明日はめずらしくふたりでそろった休日なので、たまにはこういうのもいいだろうと、仕事終わりに外で飲んで帰ることにした。
 一騎が最近気になっていたという洋食がメインのダイニングは、旬の野菜や魚のメニューが多く、落ち着いた店内の居心地もよく、味付けも好みで、なによりワインの品ぞろえがいいところが気に入った。同居人の作った料理を口にしない夜はどこかすわりが悪いのが常だが、うまいワインと、好みの料理と、そしてすぐ手を伸ばせば届くところでいつもより多めにアルコールを摂取してふにゃふにゃとご機嫌で笑う一騎がいる夜ならば、なかなか悪くない。
 休日前の解放感にか、それともぴんとしっぽを立てた猫のようにあまえてくるとなりの男と過ごすこれからの時間に浮かれてか、僕もすこしだけ、飲みすぎてしまったらしい。ほんのすこしおぼつかない足取りをごまかすように――だれにも見とがめられやしないけれど、ひときれだけ残った自分の理性にそういういいわけを浴びせて――一騎と手をつないで、駅から自宅への道をいつものゆうに倍近くの時間をかけてだらだらと歩いていたとき。ここちよい、浮かれたメロディーを奏でていたとなりの鼻歌が、ふと止んだ。
「……あ、明日の牛乳ない」
 足まで止めた一騎がとろんとうるんだ瞳をぼんやりこちらに向けて、どうしよう? とあわれっぽく眉を寄せる。アルコールに強い一騎にしてはめずらしく、どうやら本格的に酔っているらしい。
「寄っていくか?」
 すぐそこへ見えている普段使いのスーパーをつないだままの手で示すと、やっとその存在に気づいたよっぱらいは、うん、と子どものようにすなおにうなずいた。
 ぽつぽつと灯った街灯のなかでひときわ明るいほうへ歩き出す足取りは、僕も一騎も、どちらもふわふわと雲の上を歩くような情けないものだった。けれど、すべてがぼんやりととろけてやさしい膜で覆われたような世界は、つないだ手のぬくもりさえあれば、存外楽しいものだ。
 ふだんなら、一リットルパックの牛乳が二本に砂糖と塩が一キロずつ、それに醤油の大きいボトルが入っていてもかるがると片手で買い物かごを持つ一騎が、とことことおぼつかない足取りでカートを取りにゆく。なんとなしにじいっと見ていると、カートにかごをセットしおえたよっぱらいがふりかえり、聞いてもいないのに「そうしといちゃいちゃしたいから」とふやけた顔で笑った。きゅうっと胸があまく痛んだので、ほのかに汗でしめった髪をくしゃくしゃに撫ぜてやる。
 ついでにあれもこれも買っておきたいと一騎が言うので、まっすぐ牛乳のところへは向かわず、いつもの買い物のようにひととおりスーパーをまわることにした。夜九時を過ぎた店内は人影もまばらで閑散としている。
 自動ドアを入ってすぐの青果コーナーは、きんきんに冷房がきいていてすこし肌寒い。思わずふるりと震えると、カートを押していた一騎がぴたりと腕が密着するまで近寄ってきた。歩きにくいだろうと思ったが、じんわりと染みこむ温度が離れていくのはもったいないので何も言わないでおく。
 ふだんの買い物でさんざん一緒に来たいつものスーパーだ。それでもアルコールでぼんやりとした頭でまわれば、閉店間際の狩りつくされた荒れ野のようなレタスコーナーも、整然と並んだそうめんつゆのボトルにも、なんとなく愉快な気分になってくる。
 明日はほんとうにひさしぶりにそろった休みで、きょうはどれだけ夜更かしをしたってかまわないし、なんならこれから帰って飲みなおしたっていい。昼を過ぎるまでゆっくり寝坊ができる。そう、酔っていても真剣な顔でレタスを選んでいる、一騎と一緒に。なぜなら僕と一騎は同じ家に帰るのだから。
 とつぜん、とてつもなく一騎にさわりたくなった。しかしほとんど人気のない閉店間際のスーパーといえど、熟れたトマトをじっくりと吟味している一騎に臆面もなくぺたぺたとさわるのは、たとえよっぱらっていても僕の理性がゆるさない。つないだ手をぎゅうっと握ったり、指の股をもどかしくなぜたりして衝動をごまかしながら、完全に買い物モードに入ってしまったらしい同居人をおとなしく待つ。
