「ふあぁ~」
完全にちからの抜けたなさけない声が、がらんと大きい浴場にひびいた。
ほどほどに熱い湯に肩までとっくりと浸かる。銭湯「竜宮城」の湯は温泉でもなんでもないはずだが、自宅の古びて狭いそれとちがって、大きなゆぶねにはやはり特別な解放感がある。
タイル張りのゆぶねのふちへくったりと顎を乗せた一騎を、やはりおなじくどこかとろけた総士の声が咎める。
「こら。髪が浸かるぞ」
「そーしだってむかしは気にしてなかっただろー」
一騎ほど茹だった青菜のようにだらりとしてこそいないが、そういう総士だって、ふだんはぴんと伸びた背筋がいつもよりもくんにゃりとたわんでいる。
いまはもう使うもののいない皆城の屋敷を、ふたりで片づける。いままでにも行ってきた日常の、何度目かの作業の帰りだった。そろそろ初夏といってさしつかえない温度になりはじめたこのごろ、窓を開けて風を通してはいるものの、蒸し暑い洋館の室内で動き回っているとどうしたって汗だくになる。
熱中症にでもなるまえにきょうはもうこのあたりで切り上げようとふたりで皆城家を出て、はやくシャワーを浴びたいとだらだらと歩いていた総士の部屋への帰り道、ちょうど営業を開始した竜宮城の前を通りがかったのだ。
以前は――よく、戦闘終わりに皆でそろってここへ来たものだった。総士はあまり熱に強いたちではないから、いつもまず最初に浴場から引き揚げていた。真壁家でいっしょに狭いゆぶねに浸かっていた幼いころも、一騎のあそびに付き合わせてのぼせさせたことが何度かある。そのくせ、総士は女子を入れてもいちばん髪が長いので、乾かすのにいっとう時間がかかっていつもみじたくを終えるのは最後だった。一騎も細い髪を乾かす手伝いを幾度もしたものだ。
さらにそのあと、同期から、いなくなるものが出てからは。自然とそういうことは、減っていった。ここの営業主が――その家族が、かなしみに打ちひしがれていたということもある。いままでと変わらない場所で、いままでと変わらないことをして、そしてだれかの不在を思い知ることを、皆が怖がっていたということも、あるだろう。
後輩たちにもその伝統は引き継がれているらしい。戦時下ではないいまも、大規模な戦闘訓練のあとにはここへ立ち寄っているようだ。そのままであればいい、と一騎は思う。自分たちにはできなかったことを、日常を後輩たちにはずっと、長い間、味わっていてほしかった。
だから、こうしてだれかとここへ来るのは久しぶりだ。ちょうど営業開始とともにやってきたので、広い浴場はふたりだけの貸し切りだった。いつもの常連が来るにももうすこし時間があるから、ゆっくりして行きな、とふたりぶんの入浴料を受け取った保はものめずらしそうな顔で笑っていた。
総士は髪をうしろでひとつにまとめて結っていた。むかしはそんなこと気にしていなかったのに、腰ほどまで伸びた髪が湯に浸かるのを気にしたのだろう。もしかしたら、からだに貼りつくそれがわずらわしかったのかもしれない。
脱衣所で服を脱ぎ捨てているときにも「おまえも伸びてきたんだから髪をあげたらどうだ」と言われたが、あいにく楽園のバイトが休みの日に一騎は髪ゴムを持ちあわせるようなたちではない。そう告げると、総士はあきれたようにため息をついていた。
しかしたしかに、髪と身体をざぶざぶと洗ってのんびりとゆぶねに浸かりながら、濡れた髪が首筋に貼りつくのはすこし気持ちが悪い。たっぷりと水気を含んだ髪先からぽたぽたとしたたる雫もくすぐったい。
洗われた犬のようにぶるぶるとあたまをふると、全身をほんのりとピンク色に上気させた総士が水音をさせながら近づいてくる。
