総士の背中はいつだって、規則正しくぴんと伸びていた。
 教室のいちばん前の廊下側。一騎の席からもっとも離れたところで。いつだって。ほんのすこしも、たわむことなく。

(……あ、)
 休憩室の自販機の前に律儀に背すじを伸ばして立つ後ろ姿が見えたとき、しんと心が冷えて、とうとう両脚が鉛になった。
 戦争がはじまって何十何百とくりかえすうちに、たたかいは日常になっていった。サイレンが鳴って、ブルクへ走って、運が良ければ死なずに済んで敵を倒して、ファフナーから降りてシナジェティックスーツを着替えたら、学校へ戻る。そうでなければ家に帰って、きのうのつづきみたいに家事にとりかかる。そんなふうに、はじめのうちは物珍しかったからだの痛みさえ感じなくなるのに、たいした時間はかからなかった。
 心だけは同じように慣れてはくれなかった。からだの痛みが平気になっても、めったにないことだけれど何十回かのうちにほんの数回、だめになってしまう。地上へ上がる気力もなく、いまにも倒れこみそうなからだをひきずってなんとか家へ帰っても、日常の風景に気持ちがゆらぐ。とにかくどこかへからだを預けたくて、更衣室で時間の感覚がなくなるほどぐったりと座り込んだこともあった。
 今日は。そのめったにない日だったらしい。システムを通じて伝わる総士の命令はきちんとこなせたし、敵も首尾よく倒した。機体の損傷もない。どこも、痛くない。それでも帰還してコックピットの向こうにブルクの無機質な壁が見えたとき、胸がふさがった。手足がひどく冷えて、あたまのてっぺんからつまさきまで全身に、目には見えない重りがのしかかっているようにからだが重かった。スーツから私服へ着替えてもなかなか気持ちが切り替えられず、アルヴィスを出ていつもの日常の中をなんでもないふりをして歩くのが、おそろしく億劫になった。気がつけば、のろのろとしか動かない脚は休憩室のほうへ向かっていた。
 そして見つけた、まぶたの裏にも描き出せるぴんと伸びた背中に、立ちすくんでいる。
 なぜ彼がここにいるということに想像が及ばなかったのだろう。何度も目の端でたしかめたその背中を流れる髪も、教室の窓から差し込む午後のけだるい光より、地下のつめたい人工の光を受けて透けるところばかりが思い浮かぶほど、この要塞と切っても切りはなせないものになっていたのに。
 総士だって戦闘のあとで疲れているだろうに、飲み物を選んでいるのか、じっとたたずむ背中にはすこしの隙もない。
 よくよく見なれた、いつもの背中だ。
 ————「先生、よく見えないので、前の席にしてもらってもいいですか」。
 あの教室でたしかに聞いた、一騎の罪をはらんで、しかし誰にもそれを悟られることなく、ひっそりと日常の色をこびりつかせ乾いて消えた言葉が耳の奥でよみがえる。
 何度も何度も、反芻した言葉だった。総士の声色、伺うように上がった語尾の甘いひびきさえ手に取るように思い出せる。——その声だけは。
 緻密なてざわりでずっとここにある質感と反比例するように、その瞬間のとりかえしのつかない焦燥感や、音を失った教室の中でばくばくと鳴り出す心臓の鼓動や、喉の奥でひっかかった石をむりやりのみくだすような苦しみは、ぼんやりと氷で薄まったコーヒーの味に似て、もはやひとごととして遠くにあった。
 きつく緊張していたつま先が、ぴくんとけいれんしてほどける。
 そうだ。いまさら。なにを勘違いしているのだ。日常が決定的に砕けちってしまうことも。壊れたはずの日常が変わらず素知らぬ顔をしてそこにあり続けることも。それらがたまらなくおそろしくなることも。一騎はよく知っている。けれど平気なのだ。ずっとそうして生きてきた。波立つ感情も、針を呑み込んだようにするどく痛む腹のどこか奥も、平気だと思えば平気になった。
 だから、いまさら。こんなふうにだめになってしまうこと自体、ばかげている。人を傷つけて壊して平気な顔をしている自分が、いまさら、こんなことくらいで、だめになってしまうわけがない。

 目の端でとらえた背中が振り返らないことを祈りながらじりじりと後ずさる。そろりと動かした脚は、おどろくほど軽かった。
 聞き覚えのある声が追いかけてきた気がしたが、それすらきっと、いつかの記憶の名残りだった。


