「真壁くん、結婚したの!?」
 となりのテーブルできゃーっとざわついた声が上がった。
 話していたやつと思わずそちらを向けば、身を乗り出した女子たちに迫られて、真壁一騎が照れくさそうにほほえんでいた。聞こえてきた話のとおり、左手には指輪が光っている。
 結婚式呼んでよー! と口々にあがるすねたような声に、真壁はちょっと首をかしげて、困った顔で笑った。
「式はしなかったから」
 意外だった。真壁はうちのクラスでも、中心に立つわけじゃないが浮いているわけでもなく、マイペースになじんでマイペースに距離を保っているような立ち位置だった。そんなそつのないやつだったが恋人がいるといううわさひとつ聞いたことがなく、いつもとなりのクラスの仲のいいやつ――名前は忘れたが――とニコイチのイメージで、五年前には恋愛なんかにまるで興味がなさそうだったのに。
 耳をそば立てようとしなくても、周りで騒いでいるやつらの声が大きいのでおのずと耳に入ってくる。なんでも、お相手は同い年で婚姻届を出したのは去年の夏。高校を卒業して働いていた真壁と違って相手は学生だったから、就職先が決まるのを待って届けを出したそうだ。仕事の関係で相手が姓を変えるには不都合だったから真壁のほうが変えてもかまわなかったが、「自分にとっても愛着があるからそのままでいてほしい」と言われ、別姓にすることにしたらしい。
 高校を卒業してから五年ぶりの同窓会だ。結婚相手のことを根掘り葉掘りと聞かれることを嫌がるかと思いきや、真壁はうれしそうな顔で笑って訥々と新婚生活のことを話していた。どこか朴念仁じみていた真壁も、やはり新婚となれば浮かれてしまうものらしい。
 さして親しくはない相手だが、こうして久しぶりの友人と騒いでアルコールの入った席ではそんなやつの幸せそうな顔もなかなかに良い肴だ。真壁のはじめて見るようなふやふやととろけた顔になんとなく俺もいい気分になって、そしてふわふわとしたそのかけらはいつのまにか懐かしさのはじけるやりとりの中に薄まって消えていった。



「あ、よかった。まだ起きてた」
 ほどほどによくアルコールの回った頭のまま機嫌良く立ったトイレで、個室から聞こえてきた声に一瞬びくっと肩が跳ねた。
 あたりをきょろきょろと見回す。誰もいない。店内のよっぱらいたちが大きくなりがちな声で騒ぐ音だけが扉越しにくぐもって聞こえてくる。回転が遅くなった脳みそで、これは俺に話しかけられているのか、返事をするべきなのか、と手洗いの鏡を覗き込んだままひとり滑稽に目を泳がせていると。
「ああ。そう、まだ途中だけど……声聞きたくなって。だって……最近忙しくて、帰ったら寝るだけだったろ」
 ああ、なんだ、電話か。
 さくさくと会話を進めてゆく声に、ほっと胸をなでおろす。どうやら騒がしい店内を流れて、私用の電話中らしい。会話の内容からして家の人だろうか。
 ……いや、どことなく聞き覚えのある声だ。聞き覚えどころかーーついさっきの宴席で聞いていた。この声は、よくよく聞けば真壁じゃないか。
 真壁は結婚祝いと称してまわりからさんざん飲まされていたわりに顔色ひとつ変えずふふまいもいたってしらふのように見えたが、どうやらそこそこ酒に強くはあってもやはりそれなりに酔っていたようだ。
「酔ってないよ。……ふふ。ちょっと酔ってるかも。ええ? やだよ、ちゃんとおかえりのちゅーして」
 ……ほとんど用をなさない大衆居酒屋の薄い個室の扉越しに聞こえてくる声は、高校からこのかた、いままでにちょっと聞いたことがないくらいに、とろとろの甘々だった。
 いやあ、熱々なことで。なるほど、あんな顔で語っていた結婚相手のことだ。あの真壁がこうなるとは、結婚とはかくも大層なものなのか。
「……ああ。終わったらすぐ帰るから。寝ないで待ってろよ。……牛乳? わかった」
 ついさっきまでみんなと喋ってたのとはぜんぜんちがう、あまりにあまったるい声にこちらの居心地が悪くなってくる。こんな、きっとほんとうに大切なたったひとりにしか聞かせないのだろう真壁の声を、俺がこんなふうにこそこそと聞いてしまってもよいものか。いや、しかしなにもわざとじゃない。偶然トイレのタイミングが、真壁のタイミングと合っただけだ。
 とはいえ、やはり盗み聞きは良心に響くので、真壁に気づかれる前に早々に席へ戻ることにする。扉に手をかけたとき、間一髪、真壁もそろそろ電話を切るらしいやりとりが耳に入った。
「……うん。……うん。じゃあ、そろそろ戻る。……おれもすきだよ、そうし」



