皆城総士のワークデスクを想像してみてほしい。
 シンプル。機能的。簡素。物がない。無駄のない配置―――うん、おおむねそんな感じだ。あいつの人となりをある程度知っているやつなら、だいたいなんとなく予想がつくと思う。
 と言っても、実際に勤務中の総士を訪れるやつはなかなかいないから、まあ、あくまでも想像だろう。アルベリヒドの研究区画は奥まったブロックにあり、所属の違う人間が出入りすることはめったにない。各分野のエキスパートが揃ったアルヴィスの中でもあそこは特に秀才ぞろいで、フロアの雰囲気にはやはり独特なものを感じる。
 俺はメモリージング解放前の習慣を引きずる質だったのか、いまだに端末に慣れなくてちょっとしたメモや伝言はいちいちポストイットに書いてしまうタイプだが、あそこの研究室を見てると、絶対になにがあっても端末でしかやりとりしませんって強い決意を感じるようなアナログな筆記用具や紙を徹底的に排除したデスクや、逆に突き抜けまくってそれデータ見えてますか? ってくらい殴り書きされたポストイットまみれの端末が紙の資料に埋もれたデスク、かなりクセの強いブースが散見されて、はじめて訪れたときにはなんとなく必要以上に萎縮してしまったことを覚えている。
 かくいう俺もメディカルルーム勤務なのでそうそう用事があるわけでもないが、千鶴先生についてパイロットたちの医療補佐をしている関係で、他の人間よりもちょっとだけ、顔を出す頻度は高い。あとはまあ、昼に総士を誘って喫茶楽園で食べることも多かった。という体で、なかなかの頻度で仕事にのめり込み食事をおざなりにしがちな総士を楽園へひっぱっていく役目を、一騎直々に頼まれたからだった。
 さて、話を戻そう。さっきの極端な例でいくと総士はわりと前者のタイプで、デスク上に筆記用具は置いていないし、紙媒体を使っているところも見たことがない。あいつの脳は複数の思考を並列できるから、メモを取りながら整理をするということがないんだろう。必要なやりとりもたいてい内線か、不在ならメールで済ます。端末とコーヒーの入ったマグだけ。そういうタイプだ。
 そんな総士の無機質と言ってもいいようなデスクに、ひとつだけ、不釣り合いなものがある。
 端末の横にちょこんと置かれた、黒猫のメモスタンド。
 五センチほどの金属製の棒の先端がクリップになっているタイプで、その下には、後ろ脚で一生懸命立ち上がり、前脚を伸ばしてメモを触ろうとする、いかにも愛らしい黒い子猫のマスコットがくっついている。
 はじめてそれに気づいたとき、あまりに総士と結びつかないかわいらしいメモスタンドの存在に、俺はちょっとぽかんとしてしまった。
 総士が特別猫が好きだと聞いたこともないし、だいたい総士の性格からしてメモスタンドは必要ない。
 特に目を惹いたのは、そのメモスタンドに挟まれた、支給品であるパステルカラーのメモの内容だった。
『今日はちくぜん煮』
 はい。いま意味がわからなくて頭にはてなマークが浮かんだやつ。大丈夫。俺も同じ気持ちだった。
 高校を卒業して以来、総士がなにか書いてるところなんて見たこともないが、総士の字でないことはわかった。総士の字はもっとていねいで、几帳面だ。あいつの性格が出たわかりやすい字をしている。この字は見た感じ、細かいことにこだわらずとくべつていねいに書こうというつもりもないような、男の字だった。
 おまけにそのメモは、総士のデスクに寄るたびに変わっているようだった。
『じゅうなんざい買ってきてくれ。緑のやつ。』
『洗濯物たのむ』
『風呂掃除ありがと』
 などと、かなり総士と近しい、どころか、一緒に住んでるのかこいつ? とますます疑問が深まるような内容ばかりだ。ていうか柔軟剤くらい漢字で書けよ。
『きんもくせい』
 の端的なメモとともに、どこかから拝借してきたらしい橙の小さい花が飾られていることもあれば、
『いそがしくても食べること』
 と、少し怒りがにじんだような殴り書きの下に弁当箱が置いてあることもあった。ちなみにあとで覗くと、総士はおとなしく食堂でその弁当を食べているようだった。ついでに給湯室の洗いかごにそれが伏せてあるところも目撃したので、メモの主の言いつけどおりきちんと完食し、弁当箱まで洗ったらしい。
 いつ訪れてもあまりに総士が平然と気にもかけない様子なので、なんとなくメモについて詳しく聞くのもはばかられた。聞けば簡単に教えてくれたのかもしれないが、こいつにこういうふうに親しい人間がいると思うと、妙にそれだけで気分がよくなって、はじめて恋人ができた息子をこっそり見守るようなほほえましい気持ちになった。
 そのうちに俺も慣れて、あまり他人のあからさまにプライベートなやりとりを盗み見るのは褒められたことではないとはわかっていたが、おっ、今日の夕飯はさばのみそ煮か、と、その漢字の少ないメモをちらっと目視するのが習慣になってしまった。
