毎週月曜日と水曜日、それに日曜日はバイトの日だ。
 拘束時間は五時間。制服支給。休憩あり。有給休暇・保険あり。給料は……まあそこそこ。かんたんな接客業だ。
 俺が最初にこのバイトを見つけてきたとき、「お前に接客業なんて務まるのか」と心配した頼もしい幼なじみが一緒にはじめてくれることになった。仕事の内容は違ってもシフトはかならず一緒になるから、バイト中はずっとそばにいられる。だから週に三日のバイトの日が楽しみで、いつも朝からそわそわと落ち着かなくなる。
 虹色にきらきらひかる、貝がらの裏側みたいなうろこがたくさん縫いつけられた、作りものの尾びれ。それが俺の制服だ。
 よっこいしょと腰から下に尾びれを履いて、上半身はたいてい裸。たまに重くてじゃらじゃらしたネックレスをつけたり、波にそよぐ透けた布でできた服みたいなものを渡されることもある。
 作りものの尾びれをゆっくり動かしながら、ぶあついガラスでできた大きな水槽の中で、魚と一緒に泳いだり、底に沈んだ大きな人工の岩の上にねそべって休んだり、外から覗きこむ人に笑ったり手を振ったりする。それだけのかんたんな仕事だ。それに、わりと楽しい。
 俺と総士のバイト先は、むかし海にいたいきもののことを調べるところらしい。たしか「海洋なんとか」とか「なんとか古代生物」とかいう、舌を噛みそうな長くてしかつめらしい名前がついているが、何度聞いても覚えられない。総士はよく噛まずにすらすらと言えるよな。
 ほんとうはむかしの海にこんなに派手で目立つ人魚はいなかったらしいけど、「幅広い来館者に研究所に親しんでもらうためのデモンストレーション」だそうだ。たしかに何度か見学した展示スペースにあるパネルや剥製は、ほとんどが黒とか灰色とか暗い赤とかの、海の中にまぎれてしまいそうな色の人魚ばかりだった。人魚は深海に住んでいたらしいから、真っ暗な中であんな色ばっかり見てたら気持ちが沈みそうだよな、仲間がどこにいるかもわからなくなりそうだ、と総士に言ったら、「天敵から逃れるためにそういうふうに進化したんだろう。もっとも、浅瀬から深海に逃れて早々に絶滅したようだが」とあきれた顔でため息をつかれた。「勤務先の研究内容くらい知っておけ」とも。
 俺のからだはどちらかというと人よりも水に近いみたいで、ほんの何回かの息つぎをすれば、人よりもずいふん長い間、もぐっていられる。空気の中にいるよりも水の中にいるほうが、不思議と息ができるような感じがするときがある。小さいころに死んだ母さんも泳ぐのが好きで、土の上に立つよりも水の中にいるほうが多かったと冗談まじりに父さんが話していたのを聞いたことがある。
 総士のほうがよっぽどおとぎ話に出てくる人魚みたいな見た目をしているのに、総士はどうやら水には好かれなかったらしい。何度か一緒に水槽を試したけれど、結局いまは飼育員のほうに落ち着いた。俺がゆらゆら遊んでいる水槽のとなりに待機して、見学者が来れば展示解説やむかしの人魚の生態解説をするのが、総士の仕事だ。
 水槽は、人魚が人魚のかたちになった最初のうちに住んでいた、あたたかくて浅い海を再現している。岩の上でうつぶせにねそべって、カーテンから差し込む日光みたいにゆれるひかりを透かしながら、きれいな総士のまじめにひきしまった横顔を眺めるのが好きだ。腰まで伸びたふわふわのやさしい色の髪も、朝日が差し込む波間みたいな目も、水の中で見られたらきっともっときれいなのに。
 閉館時間を迎えてうす暗くなった館内からひと気がなくなって、見学者が途切れず、せわしなく解説をしていた総士が一息ついた。バイト中の総士は人魚の尾びれの動かし方やフェロモンを使ったコミュニケーション方法なんかを小難しい顔で説明する合間にちらっとこっちを見るだけだったから、ちゃんと見てほしくなった。近くへ泳いでいって、内側からぺたぺたガラスをさわる。
「かずき」
 と総士の口が俺の名前のかたちに動く。水槽の外で俺のからだのしくみや生態を解説する総士のかわいいくちびるから聴こえるはずの、落ち着いた心地いい声が聞こえないのはほんのすこしさびしい。
 いつまでもガラス越しににこにこ笑うばかりで水槽から出ない俺に、顔をしかめた総士が立てかけられたはしごをのぼった。水面から覗きこんでなにか言ってるみたいだけど、やっぱり聞こえない。きっと早く出てこいとか、勤務時間は終わったぞとか、言ってるんだと思う。むかしからなぜか水に惹かれる俺を、総士はいつもひとが生きる空気の中へひきとめようとしてくれる。
 ぷは、と総士のところまで浮き上がって、ふちにかけた手を掴まれた。すこし強引に引き揚げられる。いくら高めの水温に設定されているといっても、やっぱりからだは冷えていたらしい。あたたかい。もっと総士の体温を感じたくなって、その首に腕を絡めて、口を吸った。

 ぬくくてやわらかい。さらさら乾いていたそこが、何度もくりかえし吸うたびにしっとりぬれて、口の中の粘膜をなめあうときみたいにお互いに絡む。やけどしそうに熱く感じる首筋を指でなぞれば、縋ったからだがぴくんと震えた。濡れた細い髪がぺたりとはりつく。総士と俺の体温が溶けあってまざっていく。
「……一騎」
 うるんだ肌にまとわりつく息苦しい空気を震わせて、俺を呼ぶ総士のまっすぐな声がする。
 水槽から引き揚げられた作りものの尾びれの先から、ちゃぷん、と水滴がしたたった。




