ぐう、きゅるきゅる、と腹の鳴る音が、傾いた日の差し込んだ静かな居間に響いた。
広げた新聞に隠れて、ちゃぶ台の反対側で取り込んだ洗濯物を畳んでいた息子たちふたりの様子をそっと横目に伺う。
データを処理していたタブレットを机に置いて一騎を手伝っていた総士のしろい耳がじわじわと赤くなる。なるほど、彼がそこそこボリュームのあった音の主らしい。
「……あ、もうそんな時間か」
総士のシャツにアイロンをかけながら、のんきな声でつぶやいて一騎が時計を見上げる。およそこの家にはデリカシーという言葉はもともと存在しないが、それにしても、とひっそりとため息をついた。
総士はいたたまれない様子でうつむき、むっつりと顔をしかめている。この息子の疎さは、はたして自分に似たのだろうか。
皆城総士がフェストゥムの無からこの島へ帰還してはや数週間。総士はすっかりこの家にも馴染み、復学した高校での学生生活とアルヴィスでの職務の合間に、地下の彼の居室とこの家をほとんど連日往復するような暮らしを送っていた。夕食だけともにして帰る日もあれば、泊まっていく日もある。
さて、朝は焼いた鰯に甘く炊いたかぼちゃをつぶしたサラダ、さやいんげんのごまあえ、それに茄子と油揚げの味噌汁が出てきた。たいてい「総士、おかわりは?」と一騎に手を差し出された総士は白米をおかわりするので、ついついつられて史彦も食べ過ぎてしまいがちだ。もっとも一騎は生まれてこのかた、父親相手におかわりは? などと聞いてくれたことなどない。
昼は一騎の作った弁当を地下で食べた。そこそこに大きいおにぎりがふたつ。焦げ目のない黄色のたまごやきに、しっとりと味の染みた豚の西京焼き。それにピーマンとちくわを炒めたのや千切りにしたにんじんのきんぴらなど。
食の好みも自分に似たのか茶色い献立ばかりだったはずの息子は、最近になって料理の彩りという概念を得たらしい。
おまけに、今まで弁当など作っていったことなどなかったくせに、やたらと出勤前に「弁当あるから」と渡されることが増えた。弁当箱などいつのまに買ったのか。学校では総士も同じ中身の弁当を食べているに違いない。
朝も昼もなかなかの量を食べたはずだが、そろそろ夕飯時にさしかかろうとしている今、史彦もさすがに空腹を感じている。ましてや総士は食べざかりの高校生だ。腹が鳴るほど減ったのも当然だろう。
支度するよ、と立ちあがりかけた一騎を留めて、総士はあわてて腰を浮かせた。
「そろそろお暇する」
「何言ってんだよ。晩飯、食べるだろ」
ふだん息子ひとりで畳んでいるときよりも五つも六つも細かく分類して仕分けされた洗濯物の山の中心で、膝立ちのままふたりが向かい合う。
「いや、しかしこう連日」
「いまさらだろ」
心底ふしぎそうに首をかしげた一騎の言葉にうなずくように、総士の薄い腹からもう一度ぐう、と大きな音が鳴った。
「ほらな? うちで食べたいって」
くすっと笑う一騎に、いよいよ総士のほおは赤くなって、ぱくぱくと口を開閉させている。
昨日も一昨日も総士はうちへ泊まっており、今日も地下は非番だと言うので、学校終わりにそのまま一騎と帰ってきた。そのあたりで妙に遠慮しているのかもしれない。
一騎がひんぱんに総士を家へと呼ぶことを、もちろん、史彦は歓迎している。
今では検査を除いてほとんどアルヴィスの事務に関わらない能天気な立場の一騎が無邪気な顔で「やくそくな」と勝手に決めてしまうと、総士は若干根を詰めてまでみずからに割り振られた作業をはやめにこなし、予定を確保しようとするところがある。しかし、心配要素といえばそれくらいで、身内のいない総士のひとまずの保護者としての立場から念のため「あまり総士くんに無理を言うんじゃないぞ」と息子に釘をさしはしたが、総士自身がこの家で過ごす時間を好んでくれていることも、よくわかっていた。
