本格的に土のさわり方を教えてほしい、と息子が言い出したのは、昏睡状態から回復し、一度目の春を過ぎた頃だった。
「つけておけ」
ひざの上にばさりと広げてやったエプロンを一騎はぎこちなく広げて、腰の後ろの紐を手探りでむすぶ。ふだん台所に立つときにエプロンをつける習慣もないようだから、あまり見慣れない姿だ。
ああ、いや。最近アルバイトに出るようになった、溝口の店ではエプロンをしているんだったか。
一度訪れた明るい店内の様子がぼんやりと脳裏に浮かぶ。
もともとぼうっとしたところのある子だったが、北極での作戦から帰還し、長い昏睡状態から目覚めてからの一騎は、以前にもましてひとりでぼうっと時間を過ごすようになった。ここではないどこかに、だれかを探しているように。ほとんど視力を失った赤い目で遠くをみつめていることが増えた。
そんな一騎を引っ張り出してくれたのが、真矢と溝口だ。それが功を奏してか。最近の一騎は明るい声を出すことも増え、以前のように家事をこなしたがるようになった。果ては、史彦の仕事用の土まで勝手に山へ取りに出ている。
史彦の日常も、ほんの少しずつ変わってきた。床にものは置かない。事前に断りなくものの場所を動かさない。こまごまとした小物や引き出しには、紐や鈴など、感触や音でわかるようなしるしをつける。日中はなるべくカーテンを開け、日が落ちてからは使っていない廊下や部屋の電気もつけたままにしておく。
家の中の支度を、生活のしかたを、息子の目が完全に見えなくなる日のために、少しずつ整えてゆく。それが息子のために自分にできるすべてだと、それが最善の未来だと信じることしかできない自分の無力さを突き付けられるたびに、ざわめく感情とはまだ折り合いをつけられずにいる。
日中は比較的工房に光が差し込むといっても、ほとんど見えていない目でうつわを作りたいとは、いくらなんでもさすがに無理がある。だがそれすら、自分に残された数少ない息子にしてやれることなのだと思うと、どうしても、親としてのエゴが勝ってしまった。それに、一騎は彼の戦闘指揮官の命令すら無視したことがあるのだ。史彦が何を言ったところで、一度言い出したことはきっとそうそう変えないだろう。
回転をはじめたろくろの上で土のかたちをある程度整え、指輪の痕が残る両手をそっと誘導する。濡れたやわらかい土に触れた指はひくりと反応して、教えたとおりに内側から広げはじめた。
「……つめたい」
「もう少し力は緩めていい」
「うん」
まだ午後の明るい時間だ。日が落ちはじめるまでもう少しある。工房の窓からはやわらかな白い光が透けて、入口に飾った妻の写真に反射している。ときおり浮かんだほこりがちらちらと雪のように光る。
いくら明るくとも、ほんの数回しか触れたことのない感触に慣れなかったのだろう。一騎はしばらくこわばった指でぎこちなく土を撫でていたが、何度か指のかたちや力加減を見てやると、驚くほどすぐに感覚をつかんだようだった。同じように土のふれかたを教わったときの自分よりも、よほど早い。――やはり、遺伝だろうか。
「……あっ」
感心して見守っていたが、まだおとなになりきらない手が一瞬ぎくりと固まったかと思うと、やわらかな土はあっけなくぐにゃりと歪んで壊れた。
感触でわかったのだろう。ああ、と一騎が落胆の声を漏らす。
「まあ、一日二日で上達するもんじゃない」
慰めているのか、たしなめているのか、自分でもわからない言葉をかける。そう簡単にこなされると俺の仕事がなくなる、とぼやきながら、大きく歪んだかたちを直してやる。一騎はあきらめる気はないようで、もう一度両手をゆっくりと水にひたし、土に手を伸ばした。少しずれた指先を土へみちびいてやると、もう要領はつかんだようで、泥にまみれた指が何も言わずとも胎土のふちをそっとなぞる。