*


 週に何度かある検査のあと、わずかに疲労をおぼえて立ち寄った休憩室で、見なれた背中を見つけた。
 一騎にとっては座って寝ているうちに終わる検査で、困ることといえば簡単な問診にときおり口ごもってしまうくらいで他に負担などないが、検査のあとはいつもからだが重かった。爪の先まで倦んだようなだるさに満たされて、完ぺきに管理された空調がずしりと肩を重くする。
 簡単にできていたはずのことができなくなる、わずかなみずからの感覚の違いよりも。たいした変化もなく前の結果よりもすこしずつ死に近づいていく数字よりも。うまく表には出さないようにしているが、張本人の一騎よりもよほど、その結果に思いつめているだろう千鶴の顔を見るほうが気持ちが沈むのかもしれない。
 検査のあとは仕事も休みをもらっている。さっさと帰って干しっぱなしの洗濯を取り入れなければ、と思ったが、どうにも気が向かない。
 ほんとうに、あと何年すれば自分は死ぬのだ、という実感のなさにも。
 じわじわと大きくなってゆく焦燥感と諦念のあいだで乖離する感情も。
 大丈夫だと、諦めるなと、さりげなく、こちらが気を使わないように声をかけてくれる周囲の反応になんでもないような顔で応えることも。
 とつぜんなにもかも放り捨ててただぼうっとしたくなる日が、ごく稀に訪れる。
 だから、何気なく向かった休憩室で見つけたいつものぴんと張った背中は、だらだらと廊下に張り付きがちだった足を止めて一騎を地下に留まらせるのに、それだけで十分だった。
「総士?」
 いつだって隙がなく制服をきっちり着込んでいる総士が、こんなところに私服でいるのはめずらしい。
 姿勢よくたたずむ背中がふとこちらを振り返る。やわらかく揺れるゆるく癖のついた毛先を見ただけで、ふんわりと胸が軽くなる。
「一騎」
「仕事は? こんな時間にめずらしいな」
「今日はもう切り上げた」
 深くため息をついた白い顔は、休憩室のほの暗い明りの下でなんだかいつも以上に青白く見える。調子がよくないのか、振り返って一騎の顔を確認するなり肩を落とした長身は微妙にかたむいて、前髪も心なしか乱れている。
 アルベリヒド機関で研究職についている総士は、ふだんならこの時間はまだ仕事中のはずだ。どうもこの様子からしてからだの調子が悪いというよりも、あの総士が早めに仕事を切り上げるほど、なにか仕事の調子がよくないらしい。
 このまま楽園に行くつもりだったのなら一緒に、と一瞬考えて、首を振った。総士が一騎の検査のスケジュールと勤務シフトを知らないはずがない。きっと、一騎がそろそろここに立ち寄ることくらい、わかっていたのだろう。
 自販機で二人分のコーヒーを買って二人がけのソファに腰掛けると、なにも言わずにくたびれた総士がついてきた。あたたかいコーヒーの缶を手渡しても開けるそぶりもなく、こつ、と肩に頭が預けられる。
「忙しいのか」
「忙しいくらいならよかったんだがな」
 よっぽどこたえているらしい。くたりと丸くなった背中が遠慮なくもたれかかってくる。くっついたところから、いつもより少し熱い体温がじわじわとしみこんでくる。傾いてすべり落ちた髪がほおをさらりと撫ぜて、くすぐったい。
「……おつかれ」
 甘すぎないシャンプーと総士がよくさぼりがちなコンディショナーと、それからほのかに汗のにおいのする頭にほおを寄せて、深く息を吸った。
 張っていた気が妙に抜けて、ずしりとからだが重くなる。さっきまで感じていたみたいな、からだの上の空気がとつぜん重さを持ってのしかかってくるような、指先まで鉛がつまってしまったような、海から上がって疲弊したからだを重力の中でひきずって不安定な砂浜の上を歩くような、重さとは違う。
 あたたかい風呂につかってじんわりと全身のちからがほどけるときのような、太陽の下で干した布団に寝転んで大きく息をつくときのような、心地のよい重みだった。
 そのままこちらもぐいぐいとからだを預けると、抱き寄せたくにゃくにゃの男から文句が上がったが、総士はのしかかる一騎をむりにどけようとはしなかった。
 やっと手の中のコーヒーに気がついて、一騎にもたれかかったままの総士がプルタブを開けようと取り掛かる。いつまでもかりかり遊んでいるだけで一向に開く気配がなかったので、取り上げて代わりに開けてやった。
 ミルクと砂糖入りの甘さにも総士は文句を言わずに、一口飲んではコーヒーのにおいのする息を深く吐き出して、満足げに目を閉じた。

▼ (2019.8.17)