もうじきに一騎が満足すれば、この頻度も落ち着いて彼に迷惑をかけることも減るかもしれない。それでも息子とふたりきりだった静かなこの家に、おしゃぶりをしていたころからもうひとりの息子のように近くで見守ってきた住人が増えることは、史彦としても手放しがたい心地のよい生活だった。
「総士くん」
「はい」
ばつが悪そうにしかめ面をしていた総士を呼ぶと、助けを得たと言わんばかりのほっとした顔で、ぱっと表情を明るくしてこちらを見る。
「食べていきなさい」
一騎に味方する内容を告げると、総士はちょっと困ったように目をひらいた。そうしているとずいぶん年相応に見える。
ぼうっとしている息子と違って、ふだんからきっちりと引き締まった顔をしていることの多い総士のめずらしい面食らった表情は、見ていてほほえましい。
総士はあきらめたように目を閉じて、うなずいた。
「……では、お言葉に甘えて、いただいていきます」
最初から俺が言ってたのに、とくちびるをとがらせて一騎がぶつぶつすねている。いいかげん十六にもなって父親にいわれのない対抗心を抱くのはやめないか。
一騎の言うとおり、総士はこの家で過ごすことに、ひとつも遠慮などしなくてかまわないのだ。引け目を感じる必要はない。何度もそう伝えているつもりだが、昔とは違ってただの「幼なじみのおじさん」ではなくなってしまった、上司と部下としての立場が総士に気を遣わせてしまうらしい。
無事総士に夕飯を食べさせる予定を確保した一騎が洗濯物の残りを託して、夕飯の支度してくる、と立ちあがり、大きく伸びをする。遠慮のない動きに、よれたTシャツの下からだらしなく腹が覗いている。
「総士、何食いたい?」
「僕より司令に聞け」
「えー、じゃあ父さん、何がいい?」
えーとはなんだ、えーとは。
「なんでもいい」
「それが一番困るんだって」
一騎は本気で嫌そうに顔をしかめ、ぺたぺたとはだしの足音を立てながら台所へ向かった。
そう言われてもこちらも困る。なにせこの夏は総士のもとへ足しげく通うのに忙しい一騎の「父さん、何食いたい?」にめずらしく(というかこの十六年でほとんどはじめて)気を回してみた結果、痛い目にあったのだ。
みずからの身体が本調子なわけでもないのに時間の許すかぎり総士のそばに居たがる一騎に、史彦はまず、食事は溝口のところでなんとかするから気にしなくてもいいと言ったが、それはそれでかえって「あんまり溝口さんに迷惑かけるなよ」とたしなめられてしまった。ならば、と「簡単なものでいい、冷たいものが食いたい。そうめんでいいぞ」と史彦なりに気を遣ってみたが、今度も一騎はむっと眉を寄せた。どうやら冷房もない台所は大鍋にぐらぐらと湯を沸かすとサウナのように蒸すらしく、作る側の一騎にとって、とてもではないが「簡単な」「冷たい」ものではなかったらしい。
おまけにその後の何食かそうめんが続いたので、つい、五食目にしてぽろりと「飽きたな」と本音をこぼしてしまったところ、たいそう一騎の機嫌を損ねたようで、そうめんの次は蕎麦、冷やし中華、うどん、ラーメン、冷や麦――と、数週間つづく麺攻めに遭ってしまった。
適当に野菜を物色する一騎が、台所から声を上げる。
「総士ー、和食と洋食だったらどっちがいい?」
「ん……洋食がいい」
「腹減ってるよな。簡単にピラフでもしようか」
本格的に料理にとりかかりはじめた息子を、新聞越しに納得のいかない気持ちで見やる。俺だって、そういうふうに聞かれれば答えられる。
総士は残された洗濯物の山を細かく分類する作業に戻り、やがて分類を終えると、史彦のものは史彦の部屋に、一騎と自分のものは一騎の部屋に、それにタオルのたぐいは台所と脱衣所にと、それぞれにせっせと仕舞い、忙しくしているようだった。
