってくれることが多くなった。(ちなみに、ボクと火神くんは、それぞれ洗濯とお皿洗いとゴミ出し、料理と掃除で家事を分担している。これは一緒に暮らしはじめるにあたって、ふたりで決めた決まりごとのうちのひとつだ。)
とはいえ、食事のときには口を動かしているからいいものの、そうでないときにはどうしてもむずむずして落ちつかなくなる。四六時中何かを食べているわけにもいかない。
そこで、あんまりにそわそわするボクを見かねて、火神くんがある提案をしてくれた。
「あ、悪い黒子、そういや布巾つけおきしてたんだった。洗って干さねーと」
と、ボクに指をかじられながらテレビを見ていた火神くんが言った。まるで当然のように言う火神くんは、ほんとうに良いお嫁さんの鑑だと思う。カガミだけに。あ、ウソ。いまの伊月センパイみたいな発言は忘れてください。
大きく立派なからだを持っていて、どんな獲物でも狩れる牙が生えそろっていて、そしていちばん大切な闘争本能も申し分ない火神くん。平均値はあるものの火神くんに比べると小柄で、まだ牙も生えそろっていない、欲が薄すぎて発情期の来ていないメスにすら間違われたことのあるボク。体格や性質においてボクたちを見比べれば、よりオスとして優れているのは誰がどう見ても火神くんのほうだろう。だけど、火神くんは笑って、ボクのお嫁さんになってくれた。それだけでボクはたまらなく幸せな気分になる。
火神くんがしてくれた提案、というのは、なんか噛んでれば落ちつくなら、オレを噛めば良いだろ、というものだった。もちろんはじめは躊躇したものの、まだ生えはじめたばかりの牙では痛くともなんともないのか、けっこう思いっきり噛んでも痛がられないので、最近ではボクもほとんど一日中彼の手や腕や足や肩を噛んだりかじったりしてしまっている。
こうやって火神くんが家事をしてくれている以上、どうしたってボクが彼に噛み付けないときがある。それ以外でもボクたちは四六時中一緒にいるわけじゃないし、お互いやりたいことだってある。火神くんは、それでもなるべくボクのそばにいてくれるし、ボクを優先してくれるけれど、ボクはそれが心苦しくて、少しうれしい。
火神くんを拘束して、迷惑をかけてるんじゃないか、ボクは邪魔なんじゃないか、そう思ってしまうけれど、彼を独り占めできることによろこんでいる自分も確かに存在するのだ。火神くんの指が抜けていった口に自分の指を含む。むずむずする牙でかじってみても、心もむずむずも晴れなくって、いやな感じだ。ていうか思い切り噛んだらこれけっこう痛いんだけど、火神くんはこれを我慢してるんだろうか。いや、ボクの噛み方じゃ火神くんに傷もつけられないってだけかな。
ざぶざぶ布巾を洗う音がキッチンのほうからするのにぴくぴくと耳を向けて、特に内容の入ってこないバラエティをぼーっと眺めながら自分の指をかじっていると、テーブルに放り出していた携帯のバイブが鳴った。電話だった。青峰くんからだ。
「はい、もしもし」
『テツか、先週話してたアレ、どうなってる』
「ああ、あの件はもう赤司くんにも話していて……」
青峰くんの電話は、今度みんなで三泊の旅行に行くことについてで、気がつけばしばらく夢中で話し込んでしまっていた。だけど、それくらいそのイベントが楽しみなのだ。ボクも、それからたぶん、青峰くんも。
流れっぱなしだったバラエティはドラマに変わっていて、そしてキッチンで用事をしてくれていた火神くんがボクの隣に戻って、それを真剣な顔で見ていた。火神くんが戻ってきたことにも気付かないなんて、よっぽど電話に夢中になってしまっていたらしい。そういえば、牙のむずむずもすっかり意識の外だったし、何かに集中すると良いのかもしれない。そうすると、火神くんの邪魔にならなくても済むかも。
『そういえばテツ、おまえ牙どうなんだよ』
「相変わらずですよ」
『アレだろ、生えかけがかゆいって火神のことかじりまくってんだろ』
「なんで知ってるんですか…」
『黄瀬がこないだウチ来て喚いてった。火神っちをガブガブする黒子っちホント可愛かったっスよ! って』
電話越しに青峰くんに相槌をうちながらじっとテレビに集中している様子の火神くんを横目で見る。ドラマを見つめる彼の目はほんとうに真剣なのに、その耳だけはさっきのボクみたいにボクのほうを向いて、ボクが何か話すたびにピクピク反応していた。ドラマに夢中なふりをしながら、彼がボクと青峰くんの電話を気にしている証拠だ。
火神くんは自分と同じくらい力を持ってる青峰くんのことがとても気になるようで、いつもボクが彼の名前を会話に出すだけでもぴんとしっぽを立てる。たまたま青峰くんに会ってボクが彼のにおいをさせて帰った日なんかは、牙を気にするボク以上に落ちつかなくなってしまう。火神くんは、ボクや誠凛のみんなや、自分のテリトリーに入れた相手にはほんとうにやさしいから、彼の中で青峰くんはまだ「自分のテリトリーを侵すかもしれない相手」なんだろう。
気にしてない、ってポーズをとってるくせに、しっかりこっちを気にしている火神くんに、頬が緩む。ボクの火神くんは、強くてカッコいい、このあたりではいちばんのオスだけれど、こういうところはほんとうにかわいい。ああ、火神くんはボクのお嫁さんなんだな、っていつだって気付かせてくれる。
電話を終えて携帯をテーブルに置いたとたん、火神くんがテレビから目を離さないまま、ボクの前に手を差し出した。
「ん」
「え?」
よくわからなくてじっと見つめると、やっとこっちを向いてくれる。ぽかんと彼を見るボクをちょっと拗ねたみたいな顔で見て、あんまりボクの顔がまぬけだったのか、火神くんはふと噴き出した。
「どんな顔してんだよ。こっちのがいいか?」
そう言って、シャツをはだけて肩を差し出す火神くんに、やっと合点が行く。
あ、かじってもいいって、言ってくれてるのか。
そう理解すると、現金な牙がむずむず疼き出した。剥き出しになった火神くんのよく日に焼けた肩がすごくおいしそうに見える。火神くんがボクに肌を差し出してくれることが、どうしようもなくうれしかった。邪魔じゃないって、思ってくれてるのかな。ボクが、火神くんに歯形をつけてもかまわないって。
しっかり筋肉のついたたくましい肩にかみつきながら、まだ牙の生えはじめたばかりの今はいいけれど、牙が生えそろうころには、くせになってしまっていたらどうしよう、と、そんなことを思った。
▼ 火神くんの牙はネコ科っぽく両顎犬歯で、黒子くんの牙はへびの毒牙みたいな細い牙(13.2.21)