 で。実はだ。けっこうな枚数のメモをこっそり見続けたある日、ようやく俺にもその正体がわかるときがやってきた。
 めずらしく、本当にめずらしく、総士が午後からの休暇を申請していたその日の午前中、パイロットのメディカルチェックについて打ち合わせに行ったときだった。すでにメモスタンドには、あわい緑のような、青のようなさわやかな色のメモが挟まっていた。
『シフト変わって、LOまで店にいる。ごめん。夜は一緒に食べよう』
 この内容で、とうとうぴんときた。そういえば、学生時代に何度も掲示物で目にしたことがある。これは一騎の字だ。だいたい、あの総士に対しておつかいを言いつけたり掃除をさせたり、どう見ても手作りらしい弁当を差し入れられるのなんて、そもそもまず一騎しかいなかったのだ。どうして今まで気がつかなかったのか。
 その日、総士は午後からの休暇申請を取り消して定時まで勤務したあと、これまためずらしく、時間外勤務もそこそこに、あまり遅くならない間に帰ったようだった。たぶん、一騎が待つ楽園へ行ったんだろう。
 アルヴィスへの出前や自身のメディカルチェックの合間に、一騎が総士を訪れていることは知っていた。とはいえ総士は勤務時間中なので、「あんまりかまってくれないし、早く帰れっていじわるなこと言うんだ」と、およそ成人を目前にした男がするとは思えないような仕草が妙に似合うあまえた顔で、一騎がすねていたことを思い出す。
 なるほど、こいつら、たまの昼休みの逢瀬では飽き足らず、このデスクでメモのやりとりをしてるわけだ。一騎がどれほど総士を大切にしているか、総士がどれほど一騎に特別な目を向けているか、俺みたいな直感がなくたってあいつらの周りの人間はみんなよくわかっているから、事情がわかればすとんと納得してしまった。……それにしてはいやにメモの内容が親密な気はするが。まあ親密なのはいいことだ。お互いを意識しまくっていたくせに、目をあわせることさえできなかった時期があるこいつらにとっては、特に。
 メモスタンドの謎が解けた今、目下の悩みは、やはりその存在がめちゃくちゃに気になっていたらしい総士と同室の研究員から、
「近藤先生、皆城くんのデスクのメモって……恋人さん…なんでしょうか……」
 とひそひそと聞かれたときの対処法だった。


 そんなこんながあって、しばらく後。
 総士に頼まれていたデータを転送したはいいものの、中の機密事項の影響でメディカルルーム職員の生体キーでしか解除できないセキュリティがかかっていたことに気づき、アルベリヒドの区画へ向かう途中。総士の研究室から出てくる一騎と鉢合わせた。
「おお、お疲れ」
「剣司」
「めずらしいな、お前とこんなところで会うの」
「総士に出前。いなかったから置いてきた」
 軽装の一騎が岡持ちを見せて、ふにゃっと笑う。
 「出前」という体はとりつつ、総士から注文の電話があったわけじゃないんだろうな、と思った。そういえば最近はお互い忙しく、昼に総士とふたりで地上へ出ることも少なかった。待ちかねた一騎が総士を強引に丸め込んで押しかけたんだろう。
「てか、しまった、総士いないのか」
「ああ。会議だからしばらく外してるって」
 アルベリヒドはメディカルルームとフロアが違うため、往復するのはちょっとめんどくさい。内線で事前に連絡しなかった俺が悪い、いやそもそもはデータのチェックを怠ったのが悪いんだが、いったん帰ってまた来るとなると、どうしても条件反射的にうんざりしてしまう。とりあえず、帰ってきたら内線をもらえるようにメモでも残しておくか。
 ため息をつくと、疲労感がずっしりとのしかかってきた。ただでさえ今日は朝からばたばたして、昼もおざなりにしか摂っていない。
「忙しそうだな」
「あー、最近ちょっとな……」
 ぐう、と鳴った腹に、一騎がくすっと笑った。あんなぱさぱさ栄養補助スナックじゃ食べた気がしない。総士は一日三食あれで済ませることもあると聞いたが、不健康にもほどがある。わかってはいたが、今度からもっと頻繁に地下から連れ出そう。……と、今日みたいに一騎が押しかけているときは別だが。
 一騎は出前と言っていたが、昼食をとるにしてもずいぶん遅い時間だ。どうせランチ営業を終えて、あわよくばそのまま一緒に食べようと思って来たんだろう。
 それにしては、総士に会えなかった一騎がこんな顔で笑っているのもめずらしい。
「夜はそっち、咲良と行くと思う。あいつも疲れてて飯作るのめんどくさいだろうし」
「お待ちしてます。サービスするよ」
 ランチセットのデザートが余ってるんだ、他のお客さんには内緒だけど。といたずらっぽい口調でひそひそとささやかれ、すこし夜が楽しみになった。