しばらく脱衣所から戻らないので様子を伺うと、なんと風呂の掃除をしてくれていたようで、ズボンのすそをまくりあげたまま風呂場から戻ったかと思うと、そのまま台所へ入っていった。今度は夕飯の支度を手伝うらしい。なるほど、史彦のいない間もこの調子が常なら、どおりで最近やたらと息子に「父さんはなんにもしないから」とちくちく責められるわけだ。とはいえ、ふだんなにもしない史彦が下手に手を出すと、それはそれで一騎を怒らせるのだ。
並び立つ息子たちふたりの後ろ姿を居間からぼんやりと眺めるうちにマーガリンとたまねぎの炒まる空腹をくすぐるにおいがしはじめ、じゅうじゅうと小気味良い音がしばらくしたあと、あっという間にあたたかい湯気の立つ皿が運ばれてきた。
さすがに徹頭徹尾なにもしないというのは気が引けたので、冷蔵庫によく冷えた麦茶のボトルを取りに行き、ついでに湯のみも三つひっかけて居間に戻る。
「いただきます」
「いただきます」
「……いただきます」
スプーンを手に取りながら言う息子と違ってきっちり手を合わせる総士を見るたびに、公蔵はこういったしつけに厳しかったな、と思う。
献立は、ピラフに、しめじとベーコンのコンソメスープ、無造作に千切りされたキャベツとトマトのサラダだ。総士がひんぱんに家に来るようになってはじめのうちははりきった料理を作っていた一騎も、さすがに最近は簡単なものを作ることも増えた。ちなみに、父子ふたりの食卓では「ピラフ」などという単語はまず登場しない。味付けが和風だしと醤油だろうと、マーガリンとコンソメだろうと、ごま油と鶏ガラだろうと、全部が「やきめし」だ。
食べざかりの子どもふたりと大人の男ひとりにこれだけでは足りないので、昨晩の残りの里芋のコロッケと、買ってあったチャーシューを切って焼いたものも一緒にちゃぶ台に並べられた。頓着していない無造作な取り合わせだ。だが、はっきりと口には出さないものの、総士はどちらかというとこういった所帯じみた献立のほうをよく好んでいた。
「総士、おかわりあるからな」
やはり腹が減っているのだろう、いただきます、のあとのスプーンを持つ動作がいつもよりすばやかった総士は一騎の言葉に無言でうんうんとうなずいて、もぐ、もぐ、と熱心に食べ進んでいる。小さいころにしつけられたからか、一騎や史彦のように大口を開けて食べたりせず一口は小さいが、スプーンの進みは相当に早い。
毎回のことながら三人とも無言で、テレビもつけていない静かな居間に響くのは、食器とスプーンがこすれるかちゃかちゃという小さな音くらいだ。開け放した窓の網戸越しに、最近聴こえはじめた虫の音が届く。
ふだんそこまで早食いではない総士があっという間に食べ終え、スプーンを置いて立ち上がった。
「おかわり?」
「ああ」
「あっためるよ。座ってて」
「すまない」
総士と自分の皿を両手に持った一騎がこちらを振り返る。
「俺も食べよう。父さんは? まだいるか?」
「食べる」
鶏肉とたまねぎとコーンのピラフは喫茶楽園のメニューのようにパセリこそかかっていないが、口の中でぱらぱらとほどけて、コンソメとコーンの甘みがちょうどいい、なかなかにうまいものだった。総士がこうして一緒に食卓を囲むようになるまで、洋食が出てくることはあまりなかったが、こういうのも悪くない。
二杯目のピラフも一心にたいらげ、スープとサラダ、それにちょこちょこつまんでいたコロッケやチャーシューまできれいにさらって、冷たい麦茶を飲み干した総士がふうっと満足げな息をついた。満腹になったら今度は眠気がおそってきたのか、涼しげな目元がわずかにとろりとほどけている。
「ごちそうさまでした」
「ん」
きっちり手を合わせた総士に、まだ口をもぐもぐさせている一騎がうなずく。トマトをほおばったところなので無言のままだが、目元はわかりやすくゆるんでいる。今朝も「総士、なんか、最近よく食べるんだよな」とうれしそうにぼやいていたばかりだ。
