「ただいま」
 いつのまにか習慣づけられていた帰宅のあいさつに、いつものあたたかく応える声はなかった。とっくに日付の変わった深夜に帰宅する家人を迎えるため、玄関灯と引き戸を開けた入り口にだけ明かりが灯っている。
 家の中はしんと静まって、人気のない居間も台所も暗い。当然だ。いつも夕食も摂らずにうつらうつらと船を漕ぎながら、仕事で遅くなりがちな総士を待っている一騎に、いいかげんに先に寝ていろときつく言い聞かせたのは自分だ。
 言いつけを守って先に布団に入ったらしい一騎に安心したはずだが、ほんのすこし、疲れた体を迎えてくれる笑顔がないことに、落胆してしまった。
 昼も食べる暇がなかったので胃の中はからっぽだが、疲労が大きすぎて空腹は感じない。正直、食事をするのもわずらわしい。シャワーも朝にして、もう眠ってしまおうか。
 そう決めてぐったりと惰性で覗いた居間の机に、ラップがかかったお椀とメモが用意されていて、足が止まった。
『食べる気しないかもだけど、ちゃんと食べろよ。
食べやすいようにおじや作ったから。チン3分。明日はカレーにするな。
ふとんあっためてまってる』
 つい笑みがこぼれて、鉛のように重かった体が、ほんのすこし動くようになった。持ちっぱなしだった鞄と上着を置いて、お椀を手に取る。まだほのかにあたたかい。
 レンジで言われたとおりにあたためたおじやは、ほんとりとだしがきいた、やさしい一騎の味だった。

 背中を向けてまるまってねむる一騎を起こさないように、そっと布団に入った。
 一騎の体温であたたまった寝具に、食事をして、歯みがきとついでに結局入浴もすませていっとき疲労が遠ざかっていた体に、おそろしいはやさで眠気が全身をめぐる。起こすようなことはしたくなかったが、ほんのすこしだけ、と一騎の後頭部に顔を埋めた。なじんだ清潔なシャンプーと一騎自身のにおいに、あたたかく満たされた腹のように、気持ちが満ちていくのがわかった。
 とろとろと落ちるまぶたに逆らわず、もぐりこんだそこの心地よさに思わず大きくため息をついたとき、息がうなじにかかってくすぐったかったのか、みじろぎをした一騎がねぼけた声を出した。
「……ん」
 あわてて体を離す。そのまま眠ってくれないか、と思ったが、何度か深呼吸をしたぬくい体がもぞもぞと動いて、両手がなにかを探すようにぱたぱたと布団の中をさぐる。緩慢なうごきで寝返りを打った一騎が、目を閉じたままお目当ての総士をみつけて、ゆるんだ笑みを浮かべながらすりよった。
「……そうし…?」
「ああ。ただいま」
「おかえり……」
 起こしてしまったな、とささやくと、一騎はゆるゆると首を振って、総士の頭をそっと抱き込む。おそくまでたいへんだな。ふろはいった? いーにおい。と眠気に浸された意識のようにとろけた声で、夢見心地につぶやく。いいこいいこ、と口には出さないまでも子どもをあやすような手つきで髪を梳かれる。ふだんなら、けして嫌ではなくても気恥かしくけわしい顔をしてみせるようなあまい仕草に、からだの中からほかほかとあたためられるような心地がする。
 おだやかに上下する胸もとへ、おもわず顔をすり寄せた。すっきりした柔軟剤のにおいと、ふわふわした肌ざわりのいい冬の寝間着がきもちいい。今日はランチ営業がえらく忙しかったこと、常連のお客さんが教えてくれたおいしいおでんの出汁の取り方、帰りに寄ったいつものスーパーで野菜が安かったこと。おだやかな日常をぽつぽつと一騎が子守唄のようにささやくたび、ほおをくっつけた、あたたかくしっかりとした胸もとから一騎の声がしみこんでいく。ふだんよりも舌足らずで、トーンを落としたすきとおった響きが、体に積もった疲労や感情の澱を溶かしていくようだ。
 一騎のあたたかい足先が、するりと絡まった。すんすんと総士のにおいを味わってすっかり弛緩しきっていた一騎だったが、総士の足の冷たさに驚いたのか、ぴくっと反応する。
「あし、つめた……」
「すまない」
 風呂上がりにはだしのまま髪を乾かしたり食器を洗ったりしていた足先は、もうすっかり冷えきっている。一騎の体温であたたまった布団に入っても、なかなか同じ温度になるには時間がかかる。寝具の中でゆっくりとあたたまった一騎の足には余計に冷たく感じただろう。
 あわてて離れようとした総士の足を、一騎のぬくもりがやさしく引き留めた。
「一騎?」
「いいから。あっためてやるよ」
 足、つめたいと、ねれないだろ。
 ふれあった一騎の肌から、じんわりと体温がしみこんでくる。冷えきった足先があたたまるにつれて、また眠気がまぶたを重くする。やわらかい手つきで髪を梳かれて、ときおりたわむれのようにくるくると指に巻きつけて遊ばれるのが心地いい。満足げに深呼吸をすると、布団の中に満ちた、柔軟剤やシャンプーや一騎の、いとしい日常のにおいで胸がいっぱいになる。
「……おやすみ」
 半分ねむりに落ちた意識の中で、ひたいにやわらかくくちびるが落とされる感触がした。ずしりと重かった体はいつのまにかふわふわと軽くなっている。いい夢が見られそうだった。

▼ (2018.11.11)