日勤を終えて帰宅した自宅の土間に、息子のくたびれたスニーカーはなかった。「ただいま」とすっかりくせになった帰宅のあいさつが虚しく響く。当然返事はない。
 この引き戸をくぐるたび、「ただいま」と言うと「おかえり」と妻が階段を降りて笑顔で迎えてくれたほんの短い時期の記憶が、いつも甦る。まだ「とうさん」と呼ぶことすらおぼつかなかったころから、息子にも「ただいま」「おかえり」と言う習慣はきっちりつけさせた。一騎の容態が優れなかった時期にには、どうしたって応える声のないしんと沈黙する空間に堪えたこともあった。それでもアルバイトから帰宅した一騎の「ただいま」とくしゃっと笑う妻に似た顔を見ると、片手に収まるちいさな宝物のようだった息子が、今では酔っ払った父に「おかえりだろ」とあきれた顔をできるほど大きくなったことを実感して、らしくもなく突然目頭が熱くなる日もある。
 さっさと着替えて久しぶりに土でも触るかと居間に上がると、台所に人の気配があった。一騎はたしか夜まで仕事だったはずだが、と首をかしげる。かちゃかちゃと音のする台所を覗きこめば、きっちりエプロンの紐を締めて、ひとつに結った長い髪を揺らす、自分と息子以外のもうひとりの住人の姿があった。
「総士くん?」
 あまりに見慣れない光景に、素っ頓狂な声がつい漏れる。
 真壁家の台所は一騎の城だ。家事は息子たちに任せきりになっている家主の史彦どころか、洗濯や掃除や、なにかと一騎の分担だった仕事を買って出ているらしい総士も、台所に入ることはほとんどない。
 かなり集中してじゃがいもの皮を剥いていたらしい総士は、史彦の声にびくっと肩を揺らして、あわてて振り返った。手の中のむきだしの包丁が危なっかしい。一騎が総士にあまり台所を任せたがらない理由がなんとなくわかった。
「しっ、司令! おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
 総士が真壁家で寝起きをするようになり、この「おかえりなさい」がごくあたりまえのように出てくるまで、時間がかかったと、感慨深く思う。いつも「お邪魔しています」とかつての習慣で頭を下げていた総士が、ある日「おかえり」となにげなく言う一騎に続いて「おかえりなさい」と言ったときは、つい一騎と顔を見合わせてしまったものだった。
「すみません、玄関の音が聞こえず……」
「いや、集中していたんだろう」
 後ろに立って総士の手元を覗きこむ。
「夕飯の支度か」
「はい。一騎は遅くまで楽園だと聞いたので。たまにはと……」
 総士が真剣なまなざしでじゃがいもと包丁を握り直す。
「何を作るんだね」
「し、シチューです」
 たまねぎ、じゃがいも、にんじん、鶏肉。しめじが用意されているのは一騎のシチューと同じだ。アルバイト先でホワイトシチューを作るときにはブロッコリーだのほうれん草だのも入れているようだが、一騎が自宅で出すシチューはいたって普通の、家庭科の授業で習ったとはじめてひとりで作ったときから変わらない、ごく平々凡々としたシチューだ。
「一騎が言っていた。総士くんのシチューはなかなか美味いと」
「いえ、そんな……」
 あまりに史彦が手元をじっと見ているからか、総士は照れくさそうにうつむいた。
 総士はなかなかていねいに皮むきをしているようだが、お世辞にも慣れた手つきとは言えない。いま取りかかっているじゃがいももたった二つめで、史彦の記憶に残るかなりぼんやりとした「シチューのつくりかた」の知識を当たったかぎりでも、このまま行くと一騎が帰宅するまでにすっかり完成するかどうか、かなり怪しいところだ。
「どれ、私も手伝おう」
「いえ、司令はゆっくりなさっててください!」
「これでも一人暮らしが長かったんだ。大体のことは任せてくれ」
 まだうにゃうにゃと言い募る総士をてきとうにいなして、隣に立った。腕まくりをしてたまねぎと包丁を手に取る。ようやく諦めた総士も、真剣な顔でじゃがいもの皮むきに戻ったようだ。一騎が小学校の授業でひととおりの料理を習ってしまってから、こうして台所に並ぶこともなくなった。フライパンへ史彦がきれいに落とした目玉焼きを待ちきれずに、椅子の上に立って落ち着きなく身体を揺らす一騎を叱ったのが、もうずいぶん前のことのようだ。
 一騎がはじめて割らずに作れた目玉焼きを、決して史彦には手をつけさせず、総士に食べさせる、とかたくなに言い張ったことを、なぜか思い出した。

「悪い、遅くなって! いま飯作るから……総士?」
「おかえり、一騎」
「おかえり」
 十八にもなって「ただいま」の前にどたどたと騒がしく階段を駆けあがってきた息子は、揃って自分を迎えた台所に立つふたつの長身に、少したじろいだようだった。
「た、ただいま。父さんも……ふたりで何やってるんだ?」
「見てわからんか。晩飯だ」
「……これが?」
 怪訝そうな顔の一騎がじろっと台所を見回す。それもまあ、そうだろう。計りにビーカー、温度計の散乱するシンク周りは、一見すると化学実験室のようだ。総士がこれほど数字にこだわるタイプだとは、まさか思ってもみなかった。コンロにかけた鍋の中身はくつくつと煮えながら、かろうじて一騎が台所に立つときのようないい匂いを発している。
 こんなのどっから出してきたんだ? と一騎が机の上に放置されたままの計りを手に取り、しげしげと見つめる。まだ鞄も肩にかけたままの一騎の背中を、ばつの悪そうな総士がおたまを持ったままぐいぐい居間のほうへ押した。
「も、もうじきにできる。座って待ってろ」
「いや、でも」
「一騎。たまには総士くんを信用したらどうなんだ」
「総士のことは信用してるけど……父さんも手伝ってるんだろ」
「なんだと。俺だって自炊くらいな」
「あーはいはい」
 むきになりかけた史彦を察してうるさそうにうなずいた一騎が、総士に押されるがままに台所から出ていく。鍋の煮える様子を確かめながら「総士、指とか切ってないか?」「バカにするな、そこまで不器用じゃない」と息子たちの会話を聞き流していると、一騎がふと振り返ってじっとこちらを見つめて、
「……じゃあ、よろしく」
 ふにゃ、と照れたような、笑顔とも、仏頂面ともいえない顔でもごもごと呟いた。

 完成したシチューはなかなかの出来だったが、仕上げをして盛り付けるまでの間、やはり落ち着かない様子でうろうろと何度も台所を覗きこんでいた息子に、
「お前、そうしてると司令にそっくりだ」
 と総士がめずらしく声を出して笑ったのは、史彦としては、若干不本意だ。

▼ (2018.11.1)