「俺、なんにも知らなかった。父さんの仕事なのに。土のさわり方も、……」
一騎が言い淀んだそのあと、なんと続けようとしたのか、想像するのはやめた。
「これから知ればいい」
これからも一騎はきっと、何度も壊すだろう。はたして命のあるあいだに、歪まずになにかをかたちづくることができるようになるのか、史彦にはわからない。一騎は自分に似ている。あまりに奪われ、そして憎みすぎた。
それでもこの子は、妻が残した子だ。
自分が傷つけた大切な相手と、言葉を交わすことを選べた子だ。
その後数時間ひとしきり没頭して、窓硝子から差し込む光が傾きはじめたころ、一騎はやっと大きく息をついてろくろから手を引いた。器としてはとても使えそうにないほど歪んだ土を切り取る。
「これはこれで焼いておく」
乾燥棚に並べながら声をかけると、水道で手を洗っていた一騎は面食らったような顔をして、そんなの焼くのか、とむっと顔をしかめた。たしかに息子の言うとおり、商品どころか家で使うにも使い道はないだろう。この具合では、乾燥の途中でひびすら入るかもしれない。
それでも、自分の指が作った歪みを、なかったことにはできない。流れる水に手をさらしたまま、一騎は赤い目を細めてうなずいた。
「まだ付いてるぞ」
「……ん」
本格的に日の落ちた工房ではもうほとんど見えていないのだろう、肘や爪のあいだに残ってこびりついた土を洗い流してやる。
紅音を失い、その喪失感を土にぶつけることしかできなかった自分が。土と、その歪みと向き合い続けられたのは、一騎がいたからだ。
この子の未来にも、そうしてともにあってくれる存在があればいいと――そしてそれが、叶うならば一騎が待ちつづける彼であってくれないかと、土にまみれた細い指に残る痕に、願わずにはいられなかった。
---
二階の呼び鈴を鳴らしかけて、下の工房から漏れる灯りに気がついた。ふとなつかしくなり、階段を降りる。
幼いころ、たいてい父親が家にいる一騎のことがほんのすこしうらやましかった。約束をしている日にはいつもわざと工房のほうに顔を出して、ろくろに向かう史彦にあいさつをしたものだ。
おーい、一騎、総士くんだぞ、と階上に声を張り上げる史彦の仕草が、妙に好きだった。遠くから、すぐ行く! と叫び返す声がして、ちいさな足音をどたどたと立てながら階段を駆け下りてくる一騎の音も。
久しぶりにあのやりとりが聴けるかと、重い戸をがらがらと開けながら顔を出す。
「こんばんは、夜分にすみません……一騎?」
意外にも、作業場に座っていたのは一騎だった。予想していた大柄な体躯とは違ったしなやかな身体に、一瞬面食らう。後ろ手に持っていた荷物を不意にぎゅっと握りしめてしまい、あわてて力を抜く。
「総士」
「司令かと思った」
父さんは飲みに行ってるよ。溝口さんのところ。作業場にだけつけた常夜灯のようなほのかな灯りに照らされて、白い顔がくすっと笑った。
「なんか、おまえがそこから覗いてるの、懐かしいな」
遠慮がちに玄関から顔を出してまだ突っ立ったままの総士をまぶしそうに見上げ、飴色の目がやわらかく細まる。
こっち、座れよ、とこちらに顔を向けたまま、一騎は回転するろくろの上のうつわを両手で撫でている。水を含んだやわらかな土が白い指に伸ばされ、表面をなぞられるたび、なめらかな輪の痕があらわれては上書きされてゆく。
手元から目を離したままでも器用に土を広げてゆく手つきに、つい感心して声が漏れた。
「うまいものだな」
「え?」
「目で見なくても指の感覚でわかるのか」
史彦から土のさわりかたを習っている、とは聞いていたが、ここまで危なげない手つきだとは思いもしなかった。
