総士がいると、世界が明るくなったような気がする。
もちろん、そんなのは目の錯覚だ。
だけど、総士がただそこにいるだけで、視界がひらいて、心臓がどきどき動き出して、光はぱっとまぶしくなって、いつもより神経が研ぎ澄まされる、気がする。
「準備中」の文字を表に書きつけて店内に戻ると、総士はいつものカウンター席で、めずらしく持ち込んだ端末を真剣な顔で叩いているところだった。
ふだんは俺や遠見や暉と他愛ない話をしたり、ひとりで窓の外を眺めてぼうっとしていたり、持ち込んだ文庫本を開いていたり、仕事から離れてゆったりと過ごすことが多い総士だが、こうしてたまに、喫茶楽園で仕事をしていくことがある。
最初はたしか、総士だけじゃなく地下で働いてる人みんなが目に見えてぐったりするほど、システムの障害かなにかが連日続いたときだった。数日間さっぱり姿を見せなかった総士がやっと訪れてくれたかと思ったら、昼食もそこそこに持ち込んだ端末をくまの浮かんだ顔でにらみ出したので、「休憩なのに休んだ気がしないだろ」とあきれたら、総士はむっつりとしかめた顔を端末に落としたまま言った。
「地下にいるより、ずっと気が休まる。どうせ休憩中に仕事する必要があるなら、おまえがいるここの方がずいぶんいい」
それから突然、はっとして、僕が良くても、他の客の邪魔になるだろうか、と眉をよせて腰を上げかけた総士を、そういうことなら好きなだけ居ていいと、引き留めたのは俺だった。
それから総士はどうしても仕事が立て込んでいるときだけ、ときおりこうしてここで端末を叩いている。
ぐっと腰を伸ばすと、立ちっぱなしでこわばった筋肉がほぐれて気持ちがいい。
最後の客を送り出してランチを終えた店内はすっかり静かで、暉が食器を洗う音だけが響いている。「休憩にしよっか」と遠見が淹れてくれたカフェオレをありがたく受け取る。
「先に暉くんとお皿片付けちゃうね」
「頼む」
シンクの食器はふたりですぐに片付きそうだ。テーブル席とカウンターを拭いたことを確認して、むずかしい顔で手が止まっている総士のとなりに腰かけた。線の細い横顔をじっと眺める。
総士が仕事に追われてよれよれしているのを見るのは好きじゃないけど、総士が真剣な顔で仕事をしているところを見るのは、単純に好きだ。
籍を残しているだけでちゃんとしたパイロットとも言えない俺は地下に行くこともずいぶん減って、そのほとんどがメディカルチェックか、総士に会いに部屋に行くかだ。総士は俺が行くとなるべくすぐに端末を落として相手をしてくれるから、こうやってほったらかされて仕事をしている総士を眺めるのは新鮮だった。
それに、すごい勢いで流れていく数値や単語の意味なんて俺にはさっぱりわからないが、ファフナーから遠ざけられて、もう総士と共有できなくなった部分をなんとなく覗けているような気がして、寂しいけど、なつかしい気持ちになる。
なにより、疲れた、それでもしなければならないことがある総士がすこしでも快適な環境を求めて、結果、俺のいるここを選んでくれたことが、とてもうれしかった。
「……一騎、何かあるのか」
「あ、ごめん」
しばらく無言で白い指をすべらせていた総士が、困ったような顔でちらっと俺を見た。あんまり見つめすぎて、邪魔してしまったらしい。
軽く謝ると、首を傾げた総士がまた端末に目を落とした。伏せられた亜麻色のまつげが、まばたきをするたびに音でも立てそうなくらい長い。いつからか節の目立つようになった、それでも細く白い指が、こぼれおちる髪を耳にかける。集中を途切れさせてしまったばかりなのに、また総士から目が離せなくなる。
島へ戻ってきてからの総士の身体は、思い出したようにどんどん成長していった。
昔は女の子みたいなやわらかい輪郭で、それでも指は関節がうすく骨ばって、いかにも年ごろの少年、といった感じだったのに、どんどん背が伸びて肩や足がしっかりしてきて、俺が言うのも変だけど、気が付けばいつのまにかちゃんとした「男の人」って印象になっていた。追いついたと思っていた身長も、またすぐに離されてしまった。
もともときれいな顔立ちだとは思っていたが、歳を重ねるにつれて男っぽさを増した総士は、なんだか、ますます人目を惹く佇まいだ。
「一騎?」
「うん、おまえ……いい男になったな」
「は?」
「かっこよくなったよ」
九歳のあの日からの五年間ーー甲洋いわく四年と七か月と何日かの間、そばにいながらもみすみす見逃してしまった、そして一度失いこうしてとなりへ戻ってきてくれるまでの二年間、手放してしまった総士の成長を、まるで一騎の手に取り戻させてくれるように。今は、総士がうつくしく花ひらくさまを、すぐとなりで見守ることができる。総士の成長を実感するたび、そのことをたまらなく幸せに思う。
