一騎先輩が遅刻した。遠見先輩も総士先輩も口をそろえて一騎先輩のことを朝が早いと言うし、実際、一緒にモーニングから入っている日でも、おれが出てくるころにはもうすっかり店の掃除も仕込みを終えたあの人がキッチンに立っていることがほとんどだから、これはものすごくめずらしい。これで遠見先輩とふたりきりなら良かったのに、残念ながら先輩のシフトは夕方からだ。
 ちょうど家を出かけたときにかかってきた電話で焦った声の一騎先輩に指示されたとおり、植木鉢の裏の予備の鍵で店を開けて、ランチ用の仕込みを半分ほど終えたころ、まだねぐせをつけたままの一騎先輩がさわがしくばたばたとかけこんできた。一応セーフ。開店時間には間に合った。
「悪い暉!」
「おはようございます。一騎先輩が寝坊なんてめずらしいですね」
「おはよ、あー……ああ、急に頼んで悪かったな」
「べつにかまいませんけど……夜ふかしでもしたんですか?」
 さっとえりあしをくくってエプロンをつけた一騎先輩が、さっそくスープをとっている鍋の様子を見ようとお玉を手にとって、ぎくりと固まった。
「ん……あのさ、はずかしいから遠見には言わないでくれよ」
「言いませんよ」
 というのは方便で、おれは一騎先輩とは違って作戦も大事に練るタイプなので、あんまりまぬけな理由なら笑い話をよそおって遠見先輩につげ口する気まんまんだ。それに、くやしいけど、一騎先輩の話題を出すと、遠見先輩はいつもより楽しそうに笑ってつきあってくれる。
「じつは昨日、総士のところに泊まってさ」
 あ、前言撤回。これは言えないやつだ。
 はずかしそうに顔をしかめた一騎先輩がセロリの浮く鍋につっこんだお玉をぐるぐるかき回しながら、それでもさっき一瞬言いしぶったのはなんだったんですか? と言いたいくらい、軽い口調でしゃべる。
「あいつの部屋、狭いだろ。だからいつも一緒のベッドで寝るんだけど」
 総士先輩の部屋の広さなんて知らないし、あんたらがどうやって寝てるかなんて知りたくありませんから、と口をはさもうとしても、本格的に工程の増えたキッチンであちこち指示されたとおり切ったり焼いたり混ぜたりしているうちに、どんどん話が進んでしまう。
 もしかしてこのまま朝の空気に似つかわしくないような、湿った夜の気配を纏う寝坊の原因を教えられてしまうんだろうか。一騎先輩ってそういう話するタイプだったんだ。いや、ていうか、ていうか、先輩たちのそんな話は聞きたくない!
 すみませんでした遠見先輩に言ってやろうと変な気を起こしたおれが悪かったです、と謝ろうとしたとき、目をうるりともさせないで山のような玉ねぎをみじん切りにしていた一騎先輩が、ぽつっとつぶやいた。
「起きたとき、あいつの布団、すっごい、いいにおいしてさ」
「……は?」
 手元もまともに見ないまま、慣れた手つきでトントンと小気味よい音を立てて白い山をこさえる一騎先輩は、なぜかちょっとうっとりしたようななにかを思い出しているような顔で、ほおをピンク色にしている。
「あー総士のいいにおいだーって思ってちょっと目つぶったら、次起きたときにはもう出なきゃいけない時間過ぎてた。悪かったな」
 あいつ、朝早くから会議だって先に出ちゃって、ぜんぜん起こしてくれないんだもんなー、と言う一騎先輩の口ぶりが、まるで一緒に暮らす恋人を責めるときのようだったことに、つまり言葉こそ責める体をなしているが、その声がとんでもなくあまったるくてどう聞いてものろけられているようにしか聞こえなかったことには、必死で気づかないふりをする。
「いや、……いや、いいですけど……」
 どうせランチにやってくる総士先輩をどんな顔で迎えればいいんだ、とぐったり身体の力が抜けるのを感じながら、おれにできたのは「その話、先輩こそほんとに遠見先輩には言わないでくださいよ」と言うことだけだった。

▼ (2018.10.23)