 飲み会の定番に違わず、席に戻るころには話題はすっかり別のものへと変わってしまっていた。今度のトレンドは、二クラス合同で行われていた体育の受け持ちだった教師の悪口らしい。なかなかに融通の効かない頭の硬い教師で、顧問をしているバスケ部の部員にすら懸案されているような男だった。
「でもさあ、真壁くんのことは妙にお気に入りだったよね」
「そりゃお前、真壁は何回も助っ人で男バスに駆り出されてたから……」
「あの子、真壁くんと仲よかった一組のさ、目が悪かったから球技は見学多かったけど、あの子もノータッチだったじゃん。やっぱ真壁くんと仲よかったからなのかな」
 ああ、そういえばそんなこともあった気がする。マット運動や長距離走はきまじめに参加していたが、目に障害があるらしく球技は比較的見学をしがちなやつがいた。
 そいつが真壁とニコイチだった別のクラスのやつだ。ひとり体育館の隅に腰掛けて、長袖の体操着で所在なさげにしていたそいつに、真壁はいつもタイミングがあるたびに駆け寄って笑顔を見せていたっけ。なんだっけ。名前はたしか。
「えーと、ミナシロくん」
「みなしろ……あ、あー! 皆城な」
 そうだそうだ。フルネームは、そうだ、たしか皆城総士。学年の中でもかなり上位に入る成績優秀者で、見た目も悪くなかったから一組の春日井に次いで学年でもモテているやつだった。とはいえ真壁と同じく恋愛にはあまり興味がなかったのか、告白はいつも丁寧に断っていたらしいが。あいつへの告白記録については、玉砕の結果しか聞いたことがない。
 ーーん? ソウシ?
 いまほとんどうすれかけていた記憶の隅から思い出した名前のはずなのに、どこかつい今しがた聞いたような既視感に首をひねる。同じクラスの真壁とすらそこまで接点のなかった俺だ。ましてや他のクラスの皆城となんて、ほとんど会話すらしたことがなかったはずだが。
 ーーおれもすきだよ、そうし。
 ついさっき盗み聞きしてしまったばかりの、この世の甘いものをぜんぶ集めて煮詰めて凝縮しても足りないくらいに、いとしくていとしくてたまらないのだという気持ちがにじみ出た声が脳裏に蘇る。
 ああ、そうか。もしかして。なるほど。
 恋愛なんかにはまったく興味のない朴念仁ふたりだと思っていたがーーじつはそれはとんでもない俺たちの思い込みだったのかもしれない。
 なんだ。真壁、よかったじゃん。
 休み時間のたびに、合同授業のたびに皆城にしっぽを振る犬みたいに駆け寄っていた真壁の姿を思い出す。あんなにも全身全霊で大好きだ、と訴えられる相手と家族になれたことは、きっと、真壁にとってもこの上ない幸せだったにちがいない。
 だってあんなにも、皆城のことを無防備なしあわせそうな顔で語っていたのだから。
 あーあ、俺もそろそろ、人生をひとりで生きていくことに覚悟を決めるべきかな。まったく予想もしていなかった相手から、人生を左右する決断を見せつけられ、俺はほんのすこし落ち込みながらウーロンハイをぐっと飲み干したのだった。

▼ (2020.4.14)