言いたいことだけ言ってひとりでうんうんうなずいていると、いやそうな、うんざりしたような顔をして、総士はため息をついた。
「……わけのわからないことを言うな」
そのまま端末の電源を落として、汗をかいたアイスコーヒーのグラスをぐっと煽る。
「もう終わりか?」
「そんな気分じゃなくなった」
お・ま・え・の・せ・い・で。と、口にはしなくてもそのきれいな目が言っている。
総士は自分のわからないところで話が進むのが嫌いだ。ちょっと機嫌を悪くしたらしい。とは言っても、いまさらそれで怯むような関係でもない。
「おい」
「休憩休憩」
椅子を寄せて、こてん、と頼もしい左肩に頭をのせてもたれかかる。ちょっと腰がつらいけど、直接総士の体温を感じたかった。総士がぶつぶつ文句を言っているのが聞こえるけど、これは別に聴かなくていいときの声色だ。
うん、本当に総士は、しっかりして頼もしくなった。
昔だって俺からすれば総士の声がゆるぎないものだったことに違いはないけど、今になって振り返ると、戦いがはじまったばかりの、俺たちがなにもわかっていなかったころの総士は、今とは比べ物にならないほどの細い肩で、薄い背中で、たくさんのものをひとりで抱え込んで、必死で立とうとしていた。なにもかも拒絶するようだった、小さかった、それでも当時はとてつもなく遠くに思えた少年の背中が蘇って、すこし切ない。
いまここで、こうして総士の肩になついていられる幸福に鼻がつんとした。
こっそり鼻をすすっていると、後ろでひとつに結った毛先が、つんと引っ張られる。
「……髪を上げているのか」
「最近な」
まだ短くてしっぽのようにぴょんと跳ねた毛先をつつく指先がくすぐったい。邪魔になった髪をまとめるようになって、このあいだふと食器棚に映る自分が目に入ったとき、そのぴょこんと跳ねたカーブに、かつての総士のかわいいしっぽを思い出したことはひみつだ。
「伸びてきたから、さすがにキッチンじゃ下ろしたままはまずいし。このほうが涼しいし」
なにがおもしろいのか、総士はまとめきれない髪を梳いたり、持ち上げたりしている。首をかしげつつも、総士がやりたいならと、さわりやすいように頭を上げてじっとしている。
そのうちに冷えたグラスでひんやりとした指先がうなじをなぞって、思わずびくっと肩が跳ねた。おまけに、へんな声が出る。
「ひゃう」
ガチャン、とキッチンの奥で大きな音がした。洗った食器を片していた暉が手をすべらせたらしい。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫大丈夫、割れてないよ。一騎くんは座ってて」
のんびりした遠見の声に、立ち上がりかけた腰を落ち着ける。遠見が言うなら大丈夫だろう。なんにせよ、怪我がないならよかった。
さて、と総士に向き直って、あらためてほおをふくらませて抗議の顔を向ける。
「俺がそういうのダメだって知ってるだろ」
「一騎はくすぐったがりだ」
「総士はいじわるだ」
精一杯怒った顔をしても、俺が本当に怒ってないことなんて総士はお見通しだから、さらっと涼しい顔をして肩をすくめている。
「ここ以外では、あまり上げるな」
一瞬、なんの話だ、と言いかけて、ああ髪のことかと思い至る。
ここ以外もなにも、総士のように腰まであるわけでもないし、ここでキッチンに入るとき以外は上げる必要もないんだけど、と思うが、特別否定する理由もない。総士みたいにやわらかくてきれいで、いい匂いがするような髪ならもう少し違ったかもしれないが、なんの面白みもない、硬い黒髪にこだわりもなにもない。総士が言うならそういうものなんだろう。
「わかった。おまえが言うなら」
素直にうなずけば、顔をしかめたまま総士はうなずいた。むっつり不機嫌な顔をしてみせてるけど、機嫌はふつうくらいに戻ったらしい。
調子に乗って、ついでに髪の話をしたから触れたくなって、立ち上がって総士の頭にそっと顔を埋めた。やわらかい細い髪がさらさらとほおをかすめる。ちょこんと行儀のいいつむじがかわいい。いつもは滅多に見られないつむじだ。
総士はされるがままで、突然抱きついた俺を、仕方なさそうに腕の中にちゃんと受けとめてくれる。うれしくて、胸いっぱいに息を吸いこんだ。清潔なせっけんと、ほんのすこし汗のにおい。それに、胸がざわつくような、締めつけられるような、どうしようもなく安心するような、総士のにおいがする。
頭の奥までじんと染み込む好きなにおいに、ほうっと力が抜ける。ここに端末を持ち込むほど研究が切羽詰まっているらしい総士に、力を抜かせたくていろいろと構ったけど、これじゃあどっちの休憩かわからないな。
「……一騎のにおいだ」