「一騎、まだか?」
「うーん、もうちょっと」
「このスーパーは仕入れの目利きがいい。あれこれ比べなくてもどのトマトも充分熟れてるんじゃないか」
「そうかな? でもおまえに食べさせるんだから、いちばんいいトマトを選ぶのが俺の仕事だろ」
 僕のためにおいしいトマトをあれこれ矯めつ眇めつしてくれるのはうれしいが、そのやさしさが、いまは憎たらしい。
「……かずき」
「ふふ、まーだ」
 こらえきれずにとうとうあまえるような響きになったつぶやきに応えた声は、どうやっても隠しようがないほど、おかしそうにふやけていた。こいつめ。わざと時間をかけていたな。この僕をじらそうだなんて、なるほど? いい度胸だ。
 僕たちのあいだでは、スーパーにおいては一騎による専制君主が敷かれることになっている。各コーナーの効率的なまわり方も、タイムセールの曜日や時間も、そしてとりわけ生鮮食品の目利きに関しても、生活に密着するような知識は僕よりもずっと一騎のほうが覚えがいいからだ。ひそかに復讐の機会を伺いながら、酔っていてもすいすいと迷いなくカートを進める一騎に従順なふりをしておとなしくついてゆく。
 それでもスーパーの一角にあるこじんまりとした洗剤や日用品のコーナーには、僕も一家言もっている。掃除や洗濯や皿洗いはふたりでやろうと取り決めをしていたからだ。やがて一通り買い物を終えて満足したらしい一騎の手をひいて、ちょうど歯磨き粉がきれそうだから買っていこう、と、このスーパーで唯一僕が采配をふるうことがみとめられたその一角へ向かう。
 フッ素配合のもの、ホワイトニング効果があるもの、歯周病予防に特化したもの。さまざまに並んだ棚の前にしゃがみこんで、今使っているものと今後検討しているものを両手にとり、裏の成分表までじっくり読んで真剣に吟味する。
「なー、総士まだか?」
「もう少し待て」
「歯磨き粉なんか今使ってるやつでいいだろ」
「いまのものは泡切れが悪い。こちらに変えたいが甘味料の具合が気になる」
 案の定、そわそわと落ち着きなくこちらの様子を伺いだした一騎に、ふんわりといい気分になった。そうだ。一騎もすこしくらい、じらされるほうの気持ちを味わってみればいいんだ。なかなか決めようとしない僕のとなりに、もどかしげに眉をよせて一騎もしゃがみこむ。
「試してみて嫌いな味だったら新しいの買えよ。残りは俺が使うからさ」
「だめだ。おまえの口の中は好みの味でないと落ち着かない」
「……」
 一騎の熱い咥内に合うのは、シトラスのやわらかさだろうか、グリーンアップルの甘みだろうか。クールミントのさわやかな後味もいいかもしれない。そんなふうに思い悩んでいると、とつぜん黙り込んだ一騎が勢いよく起き上がり、僕の腕を取ってぐいぐいと立たせる。
「かずき?」
 両手に持っていた歯磨き粉をまとめてかごにつっこまれ、かなり強引に腕を引かれて、痛くはないがもつれた足が追い付かない。レジへ向かう一騎はこちらをちらりとも振り向かず、一心不乱という言葉が似あいそうなほど、ずんずんとレジへ向かっていく。
「かずき、どうした? すこしゆっくり歩いてくれ」
「……ごめん、無理」
「一騎?」
 低くかすれた声がうなるように返事をして、そしてやっと、振り向かない後頭部から覗く耳が真っ赤に染まっていることに、酔った頭で気が付いた。
「……はやく、歯磨き粉のあじ、たしかめたい」
 人気のない通路でささやかれた言葉は思った以上に大きく響いた。ついさきほど自分の言ったせりふがやっと脳に染みこんで、その意味と、きつく握りしめられた腕に体温が上がる。
 あしたは、休日だ。

▼このあとめちゃくちゃはみがきした (2019.7.29)