早起きした朝は、心のすわりがいい。
 開け放した窓から、肌ざわりのやわらかいぬるい風と雀の声がふきこんでくる。ぐっとのびをすると、スウェットから上着の裾がするりと抜けてむきだしの腹がすうすう冷えた。首と肩をぐるぐる回して、肩甲骨や筋肉がほぐれる感覚がきもちいい。
 いつまでもまとわりつこうとする眠気を断ち切るように、腹の底から大きなあくびをひとつ。肺いっぱいに吸った息は、春のにおいがした。
 スリッパを履くのを横着して、はだしをぺたぺたと言わせたまま台所へ向かう。日曜のきょう、飲食店勤務の一騎は残念ながら出勤の予定だが、名残惜しくあとにしたベッドに残してきた総士は休みだったはずだ。いつもよりゆっくり摂れるだろう朝食は、和食にしようか、洋食にしようか。
 コーヒー用のお湯を沸かしにケトルのスイッチを入れる。ふつふつと沸き立つ音を聴きながら、頭の中に冷蔵庫の中身を思い浮かべ、献立を組み立てた。せわしなく音を立てるケトルにかすかにまじる、パタン、パタパタ、と遠くでいう音に頬がゆるむ。
 手早く覗き込んだ冷蔵庫を閉めるなり、うしろからそっと腹に回された手と、肩にかかる重みについふふふと笑みがこぼれた。
「おはよ」
「……」
 背後からぎゅっと抱きついてきたぬくいからだは、なにやらくちのなかでうにゃうにゃつぶやいている。昨晩お互いにはしゃいで使いすぎてかすれた喉でかろうじて「おはよう」と言っているみたいだ。休みの総士がこの時間に起きてきただけでも充分だろう。春の総士は、冬のそれにくらべると、ほんのすこしだけ朝が早くなる。
 きのう職場でうまい味噌をもらったのを思い出して、きょうは和食にすることにした。冷蔵庫に眠っていたこれまたもらいものの鰆の西京焼きに、総士が好きな甘めのたまご焼き。ほうれんそうのごまあえ。冷蔵庫に残っていたかぼちゃの煮たやつ。シンプルに豆腐とわかめの味噌汁。ご飯が炊きたてでないのが悔やまれるところだ。
 卵の殻を捨てたりほうれん草を洗ったりと台所を右へ左へうろうろすると、うしろのひっつきむしもとろけた足でとぼとぼとくっついてまわる。重い。それに邪魔だ。むきだしの首筋と耳の近くですうすう息をされてくすぐったい。それでも総士の体温に包まれたからだはうそをつけず、顔がふにゃふにゃと崩れた。
 掃除のしやすさやいくつかのメリットとデメリットをふたりで相談して、新居を探すときの条件のひとつに決めたIHコンロだったが、こうして総士を背中におぶったままでも火のもとを気にせずにいちゃいちゃできるのは、意外なメリットのひとつかもしれない。
 たまご焼きをフライパンからまな板に落として、冷ましながら切れはしを口に放り込む。うん。きょうの出来もいい。反対の切れはしをくっついたままの総士に差し出してやると、やわらかいくちびるが雛のようにすなおに開いてぱくりと飲み込んだ。うまい、とお褒めの言葉が、総士が顔を埋めた左肩にもぐもぐと吸収されてゆく。あとは鰆の焼き上がりを待つだけだ。
 腹にまわった左手の、すっかりなじんだ指輪をそうっと撫でた。つめたいはずの金属は、寝起きの総士の体温でゆるく温まっている。一騎の左手にあるものとおなじ。
 結婚するまでと、してから。ふたりの日々の生活はたいして変わっていない。もともと一緒に暮らしていたし、氏もお互い変えないことにしたので、いまのところ、ほとんど違いというものはない。
 これから長い時間を一緒に過ごすのなら。一緒に過ごす、唯一の人だとお互いを定めるのなら。事実婚をとるよりも、法的な後ろ盾や権利の擁護があったほうがいいだろう、などと総士はたくさんいろんなむずかしげなことを考えて、考えて考えて、一騎との結婚を決めたようだが。
 一騎にとっての理由は、ただひとつだ。
 こうして人肌の恋しい朝、総士のすぐ手の届く場所で、その手が伸ばされることを待っていたい。ただの恋人同士であったときとはちがう、そんな生活をこれからずっと総士と営んでもよいのだと、一騎にとっての結婚とは、そういう、総士との約束だ。
 早起きした朝は、心のすわりがいい。しあわせのにおいがする。ていねいに頭を取ったいりこのだしのにおい。卵の焼けるにおい。肩になつく総士の、一騎が選んだシャンプーのにおい。ふわふわに整えたスウェットの柔軟剤のにおい。朝からきまじめに磨いた総士のくちびるから香る、歯みがき粉のかすかなミント。
 開け放した窓から差しこむ光が、ちらちらとほこりを照らしている。春のにおいがした。

▼ (2020.3.9)