同じタイミングで総士がつぶやいて、エプロンの胸元に埋まった白いほおが、遠慮がちにすり、とこすりつけられる。腰の後ろで組んだ両手を、総士がきゅうっと握るのを感じる。
抱きしめてくれたっていいのに。
そうやって俺に触れないまま、ひとりでなんとかしてしまうくらいなら、抱きしめてくれたほうが、ずっといい。そうでなくても、総士が抱きしめてくれるなら、俺はいつだってうれしい。
だけど、総士がそうできないことも、よくわかっている。
胸がつまった。
こいつの、こんな不器用さに、だれも、気がつかなければいいのに。
俺がその不器用さを言葉にするたび、総士はいつも納得がいってないような顔でむっとするけど、べつにからかっているつもりも、治してほしいと思っているわけでもない。むしろ逆だ。総士がずっと、不器用なままならいいのに。このまま気がつかず、こんなふうな、無防備ないとしさを、俺にだけ見せてくれればいい。
本気で叶うとは思っていないけど、願うだけならタダだ。
だから、俺はずっと願っている。
総士がこんなにかわいいことが、どうか誰にもバレませんように。
「そろそろ行く」
「ああ。気をつけてな」
休憩中なのをいいことに、一騎先輩は総士先輩を扉の外まで見送りに行った。ランチの忙しい時間にはとてもこんなことできないし、総士先輩はたいていランチが終わる前には地下へ戻ってしまうから、さびしいのを我慢して毎日頑張っている一騎先輩に免じて、滅多にないこんな機会には目をつぶって許してあげる。……とは、遠見先輩の談だ。
「……今日もすごかったですね」
「うん。皆城くん、人目を気にしてたのは最初のうちだけだったもんね。すぐ一騎くんにほだされちゃって」
ちょっとひんやりした声で、ぐったりテーブル席に座り込んだ遠見先輩がため息をつく。
わりとそんなことをしている暇のないランチタイムにもなにかとやらかしてくれるふたりなのに、今日は他にお客さんがいなかったからか、いつにもましてひどかった。
一騎先輩が変な声をあげたときには、動揺してグラスを落としてしまったくらいだ。遠見先輩の押し留めるような目がなければ、あまりのことに途中で叫びだしてしまっていたかもしれない。
なにより信じられないのは、あんな会話と接触を繰り広げ、あんな空気を作り出しておいて、お互いにただの「親友」「幼なじみ」だと思っている、らしいことだ。
毎日のことなのでもう慣れてしまったが、慣れてしまったのがそれはそれでむなしい……と、遠見先輩とひそひそと話していると、ドアベルがカランと鳴って一騎先輩が戻ってきた。ただの見送りにしては、やたらと時間がかかったような気がすることには、やはり見て見ぬふりをする。
「なあ、暉」
「はっ、はい?」
ついさっき別れたばかりなのに、一騎先輩は窓越しに総士先輩が戻っていった道をぼーっと眺めている。と思えば、いきなり話しかけられて、心臓が跳ねた。
さっきの今だ、一体何の話だろう、と身構えて、
「総士がかわいいのが、誰かに知られたらどうしよう……」
「……はあ?」
がくっと身体の力が抜けた。
しらねーよ、とおよそ先輩に対するものとは思えない口調が口をつきかけて、ぐっとこらえる。こらえきれなかった切れ端が口から漏れた音を、相づちだと解釈したのか、いや、俺の返事なんてどうでもいいのかもしれない、一騎先輩は窓の外をみつめたまま、ぎゅっと顔をしかめる。
「あいつが、かっこいいだけじゃなくて、不器用でかわいいやつだって、誰かに知られたら……どうしよう」
いかにも、心配で心配でたまりません、みたいな顔だ。いつも明るくおだやかな声も、不安そうに切羽詰まっている。
思わず、助けを求めるように遠見先輩を振り返った。目を逸らされる。そんな。俺ひとりじゃ、こんなの、無理ですよ、先輩。
「……独占欲も大概にしてくださいよ」
疲労感についつい本音が漏れた。はっと一騎先輩を見れば、思いがけずきょとんとした目にぶつかる。どくせんよく、とどう書くかもわかっていなさそうな声がつぶやく。
そうだった。このひとたち、この歳になっても、まだこうなんだった。だからこそ周りの俺たちが、なぜか振り回されてぐったりしているんだった。そういえば。
安心したような、やっぱりむなしいような気持ちになってため息をついていると、ぽかんとしていた一騎先輩は、ちょっと考えるような顔つきになって、そして突然、なんと、みるみるうちに真っ赤になった。
「……えっ?」
「え?」
どうやら俺は、また余計な一言を言ってしまったらしい。
視界の隅で、遠見先輩の苦笑いだけがきらきらと輝いているように見えた。
▼ そこそこ察しの悪い総士とかなり察しの悪い一騎が喫茶楽園で何事かをやらかし、察しの鬼であるところの遠見さんを呆れさせ、そこそこ察しがいい暉からの当たりが若干強くなる という現象がすきです。(2018.7.11)