「ごちそうさま」
スプーンを置くと、自分の分のついでに総士が麦茶を注いでくれる。
「ありがとう」
「あ、麦茶もうないな。新しいの出してくる」
冷蔵庫で冷やしている二本目のボトルを取りに行った一騎の後ろ姿を見送って、台所に聞こえない程度のちいさな声で総士がぽつりとつぶやいた。
「いいですね。司令は、毎日一騎の料理が食べられて……」
いや、たしかに、うまい食事を用意してもらっているのはありがたいが。……総士くんも一度、あの麺攻めを受けてみるといい。あまりに総士が本気でしみじみと言うのでついそう言いかけたが、あとで息子に叱られることがわかりきっていたので、口をつぐんだ。
「……あいつは、君とも毎日一緒に食事をしたがっているが」
「いえ、そこまで世話になるわけには」
ぼうっと口に出してしまった自分の言葉をあとになって我にかえり恥じるように、総士がきゅうっとくちびるを噛む。少しずつ大人の輪郭に変わってゆく、少年を脱しはじめた横顔を眺める。
食事をしただけで、一騎にあんな顔をさせられるのは、きっと世界中のどこを探しても彼だけだ。
「総士くんが本当に迷惑なら、私から一騎に言おう。だがもし、そうではないのなら……私も、君がこの家に帰ることを歓迎している」
手持ち無沙汰に食べ終えた食器を重ねようとして、史彦の作るうつわの個性の前にあきらめた顔をしていた総士がはっと目をひらいて、うつむいた。
「……ありがとうございます」
麦茶のボトルと冷やしていたぶどうを手に台所から戻った一騎が、会話の端をとらえてなんの話してたんだ? とのんきに首をかしげた。
▽
風呂から上がると、息子たちは流しにつけた食器を片しているところだった。総士が泡を洗い流しすすいだ食器を受け取って、一騎がふきんで拭いて食器棚に仕舞っている。
上がったぞ、と声をかけようと台所に近づき、はだしの足がふたつ並んだ光景をなんとなく見つめる。漏れ聞こえてくる、流れる水の音に紛れるような会話に耳を傾けた。
「おまえさ、なんか最近でかくなった?」
「いまさらか?」
やっと気づいたのか、と総士がおかしそうな声でうなずく。
フェストゥムの無からふたたび作り出された総士の身体は、当初、彼が一度消滅した十四歳当時のものとまったく同じ数値で再現されていた。かつてはほんの少しだけ総士の方が大きかった身長に、二年のあいだに一騎はとっくに追いついていた。
彼のとなりに立つとき、二年前とちがってぴたりと並んだ視線に、それが示す二年の月日を実感するたび、一騎がうれしいような、さびしいような、表情をしているところを何度も見た。
ところがつい先日の定期健診で、総士の身長が同世代の通常の人間と同程度――どころか、もっと急速に、伸びつつあることがわかった。より詳しい細胞レベルでの検査も今後必要になってくるが、ひとまず現段階での千鶴の見立ては、彼の身体に起こったこの変化は「通常の成長期」だ。
「そっか。……背、伸びたんだな、おまえ」
「なんだ」
「なんでもない」
成長するということは、変わっていくということだ。
変わっていくということは、生きているということだ。
総士の生をつなぐ糧をみずからの手で用意できることは、きっと一騎にとって、他のなににも代えがたい幸福なのだろう。
居間の柱には今でも、かつてふたりが競うようにして刻んだちいさな身長のしるしが残っている。
子犬の兄弟のように手を取りあい日々をともに過ごしていたふたりにねだられ、ほんの数ミリずつ大きくなっていく頭の高さを、史彦は毎週のように柱に書きつけた。総士のほうがほんの少しだけ発育がよく、なかなか追い抜けないわずかな差を、一騎はくりかえし悔しがり、少しでも追いつこうと熱心に白米をかきこんだものだった。