「まったく……」
濡れて首筋に貼りついた伸びた髪を、熱くほてった指がまとめてかきあげてくれる。声色とはちがってやさしいその手つきに、タイルにほおを預けたまま一騎は機嫌よく笑った。
「ふへへ」
急所をなでるその動きが、くすぐったくてきもちがいい。ほどほどの疲労感と、あたたかいゆぶねと、そしてとなりには総士がいる。こんなにあたたかい手つきで、一騎の髪をかきあげている。
あたたまったからだと陶酔感に心地よく目を閉じていると、一騎の髪を探っていた長い指がぴたりと止まり、そしてとつぜん総士がざぶんといきおいよく立ちあがった。
「……一騎。上がるぞ」
「え? もうのぼせたのか?」
一騎としては、もうすこし浸かっていたい。総士が湯に強くないのはむかしからのことだが、それにしてもきょうは早すぎる気がする。こうしてゆぶねに浸かってからまだ五分と経っていない。
「ちがう。……いいから。もうじき常連のおじさんたちも来るだろう」
「だからなんだよ?」
要領を得ない総士に若干むっとしながら、となりのほてったからだをのろのろと見上げる。むかしのように、上がりたいなら総士は上がればいい。どうせまた髪を乾かすのに時間がかかるのだ。それなら一騎はもうすこしここにいる。一緒に上がれと言われるいわれなどない。
そう思ってじとりと総士を見あげたのだったが。
「……ここ」
どこかきまりの悪そうな総士に、つん、とつつかれた場所。うなじの、ほとんど生え際にちかい、皮膚のうすいそこ。
心当たりがあった。
総士の部屋に泊まったおとといの夜。同衾したベッドの中で、あまい刺激とともに総士のうすいくちびるが吸いついた場所だ。
「……あー、」
応とも否とも、どちらともつかない中途半端な声が出る。なぜこんなにも早く、しきりに総士が一騎を上がらせたがるのか、やっと理解した。たしかに、こんなところに虫刺されができるには、まだすこし季節が早い。しかし。
「だったら、おれも、悪い」
えいやっとゆぶねから立ちあがり、一騎も総士の首をそっとなでた。ぎりぎり前からは見えない、首筋のなかばあたり。なめらかなそこには、ぽつんと灯った赤い点があった。いまは湯にあたって上気した桃色の肌であまり目立ちはしないが、さめたあとの総士の白い肌ではけっこう目立つだろう。
いつも髪を下ろしている総士だから。いつもなら、見えない場所だから、かまわないだろうと。……一騎が残した痕だ。
「……上がるか」
「……ああ」
ふたりでなんとはなしにうなずきあって、ゆぶねから出る。こんなおそろいの、夜の名残のような痕をつけたままで、平和の象徴じみたあかるい日差しの差し込む公衆浴場にふたりそろって居続けるのは、たしかに、なんとなく気まずい。絞ったタオルで全身をぬぐう。一騎としてはまだ若干物足りない気もするが、なんだかちがう意味でからだがあたたまってきた。
そうだ、上がったら、髪も濡れたままひさしぶりに瓶入りの牛乳でも飲んでみよう。一騎はフルーツ。総士はコーヒー。むかしからそうだった。
そして総士が髪を乾かすところを手伝ってやろう。前よりも髪が伸びたから、せっかく風呂を浴びたのにきっと総士はドライヤーでまた汗だくになってしまうだろう。そうしたら、ドライヤーの冷風でも浴びせてやろう。なびく髪のその合間には、きっと桃色の痕がちらちらと覗くだろうが。
ふりかえった浴場はあかるい。ふたりが脱衣所への扉を開ける音が、からからとひびいていた。
▼ 一時間でひとつ作品を作り、つぎの一時間でそれを交換して文や絵をつける、という遊びを好きな人とさせてもらったときに、私が書いた文です。(2020.5.4)