 一騎は笑っている。
 昔から海が好きな子どもだった。海辺で育った子は大なり小なり程度の差こそあれ、たいていが海を遊び場にして育つ。総士も例に漏れない。今でこそ屋内で分厚い専門書でもめくっているほうが落ち着くが、小学生のあたりまでは毎日のように放課後になるなり皆に混じって浜辺へ走っていた。このあたりの人間は、どこまで行っても途切れのない黒々とした海にうんざりしてしまったもの以外、おおむねそんなものだ。しかし一騎のそれは飛びぬけていた。すこし異質だった。
 閉館のチャイムが鳴った。何時間かぶりに人の波がとぎれて、ちいさくため息をつく。天候の荒れた週末、来館者はいつにもまして多い。いくらアルバイトといえど、今日はもうこれ以上なにも話したくない。光の届かない深海に生息した人魚の目は大きく発達していただの、猫と同じく輝板と呼ばれる光を反射する層があっただの、人魚にたいした興味はない総士にとってはつまらない解説だ。ある程度の人数にひびくよう、声を張っていたのどはからからに乾いている。海にも人魚にも、ましてや古生物にも興味はない。総士がここで飼育員まがいのまねをやる理由はたったひとつ、水との対話ばかり覚えた幼なじみに、息の吸い方を思い出させるためだ。
 二百トンの水量に耐えうるアクリルガラスの水槽の中の一騎は、いつも笑っている。光を反射してちかちかとまたたくにせもののうろこはまるで星のようで、色あざやかな魚の群れにも劣らずまぶしい。来館者は誰もが足を止めて、手を振る一騎に見とれる。ゆったりと人工の岩に横たわった拍子にぷくぷくと口の端からこぼれる泡を見上げたり、底のほうでじっとしているおとなしいハタタテハゼをつついていたずらをしたり。いつも息苦しそうな顔で、教師が示す黒板には見向きもしないで教室の窓から海を眺めていた男と同一人物だとは思えないほど、それこそ水を得たさかなのように。
 いつだったか一騎が、吸っても吸っても息ができない、とこぼしたことがある。海の中にもぐっているほうが、うまく息が吸える気がする、と。泳ぎのうまい子どもだった。禁じられた沖のほうにひとりでいっては、何時間も戻らないこともあった。仲間内で潜水時間を競えば、一騎に敵うものはいなかった。五分を過ぎてもいつまでたっても浮かんでこない一騎に、全員で青くなったこともある。一騎にえらはない。……ないはずだ。
 人魚は天敵に温暖な浅瀬の海を追われて、生きるために深く深くへともぐっていった。結局は深海に適応しても、大きな星が落ちてきて絶滅した。猛毒の酸素をからだへ取り込む危険を冒してでも、最初に陸へ逃れることを選んだものだけが、地上を這いずりまわりながらも生き残った。
 総士はときおり、おそろしくなる。ひとが持つ二重らせんの中には、かつて生まれた海への帰り方が書き込まれている。感受性が強いものの中には、海に呼ばれて二度と帰ってこないひともいたという。一騎の母もそうだったのだと、いつだったか彼の父と総士の父が話しているのを聞いた。
 奪われてなるものか、と思った。
 人心地ついた総士に気づいて、一騎がゆらゆらと近寄ってくる。そうし。肩のあたりまで伸びた黒髪をたゆたわせながら、一騎のくちびるが動く。アクリルガラス越しでは、一騎の声は聞こえない。たとえ厚さ百ミリのガラスがなかったとしても、一騎と総士の間を水が隔てているかぎりは。
「一騎」
 勤務時間は終わったというのに、いつまでも水中にいる一騎をにらみつける。にらまれた男は機嫌がよさそうににこにことほほえんで、内側から水槽をぺたぺたと撫でるばかりだ。しびれを切らして、立てかけられたはしごを乱暴に音を立てながら上った。どうせこの音だって聞こえやしないのだ。
「いつまでそこにいるつもりだ」
 水面を覗きこんで声を張れば、ようやくふやけたからだがぷかりと浮かんできた。水から上がることをためらうように、重力でおもみの増したからだを厭うように、この期におよんでふちに手をかけたままのろのろとなかなか出てこようとはしない一騎を待ちきれずに、すこし強引に引き揚げる。
 うつむいた首筋に、濡れて腕がからんだ。つめたいくちびるがふれる。ひえた指先が脈打つ血管をなぞって、ぴくりとからだがふるえた。水槽から出たばかりの体温のない一騎は、遠い昔に絶滅した異形のいきもののようで、すこしだけ、おそろしい。じりじりとなかなか温度のうつらないくちびるに、焦燥感がつのる。
 やがてぬるくあたたまったくちびるから、ふう、とあまったるく息が吹き込まれるとき、総士はいつも妙な不安でざわついていた胸をなでおろす。やっと一騎の指とくちびるの感触を、ただそのままに味わうことができる。ほほえんだ一騎のくちびるからもぐりこむ熱い器用な舌を、このうえなく失くしがたいものに感じる。
「……一騎」
 ちゃぷん、とまがいものの尾びれからしたたる水の音をかきけすように、名前を呼んだ。
 いつか海が一騎を呼んでしまうかもしれない。
 だから総士は何度でも繰り返す。猛毒を含んだ大気をふるわせて、たったひとりのここにいる人間に、息の吸い方を思い出させるために。

▼ 水槽で人魚のバイトをしている一騎 虹色にひかるひれがついた作りものの尾びれを履いて、水槽の底の人工の岩につながれた鎖が伸びる首輪をつけて、水槽を覗き込む人ににこにこと笑ったり手を振ったりするバイトの一騎(2018.12.12)