「ああ、まあ。見えないときも触ってたから」
ほめたつもりだったが、一騎は困ったようにはにかんで、目をそらす。
「でもまだ……、あっ」
土に向き合った一騎の手元でぎくりと指がこわばり、順調にうつわになりかけていた塊が大きく歪んだ。なんとか整えようと四苦八苦してあちらこちらから手を加えているが、どうにもならなかったようで、一騎は回る台の上のぐねぐねと歪んだ茶碗のようなものをじっとみつめたあと、ろくろを止めた。
「結局、こうなってばっかりだ」
ため息をついてくにゃりとひしゃげた土を台から切り取る手つきは、ずいぶん慣れたものだった。焼かれる前のうつわが並んだ棚に、今しがた成形したばかりのそれを加える。
「そっちの棚、きれいなのも並んでるだろ」
一騎が視線で指したのは器屋の商品棚とも言えるもので、釉掛けされたものもそうでないものも、おおまかな用途で分けて雑多に並べられた棚だ。かつての史彦が作った、売れ残りの小鉢なんだか小皿なんだかわからないようないびつなうつわに交じり、たしかにきれいにかたちの整ったものがいくつか混じっている。
「それ、母さんの作ったやつなんだ」
ほとんど見えてなかったときから、何度か手にとってなぞってみたけど、と一騎は首を振る。
「なかなか、あんなふうになれそうにもないよ」
苦笑しながら蛇口をひねり、手を洗う一騎をじっと見つめる。水にさらした指から土が流れ落ちて、指輪の痕があらわになる。
「それでも……」
「ん?」
ふしぎそうにほほえんで首をかしげる一騎に、黙って首を振った。
未来をつくる手だ。
どれだけ歪んでも。何度失敗しても。土にふれ、感じ、かたちづくることをおそれない。
一騎のそれは、きっと、未来をつくる手だ。
たとえ、その手に未来をつなぐことができないのだとしても。切り開くことを、諦めないことを知っている手だ。
九年前のあの日、この手で、一騎はこの左目に未来を刻んでくれたのだ。
爪のあいだに入った土まできっちりと洗い流して、エプロンを脱いだ一騎が大きく伸びをする。薄暗い灯りの下で、シャツの裾からちらりとへそが覗いている。
上がれよ、お茶くらい飲んでくだろ、と土間を上がりかけて、ふと気が付いたように首をかしげた。
「そういえば、なんか用だったか?」
「ああ」
すっかりものめずらしさに気を取られていたが、握りっぱなしだった荷物のことを今さら思い出した。器屋へ来る直前に切ったものだからしなびてはいないだろうが、早く水につけてやったほうがいいだろう。そうは思うが、らしくもないことをしようとしている自覚はあるのであらたまると妙に恥ずかしい。
「これを」
「花?」
皆城の家の庭に咲いていたシオンを切って束ねただけの、飾り気もなにもない包みを差し出す。なぜ花を差し出されているのかわかっていないようで、一騎は丸い目をさらにまるくして、きょとんと首をかしげた。
それでも素直に両手で受け取り、派手ではない花をしげしげと眺めている。
「なんで……あっ」
俺、誕生日か。気づいた一騎は顔をほころばせ、ふにゃふにゃと眉を下げた。心配しているわけではなかったが、ほほえんでもらえたことに胸のどこかがほっとゆるむ。
「おめでとう」
「……ありがとう」
手が込んでいるわけでも、入念に準備をしたわけでもないぶっきらぼうな花束を、それでも一騎はじいっと見つめて、ささやかな花弁を何度も白い指先でなぞった。
なにかに気づいて束ねられた一本を抜き取った一騎が、ちいさな花をそっと総士のほうへ伸ばす。
「これ、おまえの目の色だ」
ほおにふれたやわらかな花弁がくすぐったい。
お前の目を通して見た僕は、はたしてどんなふうに映っているのか。
握りしめた細い指は、ほのかな常夜灯の灯りのようにあたたかかった。
▼ (2019.9.21)