 手が回らなくなってきたのか、最近楽園ではカフェメニューのケーキやプリンを御門やから卸すようになったが、いまだにランチセットのデザートは簡単なものを一騎が作っている。簡単とはいってもパウンドケーキだのカップケーキだの、俺からすれば手の込んだちゃんとしたデザートだ。おまけにわりとうまい。常連からも人気があるようで、総士と連れ立って訪れるときには、いつも総士がきりのいいところまでと渋って出遅れるせいで、デザートセットは売り切れてしまっていることがほとんどだった。
「じゃあ、またな」
「気をつけろよ」
「うん、ありがと」
 ひらひらと手を振って、そこそこ大きい岡持ちをものともせず一騎は軽い足取りで地上へ続く通路を帰っていった。まるで念願のさんぽに連れ出してもらう飼い犬のような、どこか跳ねるようなうかれた後ろ姿に、首をひねる。
「……?」
 なんかあいつ、やけに機嫌がよかったな。
 総士が帰ってきて、それまで取り繕うようなあいまいな表情が多かった一騎は、ほんとうに心の底からうれしそうな、年相応の笑顔を見せることが多くなった。そしてそれはやっぱり、総士と一緒にいるときによく見せる表情だ。
 そりゃあそうだろう。二年のあいだ、あいつがはっきりと意識を取り戻してからは一年だが、薄暗闇の中で、ただひとり、ずっと待ち続けた相手なのだ。ただとなりにいてくれるだけで、そりゃもうだらしなくにやけてしまうんだろう。
 事情は違っても、似た状況で咲良を待ち続けていた俺だから、少し気持ちはわかる。
 しかし、今日のあいつは総士に会えず一緒に食事もとれなかったはずのに、妙にご機嫌だったな、と不思議に思いながら総士のデスクに向かい、なんとなくいつものようにメモスタンドに目をやると。
『おれもあいしてるよ』
 いつになくていねいに綴られた文字を書きつけた、青が混じったような上品な紫色の紙片がそこにあった。
 あいしてる。
 「おれも」。
 前々から恋人なのかと疑問を持たれるような仲のふたりだったが、ここにきてやっとなんらかの進展が、いや、決着か? ひとまずあったらしい。あるいは、表に出さないだけでその進展はずいぶん前から訪れていたのか。まあ、どちらでもかまわない。あいつらが笑いあえる関係であるなら。
 なるほど、一騎がご機嫌なわけだ。今の一騎にとってはちょっとした会えない時間さえ、のちのちの幸せをより深く感じるためのスパイスなのかもしれない。
 ……いやでも、これ、帰ってきた総士が見たらさすがに怒らないか?


 この話には、もうひとつだけ続きがある。
 実際に入ったことのある人間は研究ブースよりももっと少ないだろう、皆城総士の私室。研究室と同じようにシンプルでものがない室内に、ひとつ置かれた私用のデスク。その引き出しの中身を知っているのは、もしかしたら、総士本人とこの島の新しいコア、そして俺だけなのかもしれない。
 長いことかかりきりだった実験が佳境で、どうしても手が離せないという総士に頼まれ、一度だけ、デスクの引き出しにあるはずだというデータディスクを取りに来たことがある。総士の部屋に入ったのはたしかそれが二度目で、相変わらず簡素な部屋だなとちょっとあきれたのを覚えている。
 ご指定のディスクは指示された場所にきちんとあり、あとはそれを回収して総士に届けるだけだったが、そのすぐとなりにあった箱のずれた隙間から覗く、パステルカラーの紙片に目が留まった。
 いつかどこかで見た色だ。
 つい好奇心に負けて、ほんの少し蓋をずらした。
『いそがしくても食べること』
 いつか総士のデスクのメモスタンドで見た、一騎の乱暴な殴り書きだった。
 あわててしっかりと箱の蓋を閉じ、引き出しを閉めた。そのまま部屋を出て総士にディスクを届け、メモの話はそれ以来一度もしなかった。
 たぶん、俺が見ていいものじゃない。さんざんメモスタンドを覗き見ておいてとも思うが、あれとこれとじゃまた意味が違う。一騎からのメモを、おそらくすべてこうして大事に保管している、総士の心の一端を覗くような真似はさすがに良心がとがめた。
 今も総士のシンプルなデスク上には、似合わない黒猫のメモスタンドがちょこんと鎮座している。
 一騎のちょっと雑な字で書かれたちいさなメモは、日常のなんでもないやりとりを、研究室中の人間へ今日も元気に大公開中だ。そして仕事を終えた総士とともに部屋へ戻り、誰にも見せないあの引き出しの、箱の中へ大切に仕舞われる。
 総士の秘密の小箱には、これからも少しずつ一騎の言葉が積もっていくんだろう。
 伝言、おつかい、夕飯の献立。そしてあるいは、愛のメッセージが。

▼ 黒猫は一騎の趣味。同棲をほのめかすメモをさんざん見せびらかしつつ、べつに同棲してなくても、それはそれであまりにお互いの生活に染み込んでおりよいと思います(2018.7.24)