いま、息子は自分よりわずかに上にある、みずからが刻んだ傷をたたえるまなざしを、とろけそうなほどやさしい顔で見つめている。
「総士、袖」
「ああ……すまない」
流水に手を突っ込んだままの総士の長袖がずるずると落ちてきたところを、一騎が後ろからまくってやっている。くすぐったそうに目元をゆるめる総士にほおをよせる息子の顔は、なにもかもでもって、こうして並び立てる今がしあわせなのだと訴えるように、笑みくずれていた。
狭い台所でよりそうふたりに割り込むのはそれなりに気が引けたが、せっかく総士がぴかぴかに磨いて湯を溜めてくれた風呂が冷めてもよくないので、一騎、と声をかける。
「上がったぞ」
「うん」
ふりむいた一騎がちょっとしらけた顔でちらりとこちらを見て、流しの蛇口を閉める。
「あと俺やっとくから、総士、続けて風呂入れよ」
「は、いや」
「冷めちゃうから、ほら」
まだ手を濡らしたままの総士をせかす声を背中に聞きながら、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。湯で温まった身体を冷ましながら、どうせまた、風呂から上がった総士に「泊まっていくだろ」と迫っては断られるだろう息子に、なんと言って味方してやろうかと考えることにした。
▽
「総士?」
消灯後の船内でばったりと鉢合わせた顔をつい口になじんだ名で呼んでしまったのは、彼を取り戻せた安堵と長く変化に乏しい輸送で、柄にもなくほんの少し、緊張の糸がとぎれてしまったからなのかもしれない。
船内をうろついていたところを見つかり、ばつが悪そうな、焦ったような表情を浮かべていた顔が、呼ばれたみずからの名に、なれなれしく呼ぶな、と言いたげなとげとげしい敵意に満ちてまっすぐにこちらを射抜く。
とはいえ踵を返すつもりはないらしく、子どもは袖を余らせ何度も折り返したツナギに包まれた腕を組んで、無言でその場に居座ることに決めたようだった。強気な子だ。
どちらも口を閉じたまま、しばらく場を支配していた重苦しい沈黙は、そこそこボリュームのあるとつぜんの音に破られた。
ぐう、きゅるきゅる。
……なるほど、彼の身体はちょうど食べざかりなのだろう。
数時間前に夕食を終えたところだが、三度おかわりをした大盛の白米もすっかり消化してしまったのか。ハンガーストライキを中止せざるをえなかった総士の食べっぷりは、見ていてこちらが気持ちよく思うほど見事なものだった。大きな音を立てた自分の腹に、うつむきこそしていないものの、しろい耳がほのかに赤くなっている。
予想よりもずっと早く成長していた身体は、しかし、かつてはじめてファフナーで戦ったときの息子よりも、まだわずかに小さい。理不尽に奪われてしまった彼の時間を思うと湧き上がる感情があるのも確かだが、前へと進んだ時を戻すことはどうあっても不可能だ。ただ、これまでの、そしてこれからの総士の成長がすこやかであることを、願うしかない。
ふとほほえめば、馬鹿にされたと思ったのか傷のないまなざしが、きっとこちらをにらみ上げる。
「あすの昼食はカレーらしい」
「……だ、だからなんだ」
きっと好物なのだろう、カレー、の響きに一瞬だけゆるんだ目元は、今は海の底に沈む、柱にいくつものしるしを刻んだ家で何度も見たものと、たったひとつを覗いてまるで生き写しだ。
彼の記憶にあるその味は、あの島で「家族」とともに食卓を囲んだときのものだろうか。それとも。
いつか、プラスチックのスプーンで大きく口をひらいてほおばっていた味を、彼がふたたび知ることがあればいい。
感傷的にそう祈ってしまうことくらいは、まだ幼い子どもの身に残酷な選択を突きつけることしかできない不甲斐ない自分にも、はたして許されるだろうか
▼ 楽園ミュートス3の無配でした(2019.6.23)